EP24
69:逃げるが勝ち
森の木々が、緑色の残像となって後方へ飛び去っていく。呼吸が苦しい。肺が焼けつくようだ。でも、足は止められない。
「リゼ、もっと速く!あいつら、しつこい!」
ガブが私の手首を掴み、強引に引っ張り上げる。彼の足取りは軽い。四つん這いと二足歩行を使い分け、木の根や岩を猿のように飛び越えていく。一方、私は裾をたくし上げ、必死に食らいつくのが精一杯だった。
「待てェェッ!」
「逃がすな!殺せ!」
背後から、怒号と殺気が津波のように押し寄せてくる。『真実の眼』で背後をチラリと確認する。五つだった「殺意の赤」が、いつの間にか増えている。七つ、八つ。どうやら、騒ぎを聞きつけた別の部隊が合流したらしい。
「数が増えてるわ!」
「わかってる!足音、いっぱい!地面、揺れてる!」
ガブが焦燥を露わにして叫ぶ。
ヒュンッ!風を切る音がして、私のすぐ横の幹に矢が突き刺さった。羽がプルプルと震えている。
「矢だ!伏せろ!」
ガブが私を押し倒すのと同時に、彼は左腕を掲げた。
カカンッ!乾いた音が響く。ガブの愛盾『メシ守り(鍋のふた)』が、二本目の矢を見事に弾き飛ばしていた。
「痛っ……手が痺れる」
ガブが顔をしかめたが、すぐに立ち上がった。
「行くぞ!止まるな!」
私たちは再び走り出した。真正面から戦って勝てる相手ではない。彼らは狩りのプロであり、森の地理にも明るい。ここで捕まれば、私は商品として売られ、ガブは害獣として殺される。それだけは絶対に避けないといけない。
「ガブ、まっすぐ走っても追いつかれるわ!人間の足のほうが長いのよ!」
スタミナと歩幅の差はいかんともしがたい。このままではジリ貧だ。
「じゃあ、隠れるか?」
「まだダメ。視線が切れてない。撒くしかないわ」
私は走りながら、ポーチの中を探った。何か使えるものはないか。爆発するような魔法薬はない。あるのは、野草の種や、生活用品ばかり。
――いや、ひとつだけあった。以前、ガブが採取してきた『痺れ花の乾燥粉末』。彼が「これ、吸うと鼻がバカになる」と言って捨てようとしたのを、私が研究用に取っておいたのだ。
「ガブ、風向きは!?」
「今、後ろから前へ吹いてる!」
追い風だ。これでは粉を撒いても私たちにかかるだけだ。逆だ。風上へ回らなければ。
「右へ曲がって!風上へ!」
「わかった!」
ガブは理由も聞かずに、直角に右へと方向転換した。いばらの茂みを強引に突破する。服が裂け、肌に傷がつくが構っていられない。
「そこだ!右へ行ったぞ!」
追っ手たちも方向を変える。距離が縮まる。あと二十メートル。相手の顔が見える距離だ。
今だ。私は立ち止まり、振り返った。そして、小瓶の蓋を開け、中身の粉末を手のひらに乗せると、思い切り彼らに向かって吹き飛ばした。
「風よ、運べ!」
杖を一振り。小さなつむじ風が発生し、黄色い粉末を追っ手の顔面へと叩きつけた。
「ぐわっ!?」
「なんだこれ、煙か!?」
先頭を走っていた男たちが、粉を吸い込む。数秒後。
「ハックション!ブェックショ!」
「鼻が、鼻が痛ぇ!涙が止まらねぇ!」
男たちが激しくくしゃみを連発し、その場にうずくまった。『痺れ花』の粉末は、粘膜に強烈な刺激を与える。致死性はないが、戦闘不能にするには十分だ。
「すごい!リゼ、毒使いか!?」
ガブが目を輝かせた。
「毒じゃないわ、ただの胡椒みたいなものよ!今のうちに!」
足止めには成功した。だが、これで終わりではない。くしゃみの音を聞きつけて、他の連中が集まってくるだろう。私たちは混乱に乗じて、さらに深い森の奥、光の届かない鬱蒼とした木立の中へと姿を消した。
「逃げるが勝ち」
とは言うけれど、勝った気がしない。ただ、死の淵から一歩だけ遠ざかっただけだ。心臓は早鐘を打ち続け、恐怖という冷たい手が、まだ私の背中を撫で続けていた。
70:泥だらけの疾走
追っ手の第一陣を撒いてから、一時間ほどが経過していた。私たちは沢沿いの低湿地帯を移動していた。足元はぬかるみ、踏み出すたびに靴が泥に吸い込まれる。ジュボッ、ジュボッ。重い。足が鉛のようだ。
「はぁ、はぁ……」
私の呼吸は乱れきっていた。公爵令嬢として育った私にとって、これほどの長距離疾走は未知の体験だ。筋肉が悲鳴を上げ、喉からは血の味がする。
「リゼ頑張れ。ここ抜ければ、匂い消える」
ガブが励ましてくれるが、彼もまた消耗していた。緑色の肌は汗で光り、泥だらけになっている。
「匂いが……消える?」
「ん。水と泥、匂い隠す。あいつら、犬連れてない。自分の鼻だけ頼り。ここなら、誤魔化せる」
ガブは立ち止まると、足元の泥を両手ですくい上げた。腐葉土と水が混ざり合った、黒くて臭い泥だ。
「リゼ、これ塗れ」
彼は真剣な顔で言った。
「顔、腕、服。全部塗れ」
「えっ……これを?」
私は絶句した。汚れることには慣れてきたつもりだったが、進んで全身に泥を塗るのは抵抗がある。生理的な嫌悪感がこみ上げる。
「ためらうな!リゼ、いい匂いしすぎる!」
ガブが叫んだ。
「お前、甘い匂いする。花の匂いする。森の中で、目立つ!ホタルみたいに光ってる!隠せ!」
ハッとした。私はまだ、どこかで「人間」としての、あるいは「貴族」としての尊厳を守ろうとしていたのだ。でも、今はそんなプライドが命取りになる。生きるか死ぬか。選ぶべきは明白だ。
「わかったわ」
私は覚悟を決めた。ガブの手から泥を受け取り、自分の頬にべっとりと塗りつけた。冷たい。ザラザラする。土と腐敗の匂いが鼻を突く。
「もっとだ。髪も、首も」
私は泥の中に手を突っ込み、自分の美しい(かつてはそう呼ばれていた)銀髪にも泥を塗りたくった。白いローブは見る影もなく黒く染まり、私はただの泥人形と化した。
「これでいい?」
私が問うと、ガブは満足そうに頷いた。
「ん。完璧。リゼ、森の一部になった。臭い。汚い。最高だ」
ゴブリンに「臭くて汚くて最高」と褒められる日が来るとは。私は自嘲気味に笑った。
「ありがとう。あなたもね」
ガブも自分自身に泥を塗りたくっていた。元々緑色の彼だが、泥を塗ることで完全に景色と同化している。
「行くぞ。泥んこ競争だ」
ガブがニカッと笑った。その歯だけが白く輝いていた。
私たちは泥沼の中を進んだ。泥は、歩きにくい障害物であると同時に、私たちを守る鎧でもあった。不思議なことに、全身泥まみれになると、開き直りのような感情が湧いてきた。もう何も怖くない。これ以上汚れるものはないのだから。
遠くで、男たちの声が聞こえた。
「くそっ、足跡が途絶えたぞ!」
「どっちだ!?この沼に入ったのか?」
「汚ねえな。こんなとこ入るかよ、普通」
彼らは躊躇している。泥を嫌う人間の心理。それが私たちの味方だった。私たちは息を潜め、泥水の中に半身を沈めながら、葦の隙間を縫うように移動し続けた。
冷たさが体力を奪っていく。でも、ガブが時折振り返り、泥だらけの手を差し伸べてくれる。その手の温かさだけが、私がまだ生きていることを実感させてくれた。
泥だらけの公爵令嬢とゴブリン。滑稽な姿だろう。舞踏会なら即刻つまみ出される。でも、この「生きるための舞踏会」では、私たちは誰よりも上手に踊っているはずだ。
71:隠れ家発見
沼地を抜け、岩場が続く斜面を登りきった頃には、日は高く昇り、正午を回っていた。追っ手の声はもう聞こえない。完全に撒いたとは思えないが、一時的な距離は稼げたようだ。
私たちは疲労困憊だった。泥が乾いて肌に張り付き、動くたびにパリパリと剥がれる。喉はカラカラで、足の感覚がない。
「リゼ、あそこ」
ガブが指差した先には、巨大な岩壁があった。その裂け目から、太い古木の根が複雑に絡み合いながら垂れ下がっている。まるで、岩を食らう大蛇のようだ。
「休める場所?」
「ん。いい匂いする」
ガブは鼻を鳴らした。
「古い土の匂い。誰も来てない匂い。あの中、空洞ある」
私たちは最後の力を振り絞り、その根の隙間へと近づいた。絡み合った根の奥に、人が一人やっと通れるほどの小さな穴が開いていた。暗くて、中は見えない。
「オレ、先に行く。リゼ、待ってろ」
ガブがナイフを構え、穴の中に潜り込んだ。数秒の沈黙。心臓が痛いほど脈打つ。中に熊や魔物がいたら終わりだ。
「おーい。リゼ、来い。安全だ」
穴の奥から、くぐもった声が聞こえた。私は安堵の息を吐き、這うようにして穴に入った。
中は、意外なほど広かった。岩盤が自然に削れてできた空洞で、大人が三人ほど座れるスペースがある。天井からは木の根がシャンデリアのように垂れ下がり、隙間から微かな光が差し込んでいた。地面は乾燥した砂で、座り心地も悪くない。
「すごい……天然の隠れ家ね」
私はへたり込んだ。外の音はほとんど聞こえない。静寂が、耳に痛いほどだ。
「ここ、昔誰か使ってたかも」
ガブが隅の方を指差した。そこには、朽ち果てた焚き火の跡と、錆びついた小さな鉄鍋が転がっていた。何十年も前の旅人の跡かもしれない。それが逆に、ここが「見つかりにくい安全な場所」であることの証明のように思えた。
「水、ある」
ガブが壁際を指差す。岩の隙間から、ポタポタと清水が滴り落ち、小さな水たまりを作っていた。私は這い寄り、手ですくって飲んだ。冷たくて、甘い。泥の味がする口の中が、清らかな水で洗われていく。
「生き返る」
「ん。いい場所見つけた。オレ天才」
ガブも横に来て、犬のように直接口をつけて水を飲んだ。そして、プハッと息を吐き、そのまま仰向けに転がった。
「疲れた。足、棒になった」
「私もよ。もう一歩も動けない」
私も彼の隣に寝転がった。狭い空間。泥だらけの二人。でも、不思議と不快ではなかった。むしろ、この狭さが心地よい。外界の悪意から遮断された、私たちだけの聖域。
「リゼ、泥だらけ」
ガブが横目で私を見て、ケラケラと笑った。
「顔真っ黒。お化けみたい」
「あなただって、苔むした岩みたいよ」
私たちは顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。恐怖のあまり張り詰めていた糸が切れ、笑いが止まらなくなったのだ。涙が出るほど笑った。生きている。私たちはまだ生きている。その事実だけで、笑えてくる。
「ねえガブ」
笑いが収まると、私は静かに言った。
「ありがとう。あなたが泥を塗れって言わなかったら、捕まってたわ」
「ん。リゼも、変な粉撒いた。あれすごかった」
ガブは私の手を握った。泥と泥が重なる。
「ここなら、しばらく見つからない。ゆっくり寝ろ。オレも寝る」
「ええ。おやすみなさい、相棒」
私たちは泥まみれのまま、寄り添うようにして眠りに落ちた。薄暗い洞窟の中。外ではまだ『赤蛇団』が目を光らせているかもしれない。だが、今の私たちには、この小さな安らぎがあれば十分だった。夢も見ないほどの深い眠りが、私たちを優しく包み込んでいった。




