EP23
66:夜営の警戒
その夜、私たちは森の深部で野営を張った。焚き火はなし。火を焚けば、煙と光で居場所を知らせることになる。
巨大な樹木の根元にある、窪みのような場所。そこが今夜の私たちの寝床だった。地面からの冷気が容赦なく体温を奪っていく。昨日の「甘いリンゴ」の幸福な時間は、もう遠い昔のことのように感じられた。
「リゼ、寒いか?」
暗闇の中で、ガブの声がした。姿は見えないが、すぐ隣にいる気配と、独特の獣の匂いでわかる。
「少しね。でも大丈夫よ」
私は毛布を頭まで被り、声を潜めて答えた。
「ガブこそ、その格好じゃ寒いでしょう?」
ガブは防寒具らしいものを持っていない。私の古着のシャツ一枚と、腰布だけだ。ゴブリンは寒さに強いというが、それでも限界はあるはずだ。
「平気。オレ、皮厚い」
ガブは強がったが、衣擦れの音が震えているようにも聞こえた。
「あと、こいつ、ある」
コン、と乾いた音がした。彼が愛用している「鍋のふたの盾」、通称『メシ守り』だ。彼はそれを胸に抱きかかえているらしい。
「これ、木の匂いする。スープの匂いする。抱くと、ちょっと温かい」
「そう。役に立ってよかったわ」
沈黙が降りる。森は静かすぎた。蟲の声も、フクロウの鳴き声もしない。それは、近くに「異物」――つまり、捕食者や強力な縄張りを持つ者が存在している証拠かもしれない。
「あの『赤蛇』の話」
ガブが唐突に切り出した。
「あいつら、毒使う。オレ、毒怖い」
あの無敵のような自信家だったガブが、弱音を吐いている。先日の毒草での一件が、よほどトラウマになっているのだろう。「見えない敵」に対する恐怖。それは野生動物にとって、最も忌避すべきものだ。
「大丈夫よ。毒ガスや毒矢が飛んできたら、私が風の魔法で吹き飛ばすわ」
私は彼を安心させるために嘘をついた。実際には、私にそんな高度な風魔法は使えない。せいぜい、ロウソクの火を消す程度の突風が限界だ。でも、今の彼には「安心」が必要だった。
「リゼ、強いな」
ガブの声に、安堵の色が混じる。
「魔法便利。オレ、鼻と耳しかない」
「その鼻と耳が頼りなのよ。私には何も聞こえないし、何も匂わないもの」
私は暗闇に向かって手を伸ばし、ガブの頭(だと思われる位置)を撫でた。ゴワゴワした髪の感触。彼は抵抗せず、じっとしていた。
「オレ寝ない」
ガブが言った。
「リゼ寝ろ。オレ番をする。耳、立てとく」
「交代にしましょう。あなただって疲れているはずよ」
「だめ。リゼ人間。夜、目が見えない。番にならなない」
痛いところを突かれた。確かに、月明かりすらないこの森の中で、私の視界はゼロに等しい。『真実の眼』で感情の色を見ることはできても、物理的な障害物や接近する足音は見えない。
「わかったわ。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらう。夜明け前には起こしてね」
「ん。任せろ」
ガブは私の背中側に移動し、背中合わせに座った。彼の体温が背中越しに伝わってくる。それは、どんな焚き火よりも頼もしい熱だった。
私はウトウトと浅い眠りについた。夢を見た。公爵家の屋敷で、一人ぼっちで食事をしている夢。広いテーブル。豪華な料理。でも、味はしない。周囲の使用人たちは、私の「目」を恐れて誰も目を合わせてくれない。
――ガサッ。
微かな音で、私は現実に引き戻された。目を開ける。まだ真っ暗だ。背中のガブが、硬直しているのがわかった。
「ガブ?」
囁くと、彼は私の口を無造作な手つきで塞いだ。ゴツゴツした掌。『静かに』という合図だ。
彼の心臓の鼓動が、背中を通してトク、トク、と速くなっているのが伝わってきた。何かが、いる。夜の帳の向こうに。
67:ガブの鼻がひくつく
ガブの手がゆっくりと私の口から離れた。彼は地面に耳を押し当て、微動だにしない。私も息を殺す。
「行った」
数分後、ガブが極小の声で呟いた。
「遠く。でも、いた」
「何がいたの?熊?」
「違う。人間」
ガブは闇の中で鼻をひくつかせた。
「鉄の匂い。油の匂い。あと……腐った酒の匂い」
山賊だ。こんな森の奥深くまで、夜中に巡回しているというのか。噂の『赤蛇団』は、想像以上に統率が取れているのかもしれない。ただのゴロツキ集団なら、夜は酒盛りをして寝ているはずだ。
「移動するぞ」
ガブが立ち上がった。
「ここにいたら、朝見つかる。風変わった。匂い、こっちに流れる」
私たちは暗闇の中、荷物をまとめて移動を開始した。ガブが私の手を引き、先導する。彼の夜目は完璧だ。木の根や垂れ下がった蔦を巧みに避け、音もなく進んでいく。
私はと言えば、彼の手だけが命綱だった。足元はおぼつかないが、不思議と恐怖はなかった。彼が繋いでくれている手が、力強く私を導いてくれるからだ。
一時間ほど歩いた頃、空が白み始めた。周囲の景色が、墨色から灰色の世界へと変わっていく。朝霧が立ち込め、視界は悪い。
「止まれ」
ガブが急に足を止めた。彼はある一点を凝視し、鼻を激しく動かしている。
「どうしたの?」
「臭い」
彼は顔をしかめ、手で鼻を仰いだ。
「ここ、最近誰か通った。臭い残ってる」
私は周囲を見渡した。ただの獣道に見える。足跡らしきものはない。しかし、ガブは茂みの一箇所を指差した。枝が一本、不自然に折れていた。その断面は新しい。
「ここ。何人か通った。昨日か、一昨日」
ガブは地面に這いつくばり、落ち葉の匂いを嗅ぐ。
「五人、いや六人。重い荷物持ってる。足跡、深い」
そして、彼はあるものを拾い上げた。落ち葉の下に隠されていた、小さな布切れだ。赤い布。何かの紋章の一部のように見える。
「これ、血の匂いしない。染料の匂い」
ガブが私に渡す。私は『真実の眼』でそれを見た。布切れに残っているのは、強烈な『欲望』と『暴力』の気配。ドス黒い赤色と、濁った紫色のオーラが渦巻いている。
「間違いないわ。『赤蛇団』のものよ」
私は背筋が寒くなるのを感じた。ここは街道から大きく外れた裏道だ。そんな場所まで、彼らの手が伸びている。つまり、この森全体が彼らの「庭」になっているということだ。
「囲まれてるかも」
ガブが低く唸った。
「匂い、あっちからも、こっちからもする。風、回ってる」
森の風向きが変わる。それは、匂いを運ぶ方向が変わるということ。ガブにとっては、レーダーが狂わされるようなものだ。
「どっちに行けばいい?」
「わからない」
ガブが初めて、迷いを見せた。
「匂い、混ざりすぎてる。獣の臭い、花の臭い、人間の臭い……全部、ぐちゃぐちゃ」
彼の優れた嗅覚が、逆に仇となっていた。情報量が多すぎて処理しきれないのだ。朝霧の湿気が、匂いを滞留させているせいもあるだろう。
その時。カサッ、という音が、私たちの背後から聞こえた。風の音ではない。明らかに、足音が落ち葉を踏む音だ。
ガブが弾かれたように振り返り、私を背に庇った。左腕の鍋のふたを構える。右手の棍棒を握りしめる。
「来た」
彼が短く告げた。朝霧の向こうから、ゆらりと人影が現れた。
68:襲撃者の気配
霧の中から現れたのは、一人の男だった。革の鎧を着込み、腰には曲刀を差している。頭には赤いバンダナ。その布の色は、さっきガブが拾った端切れと同じ「赤」だ。
男は私たちを見て、ニタリと笑った。歯が欠けている。
「おやァ?こんな時間に、こんな場所で。珍しい客だなぁ」
男の声は、錆びたノコギリで骨を挽くような、不快な響きだった。
私の『真実の眼』が、即座に男を解析する。心の色は『加虐』の黄色と、『貪欲』の泥色。交渉の余地はない。彼は私たちを「獲物」としか見ていない。
「ガブ、下がって」
私は小声で言うが、ガブは動かない。
「だめ。こいつ強い。リゼじゃ無理」
ガブの背中の毛が逆立っているのがわかる。野生の勘が、目の前の男の実力を測っているのだ。ただのチンピラではない。手練れだ。
「おいおい、なんだその緑色のは。猿か?子供か?」
男はガブを見て、侮蔑の笑みを深めた。
「それにその盾……鍋のふたか?ハハハッ!傑作だ!朝飯の準備でもしてたのか?」
「笑うな」
ガブが唸る。
「メシ守り、最強。お前なんかこれで十分」
「威勢がいいなァ。だが、俺たちは腹が減ってるんだ。その鍋のふたの下にある『肉』も、いただこうか」
男が指笛を鳴らした。
ヒュウッ!その鋭い音に呼応するように、周囲の霧の中から、次々と影が現れた。二人、三人、四人……。全員で五人。あっという間に、私たちは包囲されていた。全員が赤い布を身につけている。『赤蛇団』の捜索隊だ。
「これは、まずいわね」
私は杖を握りしめ、背中合わせになったガブに囁いた。
「数が多い。逃げ道はある?」
「ない」
ガブが即答した。
「囲まれた。隙間ない。あいつら、狩りを知ってる」
彼らの配置は完璧だった。獲物を追い込む狼の群れのように、死角を潰し合っている。
「姉ちゃん、いいローブ着てるじゃねえか」
リーダー格らしき男――最初の男だ――が一歩踏み出した。
「顔を見せな。器量が良ければ、ボスへの土産にしてやるよ」
「お断りよ」
私は毅然と言い返した。
「道を開けなさい。さもなくば、痛い目を見るわよ」
「ハッ!痛い目だってよ!聞いたか野郎ども!」
ドッと笑いが起きる。彼らは完全に私たちを舐めている。鍋のふたを持ったゴブリンと、杖を持った小娘。脅威だとは微塵も思っていない。それが唯一の勝機だ。
「ガブ、合図したら走るわよ」
「どっちへ?」
「あいつの股下」
私がリーダーの男を目配せで示すと、ガブは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。
「了解」
私は杖を高く掲げた。魔力を練る。攻撃魔法ではない。目くらましだ。先日使った『フラッシュ』よりも、もっと強烈で、もっと意地悪なやつ。
「光よ、爆ぜろ!」
カッッッッ!!!!早朝の薄暗い森に、真昼の太陽が落ちたような閃光が走った。霧の粒子が光を乱反射させ、あたり一面が真っ白な光の世界になる。
「グアアアッ!?」
「目が!目がぁ!」
男たちが悲鳴を上げて顔を覆う。視界を奪うだけではない。今の魔法には、私が公爵家で密かに練習していた『幻惑』の付与効果も乗せてある。光を見た者の平衡感覚を、数秒間だけ狂わせるのだ。
「今だ!行けガブ!」
「おう!」
ガブが地面を蹴った。狙うはリーダーの男。男は目を押さえてよろめいている。その足元は無防備だ。
「どけぇっ!」
ガブは低空タックルをかました。ただし、肩ではなく、左腕の『鍋のふた』を前面に押し出して。
ゴスッ!硬い木の盾が、男の脛と膝頭にクリーンヒットする。
「ギョエッ!?」
男が奇妙な声を上げて宙を舞った。
突破口が開いた。私たちは転がるリーダーを飛び越え、包囲網の外へと躍り出た。
「逃がすな!追えぇぇっ!」
背後で怒号が響く。だが、私たちはもう走り出していた。ガブが私の手を引き、獣道を外れて、いばらの茂る未開の藪へと突っ込んでいく。
「痛いっ!」
枝が顔を打つ。でも止まれない。
「我慢しろ!走れ!止まったら死ぬ!」
ガブが叫ぶ。
襲撃者の気配は、遠ざかるどころか、怒りの色を帯びて背後にへばりついていた。森の鬼ごっこが始まった。今度の鬼は、タッチされたら命を奪われる、本物の悪鬼たちだ。




