EP13
37:関所越えの緊張
村での買い出しを終えた私たちは、早々に立ち去るつもりだった。しかし北へと抜ける街道には、どうしても避けられない障害があった。それが「関所」だ。
王国の辺境警備のために設けられたその関所は、石造りの強固な門と、木の柵で道を塞いでいた。ここを通らなければ、再び道なき荒野や険しい山岳地帯を迂回することになり、数日のロスになる。食料事情を考えれば、ここを堂々と通過するのが最短かつ最良のルートだった。
列ができている。行商人、旅人、冒険者風の男たち。私たちはその最後尾に並んだ。
「ガブ、いい?絶対に喋らないで。動かないで。咳払いもしないで」
私は小声で、私の背中にぴったりと張り付いている「弟(という設定のゴブリン)」に念を押した。
「ん……わかった。息はしていいか?」「息はしていいけど、静かにね。ため息も禁止よ」
ガブは分厚いフードの下でコクンと頷いた。彼は私の緊張を感じ取っているのか、いつになく大人しい。私の影のように気配を殺している。さすがは森の狩人だ。隠れることにかけては天才的だ。
列が少しずつ進む。私の心臓は、一歩進むごとに早鐘を打っていた。もしバレたら?関所の兵士たちは村の自警団とは違う。正規の訓練を受けた屈強な男たちだ。腰には剣を帯び、手には槍を持っている。魔物を見逃すはずがない。見つかれば即座に斬り捨てられるだろう。
(大丈夫。今のガブは、ただの小柄な人間にしか見えない。変装は完璧だわ)
自分に言い聞かせる。私の『真実の眼』は、前方の兵士たちを観察していた。兵士は二人。一人は中年の男で、だるそうにあくびをしている。彼の心の色は『退屈』の薄い灰色。もう一人は若い男で、真面目そうな顔で書類をチェックしている。彼の色は『義務感』の青色と、少しの『苛立ち』の赤色。
厄介なのは若い方だ。真面目な人間ほど、規則にうるさい。私は深呼吸をして、顔に「健気な姉」の仮面を貼り付けた。
私たちの番が来た。「次。身分証を」若い兵士が事務的に言った。
「旅の者です。身分証はありません」
私は通行税の銀貨(なけなしの残金だ)を差し出しながら、伏し目がちに言った。
「戦火を逃れて、北の親戚を頼りに行く途中なのです」
兵士は銀貨を受け取ると、訝しげに私を見た。そして、私の背後にいるガブに視線を移した。
「後ろの連れは?随分と厚着だな。今日は日差しが強いぞ」
ドキリとした。ガブのポンチョとスカーフは、確かにこの天気では不自然だ。
「弟です。重い病気を患っておりまして。日光に当たると皮膚がただれてしまうのです」
私はすらすらと嘘をついた。口から灰色の煙が出るのが見える。兵士にも見えているはずがないのに、視線が痛い。
「病気か。顔を見せろ」
兵士が無慈悲に言った。
「人相書きの手配犯かもしれん。確認が必要だ」
血の気が引いた。顔を見せれば、緑色の肌と黄色い目、そして鋭い牙が露見する。終わりだ。ガブの体が硬直するのが分かった。彼の手が、ポンチョの下で棍棒を握りしめている気配がする。だめ。暴れたら殺される。
「あ、あの!本当にお見せできないんです!」
私は兵士の前に立ちはだかった。
「弟の顔は病で崩れていて、見ると呪われるという迷信があるくらいで……お役人様にそんな不快な思いをさせるわけには……」
私は必死に訴えた。しかし、若い兵士は眉をひそめただけだった。
「規則だ。どけ」
彼は私の肩を押し退け、ガブのフードに手を伸ばした。
万事休す。私は杖を握りしめた。やるしかないのか。閃光で目くらましをして、強行突破するか。でも、逃げ切れる?
その時だった。
「おいおい、よせよ」
後ろにいた中年の兵士が、若手の手を止めた。
「見ろよ、この姉ちゃんの必死な顔。嘘ついてる目じゃないぜ」
え?私は驚いて中年兵士を見た。彼の色は『面倒くさい』の灰色と、ほんの少しの『同情』の薄いピンク色が混ざっていた。
「それに、そんな業病持ちの顔なんか見て、飯が不味くなったらどうすんだ。俺は御免だぞ」「ですが」「銀貨はちゃんと払ったんだ。子供二人通すくらい、いいだろうが」
中年兵士は、単に確認作業が面倒なだけだったのかもしれない。あるいは、病気が自分にうつるのを恐れたのか。どちらにせよ、彼の適当さが私たちを救った。
若い兵士は渋々手を引っ込めた。
「チッ。分かった。さっさと行け」
助かった。私は膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!神のご加護がありますように!」
私はガブの手を引き、逃げるように関所を通り抜けた。門をくぐり、兵士たちの視線が見えなくなるまで、ひたすら歩いた。街道のカーブを曲がり、大きな岩陰に入ったところで、私はついにへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……怖かった……」
心臓が破裂しそうだ。手足の震えが止まらない。ガブが心配そうに私を見下ろしている。
「リゼ、大丈夫か?あいつ、斬ろうかと思った」「馬鹿ね……斬らなくてよかったわよ……本当に……」
私はガブのポンチョにしがみついた。獣の匂いと、土の匂い。その慣れ親しんだ匂いを嗅いで、ようやく生きた心地が戻ってきた。私たちは人間社会の壁を越えた。けれど、その壁の高さと冷たさは、私の心に深く刻み込まれたのだった。
38:嘘と愛想笑い
関所を越えてしばらく進むと、日が暮れ始めた。街道沿いには、関所を通過した旅人たちが宿をとるための「宿場町」があった。村よりも少し規模が大きく、二階建ての建物や、看板を出した店が並んでいる。
私たちは今夜、ここで宿を取ることにしていた。野宿も考えたが、私の精神的な疲労が限界に達していたし、ガブも変装の緊張でかなり消耗していたからだ。たまには屋根の下で、泥のない床で眠りたかった。
私たちは一軒の古びた宿屋に入った。『旅人の止まり木亭』という看板が出ている。高級店ではないが、安宿すぎもしない、目立たない宿だ。
カランカラン、とドアベルが鳴る。ロビー兼食堂には、数組の客がいた。酒を飲む冒険者、商談をする商人。一斉に視線が集まる。私はフードを深く被り、ガブを背後に隠しながらカウンターへと向かった。
「いらっしゃい。宿泊かい?」
宿の主人は、赤ら顔の恰幅の良い男だった。私は口角を上げ、練習した通りの「愛想笑い」を浮かべた。
「ええ。二人です。静かな部屋をお願いできますか?」
私の『真実の眼』には、主人の心の色が見える。『客が来た、金になる』という黄土色。『子供か、面倒は起こさないだろう』という安心の緑色。悪意はない。ビジネスライクな感情だ。私はホッとしたが、それでも笑顔を保つのは苦痛だった。
「一泊、食事なしで銀貨5枚だ」「4枚になりませんか?私たち、あまりお金がなくて……その代わり、お掃除でも何でも手伝いますから」
私はさらに嘘を重ねる。本当は掃除なんてしたくないし、早く部屋に引きこもりたい。でも、困窮しているふりをした方が警戒されないし、同情を買える。
主人は苦笑した。
「嬢ちゃん、可愛い顔して値切るねえ。まあいい、4枚でいいよ。その代わり、水は自分で汲んでくれ」「ありがとうございます!助かります!」
私は満面の笑みでお礼を言い、鍵を受け取った。階段を上がり、一番奥の部屋に入る。ドアを閉め、鍵をかけた瞬間。
私は泥のように崩れ落ちた。
「疲れた……」
顔の筋肉が強張って痛い。胃が重い。たった数分の会話。たった数回の笑顔。それだけのことが、どうしてこんなに魂を削るのだろう。
「リゼ、顔が変だ」
ガブがポンチョを脱ぎ捨て、心配そうに近づいてきた。
「さっき、笑ってたのに、色は泣いてた。灰色だった」
彼は鋭い。私の「愛想笑い」の裏にある疲弊を、色として見抜いている。
「そうね。笑ってたけど、楽しくなかったの」
私は床に座り込んだまま答えた。
「あれは『鎧』なのよ、ガブ。人間に攻撃されないための防御魔法みたいなもの」
「防御?」
「そう。笑顔を見せれば、相手は油断する。弱く見せれば、同情してくれる。そうやって嘘をついて、自分を守るの」
説明しながら、自分がひどく汚い人間に思えてきた。私は嘘が嫌いだったはずだ。父や母の嘘を軽蔑して、家を飛び出したはずだ。それなのに今、私は生きるために息をするように嘘をついている。関所の兵士に、宿の主人に。私は彼らと同じ、「嘘つきの大人」になりつつあるのだろうか。
自己嫌悪で俯いていると、ガブが私の頭を撫でた。ゴツゴツした、不器用な手つき。
「リゼは、強いな」「え?」「俺は、嫌な奴には牙を見せる。逃げる。でも、リゼは笑って戦う。我慢して戦う。すごい」
彼は真剣な顔で言った。私の卑屈な処世術を、彼は「戦い」だと評価してくれた。嘘をつくことを責めるのではなく、嘘をついてまで何かを守ろうとする姿勢を、彼は肯定してくれたのだ。
「ガブ」
目頭が熱くなる。
「ありがとう。でも、強くなんかないわ。本当は怖くて仕方ないの」「知ってる。リゼはビビリだ。だから、俺がついてる」
彼はニカッと笑った。その笑顔には、裏も表もない。100%純粋な、混じりっけなしの笑顔。それを見た瞬間、私の強張っていた頬の筋肉が、ふっと緩んだ。今度は無理やり作った笑顔じゃない。自然と溢れた笑みが、私の顔に戻ってきた。
「そうね。あなたがいてくれれば、どんな嘘つきの世界でも、私は本当の私でいられる気がする」
私は立ち上がった。重かった体が、少し軽くなっていた。私たちは部屋を見渡した。狭くて、少しカビ臭いけれど、私たちだけの城だ。
39:宿屋のふかふかベッド
部屋には、古びた木製のベッドが一台と、小さなテーブル、そして窓際に置かれた水瓶があった。質素な安宿の部屋だ。しかし、ガブにとっては未知のワンダーランドだったようだ。
彼はまず、床板の感触を確かめるようにペタペタと歩き回り、壁をコンコンと叩き、窓から外を覗いて「高い!」と驚いた。そして、部屋の中央に鎮座するベッドの前で立ち止まった。
「リゼ、これなんだ?白い台?」
彼はベッドを指差した。シーツは少し黄ばんでいるが、一応洗濯はされているようだ。中には藁か、あるいは安い鳥の羽根が詰まっているのだろう。
「これはベッドよ。人間が寝るための場所」「ここで寝るのか?地面から離れてるぞ。落ちたらどうするんだ」「落ちないわよ。それに、すごく柔らかいの」
私はベッドの端に腰掛けた。ギシッ、とスプリング(というより木の枠)が軋む音がしたが、お尻の下の感触は、森の硬い地面とは比べ物にならないほど優しかった。ああ、久しぶりの文明の感触。背中の痛みが溶けていくようだ。
「ガブも来てみて。気持ちいいわよ」
私が手招きすると、ガブは恐る恐る近づいてきた。彼は白い棍棒でマットレスをツンツンと突いた。ポフッ、と少し沈む。
「柔らかい。泥沼みたいだ。食われないか?」「食われないってば。ほら、乗ってごらん」
ガブは意を決して、ベッドによじ登った。彼が膝をついた瞬間、ズブッと体が沈み込んだ。
「うおっ!?」
彼はバランスを崩し、そのままシーツの上にダイブした。
ポフン。柔らかい詰め物が彼の体を受け止める。彼は目を白黒させ、それから手足をバタつかせた。
「沈む!リゼ、これ沈むぞ!ふわふわだ!」「ふふ、でしょう?」
私は靴を脱いで、彼の隣にごろんと横になった。天井のシミが見える。隣ではガブが、トランポリンのように小さく跳ねたり、枕に顔を埋めて匂いを嗅いだりして大はしゃぎしている。
「これ、すごい!雲の上みたいだ!俺、ここで寝ていいのか?」「ええ。今日はここで二人で寝ましょう」
ガブは歓声を上げて、布団の中に潜り込んだ。
「あったかい!洞窟よりあったかい!」
彼の興奮した声を聞いていると、旅の疲れが心地よい気だるさに変わっていく。でもしばらくすると、ガブが布団から顔を出した。
「リゼ」「なぁに?」「これ、柔らかすぎて、背中がムズムズする」「慣れない?」「うん。なんか、落ち着かない。地面の硬さが恋しい」
野生児の彼には、文明の利器は少々刺激が強すぎたらしい。彼はベッドから這い出し、結局床の上に自分のポンチョを敷いて、その上に丸まった。
「俺はこっちがいい。入り口も見張れるし、すぐに動ける」
彼はそう言って、安心したように目を閉じた。ベッドという極上の寝床を与えられても、自分のスタイルを貫く。それもまた彼らしい。
「そう。じゃあ、ベッドは私が独り占めね」
私は広々と手足を伸ばした。柔らかい布団に包まれる幸福感。でも視界の端に、床で寝ている小さな緑色の背中が見える。その背中があることが、何よりもこの部屋を「安全な場所」にしていた。
宿屋の夜は静かだった。森のような獣の気配も、不気味な物音もしない。壁一枚隔てた向こうには、たくさんの人間がいる。嘘と欲望が渦巻く世界がある。けれど、この鍵のかかった部屋の中だけは、森の中と同じ「嘘のない」空間だった。
「おやすみ、ガブ」「ん、おやすみ、リゼ」
私は目を閉じた。ふかふかのベッドよりも、床で寝ている相棒の寝息の方が、私にとっては最高の子守唄だった。明日はまた、厳しい旅が待っている。でも今夜だけは、このささやかな贅沢に身を委ねよう。私は深い、泥のような眠りへと落ちていった。




