EP25
72:古い祠の雨宿り
木の根元の空洞――私たちが「隠れ家」と呼んで転がり込んだその場所で、泥のように眠っていた時のことだ。
ポタリ、ポタリ。冷たい滴が頬を打ち、私は目を覚ました。
「ん?」
薄目を開けると、外の世界が騒がしいことに気づいた。ゴーッという地鳴りのような音が響いている。風の音だ。それも、尋常ではない強風。
そして次の瞬間、私たちの安息地は決壊した。
ドババババッ!天井代わりの木の根の隙間から、濁流が滝のように降り注いできたのだ。
「うわっ!?冷たっ!」
私は飛び起きた。いや、起きようとして泥水に滑り、派手に転んだ。隣で寝ていたガブも、跳ね起きて「敵襲か!?」と叫びながら鍋のふたを構える。
「違う、雨よ!大雨!」
私が叫ぶとガブは天井を見上げ、顔をしかめた。
「穴、水没する!ここ、もうダメだ!」
外に出ると、世界は一変していた。空は墨を流したように黒く、バケツをひっくり返したような豪雨が森を叩きつけている。私たちが逃げ込んだこの低地は、すでに水が溜まり始め、巨大な水たまりと化そうとしていた。
「リゼ、高いところへ行け!溺れるぞ!」
ガブが私の手を引き、泥濘む斜面を指差した。せっかく逃げ切って休めたと思ったのに、自然の猛威は私たちに休息を許してくれない。泥を洗い流すどころか、冷たい雨水が体温をごっそりと奪っていく。
「寒い!」
ガタガタと震えが止まらない。濡れた服が肌に張り付き、鉛のように重い。このままでは低体温症になってしまう。もっとしっかりした屋根のある場所が必要だ。
「ガブ、どこか雨をしのげる場所はないの!?」
雨音に負けない大声で尋ねる。ガブは雨を吸い込むように鼻をヒクつかせ、周囲の匂いを探った。
「水ばっかりで匂わない!でもあっち、微かに『乾いた』匂いする!」
「乾いた匂い?」
「古い木と石の匂い!あそこなら濡れない!」
彼の野生の勘を信じるしかない。私たちは滑り落ちそうになる足を踏ん張り、崖のような斜面をよじ登った。岩を掴み、木の根を足場にし、必死に登る。
そして、鬱蒼とした木々のトンネルを抜けた先に、それはあった。
巨大な岩壁にへばりつくようにして建っている、古びた木造の建造物。黒ずんだ柱。苔むした屋根。入り口には、朽ち果てて半分崩れかけた鳥居のような門がある。
「祠?」
私は立ち尽くした。こんな森の奥深くに、人工物があるなんて。おそらく、かつてこの山を信仰していた人々が建て、そして忘れ去られた場所なのだろう。
雨に煙るその姿は、幽霊屋敷のように不気味だった。だが、今の私たちにとっては、どんな豪邸よりも魅力的に見えた。屋根がある。壁がある。それだけで十分だ。
「リゼ、入るぞ。ここ、誰もいない」
ガブが鼻をひくつかせ、安全を確認した。
「獣の匂いもしない。ずっと空っぽの匂いだ」
私は『真実の眼』で念のため確認する。建物を覆っているのは、長い年月が生み出した『静寂』の灰色だけ。悪意も、魔物の気配もない。
「行きましょう!」
私たちは崩れかけた石段を駆け上がり、祠の軒下へと滑り込んだ。
ドサッ。
二人して、乾いた板張りの床に倒れ込む。その瞬間、耳をつんざくような雨音が、一段階遠のいた。屋根が、雨を遮断してくれたのだ。
「はぁ、はぁ……助かった……」
私は濡れた髪をかき上げ、床に仰向けになった。天井がある。雨が降ってこない。ただそれだけのことが、涙が出るほどありがたい。
「ここすごい。雨、全然来ない」
ガブも私の隣で大の字になり、ゼーゼーと荒い息を吐きながら天井を見上げた。
「森の木、雨漏りする。ここしない。人間、巣作りうまいな」
「神様のお家だからね。丈夫に作ってあるのよ」
「カミサマ?こないだのリンゴのやつか?」
「別の神様かもね。でも、きっと私たちを歓迎してくれてるわ」
私は体を起こし、周囲を見回した。ここは拝殿と呼ばれる場所だろうか。正面は吹きさらしだが、奥には本殿へと続く扉があり、その前には何も置かれていない供物台がある。床には枯れ葉や土埃が厚く積もり、風が吹くたびに舞い上がる。
外の光が届かず、奥は暗闇に沈んでいる。気温は低いが、雨風に直接打たれないだけマシだ。
「火、焚きたいな」
ガブがブルッと身震いをして言った。
「でも、ダメだろ?煙、出る」
「ええ。『赤蛇団』はまだ近くにいるかもしれないわ。ここで煙を出したら、居場所を教えるようなものよ」
私は自分のローブをきつく絞った。ジャーッ、と水が滴る。着替えはない。このまま体温で乾かすか、風邪をひかないように身を寄せ合うしかない。
「奥、行くぞ」
ガブが立ち上がり、祠のさらに奥、本殿の扉の方を指差した。「入り口、寒い。風、巻き込んでくる。奥、壁ある。風、来ない」
確かに、入り口付近は雨の飛沫が霧のように舞い込んでくる。私たちは重い体を引きずり、より安全で暖かい場所を求めて、祠の深部へと足を進めた。
そこが、新たな「先住者」たちの領域だとも知らずに。
73:蜘蛛の巣だらけ
祠の奥。本殿の扉の脇に、ちょうど人が二人ほど横になれそうな、窪みのようなスペースがあった。三方を壁に囲まれ、外からの視線も風も遮断できる。まさに、隠れ家の中の隠れ家だ。
「あそこなら眠れそう」
私が指差すと、ガブが先頭を切って進んだ。しかし。その窪みに足を踏み入れた瞬間、ガブが「うわっ!」と悲鳴を上げて飛び退いた。
「なに?どうしたの?」
私が駆け寄ると、ガブは顔をしかめ、自分の顔面を両手で必死に払っていた。
「ペタペタする!糸!見えない糸!」
目を凝らしてよく見ると、そのスペースは白っぽいベールで覆われていた。蜘蛛の巣だ。それも、昨日今日張られたものではない。何十年、何百年という時を経て、何世代もの蜘蛛たちが巣を張り重ね、分厚い層になった「蜘蛛の巣カーテン」だ。
柱と柱の間、天井から床まで、びっしりと灰色の糸が張り巡らされている。その密度は、向こう側が見えないほどだ。
「うげぇ」
公爵令嬢としての教養がなければ、もっと汚い言葉を吐いていただろう。私は思わず口元を押さえた。巣には、干からびた虫の死骸や、埃の塊が無数にぶら下がっている。生きている蜘蛛の姿は見えないが(おそらく寒さと飢えで全滅している)、この廃墟感と不潔さは精神的に来るものがある。
「ここダメ。クモの家だ」
ガブが嫌悪感を露わにして、ペッペッと舌についた糸を吐き出した。
「オレ、これ嫌い。ネバネバする。鼻にくっつく。取れない」
野生動物にとって、感覚器を塞がれる粘着物は大敵だ。ガブは棍棒で巣を払おうとしたが、巣はゴムのように弾力があり、逆に棍棒に絡みついてしまった。
「うわぁ!離れない!リゼ、これ、罠だ!敵の魔法か!?」
ガブがパニックになって棍棒を振り回す。ブンブンと振るたびに、周囲の埃が舞い上がり、さらに巣が彼の手や体に絡みつく。
「落ち着いて、ガブ!ただの蜘蛛の巣よ!」
私は彼を止めたが、状況は最悪だ。振り返って他の場所を見るが、入り口付近は雨が吹き込んでいるし、中央付近は床板が腐って穴が開いている。私たちが今夜、凍えずに眠れる場所は、この「蜘蛛の巣地獄」しかないのだ。
「掃除……するしかないわね」
私が覚悟を決めて言うと、ガブは絶望的な顔で首を振った。
「無理。これ、ネバネバ最強。触ったら終わりだ」
彼は自分の手に絡まった糸を、もう片方の手で取ろうとして、さらに両手を拘束されるという泥沼に陥っている。まるで喜劇だが、笑っている余裕はない。
私はため息をつき、ポーチの中を探った。当然ながら、箒も雑巾もない。手でむしり取る?想像しただけで鳥肌が立つ。それに、そんなことをしたら全身が埃まみれになり、ただでさえ泥だらけの服がさらに悲惨なことになる。
――待てよ。私はふと、あることを思い出した。実家の公爵家で、口うるさい家庭教師から受けた授業のことだ。
『リゼ様、高貴な者は、いかなる時も自身の周囲を清浄に保たねばなりません。汚れは心の乱れに通じます』
私は攻撃魔法の才能はからっきしだった。火を出せばボヤ騒ぎ、風を起こせば書類を撒き散らす。けれど、唯一、家庭教師に褒められた魔法があった。「あなたには、場を整える才能がありますね」と。
「ガブ、下がってて」
私は腰の杖を抜き放ち、前に進み出た。ガブは糸まみれの顔で、不思議そうに私を見た。
「リゼ?燃やすのか?ここで火を使ったら、オレたち焼き鳥になるぞ」
「燃やさないわ。もっと優雅に、スマートにやるの」
私は深呼吸をした。祠の中に充満するカビ臭い空気、埃っぽさ、そして不快な粘着質。それらを「敵」として認識し、排除するイメージを固める。魔力を練る。激しい炎ではなく、すべてを洗い流す清らかな水と風のイメージ。
「見てて。元・公爵令嬢のたしなみを見せてあげる」
私は杖を横に薙いだ。何層にも重なった、歴史ある蜘蛛の巣のカーテンに向けて。
74:掃除魔法「クリーン」
静寂の中、私の凛とした詠唱が響く。
「――清浄なる風よ、塵は塵に、無は無に。我が前より穢れを払え。『洗浄』!」
杖の先端から、青白い光を帯びた風が巻き起こった。それは敵を吹き飛ばすような乱暴な突風ではない。空間を撫でるように広がり、汚れだけを正確に捉えて弾き飛ばす「浄化の風」だ。
シュァァァァァ。
風が蜘蛛の巣に触れた瞬間、魔法のような光景が広がった。あの頑固で、分厚く、ネバネバしていた灰色の巣が、音もなく分解されていく。絡まっていた虫の死骸も、積もっていた埃も、光の粒子となって空気に溶けていくようだ。
「おお!?」
ガブが目を丸くして飛び上がった。
風は祠の隅々まで行き渡る。黒ずんでいた床板からは泥汚れが消え、本来の木目が美しく蘇る。壁のシミが薄れ、空間全体がワントーン明るくなったように錯覚するほどだ。カビ臭かった空気が一掃され、私の魔力の色である「石鹸のような清潔な香り」が漂う。
数秒後。そこには、まるで新築とまではいかないが、ピカピカに磨き上げられた快適な空間が現れていた。
「ふぅ」
私は杖を下ろした。範囲が広かったので少し魔力を使ったが、心地よい疲労感だ。視界から「汚いもの」が消えるというのは、これほどまでに精神を安定させるものなのか。
「リゼすごい」
ガブがおそるおそる近づき、床を指先で触れた。キュッ。いい音がする。埃ひとつない。
「消えた。ネバネバない。魔法?これ、魔法か?」
「ええ。生活魔法の『クリーン』よ。汚れを落とすだけの、地味な魔法だけどね」
ガブは信じられないといった顔で、頬を床に擦り付けた。
「すべすべだ!気持ちいい!」
彼はゴロゴロと床の上を転がり始めた。
「ここ、寝心地いい!石の上よりいい!土の上よりいい!王様のベッドだ!」
「王様のベッドはもっと柔らかいわよ」
私は苦笑しながら、彼を見下ろした。
「でも、これでゆっくり休めるわね」
ガブは起き上がり、キラキラした目で私を見た。
「リゼ、魔法、怖いものだと思ってた。ドカン、とか、ビリビリ、とか。でも違う。これいい魔法。一番いい魔法だ」
「そうね。人を傷つけるだけが魔法じゃないの。生活を豊かにするための魔法もあるのよ」
「オレ、リゼの魔法で、これが一番好きかも。雷より好きだ」
ガブは正直だ。強大な攻撃魔法よりも、彼は「快適な寝床」を作れる魔法に最大の敬意を払っている。野生に生きる彼だからこそ、安息地の価値を誰よりも理解しているのだ。
「ついでに、私たちも綺麗にしましょうか」
私は杖を二人に向けた。
「え?オレも?」
「泥だらけでしょ。せっかく綺麗になった床を汚したくないもの」
「『クリーン』!」
再び風が舞う。私たちの服や肌にこびりついていた泥、汗、雨水が、一瞬にして弾き飛ばされ、浄化された。ボロボロの服の破れ目は直らないが、繊維の奥に入り込んだ泥が落ちただけで、服が軽くなったように感じる。濡れていた服も、水分が弾き飛ばされ、生乾き程度まで回復した。
「うおっ、体、軽い!痒くない!」
ガブが自分の腕の匂いを嗅ぐ。
「臭くない!泥の匂いしない!リゼの匂いする!」
「これで風邪もひかないわ」
私はその場に座り込んだ。清潔な床。雨風をしのげる屋根。そして、追っ手の気配もない静寂。久しぶりに、心の底から力が抜けた。
「腹、減ったな」
綺麗になったガブが、腹をさすって言った。緊張が解けた証拠だ。
「そうね。何か食べましょう。ここなら匂いもこもらないわ」
私たちは清潔な祠の隅で、車座になった。外はまだ激しい雨が降っている。でも、この小さな空間だけは、世界で一番安全で、清潔な場所に思えた。
私はリュックから、先日もらったリンゴの残りを取り出した。二人で半分こにしてかじる。甘い果汁が、乾いた体に染み渡る。
「うまい。ここ、最高」
ガブが幸せそうに目を細めた。その顔を見て、私も自然と微笑んでいた。
公爵家を追放され、泥まみれの逃亡者となった私。でも、こうして自分の魔法で小さな快適を作り出し、相棒と笑い合えている。掃除魔法、侮るなかれ。それは汚れだけでなく、心に溜まった「惨めさ」まで洗い流してくれたのだから。
私は綺麗な床にごろんと横になり、久しぶりに泥の味のしない空気を深く吸い込んで、目を閉じた。心地よい眠りが、すぐにそこまで来ていた。




