EP110
324:帰り道ではない
深い霧に包まれた森の入り口で、ガブが天に向かって吠えるように宣言した。その野太く、少ししゃがれた声は、湿気を帯びた重い空気を震わせ、周囲の木々の葉からポロポロと冷たい雫を振るい落とした。
先ほどまで私たちがいた「楽園」では、音というものは常に最適化され、心地よいBGMのように処理されていた。しかし今のガブの声は違う。鼓膜を物理的に叩き、空気の振動という名の「ノイズ」を伴って私の脳内へと直接入力されてくる。それがたまらなく心地よかった。
「ええそうね。最高にバカな二人組……悪くない響きだわ」
私は、鉄の杖を泥だらけの地面に突き立てながら、小さく笑みをこぼした。
どんよりとした曇り空から降り注ぐ小雨は、私の銀髪を濡らし、使い古されたローブに冷たい染みを作っていく。体温が外気温の影響を受けて徐々に低下していくのを感じる。
「いくらなんでも、戻ってきて最初の天気がこれってのは、精霊共の嫌がらせじゃないのか?」
ガブは、自分の緑色の肌にこびりついた泥を忌々しそうに拭いながら、鼻に皺を寄せた。
「嫌がらせではなくて、これがこの世界の当たり前なのよ。さあ、愚痴を言っていないで歩きましょう。まずはこの霧の森から開けた場所に出ないと、あなたの望む『まともな肉』にもありつけないわよ」
私は杖を頼りに、ぬかるんだ獣道へと足を踏み出した。ズブッ、という不快な音と共に、ブーツが泥に沈み込む。
「ケッ。言うのは簡単だがな、リゼ。お前のそのヒョロヒョロの足で、この泥沼をいつまで歩けるんだ? またすぐに『ガブ、おぶってちょうだい』なんて泣き言を言うんじゃないだろうな。」
「誰が泣き言なんか言うもんですか。」
私は立ち止まり、周囲に立ち込める霧と、足元の泥濘に意識を集中させた。
ここには、楽園の精霊たちのような統率された美しさはない。野生の精霊たちは、各々が勝手に動き回る、言ば独立した存在だ。
(気まぐれなる森の精霊たち、そして万物を育む大地の眷属よ。私たちは今、あなたたちが統べるこの無秩序なる生命の輪廻へと帰還いたしました。どうか泥の結合をほんの少しだけ強め、視界を遮る水分の粒度を下げてはいただけないでしょうか。私たちのささやかな歩みが、この森の営みを乱さぬことを誓います……)
私の体内のマナが、周囲の環境へと出力されていく。
野生の精霊たちは面白がるように霧を揺らした。完全に霧が晴れるわけではない。完全に泥が乾くわけでもない。しかし私が次に踏み出す足元の土は、確実に固さを増し、前方の木々の隙間に、微かながらも進むべき方角を示す「風の通り道」が生成された。
「よし。これで道ができたわ。歩く早さもあがるはずよ」
私が満足げに頷くと、ガブは呆れたように大きなため息をついた。
「お前、相変わらずマナの使い方がみみっちいっていうか、理屈っぽいな。もっとドカンと風を吹かせて、霧ごと吹き飛ばしたらいいだろ」
「そんなことをしたら、森全体に負荷をかけることになるわ。」
私たちは、少しだけ歩きやすくなった獣道を、横に並んで進んでいく。冷たい雨は降り続いている。お腹も空いている。しかし、私の足取りは逃げ出した夜の、怯えきったものとは全く異なっていた。
「なぁ、リゼ」
ガブが、前を向いたままポツリと口を開いた。
「森を抜けたらどうする気だ? また人目を避けて日陰をコソコソ歩く生活に戻るのか? 王都の連中や、アカデミーの追っ手に怯えながらよ。あの楽園を見つけるまでの逃亡生活にな」
彼の言葉には、単なる疑問以上の重みがあった。過去の私たちは、常に「追われる側」だった。社会から排除され、削除されるのを待つだけの存在。もしこの旅が単なる「楽園からの帰還」であるならば、私たちは再びその惨めな立場へと巻き戻しすることになる。
「ガブ。これは帰り道ではないのよ」
私は、前方の霧を鋭く見据えながら、はっきりと答えた。
「私たちは一度、世界の果てである楽園に辿り着いた。伝説を自分たちの目で確認し、そして、それを自らの意志で断ったの。つまり、私たちはもう、過去に縛られる必要はないってこと」
ガブは皮肉げに口角を上げたが、その瞳には明確な光が宿っていた。
「要するに、もう二度と誰からも逃げ隠れしないで、堂々と表通りを歩いてやるってことだろ?」
「ええ、その通り」
過去に戻るのではない。私たちは、この不完全な世界を、自分たちの足で全く新しく歩き直すのだ。冷たい雨が打ち付ける中、私たちの心には、どんな魔法の炎よりも熱く、確かな「意志」が燃え上がっていた。
325:新しい道へ
数時間に及ぶ行軍の末、私たちの視界を覆っていた深い霧が、突如として薄れ始めた。私たちは森の境界線を突破したのだ。目の前には、緩やかな下り坂の先に、見渡す限りの広大な荒野が広がっていた。地平線の彼方には、険しい岩肌を剥き出しにした山脈が連なり、所々に名もなき集落の煙が立ち昇っているのが見える。楽園とは対極にある、あまりにも乱雑で、自然な造形。
「はぁ。やっとあのジメジメしたところから抜け出せた」
ガブは大きく伸びをすると、道端に転がっていた苔むした倒木の上にどっかりと腰を下ろした。私はその横に立ち、深く息を吸い込む。雨はすでに上がり、雲の切れ間から差し込む太陽の光が、荒野のあちこちに水溜まりを光らせていた。
「よし、現在地は不明だけど、少なくともあの森よりは格段にいいわね。ガブ、さっきあなたが望んでいた『まともな肉』の気配はする?」
「ああ。そこら中に、血の通った生き物の匂いがプンプンする。ウサギに、野鳥に……それから、少し離れたところにデカい猪みたいな奴もいるな」
ガブは鋭い牙を舌で舐め回しながら、ゴブリン特有の狩猟本能を完全に起動させていた。楽園では完全に休眠状態にあったその機能が、今、猛烈な勢いで稼働を始めている。
「じゃあ、昼食の調達はあなたに任せるわ。私はその間に、私たちの服を直すわ」
「へいへい。まぁいい。久々の狩りだ、腕が鳴るぜ」
ガブは錆びたナイフを片手に、弾かれたように荒野の茂みへと飛び出していった。
彼を見送った後、私は倒木の上に自分の荷物を広げた。すっかり泥に汚れ、冷たく湿ってしまったローブ。これをこのまま放置すれば、体温低下が継続し、風邪のリスクが高まる。私は、雲の隙間から顔を出した太陽の光と、荒野を吹き抜ける風に宿る精霊たちへ、意識の波長を合わせた。
(大空を駆け巡り、淀みを払い除ける、自由奔放なる風の精霊たちよ。そして、万物に等しく熱を与え、生命の燃焼を促す、炎の眷属よ。どうかこの荒野を吹き抜ける風を少しだけ束ね、そこに微かなる熱量を乗せて、私たちの衣服に染み込んだ余分な水分を蒸発させてはいただけないでしょうか。あなたたちの温かな息吹が、私たちの新たな旅路の最初の恩寵となりますよう……)
私のマナが空気中に拡散すると、周囲の風がふわりと温度を上げた。それは暴力的な炎の魔法などではなく、まるで春の陽だまりのような、優しくも確かな熱を帯びた微風だった。温かな風が私の全身を包み込み、泥まみれだったローブを急速に乾燥させていく。不快だった湿り気が消え、布地が本来の軽さを取り戻す感覚。物理的な快適さが、精神も劇的に回復させていく。
「ふぅ。これで完了ね。やっぱり、精霊との対話は丁寧に行うのが一番いいわ」
私は乾いたローブを羽織り直し、眼下に広がる荒野を見つめた。ここから先、私たちが歩むべき道は、どこにも記されていない。かつての私は、常に「誰かが敷いた安全なレール」を探して生きてきた。貴族としてのレール。アカデミーの生徒としてのレール。そしてそこから外れた後は、ただ端から端へと逃げ惑うだけだった。
「おーい! リゼ! 大物だ!」
茂みの奥から、ガブが誇らしげな声を上げながら戻ってきた。その肩には、丸々と太った野ウサギらしき獣が担がれている。彼の顔には泥がはね、ナイフには生々しい血が付着していたが、その表情は楽園で光の果実をかじっていた時よりも、何百倍も生き生きとしていた。
「上出来よガブ。素晴らしいわ。それじゃあさっそく調理しましょうか」
「任せとけ、最高の焼き加減にしてやる」
私たちは、倒木のそばで小さな焚き火を熾した。肉が焼ける香ばしい匂いが、荒野の風に乗って広がっていく。それは、私たちがこの不完全で、残酷で、けれど果てしなく自由な世界で、確かに「生きている」という証の匂いだった。新しい道は、誰かに与えられるものではない。
326:地図の空白を埋める旅
日が沈み、荒野に夜の帳が下りた。私たちは、風を凌げる大きな岩肌の窪みにベースキャンプを構築し、焚き火を囲んでいた。ガブが仕留めた野ウサギの肉は、硬くて筋張っていたが、噛み締めるたびに強烈な旨味が口の中に広がり、私たちの空っぽだった胃袋を確かな満足感で満たしてくれた。
「ふぅ、食った食った。やっぱり、命を奪って食う肉は格別だな。あの楽園の、腹にたまらない光の塊とは大違いだ」
ガブは満足げに腹をさすり、焚き火のそばで大の字に寝転がった。彼の緑色の顔は、焚き火の赤い光に照らされて、どこか穏やかな安堵を浮かべている。私は、食後の温かい茶(道中で見つけた薬草を煮出したもの)をすすりながら、懐から厳重に保管していた一編の古い羊皮紙を取り出した。
それは、あのアカデミーの書庫の最奥から私が持ち出した、この大陸の広域地図だ。逃亡生活の間、何度も広げては現在地を確認し、追っ手の予測ルートを回避するために使ってきた。
「ねえガブ。この地図を見て」
私が羊皮紙を広げると、ガブは面倒くさそうに片目を開け、身体を起こした。
「あ?なんだよ、また現在地の計算か?オレはそういう細かいのは苦手だって知ってるだろ」
「現在地じゃないわ。見てほしいのは、ここよ」
私は、地図の北端を走る巨大な山脈のさらに向こう側や、西の海と記された先の領域、そして、大陸の中央部にいくつか存在する「詳細不明」とだけ書かれた空白の領域を指差した。
「王都の学者たちや、アカデミーの偉い教授たちは、この地図の空白部分を『未踏の地』、あるいは『何もない場所』として処理しているわ。危険すぎるか、あるいは調べる価値がないとして除外してしまっているの」
「まぁそうだろうな。誰も好き好んで、魔物がうようよしてるかもしれない場所に突っ込みたくないだろうし」
「ええ。かつての私もそう思っていたわ」
私は地図の余白を優しく指先でなぞった。
「でもね、楽園をこの目で見て、そしてそれを拒絶した今の私には、この空白が全く別のものに見えるの。ここは、何もない場所じゃない。まだ誰も観測していないから、書き込まれていないだけの『巨大なキャンバス』よ」
「キャンバス? 絵でも描くってのか?」
「そうよ。この地図の空白を、私たちの経験で上書きしていくの。どこにどんな魔物がいて、どんな美しい景色があって、どんな不味い食べ物があるのか。それを全部、私たちの足跡で埋めていく旅」
それが、私が導き出した、この世界における「新しい生き方」だった。復讐でもなく、逃亡でもなく。ただ、未知の事象を解き明かし、自分の手で世界を構築していくこと。
「へっ。地図の空白を埋める、ねぇ」
ガブは鼻を鳴らし、焚き火に新しい薪を放り込んだ。
「大層な目的だが、そんな金にもならない道楽に命を懸けるバカは、世界中探してもオレくらいのもんだろうな。まぁいい。その『空白』に、今日みたいな美味い肉があるなら、どこまででも付き合ってやるよ」
「ありがとうガブ。最高のパートナーだわ」
私は微笑み、そして地図の一点を強く指差した。空白地帯ではなく、地図の中心部近く、アカデミーの勢力圏の縁に位置する場所。
「でも、未知の領域に挑む前に、まずは私たちの身分を再定義する必要があるわ。ただの浮浪者としてうろついていては、関所を越えることも、ギルドで情報を集めることもできない」
「おいリゼ。お前が指差してるそこって……」
ガブの顔が引き攣った。
「ええ。冒険者が集う『最初の街』よ」
「正気か!? あそこのギルドの連中は、オレの首に懸かった賞金を狙ってたんだぞ! お前だって指名手配されてる真っ最中じゃねぇか!」
「だからこそよ。逃げ隠れする私たちは終わったの。これからは、堂々とギルドの正面扉を開けて、新規の冒険者パーティとして正規登録するのよ。過去の因縁を無くさない限り、本当の自由な旅は始まらないわ」
私は、焚き火の中で揺らめく火の精霊たちへ、静かな、けれど強固な決意を込めて呼びかけた。
(暗闇の恐怖を退け、真実の輪郭をこの世界に浮かび上がらせる、情熱と探求の精霊たちよ。そして、古き灰の中から新たな光を生み出す、浄化の眷属よ。私たちはこれから、誰も記したことのない空白の領域へと旅に出ます。どうかこの小さな焚き火の温もりと共にその輝きを深く焼き付けてはいただけないでしょうか……)
パチッ、と大きく火の粉が爆ぜた。
伝説の楽園を終わらせた私たちは、明日、かつて最も恐れていた「人間の社会」へと堂々と帰還する。地図の空白を埋める旅の第一歩は、世界に「私たちがここにいる」と宣言することから始まるのだ。




