EP18
51:西へ向かう理由
太陽が背中から昇ってくる。私たちは長い影を前方に伸ばしながら、街道を歩いていた。方角は「西」。昨夜、関所の衛兵には「北の親戚を頼る」と告げた。だが、私たちが実際に選んだ道は、それとは90度異なる西へのルートだった。
理由は単純だ。北へ向かう「王の道」は、整備されているぶん、関所や巡回兵が多い。一度「犬のふりをしたゴブリン」という強烈な印象を残してしまった以上、北上すれば噂が先回りしている可能性がある。
それに比べて西の街道は、古い交易路であり、今はあまり使われていない。森や荒野に近く、何かあればすぐに身を隠せる。
「ガブ、歩くペース速すぎない?」
私が声をかけると、数メートル先を歩いていたガブが立ち止まり、くるりと振り返った。
「ん?リゼ遅い」
彼は不満そうに鼻を鳴らす。
「太陽、逃げる。オレたち追う。早く行かないと夜になる」
彼の言葉遣いは、町を出てから急激に崩れていた。人間社会にいた時は、私の言葉を真似て無理に流暢に話そうとしていた節がある。だが、誰の目も気にする必要がなくなった今、彼は本来の「ゴブリン語」の感覚に近い、片言の話し方に戻っていた。
「大丈夫よ。夜になれば休めばいいんだから」
「夜、別のやつ起きる。オレたち、寝る場所探す。時間かかる」
彼は白い棍棒で地面をコンコンと叩いた。もっともな意見だ。野営の場所選びは、命に関わる。
「それに、北だめ。兵隊多い。匂い、鉄と油の匂いする」
ガブは北の方角を指差し、嫌悪感を露わにして顔をしかめた。
「西、いい匂い。土、古い木、乾いた草。こっち安全」
「やっぱり、わかるの?」
「わかる。風、教えてくれる」
私は改めて、自分の選択が間違っていなかったことを確信した。私の『真実の眼』は、人の感情や嘘を見抜くことはできても、遠くの物理的な危険を察知することはできない。その点、ガブの五感は頼りになる。
私たちは西へ続く「旧街道」を進んだ。石畳はところどころ剥がれ、雑草が隙間から顔を出している。轍も薄く、ここ数日は馬車が通った形跡もない。
「リゼ」
しばらく歩くと、ガブが唐突に足を止めた。
「なんで、嘘ついた?」
「え?」
「門の兵隊に、『北行く』言った。でも、こっち西。なんで?」
彼は純粋な疑問として尋ねてきた。ゴブリンには「嘘」という概念が希薄だ。獲物を騙すための罠や待ち伏せはするが、言葉で事実をねじ曲げることはあまりしないらしい。
「それはね、『目くらまし』よ」
私は歩きながら説明した。
「もし、あの宿の酔っ払いが腹いせに衛兵に告げ口していたら?衛兵は『北へ行った姉弟』を探すわ。でも、私たちは西にいる。そうすれば見つからない」
ガブは歩きながら、首をかしげた。
「人間、面倒。言葉、裏ある。心、隠す」
「そうね。人間は弱いのよ。だから知恵と嘘で身を守るの」
「オレ、牙ある。棍棒ある。嘘いらない」
彼はブンッと棍棒を振った。その単純さが羨ましい。けれど、彼も昨夜は私のために「犬のふり」という嘘をついてくれたのだ。
「でもガブ。昨日の『ワン』は上手だったわよ。あれも立派な嘘」
私がからかうと、ガブは緑色の顔を少し赤くした。
「あれ違う!あれ作戦!嘘じゃない!」
「ふふ、はいはい。作戦ね」
「もう言わない!オレゴブリン!犬嫌い!」
彼は拗ねて、早足で先に行ってしまった。その背中は、怒っているというよりは、照れ隠しで逃げているように見えた。
私は微笑みながら、その後を追った。西へ。この道の先には、「自由都市群」と呼ばれる地域があるらしい。王国の法律が及ばない、様々な種族や流れ者が集まる場所だ。そこなら、ゴブリンを連れた元貴族の娘でも、息がしやすいかもしれない。
風が吹き抜ける。北風のような冷たさはなく、どこか乾いた、土埃の混じった匂いがした。これが、新しい旅の匂いだ。
52:地図の書き込み
正午過ぎ、私たちは街道沿いの大きな岩陰で休憩を取った。日差しは強いが、岩陰に入るとひんやりとした風が通る。
私はリュックから、市場の古道具屋で買った地図を広げた。羊皮紙に描かれた、王国西部の地図だ。かなり古いもので、インクが薄れている箇所もあるが、主要な街道と町に位置関係はわかる。
「ここが今の場所。で、このまま進むと……三日後に『枯れ木峠』に着くわね」
私は指でルートをなぞった。ガブが横から覗き込んでくる。彼はチーズをかじりながら、興味深そうに羊皮紙を見つめた。
「これ何?」
「地図よ。ここが地面、ここが道、これが山」
私が説明すると、ガブは鼻で笑った。
「これ、嘘ばっかり」
「嘘?」
「ん。ここ、山書いてある。でもこれ、ただの絵。本当の山、もっと高い。もっと険しい。ここ、道書いてある。でもここ、水ない。歩いたら死ぬ」
ガブは脂っこい指で、地図上の平原を指差した。
「ここ、オオカミの縄張り。人間通らない。でも、書いてない」
なるほど。人間が作る地図は、あくまで「人間のための情報」しか載っていない。町と町を繋ぐ線、税を徴収するための区分け。そこには、自然界のリアルな脅威や、生存に必要な情報は欠落しているのだ。
「じゃあ、ガブが教えてくれる?」
私は羽ペンとインクを取り出した。
「ガブが知っていること、ここに書き足して」
ガブは驚いたように目を丸くした。
「オレ、字書けない」
「字じゃなくていいわ。絵でも、印でも」
彼はしばらく考えてから、「貸せ」と私の手からペンを奪い取った。慣れない手つきでペンを握りしめ、インク壺にドボリと浸す。そして、地図の上に躊躇なく描き始めた。
ギギッ、ガリガリ。羊皮紙が破れそうな筆圧だ。
「ここ水場。甘い水、出る」
彼は街道の少し外れに、丸い印を描いた。
「ここ崖。崩れる。危ない」
バツ印がつけられる。
「ここ、熊のボスいる。強い。絶対行くな」
彼はそこに、ギザギザの牙のようなマークを描き込んだ。
私はその横に、小さな文字で注釈を加えていく。
『湧き水あり』『落石注意』『熊の巣・回避推奨』。
ガブは次々と情報を追加していく。風の匂いで感じたこと、遠くに見える地形から推測したこと。あるいは、彼の部族に伝わる古い知識なのかもしれない。
「ここ、キノコ生える。食える。でも赤いやつ、毒。腹壊す」
「ここ、夜お化け出る。たぶん」
「お化け?」
「ん。変な光、飛ぶ。寒い風、吹く。ゴブリン、近寄らない」
いつの間にか、ただの地理的な図面だった羊皮紙が、黒いインクと染みで埋め尽くされていった。汚くて、乱雑で、公爵家の地図職人が見たら卒倒するような代物だ。でも、私にとっては、これこそが「生きた地図」だった。
「すごいわガブ。これなら迷わない」
私が褒めると、ガブは鼻高々に胸を反らした。
「人間、紙信じる。オレ、鼻と目信じる。リゼ、オレ信じろ」
「ええ、信じるわ」
私はインクが乾くのを待って、地図を丁寧に折りたたんだ。この地図には、二つの視点が重なっている。文明的な知識と、野生の知恵。それが重なり合った時、私たちは最強の旅人になれる気がした。
「さあ行こう。熊のボスに会いたくないしね」
「ん。ボス、怒ると怖い。人間一発でペシャンコ」
ガブは恐ろしげなジェスチャーをして、再び歩き出した。私はリュックを背負い直す。地図に書き込まれた『安全な道』をなぞるように、私たちは西へと進み続けた。
53:街道のわき道
太陽が傾き始めた頃、まっすぐに伸びていた旧街道が、二股に分かれている場所に差し掛かった。右は、そのまま石畳が続く道。左は、草に覆われて獣道のようになっている細い道。
地図を見る。人間の地図には、右の道しか描かれていない。だが、ガブが書き加えた印――歪な矢印のようなもの――は、左を指していた。
「こっち?」
私が左の道を指差すと、ガブは頷いた。
「ん。右広い。でも遠回り。左狭い。でも近道」
「近道なの?」
「あと、右の道、馬のフンの匂いする。最近誰か通った。左、獣の匂いだけ。人間いない」
人との遭遇を避けるなら、左だ。私たちは迷わず、草に埋もれた「わき道」へと足を踏み入れた。
道はすぐに険しくなった。かつては人が通っていたのだろうが、今は自然の浸食が激しい。伸び放題の枝が視界を遮り、足元は木の根が網の目のように張り巡らされている。
「うっ」
私は裾が茨に引っかかり、よろけた。ガブがすぐに振り返り、私の手を掴んで支えてくれる。
「リゼ、足下手くそ」
彼は呆れたように言った。
「もっと、地面見る。根っこ踏まない。跨ぐ」
「わかってるけど……ドレスじゃ歩きにくいのよ」
旅装に着替えたとはいえ、私の服はまだ動きにくい。スラックスのようなズボンが欲しいところだ。ガブは自分の白い棍棒で、邪魔な枝をバシバシと薙ぎ払いながら先導してくれた。
「この道、昔誰か使ってた」
ガブが地面の苔むした石を指差した。それは、倒れた石碑のようだった。表面には風化して読めない文字が刻まれている。
私は『真実の眼』で、その石碑に残る気配を感じ取ろうとした。古い。とても古い。かすかに感じるのは、『祈り』の色。旅の安全を願う、何百年も前の旅人たちの想いが、石に染み付いている。
「これは……古い道標ね。きっと、大昔の行商人たちが使っていた『隠れ道』よ」
「隠れ道?」
「ええ。盗賊や税金取りから逃れるための、秘密の道」
ガブは興味なさそうに鼻を鳴らした。
「人間、隠れるの好きだな。コソコソする」
「生きる知恵よ。私たちと同じ」
さらに進むと、森の空気が変わった。静かだ。鳥の声も止み、風の音だけが木々の梢を揺らしている。少し不気味なほどの静寂。
ガブが足を止め、耳をピクリと動かした。彼の背中から、緊張感が伝わってくる。
「何かいる?」
私が囁くと、ガブは首を横に振った。
「いや。何もいない。いなさすぎる」
「え?」
「虫いない。鳥いない。ここ誰かの『庭』かも」
誰かの庭。つまり、強力な縄張り(テリトリー)を持つ主がいるということだ。ガブは鼻をひくつかせ、空気中の匂いを分析する。
「古い匂い。血の匂いじゃない。骨の匂い?」
彼は困惑した表情を浮かべた。
「敵意感じない。でも強い『圧』ある」
私は杖を握りしめた。引き返す?いや、もうだいぶ進んでしまった。それに道は続いている。
「行こうリゼ。静かに」
ガブは声を潜め、抜き足差し足で歩き出した。私も彼に倣い、呼吸を殺して進む。
わき道は、鬱蒼とした森のトンネルを抜けた先で、少し開けた場所に出た。そこには朽ち果てた小屋が一軒、ぽつんと建っていた。
屋根は落ち、壁は蔦に覆われている。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、長い時を経て自然の一部と化したような、静謐な空気が漂っている。
「ここだ。匂いの元」
ガブが小屋を指差した。私たちは顔を見合わせた。今日の宿は、ここになるかもしれない。あるいは、触れてはいけない過去の遺物に、足を踏み入れてしまったのか。
私はゴクリと喉を鳴らし、ガブの背中に隠れるようにして、その廃屋へと近づいていった。




