EP112
330:もう怖くない
石畳の敷き詰められた大通りを歩き進めるにつれて、街の熱気はさらにその密度を増していった。行き交う人々の波は絶えることがなく、色とりどりの天幕を張った露店からは、香辛料のツンとした匂いや、甘く煮詰められた果実の香りが漂ってくる。かつての私であれば、この人混みの中にいるだけで息が詰まり、誰かに見つかるのではないかという恐怖で足がすくんでいただろう。
ふと、大通りの交差点にある古びた掲示板の前で、私の足が止まった。そこにはギルドの討伐依頼や商人たちの求人広告に混じって、一枚の色褪せた手配書が風に煽られてはためいていた。雨風に晒され、端の方は破れかけていたが、そこに描かれている銀髪の少女の似顔絵と、王家の紋章、そして『逃亡した危険な魔術師』という大仰な見出しは、はっきりと読み取ることができた。
「おいリゼ。立ち止まってどうしたんだ?まさか、こんな人目につく場所で知り合いでも見つけたわけじゃないだろうな」
数歩先を歩いていたガブが、訝しげな顔をして戻ってきた。私の視線の先にある手配書に気づくと、彼は舌打ちをして周囲を鋭く見回した。
「チッ。まだあんな紙切れが貼ってあるのか。安心しろ、今のオレの姿も誤魔化せてるし、お前だってあの頃の怯えたガキとは顔つきが全然違う。誰も同一人物だなんて気づきはしない」
「ええ、分かっているわ。ただ少し不思議な気分なだけよ」
私は自分自身の手配書をじっと見つめながら、静かに微笑んだ。逃げ出した直後、私はこの手配書を見るたびに、自分の人生が完全に終わってしまったのだと絶望していた。追手から隠れるために泥水をすすり、暗く冷たい洞窟で身を寄せ合って震える夜。世界中が私の敵であり、この広い大陸のどこにも私の居場所はないのだと思い込んでいた。
けれど今はどうだろう。目の前にある自分の手配書を見ても、心臓の鼓動は少しも早くならない。冷や汗をかくことも、逃げ出したいという衝動に駆られることもなかった。そこに描かれているのは、確かに過去の私だ。他人の顔色を窺い、与えられた鳥籠の中でしか生きられなかった、哀れで無力な少女の姿。しかし、今ここに立っている私は、世界の果てである楽園に辿り着き、そして自らの足でこの騒がしい世界へと戻ってきた一人の魔術師なのだ。
「もう怖くないわ」
私は手配書から視線を外し、前を向いて歩き出した。
「王国が私をどう評価しようと、どれほど私を危険視しようと、それは彼らが勝手に作り上げた幻想に過ぎない。私の本当の価値も、私の進むべき道も、決めるのは私自身よ」
その時突然、前方から悲鳴のような声が上がった。荷馬車に積まれていた大きな木箱の山がバランスを崩し、固定していた縄が切れて、重い荷物が通りを行き交う人々に向かって雪崩のように崩れ落ちてきたのだ。周囲はパニックに陥り、逃げ惑う人々の足元で、逃げ遅れた小さな子供が立ちすくんでいるのが見えた。
私は咄嗟に前に踏み出し、地面の奥深くに眠る大地の精霊たちへと思いを馳せた。力任せに魔法を放つのではない。この街の営みを壊さず、ただ一つの小さな命を守るための、極めて繊細な対話を試みる。
(寛大なる土の精霊たちよ。そして、森の眷属たちよ。どうかあなたたちの持つ静かなる引力で、柔らかな土の上へ落ちるかのように和らげてはいただけないでしょうか……)
私の静かな祈りと共に、微かな魔力が大気を通して石畳へと伝わっていく。次の瞬間、落下していた重厚な木箱たちは、まるで目に見えないふかふかの絨毯に受け止められたかのように、フワリとその速度を落とした。そしてゴトッ、という鈍い音を立てて、子供の目の前でぴたりと静止したのだ。箱が割れることも、中身が散乱することもなく、ただ奇跡のように荷崩れが収束した。周囲の人々は、何が起こったのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「ふぅ。上手くいったわね。精霊たち、力を貸してくれてありがとう」
私は小さく息を吐き、杖を握り直した。かつての私なら、自分の魔法が目立つことを恐れて、見過ごしていたかもしれない。あるいは焦りのあまり強力な魔法を暴発させ、周囲にさらなる被害を出していたかもしれない。けれど今は違う。私は自分の力を完全に掌握し、世界の理と調和しながら魔法を紡ぐことができる。
「行くわよガブ。騒ぎが大きくなる前に、この場を離れましょう」
私はまだ状況を理解できずにいる人々を背に、人混みの中へと静かに紛れ込んでいった。私の心の中には、恐怖の代わりに、確かな自信と静かな誇りが満ちていた。
331:ガブ、相変わらず
荷崩れの騒ぎから離れ、私たちは商人たちの活気に満ちた市場の区画へと足を踏み入れた。道の両側には、野菜や果物、日用品から怪しげな骨董品まで、ありとあらゆるものが所狭しと並べられている。客引きの声は右から左へと絶え間なく飛び交い、値切りの交渉をする商人たちの熱気は、この街の生命力そのものを体現しているかのようだった。
「おいリゼ。あんまりキョロキョロするなよ。田舎者丸出しだと、あのハイエナどもの格好の餌食になるぞ」
ガブは私の半歩先を歩きながら、周囲の露天商たちに鋭い視線を送っていた。私が施した幻影の魔法により、彼の姿は屈強な人間の従者として周囲の目には映っている。しかしその内面から滲み出る野生の警戒心や、獲物を値踏みするようなゴブリン特有の鋭い眼光までは隠しきれていなかった。
「分かっているわ。でも、これだけたくさんの物が溢れている光景を見るのは、本当に久しぶりだもの。楽園には、物を『買う』という概念すらなかったでしょう?」
私は店先に並べられた色鮮やかな布地や、異国から運ばれてきたという珍しい香辛料の瓶を興味深く眺めた。どれもこれも人々の欲望と労働の結晶であり、この世界が絶え間なく動き続けている証拠だ。
その時、横道からふらりと現れた一人の男が、私の前に立ち塞がった。派手な装飾のついた外套を羽織り、いかにも胡散臭そうな笑顔を浮かべた若い商人だった。彼の手には、くすんだ色をした奇妙な形の石の首飾りが見える。
「おや!そこのお美しいお嬢さん!あなた、非常に運がいい!この『古代竜の加護の石』、本来なら金貨十枚は下らない代物ですが、今日は特別に……おや、どうしました?」
商人が私の腕を掴もうと手を伸ばした瞬間、横からヌッと巨大な影が割り込んできた。ガブだった。
彼は無言のまま、商人と私の間に立ち塞がった。幻影の魔法に覆われていても、その筋肉の隆起や、見上げるほどの長身から放たれる圧倒的な威圧感は本物だ。ガブは腕を組み、フードの奥から商人をジロリと見下ろした。一言も発していないにもかかわらず、その場の大気が氷のように冷え切ったかのような錯覚に陥る。それは、数多の魔物と生死を懸けた戦いを繰り広げてきた者だけが持つ、純粋な「暴力の気配」だった。
「ひっ……!あ、いや、その……お、お邪魔しましたぁっ!」
商人はガブの放つ気迫に完全に圧倒され、手の中の石を落としそうになりながら、弾かれたように人混みの奥へと逃げ去っていった。
「まったく。どこの世界にも、隙あらば人を騙そうとする小悪党はいるもんだな。魔物の方がよっぽど素直で分かりやすい」
ガブは呆れたように鼻を鳴らし、何事もなかったかのように再び歩き出した。
「ふふっ。ありがとうガブ。でもあんなに睨みつけなくても、あの石がただの道端の石ころに下手な色を塗っただけのものだってことくらい、私にも分かるわよ」
私がくすくすと笑いながら言うと、ガブは振り返らずにぶっきらぼうに答えた。
「知るか。オレはただ、あんな薄汚い手で、オレの相棒に触れられそうになったのが気に食わなかっただけだ。お前は魔術の腕は上がったかもしれないが、こういう街のドブネズミどものあしらい方は、まだまだオレには敵わないからな」
その背中は、かつて私を守るために立ち塞がってくれていた時のものと何一つ変わっていなかった。
私は自分が大きく成長し、強くなったと確信している。もう過去の恐怖に縛られることもない。けれど、ガブのこの不器用で真っ直ぐな過保護さは、少しも変わっていなかった。彼はいつでも、人間社会の複雑な嘘や打算から、純粋な力と本能で私を守ろうとしてくれる。楽園の甘い幻想を捨ててまで、私が一緒に歩きたいと願った相手。
「ええ。頼りにしているわ、私の優秀な護衛さん」
私はガブの大きな背中を追いかけながら、心の中でそっと呟いた。街の風景がどれほど目まぐるしく変わろうとも、人々の悪意がどれほど渦巻いていようとも、この相棒が隣にいてくれる限り、私の旅路が揺らぐことは決してないのだ。
332:「腹減った」
市場の喧騒を抜け、私たちはさらに街の中心部へと向かって歩を進めていた。太陽はすでに中天高く昇り、じりじりとした日差しが石畳を焼き、街全体を熱気で包み込んでいる。人々の活気はピークに達し、あちこちの食堂や屋台からは、昼食時を知らせる香ばしい匂いが漂い始めていた。
肉を直火で炙る暴力的なまでの脂の匂い。たっぷりの香草と共に煮込まれたスープの、鼻腔をくすぐる深い香り。焼きたてのパンが放つ、ふくよかで甘い小麦の匂い。それらの匂いが風に乗って私たちの元へ運ばれてくるたびに、私の足取りも自然と遅くなっていくのを感じた。楽園で食べていた、あの味も匂いもない完全な栄養の塊(光の果実)では決して満たされることのなかった、動物としての根源的な欲求が、胃袋の底から猛烈な勢いで突き上げてくる。
その時だった。——きゅるるるるるるるっ!!
まるで遠くで雷が鳴ったのかと錯覚するほどの、とてつもなく大きく、そして間抜けな音が、私のすぐ隣から響き渡った。思わず足を止めて隣を見上げると、ガブが腹部を両手で強く押さえながら、酷く恨めしそうな顔で立ち尽くしていた。
「オレはもう、限界だ」
ガブは周囲の匂いに完全に当てられたのか、ふらふらとした足取りで近くの建物の壁に寄りかかった。
「この街は地獄か?右を向いても左を向いても、美味そうな肉の匂いばかりさせて……。あの森で食った硬いウサギの肉なんて、もうとっくに消化した。リゼ頼む。オレに肉を食わせてくれ。分厚くて、脂が滴るような奴を……」
彼の瞳は、もはや飢えた獣のそれであった。幻影の魔法で人間の姿に偽装してはいるものの、その口元からは今にも涎が垂れ落ちそうだ。
「大袈裟ね。でも確かに私もお腹が空いてきたわ。長旅の疲れもあるし、そろそろきちんとした食事をとって、休息を入れるべきタイミングね」
私も密かに鳴りそうになるお腹をローブの上からそっと押さえながら同意した。壮大な冒険の決意も、過去との決別も、空腹の前ではいとも簡単に霞んでしまう。生きるということは、理屈ではなく、まず食べることなのだと痛感させられる瞬間だ。
「よし決まりだ!あそこの角にある、一番匂いの強い店に入るぞ!」
ガブが俄然勢いを取り戻し、近くの大衆食堂らしき店を指差して駆け出そうとした。しかし、私は慌てて彼の腕を掴んで引き留めた。
「待ってガブ。落ち着いて。大きな問題があるの」
「あぁ?なんだよ。まさか、あの店に毒でも入ってるのか?」
「そうじゃないわ。お金よ。私たち、この街で使える通貨をほとんど持っていないじゃない」
私はローブの懐を探り、小さな革袋を取り出した。中に入っているのは、逃げ出した当時に持っていた、わずかばかりの銅貨と銀貨が数枚。楽園の旅を通じて物資はすべて現地調達だったため、貨幣経済のシステムから完全に切り離されていたのだ。
「あ。そういやそうだったな」
ガブの勢いが、風船がしぼむようにシュルシュルと失われていった。
「オレたちが最後に金を使ったのなんて、いつだったか思い出せないくらい前だ。じゃあなんだ、この腹の虫を抱えたまま、美味そうな肉を眺めることしかできないのか?そんな残酷な拷問があるか!」
ガブは絶望したように天を仰ぎ、大袈裟に頭を抱えた。
「落ち着いて。私たちには、魔物の素材や、道中で採取した珍しい薬草がいくつかあるわ。これを換金すれば、当面の生活費と、豪華な昼食代くらいにはなるはずよ」
私は、背負っている荷袋の中身を頭の中で計算しながら提案した。
「換金って……どこでだ?市場の商人どもに売るのか?あいつら、足元を見て安く買い叩くに決まってる」
「だから、きちんとした査定をしてくれる場所に行くのよ。私たちのような旅の者が、一番確実にお金を得られる場所。それに、これからの旅の身分を保証してくれる場所へね」
私が視線を向けたのは、この通りの突き当たりにある、一際大きく、頑丈な造りの建物だった。建物の正面には、交差した剣と盾を象った大きな看板が掲げられている。そこには荒くれ者から駆け出しの若者まで、様々な装備に身を包んだ者たちがひっきりなしに出入りしていた。
「おいおいリゼ。まさか、あそこに行く気か?」
ガブが、私の視線の先を追って顔を引き攣らせた。
「ええ。私たちの新しい旅は、あそこから始まるのよ。行きましょうガブ。お腹いっぱいのお肉を食べるために」
私たちの足取りは、もはや迷いを完全に捨て去っていた。腹を空かせたゴブリンの相棒と、過去を乗り越えた魔術師。私たちはこれから始まる新しい物語の扉を開くため、そして何より今日の昼食代を稼ぐため、堂々たる足取りで歩き出したのだった。




