EP15
43:酔っ払いとの遭遇
夜の帳が下りると、宿屋『旅人の止まり木亭』の1階食堂は、昼間とは全く異なる顔を見せ始めていた。安酒のツンとする匂い。脂っこい料理の湯気。そして、男たちの粗野な笑い声と怒号。それらが混然となって、ねっとりとした熱気を生み出している。
私は部屋の水瓶が空になったため、仕方なく水を汲みに階下へ降りていた。もちろん、ガブも一緒だ。彼はポンチョを目深に被り、私の影のように背後に張り付いている。階段を降りる際、彼が「うるさい」と小さく呟いたのが聞こえた。獣の聴覚には、この喧騒は拷問に近いのかもしれない。
「すぐに戻るからね」
私は小声で言い聞かせ、カウンターの主人に声をかけようとした。
その時だった。
「おっ、なんだ?別嬪さんがいるじゃねえか」
粘着質な声が、横合いから投げかけられた。背筋がゾクリとする。無視をして通り過ぎようとしたが、大きな影が私たちの行く手を塞いだ。
そこに立っていたのは、赤ら顔の巨漢だった。革鎧を着崩し、腰には大きな剣をぶら下げている。冒険者か、あるいは傭兵崩れだろうか。彼の手にはジョッキが握られており、そこから安っぽいエールがこぼれて床を濡らしていた。
「おいおい、無視すんなよ。俺は寂しいんだぜ」
男がニヤニヤと笑いながら近づいてくる。酒臭い息が、私の顔にかかる。
私は反射的に『真実の眼』で彼の心を見た。――汚い。思わず眉をひそめてしまうほど、濁った色だった。『欲情』のドロドロとしたピンク色。『支配欲』の黒ずんだ赤色。そして、自分より弱いものをいたぶりたいという『加虐心』の棘々しい黄色。理性のタガが外れた、欲望の塊のような色がそこにあった。
「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
私は努めて冷静な声を出し、視線を合わせずに脇を抜けようとした。関わってはいけない。こういう手合いは、反応すればするほど面白がって絡んでくる。
しかし、男は執拗だった。ドン、と壁に手をつき、私の退路を断ったのだ。いわゆる「壁ドン」だが、物語に出てくるようなロマンチックなものでは断じてない。ただの脅迫だ。
「つれないねえ。一杯くらい付き合えよ。俺は今日、デカい仕事を終えて金を持ってるんだ」
男はジャラジャラと小袋を鳴らした。
「いい宿へ移ろうぜ?こんなガキなんかほっといてさ」
男の視線が、私の背後にいるガブに向けられた。「ガキ」呼ばわりされたガブが、フードの下でピクリと反応したのが分かった。いけない。ガブが動いたら、正体がバレる。私はとっさにガブを庇うように立ち位置を変えた。
「弟です。病気なので、私が看ていないといけないんです。どいてください」
精一杯の拒絶を示したつもりだった。しかし男の笑顔は消えない。むしろ、獲物が抵抗するのを楽しむように、その目は爬虫類のように細められた。
「病気のガキなんて、放っとけば死ぬだろ。それより、俺を慰めてくれよ。なぁ?」
男の手が伸びてくる。太くて毛深い指先。爪の間には泥が詰まっている。その手が私の頬に触れようとした。
時間がスローモーションになる。『真実の眼』に映る男の心の色が、さらに濃く、毒々しく変色していく。『俺の言うことを聞け』『女は従うものだ』。その傲慢な思考が、灰色の霧となって私を取り囲む。
周囲の客たちは、見て見ぬふりをしている。「関わりたくない」「面倒ごとはごめんだ」。彼らの心の色は、冷淡な青色や、無関心の灰色で塗りつぶされていた。誰も助けてくれない。ここは法治国家の宿屋のはずなのに、実態は無法地帯と変わらない。
私は杖を握りしめた。魔法を使うか?ここで騒ぎを起こせば、衛兵が来るかもしれない。そうすれば、ガブの正体が露見するリスクが高まる。でも、このままでは――。
男の指先が私の髪に触れた。その瞬間、私の中のスイッチが入ってしまった。防衛本能のスイッチではない。もっと深く、暗い場所に封印していた、絶望の記憶のスイッチが。
44:リゼの震える手
指先が触れた感触は、熱した鉄を押し付けられたように不快だった。けれど、それ以上に私を凍りつかせたのは、男の目だった。
私を「人間」として見ていない目。ただの「消費財」、あるいは「玩具」として値踏みする目。
――『リゼ、お前は黙って笑っていればいい』父の声が脳裏に響く。――『君の意見なんて求めていないよ。君は僕の飾りなんだから』元婚約者の嘲笑が蘇る。
視界が明滅した。目の前の酔っ払いの顔が、父の顔と重なり、元婚約者の顔と重なり、歪んだ怪物の仮面に見えてくる。彼らは全員、同じ色をしている。私の意思など関係なく、土足で心に踏み込み、支配しようとする『強者』の色。
「あ……ぅ……」声が出ない。喉の奥がキュッと締まり、呼吸ができなくなる。払いのけなければいけないのに。「触るな」と叫んで、杖で叩きのめせばいいのに。
体が動かない。恐怖が鎖となって、手足を縛り付ける。「公爵令嬢」として刷り込まれた、「男には逆らえない」「力には屈するしかない」という呪いが、ここに来て私を金縛りにしていた。
震えが止まらない。杖を握る手が、カチカチと音を立てるほど激しく震えている。足の力が抜け、膝が笑い出す。
「おっ、どうした?震えてんのか?」
男は私の反応を見て、さらに嗜虐心を煽られたようだ。心の色に、どす黒い『優越感』が混ざる。
「可愛いねえ。怖がらなくていいんだぜ。おじさんが優しくしてやるからよ」
男の手が、私の肩を掴んだ。強い力。逃げられないという現実的な圧力。嫌だ。誰か助けて。いや、誰も助けてくれない。私は一人だ。家を捨てた時から、私はたった一人でこの荒野を生きていくと決めたんじゃないの?なのに、なんでこんなに無力なの?
涙が滲んで視界が歪む。自分の弱さが悔しい。情けない。森ではあんなに強くなれた気がしていたのに、人間の悪意を前にすると、私はまた「籠の中の無力な鳥」に戻ってしまう。
その時だった。私の背後で、空気が変わった。
今まで気配を消していた「弟」の存在感が、爆発的に膨れ上がったのだ。私の腰に回されていたガブの手。その手が、私の服をギュッと強く掴んだ。
『リゼ』声は聞こえない。でも、彼の手から伝わってくる熱が、私に語りかけていた。怒り。純粋で、真っ直ぐで、燃え盛るような怒り。それは私に向けられたものではない。私の震えを感知し、私を怯えさせた元凶に向けられた、明確な殺意に近い敵意。
私はハッとした。ガブがいる。私は一人じゃない。でも、だめ。ガブ、動かないで。今ここであなたが暴れたら、あなたの命が危ない。人間たちは寄ってたかって「魔物」を殺そうとするわ。私を守るために、あなたが傷つくのは嫌だ。
「やめ……」私は掠れた声で止めようとした。しかし、ガブの怒りはもう沸点を超えていた。
彼は「喋るな」「手を出すな」という私の言いつけを守ろうと必死に耐えていたはずだ。けれど、私が震え出し、涙を浮かべたこと。そして男が私に汚い手で触れたこと。それが、彼の理性の最後の一線を越えさせた。
ガブが一歩、前へ出た。私の体と、男の体の間に、小さな体を割り込ませる。
「ああん?なんだガキ。邪魔だ」
男が鬱陶しそうにガブの頭を掴もうとした、その瞬間。
ガブが顔を上げた。フードの奥深く、闇の中で、二つの黄色い瞳がギラリと怪しく輝いた。
45:ガブの威嚇
食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
いや、実際に温度が下がったわけではない。けれど、その場にいた誰もが、肌を刺すような冷気を感じて動きを止めた。本能的な恐怖。食物連鎖の頂点に立つ捕食者が、近くに潜んでいる時に感じるような、原初的な警鐘。
その発生源は、私の前に立つ小さな子供だった。
「…………」
ガブは言葉を発しなかった。「喋るな」という約束を、彼はまだ守っていた。その代わり、彼は音を出した。
グルルルルルル……。
それは、人間の喉からは絶対に出せない音だった。低く、重く、腹の底に響くような振動音。大型の肉食獣が、獲物の喉笛を噛み切る直前に漏らすような、死の宣告。
男の手が、空中で止まった。彼の酔いは、一瞬で醒めたようだった。赤ら顔が、サーッと青ざめていく。
私の『真実の眼』には、劇的な色の変化が見えた。男の心の中に渦巻いていた『欲情』や『傲慢』の汚い色が、瞬く間に塗り替えられていく。それは『恐怖』の蒼白。そして、『理解不能なものへの畏怖』の黒色。
男は本能で悟ったのだ。目の前にいるのは、ただの病気の子供ではない。もっと危険で、もっと凶暴な、自分を殺し得る「何か」だと。
ガブは一歩も引かなかった。フードの隙間から、チラリと白い牙が覗く。スカーフ越しでも分かる、殺気の密度。彼の全身から立ち昇るオーラは、森で遭遇した熊や大蛇よりも恐ろしく、そして研ぎ澄まされていた。
『俺のリゼに触るな』『その手を引っこ抜いて食ってやるぞ』
言葉はなくとも、その意思は明確に伝わってくる。男の足が、ズルリと後ずさった。ガタガタと膝が震えているのは、今度は私ではなく、男の方だった。
「ひっ……な、なんだ、こいつ」
男の声が裏返る。
「め、目が……獣みたいに」
男は腰の剣に手をかけようとしたが、指が震えて柄を掴めない。ガブがさらに一歩、踏み込む。カッ!と床板を強く踏み鳴らす音。
それだけで十分だった。男の戦意は完全にへし折られた。
「わ、わかった!悪かった!」
男は両手を上げて降参のポーズをとった。
「た、ただの冗談だ!本気にするなよ!」
男は逃げるように背を向け、自分の席へと戻っていった。いや、戻るふりをして、そのまま宿の出口へと駆け出していった。食堂には、静寂が残された。
周囲の客たちも、何が起きたのか完全には理解していないようだった。ただ、あの執拗な酔っ払いが、子供に睨まれただけで逃げ出したという事実に、呆気にとられている。
「ふぅー」
ガブが深く息を吐いた。彼の周りに漂っていた濃密な殺気が、霧散していく。彼はくるりと振り返り、私を見上げた。フードの奥の瞳は、もう猛獣のものではない。いつもの、私の相棒の瞳に戻っていた。
「リゼ、大丈夫か?」
彼が小声で囁いた。
「あいつ、逃げた。もう来ない」
私は力が抜けて、その場に座り込みそうになった。ガブが慌てて支えてくれる。その体は小さくて温かい。さっきの鬼気迫る姿が嘘のようだ。
「ありがとう、ガブ」
私は震える手で、彼のフードの上から頭を撫でた。
「助かったわ。でも、怖かった」「俺も怖かった」
ガブが意外なことを言った。
「あいつがリゼを傷つけるかと思って、怖かった。だから、追い払った」
ああそうか。彼の怒りの根源は、やはり「私を守りたい」という恐怖だったのだ。自分の身の危険など顧みず、ただ私のために牙を剥いてくれた。その事実が、私の心の凍りついた部分を溶かしていく。
宿の主人が、遅れてカウンターから出てきた。
「おいおい、大丈夫かお嬢ちゃん。あいつは常習犯でね……出禁にしてやろうと思ってたんだが」
主人はガブをちらりと見た。
「弟くん、肝が据わってるな。将来は大物になるぜ」
主人はガブの正体に気づいていない。ただの「姉思いの強い少年」だと思っているようだ。ガブの威嚇は、人間としての範疇ギリギリで、魔物であることを隠し通したのだ。
「ええ……自慢の弟です」
私は心からの言葉を口にした。
「さあ、部屋に戻りましょう。水は汲んだわ」
私はガブの手をしっかりと握った。もう震えは止まっていた。この手が繋がれている限り、私はもう、どんな過去の亡霊にも負けない。私たちは視線を集める食堂を背に、胸を張って階段を上がっていった。




