EP114
336:新規登録
冒険者ギルドの喧騒の中、丸眼鏡をかけた受付嬢は、カウンターの奥から真新しい二枚の羊皮紙と、インク壺、そして先端が少しだけすり減った羽根ペンを静かに差し出した。周囲では、酔っ払った冒険者たちの怒声や、ジョッキがぶつかり合う粗野な音が絶え間なく響いている。しかしこの一枚の板で仕切られたカウンターの上だけは、まるで別の時間が流れているかのように厳粛な空気が漂っていた。
「こちらの用紙に、お名前と得意な武器、あるいは扱える魔術の系統、そして出身地をご記入ください。文字の読み書きが難しい場合は、私が代筆いたしますが……」
「いえ大丈夫です。私が二人分記入します」
私は受付嬢の言葉を遮るように微笑み、羽根ペンを手に取った。
木製の古びたペン軸を指先で転がす。かつてアカデミーの豪奢な自室で、高価な白鳥の羽根ペンを握り、難解な魔術式を書き写していた頃の記憶がふと蘇った。あの頃の私は、紙に記す自分の名前に何の誇りも持てず、ただ「名家の落ちこぼれ」という重圧に押し潰されそうになりながら、震える手で文字を綴っていた。けれど今、この粗末な羽根ペンを握る私の手に、迷いや震えは一切ない。
「おいリゼ。本当に名前を書く気か?適当な偽名でも使っておいた方が安全なんじゃないのか」
背後に立つガブが、周囲の冒険者たちに聞こえないよう、極めて小さな声で私の耳元に囁いた。彼の懸念はもっともだ。私が「リゼ」という本名を記せば、追手に繋がるわずかな糸口を残してしまうかもしれない。
「偽名なんて使わないわ。私は、私の名前でこの世界を歩きたいの」
私はインク壺にペン先を浸し、少しもためらうことなく羊皮紙の筆頭に『リゼ』と綴った。姓は書かない。貴族としての家名は、あのアカデミーから逃げ出した嵐の夜に、泥水の中に捨ててきたからだ。そして、出身地の欄には『東の森の奥深く』とだけ曖昧に記し、得意な魔術の欄には『精霊との対話、および生活支援魔術』と控えめに書き込んだ。これなら、ただの放浪の民間魔術師にしか見えないだろう。
「次はあなたの分ね。名前は『ガブ』。出身地は……そうね、『北の荒野』ということにしておきましょうか。得意な武器は『大剣と短剣』、これでいいわね」
私がもう一枚の用紙にすらすらとガブの情報を書き込んでいくと、彼はフードの奥で鼻を鳴らした。
「フン。人間ってのは本当に面倒くさい手続きが好きだな。紙切れ一枚に名前を書いたからって、何が変わるんだ」
「社会に認められるための、大切な儀式なのよ。でも確かに少しだけ警戒は必要ね。筆跡に残る微かな魔力の残滓から個人を特定する追跡魔術を使ってくるかもしれないから」
私は書き終えた二枚の羊皮紙を見つめ、そこに残された自分の魔力の痕跡をかき消すため、周囲の空気に溶け込んでいる精霊たちへ、意識の深い部分でそっと語りかけた。
(忘却と隠蔽の精霊たちよ。そして微風の眷属よ。私の過去を知る者たちは、このささやかなインクの染みに残る私の気配を嗅ぎつけ、平穏な旅路を脅かそうとするかもしれません。どうかあなたたちの持つ不可視のヴェールでこの羊皮紙を覆い、文字に込められた私の魔力の匂いを、ありふれた旅人のそれへと優しく書き換えてはいただけないでしょうか。誰も傷つけることのない、小さなまやかしをお許しください……)
私の祈りに応え、カウンターの上をふわりと心地よい風が吹き抜けた。文字のインクが急速に乾くと同時に、羊皮紙から立ち昇っていた私特有の冷たい魔力の波長が、まるで古い書物のような、誰のものでもない曖昧な気配へと変化していくのを感じた。これでどれほど優秀な追跡魔術師であっても、この登録用紙から私を見つけ出すことは不可能だ。
「お待たせしました。記入終わりましたわ」
私が二枚の用紙を差し出すと、受付嬢は丁寧な手つきでそれを受け取り、内容にざっと目を通した。
「リゼ様と、従者のガブ様ですね。承知いたしました。先ほどの素晴らしい素材の件もありますし、お二人の身元については私の方でしっかりと保証させていただきます」
彼女はカウンターの下から、小さな木箱を取り出した。中に入っていたのは、くすんだ鈍い光を放つ、銅で作られた二つの小さな金属板だった。そこには冒険者ギルドの紋章と、打刻されたばかりの私たちの名前が刻まれている。
「これが、お二人の冒険者としての身分証になります。現在は一番下の『銅級』からのスタートとなりますが、依頼をこなし、ギルドへの貢献が認められれば、銀、金と昇格していきます。紛失された場合の再発行には手数料がかかりますので、くれぐれも肌身離さずお持ちくださいね」
私は差し出されたその冷たい銅の板を、両手でそっと受け取った。たったこれだけの、手のひらに収まる小さな金属の欠片。王家の純金で彩られた紋章に比べれば、あまりにも安っぽく、粗末なものだ。しかし、その銅板はずっしりと重く、私の手のひらに「お前は今、自分の足でここに立っているのだ」という確かな熱を伝えてきていた。
「どうしたリゼ。そんな汚い銅の板切れを、宝物みたいにじっと見つめて」
ガブが不思議そうに首を傾げる。
「ふふっ。だって、嬉しいじゃない。今日から私たちは、逃亡者でも迷子でもない。正真正銘の『冒険者』なんだから」
私は自分の銅板をローブの裏側にしっかりと結びつけ、もう一つの銅板をガブの大きな手のひらへと握らせた。ガブは困惑したようにその小さなタグを見つめていたが、やがて呆れたようにため息をつき、乱暴な手つきで自分の懐へと放り込んだのだった。
337:パーティ名
「さて、新規登録のお手続きはこれで完了ですが……お二人は、専属の『パーティ』を組まれますか?」
受付嬢が、再びインク壺に羽根ペンを浸しながら、事務的なトーンで私たちに尋ねてきた。
「パーティ、ですか?」
「はい。冒険者ギルドでは、常に行動を共にする二人以上のグループをパーティとして正式に登録することが推奨されています。報酬の分配や、万が一どちらかが負傷した際の緊急連絡など、システムとして……いえ、ギルドの取り決めとして、非常に有利に働くからです。登録される場合、何かパーティ名が必要となりますが、いかがなさいますか?」
私は少し驚いて振り返り、ガブを見上げた。私とガブ。追手から逃れるために偶然行動を共にし、いつしか背中を預け合うようになった奇妙な二人組。人間の魔術師と、ゴブリンという魔物の組み合わせ。これまで私たちは、自分たちの関係に明確な名前をつけようと考えたことなど一度もなかった。主従関係?いや、そんな堅苦しいものではない。契約で結ばれた使い魔?それも違う。
「パーティ名か……」
ガブは腕を組み、フードの奥で鋭い牙をわずかに覗かせながら思案顔になった。
「よし、オレたちがいかに恐ろしい奴らなのか、このギルドのチンピラどもに一発で分からせるような名前がいいな。『鮮血の牙』とか、『骨砕きの暴君』なんてどうだ?これなら、誰もオレたちに喧嘩を売ろうなんて思わないだろ」
「あのねぇガブ。私たちはこれから、目立たずにこの人間社会に溶け込もうとしているのよ?そんな野盗の集まりみたいな物騒な名前をつけたら、衛兵に目をつけられて真っ先にしょっ引かれるに決まってるじゃない」
私が呆れ果ててため息をつくと、ガブは不満そうに鼻を鳴らした。
「なんだよ、ならお前が考えろ。どうせお前のことだから、『光り輝く星の導き』だの『清らかなる風の乙女』だの、背中が痒くなるようなお上品な名前を思いついてるんだろ?」
「誰がそんな名前をつけるもんですか」
私は軽くガブの腕を叩き、それから少しだけ真剣な表情になって、足元の汚れた石畳を見つめた。
私たちがこれまで歩んできた道のり。冷たい雨に打たれながら身を寄せ合った泥だらけの洞窟。魔物の群れから必死で逃げ惑った暗い森。そして何一つ不自由のない完璧な「楽園」に辿り着きながらも、そこを自らの意志で捨て去り、再びこの騒がしく、痛みに満ちた世界へと戻ってきたこと。私たちは、互いがいたからこそ、絶望せずに歩き続けることができた。私の魔法が道を切り開き、ガブの力が私の背中を守ってくれた。喜びも、恐怖も、空腹も、すべてを半分ずつ分け合いながら、どこまでも続く地図の空白を埋めるために。
「『旅の友』」
私がポツリと呟くと、受付嬢が顔を上げた。
「はい?今、なんと?」
「私たちのパーティ名は、『旅の友』。それで、登録をお願いできますか?」
私がはっきりと告げると、受付嬢は丸眼鏡の奥で目を瞬かせ、わずかに困惑したような表情を浮かべた。
「ええと……『旅の友』、ですか。その、大変失礼ながら、いささか……いえ、非常に平凡といいますか、冒険者特有の覇気や威圧感には欠けるお名前かと存じますが、本当によろしいのでしょうか?」
彼女の反応も無理はない。周囲の円卓で酒を飲んでいる冒険者たちのパーティ名は、「紅蓮の剣」や「鉄壁の盾」といった、自分たちの武勇を誇示するような大袈裟なものばかりなのだから。
しかし、私は少しも迷うことなく力強く頷いた。
「ええ、これがいいのです。覇気なんて必要ありません。私たちはただ、この世界を二人で並んで歩いていきたいだけですから」
私が微笑んでみせると、背後にいたガブが、不意に大きな声で笑い出した。
「クハハハッ!『旅の友』か!こいつはいい、最高に拍子抜けで、とびきり平凡な名前だ!オレたちがどれだけの死線を潜り抜けてきたか知らない連中が聞いたら、ただの田舎者のピクニックだと思うだろうな!」
ガブは腹を抱えて笑いながら、大きな手で私の頭をポンポンと乱暴に撫でた。
「お前らしい、飾り気のない、けど一切の嘘がない良い名前だ。オレは気に入ったぞ、相棒」
ガブのその言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。受付嬢は私たちの不思議なやり取りに少し呆れたような顔を見せた後、
「承知いたしました。では、『旅の友』として正式に受理いたします」
と告げ、登録簿にサラサラと羽根ペンを走らせた。
「それから、こちらが先ほどの角ウサギの毛皮と月見草の買取代金になります。査定の結果、大銀貨三枚と銀貨五枚。現在の相場では、これがギルドからお出しできる最高額です」
受付嬢が革袋をカウンターに置くと、チャリン、と重みのある金属音が響いた。大銀貨三枚といえば、この街の一般的な宿屋に一ヶ月は滞在できるだけの大金である。私たちの持ち込んだ素材が、いかに上質なものであったかが分かる。
「ありがとうございます。ほらガブ。これでやっと、あなたの待ち望んでいた分厚いお肉が食べられるわよ」
私が革袋を手に取って振り向くと、ガブの口元からはすでに、隠しきれない涎がツーッと糸を引いて垂れていた。
「お、おう!長かった、本当に長かった……!オレの胃袋はもう、牛一頭を丸飲みできるくらいに仕上がってる!さぁリゼ、早くこのむさ苦しいギルドを出て、一番匂いの強い店に突撃するぞ!」
ガブは私の背中を押して、今すぐにでもギルドの扉へと駆け出そうとする。しかし私はその場に踏みとどまり、ホールの一角にある巨大な木の板のほうへと視線を向けた。
「待って。食事に行く前に、一つだけ見ておきたいものがあるの」
「あぁ!?なんだよこんな時に!オレの命とどっちが大事だって言うんだ!」
「ほんの少しだけだから。私たちが『冒険者』になった、その最初の記念としてね」
私は不満げに呻くガブの手を半ば強引に引きながら、無数の紙片がびっしりと貼り付けられた、ギルドの依頼掲示板の前へと歩みを進めたのだった。
338:依頼書を眺めて
冒険者ギルドの壁一面を占拠する巨大な木の板。そこには真新しい羊皮紙から、埃を被って黄ばんだ紙切れまで、大小様々な依頼書が無数に押しピンで留められていた。掲示板の前には、今日の稼ぎ口を探す冒険者たちが群がり、血走った目で紙片の文字を追いかけている。汗と泥、そして錆びた鉄の匂いが入り混じる男たちの人混みに近づくと、ガブの巨体から発せられる威圧感に気圧されたのか、彼らは舌打ちをしながらも少しだけ道を譲ってくれた。
「なんだよ、ただの紙切れの山じゃないか。こんなの見て、腹の足しになるのか?」
ガブは腕を組み、退屈そうに掲示板を見上げた。文字を十分に読めない彼にとって、それはただのインクの染みに過ぎない。
「腹の足しにはならないけれど、これは『世界が私たちに求めていること』のリストなのよ」
私は一番手前に貼られていた一枚の依頼書にそっと指を触れた。
「見て。これは『東の街道を荒らす盗賊団の討伐』。報酬は銀貨十枚。こっちは『薬師ギルドからの依頼。毒消し草の群生地の調査と採取』。そしてこれは……」
私が一つ一つ依頼の内容を読み上げていくと、ガブはふんと鼻を鳴らした。
「安い命だ。たった銀貨十枚で、見ず知らずの人間同士が殺し合いをするんだからな。それに薬草採りなんて、そこらのガキにでもやらせておけばいいだろう」
「そうかもしれないわね。でもこの一枚一枚の紙の裏には、困っている誰かの生活があり、流れる涙があり、どうしても叶えたい切実な願いがあるのよ」
私は掲示板の端の方に貼られていた、子供の拙い字で書かれた「迷子の子猫を探してください。報酬は銅貨三枚」という小さな紙片を見つめながら言った。楽園には、このような「欠落」や「欲求」は存在しなかった。誰もが満たされ、永遠の平穏を約束されていたからだ。しかしこの世界は違う。人々は常に何かを失い、何かを求め、そしてその穴を埋めるために、誰かに助けを乞うている。この掲示板は、不完全な人間たちの痛みが集まる場所であり、同時に、互いの手を結び合わせるための希望の窓口なのだ。
「おいリゼ。これを見ろよ」
不意に、ガブが掲示板の少し高い位置に貼られた、一枚の目立つ依頼書を指差した。そこには赤い大きな文字で『討伐依頼』と書かれており、粗末な似顔絵が添えられていた。
「『西の岩山に住み着いたゴブリンの群れの討伐。報酬、一匹につき銀貨一枚』だと」
ガブは自分の種族が狩りの対象として賞金首にされているのを見て、怒るどころか、どこか冷ややかな、楽しげでさえある低い笑い声を漏らした。
「一匹銀貨一枚、随分と舐められたもんだ。オレの首なら、金貨百枚積んでも釣り合わないのにな。どうするリゼ?いっそこの依頼を受けて、同族の馬鹿どもをぶちのめして小遣い稼ぎでもするか?」
「冗談はよして。あなたがそんな依頼を受けたら、討伐の証拠として自分の耳を切り落として提出しなきゃならなくなるわよ」
私が真顔でたしなめると、ガブは「それは痛そうだ」と肩をすくめた。
私たちはしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただ無数に貼られた依頼書を静かに眺め続けた。王都への護衛任務。未踏の遺跡の調査。幻の魔獣の素材集め。どれもこれも、かつての私なら関わり合いになることすら恐れたような、危険で予測不可能な出来事ばかりだ。しかし今の私の目には、その一枚一枚が、これから私たちが踏み出していく「地図の空白を埋める旅」への輝かしい招待状のように見えた。
「本当にたくさんあるのね」
私は胸の奥から湧き上がってくる高揚感を抑えきれず、小さく呟いた。
「私たちが知らなかっただけで、世界にはこんなにも行くべき場所があって、やるべきことが溢れていたの。私たちは自由なのよガブ。この中からどれを選んでもいいし、どれを選ばなくてもいい。命令でも規則でもなく、私たち自身の意志で、明日歩く道を決められるのよ」
私が振り返って満面の笑みを向けると、ガブは幻影のフードの奥で、少しだけ眩しそうな顔をして私を見つめ返した。
「そうだな。お前がそうやって目を輝かせているのを見るのは、悪くない気分だ。けどな」
ガブは私の頭に大きな手をポンと乗せ、そして恐ろしいほどの低音で凄みを利かせた。
「オレたちがどんな壮大な旅に出るにしても。まずはこの空っぽの胃袋を満たしてからじゃないと、一歩も動けないぞ。いい加減本当にオレが理性を失って、その辺の冒険者の腕に噛み付く前に行くぞ、リゼ」
彼の限界を超えた切実な訴えに、私はついに堪えきれず、声を上げて笑い出してしまった。
「ふふっ、あはははっ!そうね、ごめんなさい。大冒険の始まりは、とびきり美味しいお肉からにしましょう。私たち『旅の友』の、最初の祝杯をあげるために!」
私は掲示板に背を向け、ガブの大きな腕を引きながら、ギルドの重い木扉へと向かって駆け出した。外に出れば、照りつける太陽の光と、騒がしい街の喧騒が私たちを待っている。そしてそのずっと先には、まだ誰も見たことのない、果てしない世界が広がっているのだ。
腹を空かせた大柄な従者と、泥だらけのローブを着た銀髪の少女。二人の小さな冒険者は、笑い合いながら、光の満ちる街角へと元気よく飛び出していったのだった。




