EP12
34:フードを目深に
村の大通りは、想像していたよりもずっと騒がしかった。人口三十人ほどの小さな集落だと思っていたけれど、どうやら今日は「市」が立つ日だったらしい。近隣の村や、街道を行き交う旅人たちが集まり、狭い通りは人々と荷車でごった返していた。
喧騒。砂埃。そして、圧倒的な「人間の匂い」。汗と、油と、安い酒と、家畜のフンが混じり合った独特の熱気。森の清浄な空気に慣れきっていた私の鼻は、その強烈な刺激に拒否反応を示してむず痒くなった。
「ガブ、私の背中から離れないで」
私は小声で、背後に張り付いている相棒に囁いた。「わかってる。人間、多い。ごちゃごちゃしてる」ポンチョを目深に被ったガブが、不快そうに唸る。
私たちは、できるだけ目立たないように道の端を選んで歩いた。私は厚手のローブのフードを限界まで深く被り、顔の半分を隠している。ガブもまた、ミノムシのような姿でうつむき加減に歩いている。はたから見れば、怪しい二人組だろう。けれど、この雑踏の中では、私たちのような薄汚れた旅人は珍しくないようだった。誰も私たちを気にも留めない。
――いや、違う。「気にしていない」のではない。「関わりたくない」のだ。
私の『真実の眼』には、通りすがる人々の心の色が、洪水のようになだれ込んでくる。ぶつかってきた男の『苛立ち』の赤黒いトゲ。路地裏で商談をしている商人たちの『打算』の濁った黄色。井戸端会議をしている女たちの『噂話』を楽しむ粘着質な紫色。
色が多すぎる。森では木々の緑や、ガブの純粋な心の色だけを見ていればよかった。けれどここは、欲望と感情の坩堝だ。視界の端から端まで、嘘と本音が入り混じった色彩が渦巻いていて、目が回りそうだ。頭痛がしてくる。
「うっ……」
私は思わずこめかみを押さえて立ち止まった。情報過多で、脳がパンクしそうになる。人の視線が怖い。誰かが私を見ている気がする。あの太った商人が、私のローブの下の杖に気づいたのではないか?あの衛兵が、ガブの歩き方の違和感に気づいたのではないか?
被害妄想だと分かっていても、心臓の早鐘が止まらない。呼吸が浅くなる。逃げ出したい。今すぐ、静かな森へ帰りたい。
グイッ。その時、ローブの裾を強く引っ張られた。
「リゼ、こっち」
ガブの声だ。彼は私の手を引き、人通りの少ない路地の陰へと誘導した。建物の陰に入ると、喧騒が少しだけ遠のいた。
「リゼ、顔色が悪い。森のキノコみたいな色だ」
ガブが心配そうにフードの奥から覗き込んでくる。その黄色い瞳を見た瞬間、私はふっと息が吸えるようになった。
彼の周りだけ、空気が澄んでいる。彼から発せられる色は、いつだってシンプルだ。今は『心配』の淡い水色と、『守らなきゃ』という意志の金色だけ。周囲のドロドロとした色彩の中で、彼だけが清流のように美しかった。
「ごめん、ガブ。ちょっと、人が多すぎて酔っちゃったみたい」「人間、うるさい。匂いも変だ。早く用事済ませて、出よう」
ガブもまた、この環境にストレスを感じているようだった。野生動物である彼にとって、この人混みは檻の中に閉じ込められたようなものだろう。それなのに、彼は文句も言わず、パニックになりかけた私を気遣ってくれている。
私がしっかりしなくてどうするの。リーダーは私だ。交渉ができるのも、人間のルールを知っているのも私だけなのだから。
「そうね。ありがとう、落ち着いたわ」
私は深呼吸をして、自分の頬をパンと叩いた。『眼』の焦点を、あまり周囲の人々に合わせないように意識する。ぼんやりと全体を見るのではなく、必要な情報だけを拾うようにコントロールするのだ。
「まずは服を買うわ。この格好じゃ、いかにも『森から出てきました』って感じで目立ちすぎる」
私は自分の泥だらけのローブと、ガブの継ぎ接ぎだらけのポンチョを見た。
「商人のふりをするための衣装を揃えましょう」
「変装か。わかった。でも、高いのはだめだぞ。金、あんまりないんだろ?」
ガブが鋭い指摘をする。私の財布の中身は、さっきの通行税でさらに軽くなっている。残りの銀貨と銅貨を計算すると、贅沢は絶対にできない。
「ええ、分かってる。古着屋を探すわ。安くて、それっぽく見えるやつをね」
私は再びフードを目深に被り直した。今度は、恐怖から隠れるためではない。獲物を狙う狩人のように、必要なものを安く手に入れるための戦闘態勢だ。
「行くわよ、ガブ」
私は路地を出て、再び喧騒の中へと足を踏み入れた。背中には、頼もしい相棒の気配。彼がいる限り、この濁流のような人混みにも流されずにいられる気がした。
35:変装、旅の商人風
私たちは、裏通りにある一軒の古着屋を見つけた。軒先に吊るされた服はどれも色褪せ、ほつれが目立つが、今の私たちにはむしろ好都合だ。ピカピカの新品を着ていたら、かえって怪しまれるだろう。
店番をしていたのは、腰の曲がった老婆だった。彼女は私たちを一瞥すると、興味なさそうにパイプを吹かした。『真実の眼』で見ると、彼女の心は『退屈』の灰色と、『面倒くさい』という薄い青色。悪意はない。ただの無気力な商売人だ。これなら安心だ。
「いらっしゃい。何をお探しだい」
老婆がしわがれた声で言った。私はできるだけ愛想良く、かつ慣れた口調を装って答えた。
「旅をしている者です。道中で服が傷んでしまって。丈夫で、目立たない服を探しています」
私は店内を物色し始めた。狙うのは、行商人や下級の職人が着るような、実用性重視の服だ。まずは私用。貴族令嬢時代に着ていたようなレースやフリルのついたドレスは論外だ。選んだのは、麻のシャツと、厚手の木綿のチュニック、そして足首まである濃紺のズボン。スカートは動きにくいし、森の中では邪魔になる。ズボンの方が断然いい。
「お嬢ちゃん、随分と思い切りがいいね。女を捨てて商売に生きるクチかい?」
老婆がニヤリと笑った。
「ええ、まあ。生きるためには形振り構っていられませんから」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
次はガブの分だ。これが難問だった。彼の体格は小柄な大人くらいだが、手足が長く、何より緑色の肌を隠さなければならない。手袋と、顔を隠せるものが必須だ。
私は店の奥から、厚手の革手袋と、首元まで隠れるようなフード付きの外套、そして口元を覆うための長いスカーフを掘り出した。
「ガブ、これ着てみて」
私は試着室代わりの布の裏に彼を押し込んだ。ガサゴソと音がして、しばらくしてガブが出てきた。
その姿を見て、私は思わず「おっ」と声を上げた。意外と様になっている。ダボッとした服が彼の特異な体型を隠し、首に巻いたスカーフと目深に被ったフードが、顔のほとんどを闇に沈めている。手には分厚い作業用手袋。これなら、肌の色は全く見えない。ただの「怪しげな流れの商人」か「無口な護衛」に見える。
「息苦しい。暑い。皮膚が呼吸できない」
ガブはスカーフの隙間から不満を漏らした。
「我慢して。でもかっこいいわよ。凄腕の暗殺者みたい」「アンサツシャ?強いのか?」「ええ、とっても強くて、謎めいてて、誰も近づかない存在よ」
「強い」という言葉に、ガブは単純に反応した。彼は鏡(といっても、磨いた銅板だが)の前でポーズを取り始めた。
「ふん。悪くないかもな」
よし、乗せられた。チョロい相棒で助かる。
会計の段になり、私は老婆と交渉に入った。
「全部で銀貨3枚だね」「3枚?お婆さん、このシャツ、ここに穴が開いてるわよ。それに手袋も片方色褪せてる」
私は服の欠陥を次々と指摘した。貴族時代、ドレスの仕立てにはうるさかったのだ。生地の質や縫製を見る目は肥えている。
「む……鋭いね、お嬢ちゃん」「銀貨1枚と、銅貨50枚。これならどう?」「ちっ、分かったよ。持ってきな」
交渉成立。私は安堵のため息をつきながら、硬貨を支払った。店を出ると、外の空気は少しだけ冷たくなっていた。新しい服(といっても古着だが)は、ゴワゴワして着心地は良くない。洗剤の匂いではなく、前の持ち主の生活臭と防虫剤の匂いがする。けれど、この「みすぼらしさ」こそが、今の私たちを守る最強の鎧だった。
「どう?ガブ。歩きにくい?」「まあまあだ。でも、靴は前のやつがいい。これ、硬い」
彼は足元だけは、いつもの自作の革ブーツを履いていた。
「そうね。さあ、これで準備は整ったわ。次は食料と、雑貨よ」
私たちは「旅の商人とその連れ」という役になりきって、再び通りへと歩き出した。見た目が変わるだけで、少しだけ心に余裕が生まれた気がした。私たちはもう、ただの逃亡者じゃない。この世界に溶け込む術を手に入れたのだ。
36:喋るな、ガブ
変装は順調だった。雑貨屋でマッチと塩、そして小さなナイフを買った時も、店主は私たちを疑うことなく「毎度あり」と送り出してくれた。私は少し調子に乗っていたのかもしれない。このまま何事もなく、必要なものを揃えて村を出られると思っていた。
事件は、広場の屋台で起きた。
そこからは、抗いがたいほど魅力的な匂いが漂っていた。脂が炭火に落ちて弾ける音。焦げた醤油と香辛料の香り。串焼きだ。鶏肉か、あるいは豚肉か。串に刺された肉の塊が、じゅうじゅうと音を立てて焼かれている。
ガブの足が、ピタリと止まった。フードの下で、彼の鼻がヒクヒクと動いているのが分かる。無理もない。ここ数日、干し肉と木の実ばかりだったのだ。焼きたての肉の匂いは、野生の本能を直撃する暴力的な誘惑だ。
「リゼ。あれ、食いたい」
ガブが絞り出すような声で言った。私も喉が鳴った。予算は厳しいが、ここまでの労いも兼ねて、一本ずつならいいかもしれない。
「分かったわ。一本ずつね」
私が屋台に近づき、店主に注文しようとした時だった。
「おいおい、邪魔だぜ、ちっこいの」
横から、酒臭い息をした男が割り込んできた。赤ら顔の、体格の良い男だ。昼間から酔っ払っているらしい。彼はガブの肩にドスンとぶつかり、乱暴に押し退けた。
ガブがよろめく。男は謝るどころか、ニヤニヤと笑ってガブを見下ろした。
「なんだその格好は。顔も出せねえのか?さては賞金首か?」
まずい。男の心からは、『絡みたい』『憂さ晴らししたい』というドス黒い色が滲み出ている。こういう手合いは、相手が弱いと見ればどこまでもつけあがる。
ガブの体から、殺気が漏れ出した。フードの奥で、彼の瞳孔が収縮するのが分かる。ゴブリンは誇り高い種族だ。理不尽な侮辱を受けて黙っているような性格ではない。彼の手が、腰の白い棍棒(今は布で巻いて隠してある)に伸びる。
「てめえ、俺に触るな」
ガブが低い声で唸った。
――喋った!?私は心臓が止まるかと思った。幸い、スカーフ越しで声がこもっていたため、男には言葉としては聞こえなかったようだ。
「ああん?なんか言ったか?文句があるならはっきり言えよ!」
男がさらに詰め寄る。ガブが口を開こうとする気配。だめだ。今度こそ聞かれる。あの独特の片言と、ダミ声を聞かれたら、人間じゃないとバレる!
私はとっさに動いた。ガブの前に飛び出し、男に向かって深々と頭を下げたのだ。
「申し訳ありません!弟が失礼を!」
私の大声に、男も周囲の人々も驚いてこちらを見た。私は畳み掛けるように早口でまくし立てた。
「この子は、喉の病気なんです!声が出せなくて、それに顔も酷い腫れ物で……人に見られるのを恥ずかしがって、いつも気が立っているんです。決して旦那様を馬鹿にしたわけではありません!」
嘘だ。全部嘘だ。口から灰色の煙が出ているのが自分でも見える。でも、こうするしかない。私はガブの背中を、服越しにつねった。『合わせて!』という合図だ。
ガブは一瞬ビクリとしたが、私の必死さが伝わったのか、大人しくうつむいた。さらに私は、演技力をフル動員して、涙ぐんだ声を出した。
「私たちは貧しい旅の姉弟なんです。どうか、どうかお許しください……」
しおらしく震える少女の姿は効果てきめんだった。男の周りにいた他の客たちが、男を非難し始めた。
「おい、やめろよ。子供相手にみっともない」「病気の子をいじめるなよ」
男は急に居心地が悪くなったようで、バツが悪そうに鼻を鳴らした。
「ちっ、病気かよ。縁起が悪い。行け行け」
男はシッシッと手を振って、屋台から離れていった。
助かった。私は膝が抜けそうになるのを必死でこらえ、屋台の主人に震える手で銅貨を渡した。
「く、串焼きを二本ください」
肉を受け取ると、私たちは逃げるようにその場を離れた。村はずれの静かな木陰まで来て、ようやく息を吐き出した。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った」
私はへたり込んだ。冷や汗で新しいシャツがじっとりと濡れている。
ガブがスカーフを少しずらして、串焼きにかぶりついた。ムシャムシャと音を立てて肉を平らげると、彼は悪びれもせずに言った。
「あいつ、ムカつく。殴ればよかった」
「ばか!大馬鹿者!」
私は思わず叫んでいた。
「殴ったらどうなると思ってるの!衛兵が来て、フードを剥がされて、あなたは殺されてたかもしれないのよ!」
私の剣幕に、ガブは驚いて目を丸くした。
「喋るなと言ったでしょう!なんで我慢できないの!」
涙が出てきた。恐怖と、安堵と、怒りが混ざってぐちゃぐちゃだった。
ガブは串を持ったまま、しょんぼりと耳を垂れた。
「ごめん。リゼが怖がってたから、あいつを追い払おうと」
彼の言葉に、私は言葉を失った。彼は自分のためじゃなく、怯えていた私を守るために怒ってくれたのだ。私が「怖い」と思っていた男の悪意を、彼は敏感に察知して、排除しようとしただけなのだ。
責められない。彼の行動原理は、いつだって「リゼを守る」ことにあるのだから。
「もう。次は絶対にだめよ」
私は涙を拭いて、ため息をついた。
「私の合図があるまで、口も開かない。手も出さない。いい?」「わかった。約束する」
ガブはもう一本の串焼きを私に差し出した。
「リゼ、食え。冷めるぞ」
受け取った串焼きは、まだ温かかった。一口食べると、肉汁と焦げたタレの味が口いっぱいに広がった。しょっぱくて、脂っこくて、でも涙が出るほど美味しかった。
人里は美味しい。けれどやっぱり怖い。私たちは並んで串焼きを食べながら、早く用事を済ませて、誰もいない荒野へ旅立とうと心に決めた。




