EP17
49:改めて、乾杯
町から逃げるようにして走り続け、太陽が頭上の高い位置に昇る頃、私たちは街道から大きく外れた渓流沿いにいた。ここまで来れば、もう追手の心配はない。聞こえるのは川のせせらぎと、風が木々を揺らす音だけ。人工的な騒音は、もうどこにもなかった。
私たちは河原の開けた場所に腰を下ろした。ここを今日の野営地――いや、休息地とすることにしたのだ。
「オレ、これ嫌い」
ガブが、変装用の衣装を地面に投げ捨てた。ポンチョ、スカーフ、手袋。それらを脱ぎ去ると、彼は緑色の肌を露出し、ブルブルと濡れた犬のように体を震わせた。
「やっと、息できる。あの布、臭い。人間の匂い、染み付いてる」
彼の言葉数は、町にいた時よりも少なくなっているけれど、その分、感情がストレートに伝わってくる。「〜だ」「〜だぞ」といった流暢な語尾が消え、単語をぶつけるような話し方に戻っていた。これこそが、私の知るガブだ。
「ごめんね。でも、おかげで助かったわ」
私はリュックから、市場で買っておいた戦利品を取り出した。干し肉、硬焼きパン、そしてチーズの塊。さらに、雑貨屋の片隅で売られていた、安物のワインの小瓶。
「ガブ、火、起こせる?」
「ん。任せろ」
ガブは手際よく枯れ木を集め、あっという間に焚き火を作り上げた。町では決して許されなかった、直火の炎。パチパチと爆ぜる音が、私たちの心を解きほぐしていく。
私は買ってきたチーズをナイフで削り、パンに乗せて火で炙った。とろりと溶けたチーズが、焦げたパンの香りと混ざり合う。ガブが鼻をヒクつかせた。
「いい匂い。これ、食い物か?」
「ええ。熱いから気をつけてね」
ガブはチーズの乗ったパンを受け取ると、警戒しつつも、大きくかぶりついた。ハフハフと熱い息を吐きながら、彼の黄色い目が丸くなる。
「うまい!これ、ドロドロ、うまい!」
「ふふ、よかった」
私は自分の分のパンを手に取り、それからワインの小瓶を開けた。木のカップに少しだけ注ぐ。ガブには、皮袋の水だ。
「ガブ、カップを出して」
「?」
ガブが首をかしげながら、腰に下げていた木の器を差し出す。私は自分のカップを、彼の器にカチンと軽くぶつけた。
「乾杯」
「カンパイ?」
「そう。無事に逃げられたことと、これからの旅に、お祝いをするの」
ガブは不思議そうに自分の水を見つめ、それから私を真似て器を掲げた。
「カンパイ」
彼は一口水を飲み、ニカッと笑った。
「水、うまい。町の水、変な味だった。ここの水、生きてる」
私もワインを口に含んだ。酸味が強くて、決して上等な味ではない。公爵家にいた頃なら、料理酒にすら使わなかっただろう。けれど、喉を通るその液体は、自由の味がした。甘美で、少しだけ苦い、大人の味だ。
「なぁ、リゼ」
ガブが口の周りをチーズで汚しながら言った。
「町、怖かった。人間、いっぱい。みんな、オレたち見てない。でも、ずっと見られてる気、した」
「そうね。視線がないのに、監視されているみたいだったわ」
「オレ、もう行かない。あそこ、檻だ。見えない壁、ある」
ガブは焚き火に小枝を放り込んだ。
「ここ、いい。壁、ない。どこでも行ける」
彼の野生の感性は正しい。人間社会は、ルールと常識という見えない壁で囲まれた檻だ。安全かもしれないけれど、息が詰まる。私たちは、そこからはみ出した「野良」なのだ。
「そうね。もう行かないで済むように、旅を続けましょう」
「ん。北行くんだろ?オレ、守る」
ガブが胸を叩く。その仕草を見て、私は昨夜のことを思い出した。
「そういえば、宿屋で『犬』のふりをしてくれた時……上手だったわよ」
「う……」
ガブが露骨に嫌な顔をした。
「あれ、やだ。オレ、誇りある。犬、人間に飼われる。オレ、飼われない」
「知ってるわ。あなたは私の相棒だもの」
「そう。相棒。でも、リゼのためならまたやる。犬でも、虫でも」
彼はボソリと言って、照れ隠しのようにパンを詰め込んだ。胸が温かくなる。彼は自分のプライドよりも、私を守ることを優先してくれたのだ。その不器用な献身に、私はどう報いればいいのだろう。
私は改めて、彼の横顔を見た。緑色の肌、尖った耳、低い鼻。世間一般では「醜い魔物」とされる容姿。でも焚き火の光に照らされたその顔は、私には何よりも愛おしく、頼もしく見えた。
「ありがとう、ガブ。最高の相棒よ」
「ん。リゼもまあまあ、いい相棒」
「まあまあ?」
「足遅い。鼻利かない。力弱い」
ガブは指折り数えて、最後にニヤリと笑った。
「でも、飯うまい。あと……横にいると、なんかいい」
「なんかいい」。その曖昧で理屈のない肯定が、どんな褒め言葉よりも嬉しかった。
私たちは川のせせらぎを聞きながら、質素な宴を続けた。高級な料理も、華やかな音楽もない。あるのは焦げたパンと、安ワインと、信頼できる「旅の友」だけ。それで十分だった。改めて、私たちの自由な旅に、乾杯。
50:旅の友に選んだのは
夜になり、焚き火の炎が小さくなると、あたりは深い闇に包まれた。空を見上げると、こぼれ落ちそうなほどの星空が広がっていた。町の灯りに邪魔されない、本物の星空だ。
ガブはもう眠っていた。私のすぐ隣、手が届く距離で、丸くなって寝息を立てている。
「ベッドより地面がいい」と言った彼の言葉は本心だったようだ。土の上で眠る彼の顔は、宿屋の時よりもずっと安らかだ。
私は毛布にくるまりながら、彼を見つめた。パチッ、と燃え残りの薪が爆ぜる。
出会った頃のことを思い出す。森の中で行き倒れかけていた私を彼が見つけた時。最初は殺されると思った。食べられると思った。『ゴブリンは邪悪で、人間を襲う下等な魔物』。そう教え込まれて育ったからだ。
でも彼は違った。彼は私を襲う代わりに、不器用に水を持ってきてくれた。言葉は通じにくかったけれど、その瞳には「悪意」ではなく純粋な「好奇心」があった。
――『お前、死ぬのか?』――『死なないなら、これ食うか?』
あの時、差し出された泥だらけの木の実。あれが、私の運命を変えた。
もし私が普通の冒険者や、あるいは他の人間と旅をしていたらどうなっていただろう。きっと、町に入ってもこんなに苦労はしなかったはずだ。堂々と宿に泊まり、美味しい食事を楽しめただろう。でもその代わりに私は、また「愛想笑い」と「嘘」で自分を塗り固めていたに違いない。「公爵令嬢」という肩書きや、「女だから」という偏見の中で、自分を殺して生きていただろう。
ガブは、私に肩書きを求めない。彼にとって私は「リゼ」という個体でしかない。「弱いけど、飯を作るのが上手いメス」。それだけの評価だ。それが、どれほど心地よいか。
「んぅ……」
ガブが寝言を漏らし、無意識に私の毛布の端を掴んだ。彼の手はゴツゴツしていて、爪は黒く、土にまみれている。貴族の白い手とは正反対の手。でも、この手が私を何度も救ってくれた。崖から落ちそうな時も、魔獣に襲われた時も、そしてあの酔っ払いから守ってくれた時も。
私はそっと、彼の手の上に自分の手を重ねた。
「旅の友に選んだのが、あなたでよかった」
声に出して呟いてみた。風がその言葉をさらっていく。ガブがうっすらと目を開けた。黄色い瞳が、暗闇の中でぼんやりと光る。
「リゼ?敵か?」
彼はすぐに体を起こそうとした。
「違うわ。寝てていいの」
私が宥めると、彼はまた力の抜けた顔に戻った。
「リゼ、起きてるのか?」
「ええ。星が綺麗で」
「星?ふん、腹の足しにならん」
彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「早く寝ろ。明日歩くぞ。北、遠い」
「そうね。ねえ、ガブ」
「ん?」
「なんで、私についてきてくれるの?」
ふと聞いてみたくなった。彼は少し考えてから、単純明快に答えた。
「リゼ、面白い。あと、放っとくと死ぬ」
「それだけ?」
「それだけ。あとリゼの作る肉、うまい」
彼はあくびをして、再び目を閉じた。
「オレ、うまい肉食いたい。だからリゼ守る。それだけ」
シンプルだ。あまりにもシンプルで、涙が出そうになるほど潔い。損得勘定も、裏切りも、建前もない。ただ「一緒にいたいからいる」「美味いものが食べたいから守る」。その原始的な契約こそが、今の私にはどんな騎士の誓いよりも尊かった。
「おやすみ、ガブ」
「ん。おやすみ」
彼はすぐに寝息を立て始めた。私は彼の寝顔を見ながら、心の中で誓った。私も強くなろう。彼にただ守られるだけの「弱いメス」じゃなく、彼の背中を預かるに足る「相棒」になるために。
北への旅路はまだ長い。どんな困難が待ち受けているか分からない。でも、この「異形の友」と一緒なら、きっとどこまでだって行ける。
私は毛布を引き上げ、冷たい夜風の中で、しかし心は温かいまま眠りについた。旅の友に選んだのはゴブリンでした。その選択は、私の人生で最高に正しく、最高にクレイジーな選択だったと、胸を張って言える。明日もまた、私たちは荒野を行く。道なき道を、二人で。




