EP2
4:北の森の「立ち入り禁止」
四日目の朝、私は世界と世界の境界線に立っていた。
街道の行き止まり。そこには、風雨に晒されて朽ちかけた木の看板が、墓標のように斜めに突き刺さっている。赤いペンキで乱暴に描かれた大きな『×』印。その下には、掠れて読みづらくなった文字で、こう記されていた。
『警告。これより北、王国の守護及ばず。立ち入り禁止』
ここが人間社会の終わりだ。この先は「北の森」。魔物たちが跋扈し、一度足を踏み入れれば二度と生きては戻れないと言われる魔境。ゴクリ、と喉が鳴る音が、やけに大きく響いた。
引き返すなら今だ。今ならまだ、街道を戻ってどこかの小さな村に身を寄せ、名前を偽って生きる道もあるかもしれない。「実は道に迷ってしまって」と、得意の愛想笑いを浮かべて。
(ううん、だめ)
想像しただけで胸が悪くなった。村に行けば、必ず人は私に問いかけるだろう。「どこから来たの?」「親はどうしたの?」「かわいそうに」心配するふりをして、品定めをする視線。言葉の端々から立ち上る、好奇心と優越感の混じった薄汚い紫色の煙。あの色をもう一度見るくらいなら、魔物の爪にかかって死んだほうがずっと清々しい。
私はリュックのベルトを握りしめ、意を決して境界線を跨いだ。
一歩踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が変わった。ひんやりと湿った、重たい風。鼻孔をくすぐるのは、腐葉土の濃厚な香りと、どこか鉄錆のような血の匂いを含んだ野生の臭気。木々の背丈はこれまでの倍以上に伸び、巨大な枝葉が空を覆い隠している。昼間だというのに薄暗く、太陽の光は斑模様にしか地面に届かない。
静かだ。けれどそれは「無音」ではない。無数の生命が互いに息を殺し、隙を窺い合っているような、張り詰めた緊張感のある静寂。
ガサリ。足元の羊歯が揺れる音がして、私はビクッと杖を構えた。心臓が口から飛び出しそうになる。ただの野兎だった。灰色のがっしりとした体格の兎が、私を一瞥して走り去っていく。その目には人間への愛嬌など欠片もなく、「邪魔だ」と言わんばかりの冷たさがあった。
「はぁ、はぁ......。落ち着け、リゼ」
私は自分の胸を押さえた。屋敷の図書室で本を相手に過ごしていた私には、刺激が強すぎる。それでも私は進んだ。道なき道を、苔むした岩を乗り越え、太い木の根を潜り抜けて。
数時間も歩くと、自分がどちらに向かっているのか、方向感覚が怪しくなってきた。右を見ても、左を見ても、同じような巨木の壁。頼りの地図も、このエリアはただの空白だ。本当にこの先に『楽園』なんてあるのだろうか。不安が、黒いインクのように心に滲み出してくる。足が止まりそうになる。その時だった。
「ギャッ!ギギッ!」
奇妙な声が聞こえた。獣の勇ましい咆哮ではない。もっと情けなくて、甲高い、何かの悲鳴に近い声。私は立ち止まり、息を殺して耳を澄ませた。風の音に混じって、枯れ葉を必死に掻きむしるような音が聞こえる。誰かが、あるいは何かが、苦しんでいる?
逃げるべきか?常識的な判断なら、怪しい音からは遠ざかるのが正解だ。でもその声には、私の知っている「罠にかかった獲物」特有の響きがあった。それは、父の屋敷で見た、政敵に追い詰められた貴族の悲鳴にも似ていたし、私の心の奥底にある叫びにも似ていた。
好奇心と警戒心がせめぎ合う中、私は杖を握り直し、「隠蔽」の魔法を自分にかけた。姿を消すほどの高度な魔法ではないけれど、気配を薄くすることならできる。私は音のする方へ、そっと足を進めた。
5:罠にかかった緑色の何か
音の出所は、樹齢数百年はありそうな、巨大な杉の木の根元だった。私は太い幹の陰から、そっと顔を出して様子を伺う。
そこにいたのは、緑色をした小柄な生き物だった。身長は私の腰ほど――おそらく100センチメートルくらいしかない。尖った長い耳。その片方は何かに齧られたように欠けている。顔の半分を占めるような大きな鼻に、ぎょろりとした黄色い目。口からは不揃いな牙が覗いている。
絵本や教科書で見たことがある。最もポピュラーで、最も人間に嫌われている小鬼。ゴブリンだ。
そのゴブリンは、あられもない姿で地面に転がっていた。左足が、錆びついた鉄の罠に挟まれているのだ。ギザギザのついた金属の歯が、彼の細い足首に深く食い込んでいる。おそらく、かつて密猟者が熊や大型獣用に仕掛け、回収し忘れたものだろう。赤錆びたその罠は、長い時間を経てなお、獲物を逃さない執念深さを保っていた。
「ギィッ!ギャウッ!ガガッ!」
彼は罠を外そうと必死に暴れていたが、それは逆効果だった。暴れれば暴れるほど、刃は肉に深く食い込み、傷口を広げていく。地面の苔が、どす黒い血で濡れているのが見えた。
醜い、と思った。人間たちが「汚らわしい害獣」として忌み嫌うのも分かる、粗野で薄汚れた姿。ボロボロの腰布一枚を巻き、泥と血にまみれて喚き散らす姿に、美しさなど微塵もない。
けれど。不思議と、私の中に恐怖は湧かなかった。それどころか、私はその光景から目を離せなくなっていた。
私の『真実の眼』には、彼の感情が色となって見えていたからだ。
彼の全身から立ち上っているのは、濃い青色と、激しい橙色。青は「痛み」と「恐怖」。橙は「焦燥」と「生への執着」。
そこには一点の曇りもなかった。人間ならこういう時ですら「見栄」や「計算」が混じるものだ。『助けてくれれば金をやる』という下心や、『こんな罠にかかるなんて不運だ』という言い訳が、色の彩度を濁らせる。だがこのゴブリンにはそれがない。ただ、痛い。怖い。死にたくない。彼が発しているのは、混じりっけのない純粋原液のような感情だけだった。
(なんて正直なんだろう)
私は杖を握る手に力を込めた。常識的に考えれば、関わるべきではない。ゴブリンは狡猾で残忍だと聞く。助けた途端に恩を仇で返すような生き物だと、教会の神父様も言っていた。
でも、目の前で必死に生きようともがくその姿は、家を飛び出して、孤独な森の中で震えていた昨夜の私と、どこか重なって見えた。彼もまた、理不尽な運命という罠にかかり、誰にも助けを求められずにいる「迷子」なのだ。
私が迷っていると、ふと風向きが変わった。ゴブリンが動きを止める。大きな鼻をヒクヒクと動かし、そしてバッとこちらを向いた。猫のように縦に割れた瞳孔を持つ黄色い瞳と、私の目が合った。
「!」
見つかった。心臓が跳ねる。目が合った瞬間、彼の瞳の色が変わるのが見えた。
6:威嚇と敵意
「グルルルルッ!!」
私を認識した瞬間、ゴブリンは牙を剥き出しにして唸った。先ほどまでの情けない悲鳴とは打って変わった、殺意に満ちた低い威嚇音。彼は痛む足を引きずりながらも身を起こし、手近にあった石を掴むと、私に向かって振りかぶった。
野生動物の反応速度。私はとっさに防御魔法の障壁を展開しようと杖を上げた。けれど、その詠唱は途中で止まった。
私の『真実の眼』が、彼の心の色を捉えたからだ。
ゴブリンの全身から噴き出したのは、鮮烈な真紅。それは「敵意」の色だ。彼は私を明確に「敵」だと認識し、排除しようとしている。「あっちへ行け」「近寄るな」「殺すぞ」。その感情の波動は、あまりにも鋭く、そして真っ直ぐだった。
――あぁ、なんて綺麗なんだろう。
私は石を投げられそうになっているというのに、場違いな感動を覚えていた。王都で人々に向けられた敵意とは、まるで別物だったからだ。人間たちの敵意は、いつだって隠されている。笑顔の仮面の下に、ドロドロとした灰色の粘液のように渦巻き、陰口や嫌がらせといった陰湿な形で滲み出してくる。それは腐った沼のように濁っていて、見ていて吐き気がするものだった。
けれど、彼の敵意には「裏」がない。「媚び」もなければ「騙し」もない。ただ、自分が生き残るために。傷ついた自分を守るために。全力で牙を剥き、命を燃やして私を拒絶している。それは生存本能という名の、研ぎ澄まされた真実だった。
「大丈夫。何もしないわ」
私は両手をゆっくりと上げ、武器を持っていないことを示した。ゴブリンは警戒を解かない。喉の奥で「ガァッ、シャアアッ!」と唸り続け、いつでも石を投げられるように腕を引いている。言葉は通じない。でも、感情の色を見れば、彼が恐怖の裏返しで威嚇していることは明白だった。
私はゆっくりと、一歩ずつ彼に近づいた。石が飛んでくるかもしれない。噛みつかれるかもしれない。それでも、嘘をついて私を利用しようとする人間たちよりは、殺意を剥き出しにしている今の彼の方が、ずっと信頼できる相手だと思えた。
あと数メートル。ゴブリンが、投げようとした石を握りしめたまま、困惑したように目を瞬かせた。なぜ攻撃してこないのか。なぜ逃げないのか。私の行動が、彼の単純な理屈からは外れているからだろう。真紅の敵意の中に、ぽつり、ぽつりと黄色い斑点が混じり始める。それは「困惑」の色だ。
「痛いんでしょう?それ、外してあげる」
私は彼の目の前、手が届く距離で膝をついた。汚れた緑色の肌。鼻をつく獣の臭い。彼はビクリと身を固くし、私の喉元に視線を固定している。私が少しでも妙な動きを見せれば、食らいつくつもりだろう。
私は視線を彼の目から逸らさずに、ゆっくりと罠の方へ手を伸ばした。錆びついた鉄のバネは、固く食い込んでいる。普通の少女の腕力ではびくともしないだろう。だが、私にはこれがある。
「身体強化」
小さな声で詠唱する。腕に魔力が巡り、筋力が一時的に増強される。私は罠の左右のアームを掴み、一気に押し広げた。
ギィィガキンッ!
不快な金属音とともに、鉄の顎が開いた。拘束が解けた瞬間、ゴブリンは驚くべき反応速度で後ろへ飛び退いた。傷ついた足を引きずりながらも、数メートルの距離を一瞬で取る。
そのまま森の奥へ逃げるかと思った。野生動物ならそうするはずだ。けれど彼は立ち止まった。安全圏と思われる場所まで下がると、太い木の幹にしがみつき、そこから顔半分だけを出して、じっとこちらを振り返ったのだ。
まだ手には石を握りしめている。けれどその瞳から、あの鮮烈な「敵意」の赤色は消えていた。代わりに浮かんでいたのは、視界を埋め尽くすような、明るいレモンイエロー。それは「困惑」と、そしてほんの少しの――「興味」の色だった。
助けられた?こいつが?なぜ?そんな彼の思考が、ぐるぐると渦巻いているのが見えるようだ。
「もう、大丈夫よ」
私は彼に向かって、もう一度だけ小さく微笑んだ。見返りなんて求めていない。ただ、彼のその「綺麗な色」を見られただけで、私にとっては十分な報酬だったから。これが私と彼との、最初の会話のない対話だった。




