EP14
40:ガブ、床で寝る
深夜、私はふと目を覚ました。窓の隙間から差し込む青白い月光が、部屋の中の埃を照らしている。宿屋の周辺は静まり返り、時折、遠くで酔っ払いの叫び声や、野良犬の鳴き声が聞こえるだけだ。
私はふかふかのベッドの上にいた。体は沈み込むように柔らかい布団に包まれている。背中も痛くない。寒くもない。公爵家にいた頃は当たり前だった、文明的な寝心地。それなのに、なぜか熟睡できなかった。心臓のどこかが、ちりちりと警報を鳴らし続けているような感覚がある。
私は上体を起こし、部屋の入り口を見た。そこには、焦げ茶色のポンチョを被ったままの小さな塊が転がっていた。ガブだ。彼はドアの真ん前に、まるで忠実な番犬のように体を丸めて眠っていた。
「ガブ」
小声で呼んでみる。ピクリ、と彼の耳が動いた気がした。彼は眠っているようでいて、完全に意識を落としてはいないのだ。ドアノブが少しでも回れば、あるいは廊下を歩く足音が近づけば、瞬時に飛び起きて牙を剥く準備ができている。
その姿を見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。私は安全なベッドでぬくぬくと寝ているのに、彼は冷たくて硬い床の上で、私のために警戒を続けている。
「それが落ち着くから」
と彼は言ったけれど、本当にそうだろうか。彼だって、安心して泥のように眠りたいはずだ。
私はシーツを握りしめた。このベッドは快適だ。でも広すぎる。森の洞窟や、狭いテントの中で、互いの体温を感じながら眠っていた夜の方が、ずっと深く、安らかに眠れていた気がする。ここには「物理的な距離」がある。その距離が、私を不安にさせているのだ。
――ガサッ。私は布団を跳ね除け、ベッドから降りた。冷たい板張りの床に裸足をつける。枕と毛布を抱えて、ガブの方へと歩み寄った。
彼のすぐ隣、ドアの隙間風が少し入ってくる場所に、毛布を敷く。私がごそごそと動いていると、ガブが薄目を開けた。暗闇の中で、黄色い瞳がぼんやりと光る。
「リゼ?どうした?敵か?」
彼は寝ぼけた声で、しかし警戒の色を帯びて上半身を起こした。
「ううん、違うわ。敵じゃない」
私は彼の隣に座り込み、枕を置いた。
「ただ……ベッドが柔らかすぎて、落ち着かないの」
「ふうん?人間は柔らかいのが好きなんだろ?」
「そうね。でも今の私は、ちょっと野生化しちゃったみたい」
私が苦笑すると、ガブは不思議そうに首をかしげ、それからニカッと笑った。
「変なリゼ。せっかく雲の上で寝れるのに」
「いいの。ここがいいの」
私は毛布にくるまり、彼の隣に横になった。床は硬い。板の継ぎ目が背中に当たる。でも、すぐ隣にガブがいる。彼から漂う土の匂いと、微かな獣の匂い。そして、トクトクと脈打つ生命の音。それが何よりの安定剤だった。
「リゼが横にいると、俺も安心する」
ガブがぽつりと言った。
「背中、預けられるから」「そう。じゃあ、お互い様ね」
ガブは私の背中に、自分の背中をぴったりとくっつけてきた。小さな背中だ。でも、鋼のように頼もしい背中だ。彼の体温が、薄い布越しに伝わってくる。私の『真実の眼』は、閉じているけれど、心では感じていた。彼の魂の色が、警戒の尖った赤色から、安らぎの深い緑色へと変わっていくのを。私たちはドアの前で、小さく固まって眠った。もし誰かが入ってこようとしたら、二人で飛び起きて撃退するだろう。
ここは敵地だ。人間社会という名の、森よりも危険なジャングルだ。だからこそ、私たちは片時も離れてはいけないのだ。
硬い床の感触が、今は心地よかった。私はガブの寝息のリズムに合わせて呼吸を整え、今度こそ深い眠りの底へと落ちていった。夢は見なかった。ただ、温かい闇が私を守ってくれていた。
41:市場の匂い
翌朝、私たちは早起きをして宿を出た。宿の主人は、廊下の床で雑魚寝をして起きてきた私たちを見て怪訝な顔をしたが、「ベッドメイキングの手間が省けた」と特に文句は言わなかった。
朝の町は、活気に満ちていた。昨日よりも早い時間帯、広場では「朝市」が開かれていた。近隣の農家が野菜を並べ、漁師が川魚を運び込み、パン屋が焼きたての香りを撒き散らしている。
「うっ」
市場に足を踏み入れた瞬間、ガブが顔をしかめて鼻を押さえた。フードとスカーフで顔を隠してはいるが、その隙間から入ってくる「情報」に圧倒されているようだ。
「どうしたの、ガブ。気分が悪い?」
私が小声で尋ねると、彼は唸るように答えた。
「匂いが、うるさい」「うるさい?」「ああ。いい匂いと、腐った匂いと、汗の匂いと、なんか薬みたいな匂いが、全部混ざって殴りかかってくる」
なるほど。森の匂いは、土、草、雨、獣と、一つ一つが明確で、風に乗って順番にやってくる。けれど、人間の市場はカオスだ。新鮮な果物の甘い香りの隣で、生臭い魚の内臓が処理され、その向こうでは香辛料のスパイシーな香りが漂い、さらに人々の体臭や香水の匂いが混ざり合う。嗅覚の鋭いガブにとっては、それは悪臭の爆弾の中に放り込まれたようなものなのだろう。
「我慢して。必要なものを買ったらすぐに出るから」
私は彼の手を引き、人混みをかき分けて進んだ。
私の視界もまた、別の意味で「うるさかった」。『真実の眼』に映る人々の心の色。『これを売りつけたい』という商魂のオレンジ色。『安く買いたい』という強欲の茶色。『今日の晩御飯はどうしよう』という日常の淡い黄色。それらが極彩色のマーブル模様となって視界を埋め尽くす。
目が回りそうだ。でも、この能力は役に立つ。私は一人の行商人に目をつけた。乾物や保存食を扱っている屋台の男だ。彼の心の色は、澄んだ青色をしていた。『誠実』と『誇り』の色だ。商品を誤魔化したり、客を騙したりする気配がない。
「すみません。干し肉と、ドライフルーツ、あと硬焼きパンをありったけください」
私が声をかけると、男は人の良さそうな笑顔を見せた。
「へい、毎度あり。旅かい?なら、この木の実もどうだ?腹持ちがいいし、ビタミンも取れるよ」「それもいただきます」
私は安心して買い物ができた。ふと横を見ると、ガブが屋台の隅にある壺をじっと見つめていた。中には、塩漬けにされた何かの肉が入っている。
「これ、死んでから随分経ってる匂いがする」
ガブがボソッと言った。店主が笑う。
「おっ、弟くんは鼻が利くな。こいつは三ヶ月漬け込んだ猪肉だ。熟成されて旨味がすごいぞ」
ガブは信じられないものを見る目で店主を見た。
「腐りかけを食うのか?人間はハイエナの仲間か?」「しっ!ガブ、失礼なこと言わないの!」
私は慌てて彼の口(スカーフの上からだが)を押さえた。幸い、店主は「ハハハ、面白い冗談だ」と笑い飛ばしてくれたが、冷や汗ものだ。
保存食という概念は、その日暮らしの狩猟生活を送るゴブリンには理解しがたいものなのだろう。彼らにとっての「食べ物」とは、今そこで動いている獲物か、今日採れた新鮮な木の実だけだ。「時間を止めて保存する」という行為は、彼らにとっては自然の摂理に反する「死体遊び」に見えるのかもしれない。
「さあ、行くわよ」
買い物を済ませ、私は足早にその場を離れた。市場の奥へ進むにつれ、匂いのカオスはさらに深まる。香水売りの露店から漂う強烈なムスクの香りに、ガブが「くさっ!鼻が曲がる!」と本気でえずきそうになった。
「リゼ、早く出よう。ここは鼻が馬鹿になる」「ええ、そうね。もう十分よ」
私たちは逃げるように市場を抜けた。路地裏に入り、ようやく新鮮な空気を吸い込む。ガブはゼーゼーと肩で息をしていた。
「恐ろしい場所だ。森の毒沼の方がまだマシな匂いがする」「ごめんね。でも、これでしばらくの食料は確保できたわ」
リュックはずっしりと重くなっていた。それは安心の重さでもあったが、同時に、この複雑怪奇な人間社会への依存の重さでもあった。私たちはまだ、完全に自立できていない。その事実を噛み締めながら、私たちは次の目的地を探した。
42:人間の食べ物、ガブの評価
昼時になり、私たちは町外れの川沿いのベンチで休憩をとることにした。人通りは少なく、ここならガブが少しマスクを外して食事をしても目立たない。
今日の昼食は、さっき市場で買った「人間の食べ物」だ。私は包みを開けた。中身は、具沢山のミートパイと、白いパン。まだほんのりと温かい。
「はい、ガブ。これ食べてみて」
私はミートパイを半分に割って彼に渡した。ガブは怪訝そうにそれを受け取り、クンクンと匂いを嗅いだ。
「小麦と、バターと、肉の匂い。あと、よくわからん草の匂い」「香草よ。臭みを消すためのね」
彼は一口、恐る恐るかじりついた。サクッ、というパイ生地の音。彼はモグモグと咀嚼し、しばらく考え込んでから、ゴクリと飲み込んだ。
「どう?」
感想を聞くと、彼は微妙な顔をした。
「柔らかい」「美味しくない?」「うーん……不味くはない。甘いし、脂もある。でも、なんか『死んでる』感じがする」
独特な表現だ。
「死んでる?」「ああ。肉の味がするけど、血の味がしない。命の味がしない。口の中で勝手に溶けて、噛まなくていい。これは『餌』だ。戦って食う『獲物』じゃない」
ガブは残りのパイをじっと見つめた。彼にとって食事とは、命のやり取りの延長線上にある神聖な行為なのだ。獲物の体温、飛び散る血、噛み切る時の筋肉の弾力。それら全てを含めて「食べる」ということ。加工され、味付けされ、柔らかく調理されたこのパイは、彼にとっては栄養補給のためのペーストのようなものに見えるのかもしれない。
「人間はね、こうやって食べることを楽しむのよ。味を重ねたり、形を変えたりして」
私が説明すると、彼は白いパンを手に取った。
「じゃあ、この白いスポンジは?」「パンよ。麦を粉にして焼いたの」
彼はパンをちぎって口に入れた。
「味がない。空気食ってるみたいだ」「よく噛んでごらん。甘みが出てくるから」
彼は言われた通りに噛み続けたが、やがて首を振った。
「やっぱり、つまらん。腹は膨れるけど、魂が膨れない」
魂が膨れない。その言葉は、妙に私の胸に刺さった。貴族の食事もそうだった。見た目は美しく、洗練されていたけれど、そこには「生きる」という生々しい実感はなかった。作法に従い、音を立てずに、綺麗に食べるだけの儀式。
森でガブが焼いてくれた、あの焦げたウサギ肉。塩もかかっていなかったけれど、噛み締めるたびに野生のエネルギーが体に満ちていくような感覚があった。あれこそが、本当の意味での「食事」だったのかもしれない。
「でも、リゼがこれを好きなら、俺も食う」
ガブは私の顔色を窺うように言って、残りのパイを口に放り込んだ。
「旅をするには力が要る。これ食って、リゼを守る力にする」
彼は不満を言いながらも、出されたものを粗末にはしなかった。与えられたエネルギーは無駄にしない。それもまた、野生の掟だ。
「ありがとう。でも今夜は、市場で買った干し肉を炙って食べましょうか。少しは『命』の味がするかも」
私が提案すると、ガブの顔がパッと輝いた。
「おお!炙るのか!俺、火を起こすの得意だぞ!」
「ふふ、宿の中で焚き火はだめよ。暖炉を使いましょう」
私たちは川面を眺めながら、残りのパンを食べた。不味くはない。確かに文明の味だ。けれどガブの言う通り、どこか物足りなさを感じるようになってしまった自分に気づいて、私は苦笑した。私もどうやら、半分くらいはゴブリン化してしまったのかもしれない。川風が吹いて、ガブのスカーフを揺らした。彼が急に空を見上げた。
「リゼ、雨が来るぞ」「え?こんなに晴れてるのに?」「風の匂いが変わった。湿った土の匂いがする」
彼の予報は、王都の気象学者よりも正確だ。私たちは残りの食事を急いで詰め込み、宿へと戻ることにした。文明の利器と、野生の感性。その二つを組み合わせれば、私たちの旅はもっと豊かになるはずだ。私はガブの背中を見ながら、そんなことを考えていた。




