EP111
327:最初の街へ
荒野で迎えた朝は、どこまでも澄み切った青空と共に始まった。昨夜の焚き火の跡には、わずかに白い灰が残るばかりだ。私たちは簡素な野営の片付けを終えると、朝日を背に受けながら、土と小石が踏み固められた街道へと足を踏み出した。目指すのは、この広大な平原の先にある、私たちにとっての原点。「最初の街」と呼ばれる、巨大な城壁に囲まれた宿場町である。
「なんだか、ずいぶんと道が歩きやすくなったな。前の、あのジメジメした森が嘘みたいだ」
ガブが、街道の端に生える背の高い雑草をナイフで刈り払いながら、大きなあくびと共に呟いた。彼の歩幅は広く、迷いがない。楽園という幻から現実の土の上へと降り立った彼の足取りは、日に日に力強さを増しているように見えた。
「ええ。この街道は、王都と辺境を結ぶ重要な交易路の一部だもの。商人たちの荷馬車が頻繁に行き交うから、道もしっかりと整備されているのよ。ほら、足元を見て。轍の跡がいくつも重なっているでしょう?」
私が指差した先には、木製の車輪が深く土を削り取った跡が、幾重にも連なって地平線の彼方へと伸びていた。それは数え切れないほどの人々が、それぞれの生活と目的を背負ってこの道を歩んできたという確かな証だった。
楽園には、このような「誰かが必死に生きた痕跡」というものが一切存在しなかった。すべてが最初から完璧に用意され、永遠に傷つくことのない美しい庭園。あそこにいれば、私たちは飢えも寒さも知らずに済んだだろう。しかしその代償として、私たちは何かを成し遂げる喜びも、苦難を乗り越える達成感も失っていたはずだ。今の私は、この泥にまみれた轍の跡を、たまらなく愛おしいと感じている。
「にしてもリゼ。街が近づくにつれて、鉄と油の匂いがキツくなってきた。それに人間の匂いもな。オレの鼻が曲がりそうだ」
ガブは鼻の上に皺を寄せ、不満げに鼻を鳴らした。ゴブリンである彼にとって、人間の密集する街という環境は、決して心地よいものではない。かつて彼は、その匂いを「危険の兆候」として本能的に恐れていた。
「我慢してちょうだい。それが私たちが生きていく世界の匂いなのよ。でも少しでもあなたの負担が減るように、風の精霊たちにお願いしてみるわ」
私は歩みを止めず、そっと目を閉じ、街道を吹き抜ける柔らかな風の気配を探った。私を包み込む大気の中には、無数の小さな精霊たちが、楽しげに舞い踊っている。彼らを力で従えるのではなく、敬意を持って対話し、ほんの少しの助けを乞うのだ。
(広大な平野を駆け抜け、草花の種を遠くへと運ぶ、自由で気高き風の精霊たちよ。そして大気を清め、淀みを彼方へと押し流す、清浄なる息吹の眷属よ。私たちは今、長く厳しい旅を越え、人々が集う街へと歩みを進めております。しかし、街が放つ喧騒と濃密な気配は、私の大切な友の鋭敏な感覚を、少しばかり痛めつけているのです。どうか、あなたたちの優しい風の衣で彼の身を包み、鋭すぎる街の匂いを、ほんの少しだけ遠ざけてはいただけないでしょうか。私たちのささやかな願いが、あなたたちの自由な舞いを妨げるものでないことを祈ります……)
私の願いと魔力が空気に溶け込むと、精霊たちは嬉しそうに私の銀髪を揺らし、そしてガブの周囲をクルクルと回るような、目に見えない小さなつむじ風を生み出してくれた。ガブは驚いたように周囲を見回し、やがて大きく息を吸い込んだ。
「お?なんだ、すげぇ息がしやすくなったぞ。嫌な匂いが風に流されていくみたいだ。へへっ、さすがはオレのお抱え魔術師だな」
「お抱え魔術師なんて呼ばないで。これでも精霊たちには随分と気を使っているんだから」
私は苦笑しながら、再び前を向いた。
歩き続けること数時間。太陽が頭上高くに昇り、ジリジリとした熱を帯び始めた頃、地平線の先に巨大な灰色の影が浮かび上がってきた。空高くそびえ立つ石造りの見張り塔。そして、街全体をぐるりと囲む、堅牢な防壁。私たちが初めて出会い、そして逃げ出したあの場所。「最初の街」の輪郭が、陽炎を揺らしながら、確かな現実として私たちの前に姿を現したのだった。
328:変わった私
巨大な石造りの城壁が、一歩、また一歩と近づくにつれて、私の胸の奥に眠っていた古い記憶が静かに蘇ってきた。それは、あの追手から逃れ、恐怖に震えながらくぐり抜けた夜の記憶だ。当時の私は自分の魔法の才能を信じられず、ただ「落ちこぼれ」という烙印に怯え、息を潜めて生きることしか考えていなかった。
城壁を見上げる私の手が、わずかに震えていることに気がついた。怖いのだろうか?いや違う。この震えは恐怖ではない。かつての弱かった自分と、今の自分との間に存在する、あまりにも大きな違いに対する武者震いのようなものだった。
「どうしたリゼ。足が止まってる。やっぱりあの中に入るのが怖くなったか?」
少し前を歩いていたガブが振り返り、心配そうな目を向けてきた。彼の言葉の裏には、「お前が嫌なら、今すぐ引き返してもいいんだぞ」という、彼なりの不器用な優しさが隠されているのが分かった。
「ううん、怖くはないわ。ただ、少し思い出していただけよ」
私は、震えの治まった手を胸に当て、深く息を吸い込んだ。
「あの日、私はすべてを失って逃げ出した。王国からも、家族からも、そして自分自身の誇りからも」
視線の先には、街へと続く巨大な正門があり、そこには槍を持った衛兵たちが厳しい顔つきで通行人の検問を行っていた。かつての私なら、あの衛兵の鎧を見ただけで足がすくみ、物陰に隠れていただろう。けれど、今の私の心は、驚くほどに静かに澄み渡っていた。
「でもね、ガブ。今は違うの。私は世界の果てである楽園を見て、そして自分の意志でここにきた。誰かに追われて逃げ込むんじゃないわ。私たちは、私たちの物語を新しく始めるために、この門をくぐるのよ」
私は、自分の内側を流れる魔力に意識を向けた。それはかつてのように、焦りや恐怖に急かされて暴走するようなものではない。大地の脈動と呼応し、まるで静かな川のように、穏やかに、そして力強く私の身体中を満たしている。
私はもう、「落ちこぼれの令嬢」ではない。世界を知り、精霊たちの声を聞き、そして何より隣にいるこの緑色のゴブリンという、かけがえのない相棒の背中を預かる「一人の魔術師」なのだ。
「へっ、言うじゃないか。顔つきが、随分と一丁前になったな」
ガブは牙を見せて笑い、腰に下げたミスリルの鍋のふたをポンと叩いた。
「けどオレがこのままの姿で正門を突っ切れば、衛兵どもが槍を突き出して大騒ぎになるのは目に見えてる。お前が変わったのは分かったが、世間の奴らのオレに対する見方は変わっちゃいないからな」
「ええ分かっているわ。だから、少しだけ精霊たちに手伝ってもらうの。街に入るための、ささやかな変装よ」
私はガブに近づき、彼が深く被っている粗末なフードの端にそっと触れながら、周囲に満ちる光と影の精霊たちへ、静かに祈りを捧げた。
(陽の光を和らげ、万物に安らぎの陰りをもたらす優しき影の精霊たちよ。そして人々の視線を幻惑し、真実を薄布の奥に隠す、幻影の眷属よ。私たちは今から、偏見と警戒に満ちた人の世の門をくぐろうとしています。彼らは私の友の姿を見れば、いわれのない恐怖を抱くでしょう。どうかあなたたちの織りなす光と影のベールで彼の姿を優しく包み込み、衛兵たちの目には、ただの『大柄な旅の従者』として映るように、ささやかなまやかしを与えてはいただけないでしょうか。誰も傷つけず、ただ静かに通り過ぎるための、小さな嘘をお許しください……)
私の指先から微かな魔力が流れ出ると、ガブを包み込む空気がふわりと歪んだ。ゴブリン特有の緑色の肌や、鋭い牙、尖った耳が、周囲の光の屈折によってぼやけ、まるで長旅で顔を隠した、屈強な人間の男のように見えるようになった。決して完璧な幻術ではないが、すれ違う程度であれば、誰も彼を魔物だとは気づかないだろう。
「なんだか、薄皮一枚被ったみたいでむず痒い」
「我慢してね。街の中に入って、安全な宿を確保するまでの辛抱だから」
私は微笑み、彼に向けてしっかりと頷き返した。私たちが並んで歩き出すと、正門の衛兵たちは私たちを一瞥しただけで、特に引き止めることもなく通り抜けさせてくれた。私たちは今、顔を上げて堂々と通り抜けたのだ。
329:すれ違う人々
門をくぐり抜けた瞬間、私たちを包み込んだのは、圧倒的なまでの「音」と「匂い」の洪水だった。石畳の通りには、無数の露店がひしめき合い、威勢のいい商人たちの怒声にも似た呼び込みの声が飛び交っている。荷馬車を引く牛の低い鳴き声、鉄を打つ鍛冶屋の槌音、そしてどこからか漂ってくる、香草と一緒に肉を焼く強烈な匂い。楽園の、あの永遠に続く静寂と無臭の世界とは正反対の、泥臭く、騒々しく、そして熱気に満ちた「人間の生活」が、そこにはあった。
「うおっ、相変わらず目が回りそうな場所だな。人間ってのは、どうしてこうも一箇所に集まって、ギャーギャー騒ぐのが好きなんだ?」
ガブは、人混みにぶつからないように身体を小さく丸めながら、私の背中に張り付くようにして歩いていた。フードの奥で、彼の目は周囲の人間たちを警戒するように鋭く光っている。
「それが人間がこの世界で生き残るための知恵なのよ。一人では弱いからこそ、集まって、取引をして、情報を共有して、お互いの足りない部分を補い合っているの」
私は、通りを歩く人々を一人ひとり、ゆっくりと観察した。
すれ違う豪商らしき男は、恰幅の良い腹を揺らしながら、少しでも安く商品を買い叩こうと目玉をぎらつかせている。路地裏からは、親の目を盗んで走り回る子供たちの甲高い笑い声が聞こえる。一方で道の片隅には、疲れ切った顔でその日暮らしの小銭を数える冒険者の姿もあった。そこには、清らかな善意だけが存在するわけではない。他者を出し抜こうとする嘘、些細な裏切り、見栄、そして欲望。人間の持つ醜い部分が、街のあちこちに隠されることなく露呈している。
けれど私は今、その「醜さ」すらも愛おしいと感じていた。楽園の精霊たちは、争うことも、欲しがることも知らなかった。だからこそ、彼らの世界には「明日を良くしよう」という情熱も存在しなかったのだ。ここを歩く人々は、誰もが自分の人生を必死に生きている。時には過ちを犯し、傷つけ合いながらも、泥水の中で懸命にもがいている。その不完全な生命の輝きが、私の心を強く揺さぶるのを感じた。
「おいリゼ。気をつけろ。あっちから面倒そうな連中が来るぞ」
ガブの低い声にハッと顔を上げると、通りの向こうから、きらびやかな鎧を身にまとった王都の騎士団の小隊が歩いてくるのが見えた。彼らの胸には、私が見慣れた、そしてかつて心から恐れていた王国の紋章が刻まれている。おそらく、辺境の警備か何かで派遣されてきたのだろう。人々は彼らの威圧的な態度に恐れをなし、サッと道を空けていく。
かつての私なら、顔を青ざめさせ、すぐに近くの路地裏へと逃げ込んでいただろう。しかし今の私は逃げなかった。
「大丈夫よガブ。堂々としていればいいの」
私は歩調を崩すことなく、まっすぐに前を見据えて歩き続けた。すれ違う瞬間、小隊の隊長らしき騎士が、一瞬だけ私の方へ鋭い視線を向けた。私の銀色の髪が、彼らの探している「逃亡した令嬢」の情報を刺激したのかもしれない。私は足を止めず、彼の視線から逃げることなく、ただ静かに、冷ややかなほどの落ち着きを持って見つめ返した。その瞳の奥にある、微かな魔力の揺らめきを感じ取ったのか、騎士は小さく舌打ちをして、それ以上私を追及することなく通り過ぎていった。
「ふぅ。肝が冷えた。お前、よくあんな連中相手に瞬き一つしなかったな」
騎士たちが遠ざかった後、ガブが大きなため息をつきながら言った。
「言ったでしょう?もう怖いものなんて何もないって」
私は小さく笑い、ガブの大きな背中をポンと叩いた。
「私には、世界一頼りになる相棒が隣にいてくれるもの。騎士団だろうが、魔物の群れだろうが、今の私たちなら乗り越えられない壁はないわ」
「へっ。調子のいいこと言ってる。だがまぁ、その言葉、嫌いじゃないな」
ガブは照れ隠しのように鼻を擦り、再び人混みの中へと歩き出した。
騒がしく、嘘と欲望にまみれ、それでも力強く脈打つこの世界。すれ違う人々の喧騒に包まれながら、私たちはこの街の中心にある目的地へと向かっていた。




