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旅の友に選んだのはゴブリンでした  作者: 竜神
第7章:嘘のない楽園

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EP113

333:「何食べようか」


道幅の広い石畳の両脇には、色とりどりの日よけ幕を張った屋台がひしめき合い、立ち上る湯気と香ばしい匂いが、通り全体を一つの巨大な厨房のように包み込んでいる。


「おいリゼ。オレの鼻がどうにかなりそうだ」


ガブは私の半歩後ろを歩きながら、恨めしそうな声で呻いた。彼の視線は通りを歩く人々ではなく、屋台の鉄板の上でジュージューと音を立てて焼かれている分厚い肉の塊や、黄金色に輝く串焼きに釘付けになっている。


「あっちからは甘辛いタレが焦げる匂いがするし、こっちからは香草をたっぷり腹に詰め込んだ丸焼きの匂いがする。頼む、早く素材を金に換えてくれ。オレの胃袋が、内側からオレ自身を食い破りそうだ」


幻影の魔法で人間の大男の姿に偽装しているとはいえ、その大きなお腹が鳴る音は隠しようがなく、周囲を歩く人々が時折驚いたように彼を振り返っていた。私はそんな彼の様子に思わずくすくすと笑いながら、自分の背中に背負った粗末な麻袋の重みを確かめた。


「ふふっ、分かっているわ。でも、ただギルドに駆け込むだけじゃもったいないじゃない。せっかくなら、手に入れたお金で『何を食べるか』を想像しながら歩いた方が、ご飯がもっと美味しくなると思わない?」

「想像なんかしたら、余計に腹が減るだけだろうが!けどそうだな……オレはとにかく、肉だ。骨の髄までしゃぶり尽くせるような、デカくて、噛み応えのある奴がいい。あの楽園の、口に入れた途端に溶けて消えるような光の果実じゃなくて、顎が疲れるくらいしっかりした肉だ」


ガブの言葉に私も小さく頷いた。あの一切の欠損も飢えもない楽園の食事は、確かに生命を維持するには完璧だったかもしれない。しかしそこには「命をいただく」という実感も、「美味しい」と感じる心の震えも存在しなかった。今、私たちがこうして空腹に耐えながら、食べ物の匂いに胸を躍らせていること自体が、この不完全な世界で生きているという何よりの証なのだ。


「私はね、温かくて具だくさんのスープが飲みたいわ。お肉の旨味がしっかりと溶け込んでいて、少しだけ香辛料が効いているような、身体の芯から温まるスープ。それに焼きたてで外側がカリッとした、香ばしい黒パンがあれば最高ね」

「スープとパンか。お前らしい上品でつまらない注文だな。まぁいい、オレが肉を山ほど頼むから、お前は横でその汁でもすすってろ」

「失礼ね。美味しいスープを見つけるのは、美味しいお肉を見つけるのと同じくらい難しいことなのよ」


他愛のない口喧嘩を交わしながら、私はふと、背負っている麻袋の中の素材が、この強い日差しと熱気で傷んでしまわないか心配になった。中に入っているのは、森を抜ける道中でガブが仕留めた野ウサギの美しい毛皮と、私が岩陰で見つけた希少な薬草類だ。これらが私たちの当面の命綱となる。私は歩みを止めず、そっと目を閉じ、大気の中に微かに感じられる冷気の精霊たちへと思いを馳せた。


(深い山の頂きに眠り、世界に静寂と安らぎの冷気をもたらす、清らかなる氷雪の精霊たちよ。そして、朝露に宿り、命の瑞々しさを保つ水滴の眷属よ。照りつける太陽は生命の源ですが、今、私たちが背負うささやかな糧には、その熱が少しばかり厳しすぎるのです。どうか、あなたたちの持つ涼やかなる吐息を、私のこの小さな袋の中にほんの少しだけ留め、命の欠片がその輝きを失わぬよう、優しく包み込んではいただけないでしょうか。この小さな願いが、自然の巡りを妨げるものでないことを祈ります……)


私の静かで丁寧な呼びかけに応えるように、大気中の水分がほんのわずかに集い、私の背中の麻袋の周囲だけが、ふわりと涼しい空気に包まれた。袋の中の温度が下がり、薬草の鮮度が保たれるのを感じて、私はホッと息をついた。無理やり凍らせるような強引な魔法ではない。精霊たちと対話し、自然の理に寄り添うことで生み出される、ささやかで優しい奇跡。


「お?なんだか、急にお前の背中の周りだけ涼しくなったな。また精霊たちにお願いしたのか?」


ガブが不思議そうに鼻をひくつかせながら尋ねてきた。


「ええ。売り物が傷んでしまっては、あなたのお肉の大きさが半分になってしまうかもしれないからね。さあ、急ぎましょう。お腹の準備は、もうすっかり整っているのだから」


私たちは、立ち並ぶ屋台の誘惑を振り切るようにして、歩調を速めた。何を食べようか。そんな明日を生きるための当たり前の悩みが、今の私にはたまらなく愛おしく、そして幸せなことのように思えた。通りを抜けた先には、いよいよ私たちの新たな出発点となる場所が待ち構えている。


334:冒険者ギルドの扉


賑やかな市場の通りを抜け、少し開けた広場に出ると、そこには周囲の建物とは明らかに異質な、重厚で威圧的な空気を放つ石造りの建造物がそびえ立っていた。灰色の分厚い城壁のような外観。その正面には、大木を切り出して作られた巨大な両開きの扉が据え付けられており、扉の上部には「交差した剣と盾」を象った真鍮の紋章が鈍い光を放っている。


そこが荒くれ者たちの吹き溜まりであり、一攫千金を夢見る者たちの集う場所。「冒険者ギルド」の支部だった。


建物の周辺には、いかにも歴戦の猛者といった風貌の男たちがたむろしていた。刃こぼれした大剣を背負った戦士、目つきの鋭い軽装の盗賊、そして煤けたローブを身に纏い、地面に座り込んでぶつぶつと何かを呟いている魔術師。誰もが、血と泥と獣の匂いを色濃く漂わせており、彼らの間には、不用意に近づけば噛み付かれるような、ピリピリとした緊張感が張り詰めていた。


「おいリゼ。本当にここに入るのか?」


ガブが広場の端でピタリと足を止め、フードの奥から忌々しそうにギルドの建物を睨みつけた。彼の幻影の魔法は完璧に機能しており、誰の目にも彼がゴブリンであるとは気づかれないはずだ。しかし彼の本能が、この場所に足を踏み入れることを強烈に拒絶していた。


「ええそうよ。私たちの素材を一番高く、適正な価格で買い取ってくれるのはここしかないわ。それに、これからの旅を続けるためには、身分を証明する冒険者としての登録証タグが必要不可欠なのよ」


私が冷静に答えると、ガブは周囲の冒険者たちを横目で睨みながら、低い声で唸った。


「理屈は分かる……。けど、あそこにいる連中の顔を見てみろ。どいつもこいつも、魔物を狩ってその首を金に換えることしか頭にないような、血に飢えたハイエナどもだ。もしお前の魔法が解けてオレの正体がバレたら、あっという間に串刺しにされて、明日の朝には広場で見せ物にされるぞ」


ガブの懸念はもっともだった。彼ら冒険者にとって、ゴブリンは「討伐対象」でしかない。かつて暗い洞窟の中でガブが私を守るために戦ったのも、人間の冒険者たちだったのだから。私は不安そうに身を固くしているガブの大きな手に、自分の小さな手をそっと重ねた。


「大丈夫よガブ。私の魔法を信じて。それに、もう昔のように、ただ怯えて逃げ隠れするような私たちじゃないでしょう?」


私はまっすぐにガブの目を見上げた。


「私たちは世界の果ての楽園まで歩き抜き、そして自分の足でこの場所に戻ってきた。あなたはどんな冒険者よりも強く、誇り高い私の相棒よ。何も恥じることはないし、恐れる必要もないわ」


私の言葉にガブはしばらく黙り込んでいたが、やがて重ねられた私の手から伝わる体温に毒気を抜かれたように、小さくため息をついた。


「ったく。お前がそうやって自信満々に言うと、オレがただの臆病者みたいに思えてくるじゃないか。分かったよ、腹も減ってるしな。さっさと用事を済ませて、美味い肉を食いに行くぞ」

「ええ、その意気よ」


私たちは広場を横切り、冒険者ギルドの巨大な扉の前へと立った。間近で見上げるその木製の扉には、幾多の武器による傷跡や、魔物の爪痕が深く刻み込まれており、この場所がくぐり抜けてきた凄惨な歴史を物語っているようだった。私は扉の冷たい鉄の取っ手に手を掛けた。


あの日、私は自分が二度と日の当たる場所を歩くことはないのだと思っていた。社会の枠組みから外れ、ただ生き延びるためだけに息を潜めるだけの、惨めな逃亡者。しかし今、私は自らの意志で、この社会の象徴とも言える扉を開こうとしている。それは過去の弱かった自分への決別であり、この騒がしくも美しい世界で、ガブと共に新しい物語を紡いでいくという、確固たる宣言でもあった。


「行くわよガブ」

「あぁ。しっかり背中は守ってやるから、堂々と歩け」


私は深く息を吸い込み、そして思い切りその重い扉を押し開けた。ギイィィッ、という蝶番のきしむ音と共に、むせ返るような酒の匂いと、大勢の人間の喧騒が、熱風となって私たちの全身に吹き付けてきた。


新しい世界への扉が、今、開かれたのだ。


335:驚く受付嬢


冒険者ギルドの内部は、外から想像していた以上の熱気と混沌に満ちていた。広いホールには無数の円卓が並べられ、真昼間からエールを満たした木の実のジョッキを傾け、大声で笑い合う者、獲物の分配を巡って胸ぐらを掴み合いの喧嘩をしている者、そして、壁一面に張り出された依頼書クエストを血走った目で睨みつけている者たちで溢れかえっている。床には泥や酒がこぼれ、空気は汗とタバコの煙で白く濁っていた。


「ひどい匂いだな。森のオークの巣穴の方が、まだマシなにおいがする」


ガブは鼻をつまみながら、周囲の荒々しい冒険者たちを警戒するように私にぴったりと寄り添った。彼のその屈強な「人間の従者」の幻影は、周囲の荒くれ者たちから見ても十分に威圧的であったため、私たちが歩みを進めると、自然と人混みが少しだけ道を譲ってくれた。


私はホールの喧騒を抜けた先にある、磨き上げられた長いカウンターへと向かった。そこでは数人の受付嬢たちが、ひっきりなしに訪れる冒険者たちの対応に追われている。血まみれの素材を無造作に投げ出されるたびに顔をしかめ、乱暴な言葉遣いには慣れた様子で冷たくあしらう彼女たちは、この混沌とした空間において唯一、秩序を保っている存在のように見えた。


私は一番端にいた、丸眼鏡をかけた知的な顔立ちの受付嬢の前に立った。彼女は羽ペンを猛烈な勢いで走らせ、山積みの書類を処理しており、私たちの接近に気づいていないようだった。


「あの、すみません」


私が静かに、けれどはっきりと通る声で声をかけると、受付嬢は面倒くさそうに顔を上げた。


「はいはい、討伐の報告ですか?それとも素材の買取……」


言いかけた彼女の言葉が、ピタリと止まった。彼女の視線の先には、泥に汚れた使い古しのローブを纏ってはいるものの、背筋をピンと伸ばし、落ち着いた眼差しを向ける銀髪の少女と、その背後にそびえ立つ、顔を隠した屈強な大男の姿があった。毎日、粗野で薄汚れた冒険者ばかりを相手にしている彼女にとって、私たちの姿は酷く異質に映ったのだろう。特に私がまとう静寂な空気と、ガブが放つ隠しきれない野生の気迫のコントラストは、彼女の経験則に当てはまらないものだった。


「えっと。その、どのようなご用件でしょうか?」


受付嬢の言葉遣いが、無意識のうちに少しだけ丁寧なものに変わっていた。


「素材の買取と、それから、冒険者としての新規登録をお願いしたいのです」


私はそう言いながら、背負っていた麻袋を下ろし、カウンターの上にそっと置いた。そして中から一枚の毛皮と、丁寧に布に包まれた数本の薬草を取り出した。


「買取ですね。拝見いたします」


受付嬢は事務的な態度を取り戻し、慣れた手つきで毛皮を広げた。その瞬間、彼女の丸眼鏡の奥の目が、驚きに大きく見開かれた。


「これは……角ウサギの毛皮ですね。それにしても、なんという保存状態の良さ……。矢傷も刃物の痕も全くなく、毛並みも驚くほど美しい。それにこの薬草は『月見草』ですか。根の先まで完璧に採取されていて、まるでたった今、土から引き抜いてきたかのような瑞々しさです。失礼ですが、これらを採取したのは、お嬢さん方ですか?」

「ええ。狩りはこの私を護衛してくれている彼が。そして、保存と運搬は私が担当しました」


私が微笑んで答えると、ガブが後ろで


「フン、オレの獲物は傷一つつかずに仕留めるのが流儀だからな」


と、低く唸るような声で同意した。受付嬢は、ガブの放つ只者ではない気配にわずかに肩を震わせながらも、素材の価値を正確に見抜くプロとしての顔つきになっていた。


「素晴らしい腕前です。これほどの極上品であれば、通常の倍……いえ、それ以上の価格で買い取らせていただきます。それにしても、あなた方ほどの腕を持つ方が、今まで冒険者として登録されていなかったとは驚きです。王都の騎士団か、それともどこかの高名な師の元で修行でもされていたのですか?」


受付嬢の探るような質問に、私は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。逃亡者であること。そして隣にいるのが人間ではなくゴブリンであること。もし本当のことを言えば、このギルドはパニックに陥り、私たちはすぐさま討伐対象となってしまうだろう。しかし私に嘘をつくことへの罪悪感はなかった。これは私たちがこの世界で生きていくためにつく、優しくて、必要な「嘘」なのだから。


「私たちは、ずっと遠い場所を旅していたのです。誰も知らない、静かな場所を。でも少しばかり世界が恋しくなって、戻ってきたというわけです」


私が静かに、けれど芯のある声で答えると、受付嬢は何かを察したのか、それ以上深く追及することはしなかった。ただ目の前にいる少女が、並の冒険者ではないという確信だけを抱いたようだった。


「承知いたしました。では買取の査定をしている間に、新規登録のお手続きを進めさせていただきます。お二人とも、こちらの用紙に必要事項のご記入をお願いできますか?」


受付嬢は、尊敬と戸惑いの入り混じった眼差しを私たちに向けながら、真新しい羊皮紙の登録用紙をカウンターの上にそっと差し出したのだった。

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