EP16
46:「飼い犬」のふり
部屋に戻り、鍵をかけた瞬間、私はドアに背中を預けて座り込んだ。心臓が、喉の奥から飛び出しそうなほど激しく脈打っている。
やった。やってしまった。あの酔っ払いを撃退したこと自体は良かった。けれど、その手段がまずかった。ガブが発したあの唸り声。そして、一瞬だけ放たれた圧倒的な殺気。あれは人間の子供が出せるものではない。
「リゼ、ごめん」
ガブが私の前にしゃがみ込み、しょんぼりとフードを下げた。
「我慢できなかった。あいつ、リゼを食べるつもりだったから」
「ううん、いいの。あなたが助けてくれなかったら、どうなっていたか分からないもの」
私は彼の手を握りしめた。彼を責める気にはなれない。私の弱さが招いた事態だ。だが、問題はこれからだ。
コンコン。心臓が止まるかと思った。ドアがノックされたのだ。
「お連れさん、ちょっといいかい?」
宿の主人の声だ。声色は穏やかだが、私の『真実の眼』はドア越しに彼の気配を感じ取っていた。色は『疑念』の濁った黄色と、『好奇心』のオレンジ色。――怪しまれている。さっきの騒動で、ガブの正体について何か感づかれたのかもしれない。
居留守を使う?いや、それはかえって怪しい。逃げる?二階の窓から?目立ちすぎる。ここは、正面から誤魔化すしかない。
私は深呼吸をし、震える足を叩いて立ち上がった。ガブに目配せをする。『私が何とかするから、合わせて』ガブはコクンと頷き、部屋の隅、影になるところに四つん這いになった。
私は少しだけドアを開けた。チェーンはかけたまま。
「なんでしょうか。もう休みところなのですが」
隙間から、主人の丸い顔が見えた。彼は部屋の中を覗き込もうとしながら言った。
「いやなに、さっきのことがあってね。他の客が怖がっちまって。『ありゃ人間の声じゃねえ、魔獣の唸り声だ』なんて騒ぐ奴もいてな」
やはり。あの唸り声は、人間の可聴域を超えた響きを含んでいた。本能に訴えかける「獣」の声だ。
「弟くん、本当にただの病気なのかい?なんかこう……事情があるんじゃないのか?」
主人の目が鋭くなる。疑いの色が濃くなる。このままでは、衛兵を呼ばれかねない。
私は、とっさに思いついた嘘を口にした。自分でも馬鹿げていると思うけれど、これしか道はない。
「実はおっしゃる通り、弟には少し変わった事情があるんです」
私は声を潜めて言った。
「あの子は、幼い頃に山賊にさらわれて……しばらくの間、山の中で『野犬』と一緒に育てられたんです」
「は?野犬?」
主人が目を丸くした。
「ええ。だから言葉よりも先に、唸ったり吠えたりすることを覚えてしまって……。興奮すると、自分を犬だと思って威嚇してしまうんです」
苦しい言い訳だ。いわゆる「野生児」という設定にするしかなかった。これなら常識外れの行動も、言葉が話せないことも、攻撃的な態度も説明がつく。
「なるほど、野生児ってやつか。噂には聞いたことがあるが」
主人の疑念の色が、少しだけ『納得』の青色に変わる。しかし、まだ半信半疑だ。
「ほら、ポチ……じゃなくて、ガブ。ご主人様に挨拶して」
私は振り返り、部屋の隅にいるガブに声をかけた。私の意図を察してくれ、と祈りながら。
ガブは天才だった。彼はフードを被ったまま、四つん這いでゆっくりと近づいてきた。そして、主人の顔を見上げると、「ワンッ!」と短く吠え(る真似をし)、それからゴロゴロと喉を鳴らして私の足に頭を擦り付けたのだ。
「……!」
主人があっけにとられた顔をした。ガブの演技は完璧だった。いや、演技というより、彼はもともと四足歩行が得意だし、甘える時の仕草も小動物的だ。それが、奇妙な説得力を生んでいた。
「本当だ。まるで犬っころだな」
主人が吹き出した。彼の中から、鋭い『疑念』の色が消え、『呆れ』と『同情』の薄いピンク色に変わった。
「可哀想になぁ。山賊のせいか。まあいい、そういう事情なら多めに見てやろう」
「ありがとうございます。しつけはちゃんとしておきますので」
「おう。でも、他のお客を噛まないように頼むぜ。首輪でもつけとくんだな」
主人は笑いながら手を振り、去っていった。
足音が遠ざかるのを確認して、私はドアを閉め、鍵をかけた。その場にへなへなと座り込む。
「助かった……」
全身から冷や汗が吹き出す。寿命が三年は縮んだ気がする。
ガブがむっくりと起き上がり、ポンチョの埃を払った。
「リゼ、俺は犬じゃないぞ。誇り高きゴブリンだ」
彼は不満そうに口を尖らせた。
「『ワン』なんて、人生で初めて言った」
「ごめんね、ガブ。でも、あれしか思いつかなくて」
「まあ、あいつが信じたならいい。人間の大人は単純だな」
ガブはケロリとしている。彼は自分のプライドよりも、危機回避を優先できる柔軟さを持っている。
「でも、『首輪をつけろ』なんて言われちゃったわね」
私が苦笑すると、ガブはニヤリと笑った。
「俺の首輪を握れるのは、リゼだけ。他のやつに触らせる気はない」
その言葉に、胸がドキリとした。彼は時々、無自覚にこういうことを言う。
「飼い犬」のふりをして危機を脱したけれど、彼は決して誰かに飼われる存在ではない。私の対等な相棒だ。
私たちは顔を見合わせ、安堵のため息をついた。今夜はもう、誰も訪ねてきませんように。私たちは明日の早朝、逃げるようにこの町を出ることを無言のうちに決めていた。
47:街を出る足早な朝
空が白む前、まだ星が残っている時間に私たちは起きた。静寂。昨夜の喧騒が嘘のように、宿屋は寝静まっている。私たちは音を立てないように荷物をまとめた。リュックに詰め込んだ保存食、水筒、マッチ。忘れ物はない。
「行くわよ」
私はガブに囁き、部屋を出た。廊下の床板が、古いためにギシギシと鳴る。そのたびに心臓が跳ねる。泥棒にでもなった気分だ。いや、何も盗んでいない。ただ、自分たちの平穏を守るために、こっそりと去るだけだ。
一階のロビーには、カウンターでうたた寝をしている主人の姿があった。起こさないように、つま先立ちで通り過ぎる。カウンターの上に、追加の銀貨一枚をそっと置いた。昨夜の迷惑料と、口止め料のつもりだ。
外に出ると、空気は凛と冷え込んでいた。朝霧が立ち込め、町全体が乳白色のベールに包まれている。吐く息が白い。ガブがブルッと身震いをして、ポンチョの前を合わせた。
「寒いな。人間はなんでこんな寒い場所に住むんだ」
「家があるからよ。でも今は早く歩きましょう。体が温まるわ」
私たちは早足で通りを抜けた。シャッターの閉まった商店。生ごみを漁る野良猫。誰もいない町は、ゴーストタウンのようで不気味だった。昨日の酔っ払いが、路地の陰から飛び出してくるのではないかという被害妄想が頭をもたげる。
『真実の眼』を凝らし、曲がり角の先を確認しながら進む。幸い、町の人々の心の色はまだ『睡眠』の深い青色に沈んでおり、活動している気配はない。
町の出口である北門が見えてきた。門はまだ閉ざされているかもしれないと不安だったが、早朝の行商人たちのために、小さな通用口が開いていた。眠そうな衛兵が一人、槍に寄りかかって立っている。
ここが最後の難関だ。私はフードを目深に被り直し、ガブの手を引いて近づいた。心臓の鼓動を悟られないように、呼吸を整える。
「早いな」
衛兵が気だるそうに声をかけてきた。私は愛想笑いを浮かべた。
「ええ、北の親戚の家まで、今日中に着きたいので」
衛兵は私の顔を見ようともせず、手を振った。
「気をつけてな。この先は山道だ。野犬が出るぞ」
野犬。その言葉に、昨夜の言い訳を思い出して少しおかしくなった。私の後ろには、最強の「野犬」がいるのだから、普通の犬なんて怖くない。
「はい、ありがとうございます」
私たちは門をくぐり抜けた。石畳の道が途切れ、土の街道へと変わる。背後で、町の気配が遠ざかっていく。
数百メートルほど歩き、街道が森に差し掛かるカーブを曲がったところで、ようやく町の姿が見えなくなった。
「っはぁぁぁぁ」
私は大きく息を吐き出し、その場に立ち止まった。緊張の糸がプツリと切れた。肩の荷が下りたどころの話ではない。全身に巻き付いていた鉄の鎖が外れたような感覚だ。
「出たな」
ガブもまた、振り返って呟いた。
「人間の巣、脱出成功だ」
「ええ。長かったわね……たった一泊なのに」
「一年くらいいた気分だ」
私たちは顔を見合わせて笑った。恐怖、緊張、演技。それら全てから解放された瞬間だった。もう誰に気を使う必要もない。嘘をつく必要もない。
朝日が昇り始めていた。地平線の向こうから、黄金色の光が差し込み、朝霧を晴らしていく。目の前に広がるのは、どこまでも続く荒野と、その先に待つ山々。私たちの庭だ。
「さあ、行きましょう。朝ごはん、どこかで食べなきゃね」
私は軽やかな足取りで歩き出した。リュックの中のミートパイは冷たくなっているけれど、きっと昨日よりもずっと美味しく感じるはずだ。
48:呼吸が楽になる場所
街道からさらに外れ、人の目が届かない丘の上まで来た頃、太陽は完全に姿を現していた。風が草を揺らし、小鳥たちがさえずっている。人工的な音は一つもない。
ガブが立ち止まり、もぞもぞと動き出した。
「リゼ、これ、もういいか?」
彼は顔を覆っていたスカーフと、分厚いポンチョを指差した。
「ええ、もう誰も見ていないわ。脱いでいいよ」
私の許可が出ると同時に、彼は勢いよくスカーフを引き剥がした。ポンチョを脱ぎ捨て、手袋も投げ捨てる。緑色の肌が、陽光の下に晒される。尖った耳がピンと立ち、黄色い瞳がキラキラと輝いた。
「ぷはーーーーっ!」
ガブは大きく口を開け、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「うまい!空気がうまい!」
彼はその場で跳ね回り、草の上に転がった。
「顔が涼しい!皮膚が息してる!やっぱこれだ!」
彼はゴロゴロと転がりながら、全身で自由を表現している。
私もまた、重たいローブのフードを脱ぎ捨てた。風が髪を撫でていく。頬に当たる日差しが心地よい。町の中では、空気ですら「誰かのもの」のような気がして、息苦しかった。匂いも、視線も、感情も、密度が高すぎて窒息しそうだった。
でもここは違う。ここは誰のものでもない。私の『真実の眼』に見えるのは、草木の穏やかな緑色と、風の透明な青色だけ。嘘も、悪意も、打算もない世界。
「ふふ、あははは!」
ガブのはしゃぎっぷりを見ていたら、笑いが込み上げてきた。公爵令嬢としての品位も、旅のリーダーとしての責任感も、今はどうでもいい。私もリュックを下ろし、草の上に大の字になった。
背中に伝わる地面の硬さと冷たさ。昨夜のふかふかのベッドよりも、ずっと安心する感触だった。私はやっぱり、こっち側の人間になってしまったらしい。
「リゼも転がるのか?」
ガブが顔を覗き込んできた。泥だらけの顔で、ニカッと笑っている。
「ええ。気持ちいいわよ」
「だろ?人間はなんであんな箱の中に閉じこもるんだ。こっちの方がずっと広くて、綺麗なのに」
「そうね。守るためなのかもね。雨とか、風とか、敵から」
「ふん。俺がいれば、雨も風も平気だ。敵も追い払う」
彼は胸を張った。
その言葉に、私は起き上がり、改めて彼を見た。緑色の肌の小鬼。人間社会では「魔物」として忌み嫌われ、討伐される対象。でも、私にとっては、世界で一番信頼できるパートナー。
町での経験は、私に一つの確信を与えてくれた。私が帰るべき場所は、豪華な屋敷でも、安全な町でもない。この子がいて、私が私らしく息ができる場所。それこそが、今の私にとっての「家」なのだと。
「ガブ、お腹空いたわね」
「おう!飯にしよう!昨日の干し肉、炙るんだろ?」
「ええ。マッチがあるから、すぐに火がつくわよ」
私たちは小さな焚き火を起こした。パチパチと枯れ枝が燃える音。干し肉を炙ると、香ばしい匂いが漂ってくる。それは町で嗅いだミートパイの匂いよりも、ずっと野性的で、食欲をそそるものだった。
「いただきます」
熱々の干し肉をかじり、硬焼きパンを水で流し込む。粗末な食事だ。けれど口の中に広がる味は、どんな高級料理よりも美味しかった。「自由」という最高のスパイスがかかっているからかもしれない。
食べ終えると、私は地図を広げた。北へ。目指す場所はまだ遠い。次の町も、その次の村も、きっとまた大変な思いをするだろう。でも、もう怖くはなかった。
「行くぞ、リゼ」
ガブが立ち上がり、白い棍棒を肩に担いだ。
「ええ、行きましょう」
私は彼の手を取らず、隣に並んで歩き出した。手を繋がなくても、心は繋がっている。私たちは風を切って、北の山脈へと続く荒野を力強く進んでいった。




