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旅の友に選んだのはゴブリンでした  作者: 竜神
第7章:嘘のない楽園

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EP109

321:シンプルな答え


私は、周囲に漂う「秩序」を司る精霊たちへ、意識を向けた。


(すべての混沌を払い、汚れなき静寂を統べる、大いなる調和の精霊たちよ。そして命の欠落を埋め、完成された美を永劫に繋ぎ止める、真理の眷属よ。私たちはあなたたちの慈悲を十分に受け取りました。飢えを知らず、傷を知らず、死さえも遠ざけるこの地は、確かに魂の救済なのでしょう。けれど、教えてください。欠落のない生命に、果たして『意味』はあるのでしょうか。完成された物語に、次のページをめくる必要はあるのでしょうか……)


私の言葉に、精霊たちは一瞬だけ、戸惑うような震動を返した。彼らにとって、欠落とは悪であり、修正されるべきバグだ。けれど私たちという不完全な生き物にとって、その「バグ」こそが「意志」を生む燃料だったのだ。


「ガブ……。あなた今、何がしたい?魔法で出せるものじゃなくて、あなたの心から湧き上がる願いを教えて」


私は、彼の濁った瞳を真っ直ぐに見つめた。ガブは少しだけ考え込み、それからポツリと、拍子抜けするほど単純なことを口にした。


「肉が食いたい。それも、ここにあるようなキラキラした『光の塊』じゃない。血が滴って、噛み切るのに苦労するような、あの汚ない森にいた野兎の肉だ。ここには精霊みたいな虫(光虫)しかいないんだよ。そんなもん、いくら食ってもオレの魂は喜ばない」


肉が食べたい。あまりにもシンプルで、けれどこの上なく力強い「生」の答え。私はその言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「そうね。私も、泥だらけの服を洗うために冷たい川の水を呪ったり、あなたの小言に腹を立てたりしたいわ。完璧な安らぎなんて、死んでからで十分なのよ」


シンプルな答え。私たちが求めていたのは、ゴールで座り込むことではなく、まだ見ぬ明日への一歩を踏み出すことだったのだ。私は杖を強く握り直した。手のひらに伝わる鉄の硬い感触が、ようやく私の実在を肯定してくれたような気がした。


322:リゼの決断


ガブの吐き出した「肉が食いたい」という言葉が、私の心にかけられていた楽園の呪縛を完全に打ち砕いた。私は、目の前に広がる美しすぎる景色を、初めて「他人のもの」として認識した。ここは私たちが生きていくべき場所ではない。ここにある美しさは、変化を拒む石像のためのものであって、呼吸をし、汗を流し、老いていく私たちのためのものではないのだ。


「ガブ、立って。私たちの『家』はここにはないわ」


私が凛とした声で告げると、ガブは驚いたように目を見開いた。


「おい。本気か?あのアカデミーよりもマシだって言ってたじゃないか。ここを出たら、また追っ手が来るかもしれないし、野垂れ死ぬかもしれないんだぞ」

「ええ、分かっているわ。でもここで静かに消えていくのを待つより、野垂れ死ぬ方がずっと私らしいと思わない?」


私は、かつて父に「お前は出来損ないだ」と言われた時の悔しさを思い出した。あの時、私は確かに傷ついた。けれどその傷があったからこそ、私は家を飛び出し、あなたと出会い、ここまで歩いてこれたのだ。傷つくことも、嘘をつかれることも、裏切られることも。それらすべてが、私という人間を形作る大切な欠片ピースだった。


私は楽園の核となる「根源の精霊」たちへ向けて、最後のそして最も丁寧な対話を開始した。


(不変の理想郷を編み、時の流れを愛で包む、最高位の聖霊たちよ。そして汚れなき真理の扉を守護し続ける、光輝の眷属よ。どうか私の身勝手なる決断をお許しください。あなたたちが用意してくださったこの極楽は、私にとって過ぎたる宝物でした。けれど私はまだ、完成されることを望んでいません。私は、間違え、迷い、泥を跳ね上げながら歩く、あの『不完全な世界』に帰りたいのです。それが、私という魂が選んだ、唯一の自由なのです)


私の魔力は涙のように温かく、そして鋼のように硬い意志を伴って空間に広がった。精霊たちは、激しく揺れ動いた。楽園を拒絶する者など、これまでの悠久の歴史の中で一人もいなかったのだろう。空の色が目まぐるしく変わり、足元の花々が一度に萎れ、そしてまた瞬時に咲き誇る。世界全体が、私の決断を翻させようと、ありとあらゆる「幸福の幻影」を見せつけてきた。


しかし私の横にはガブがいた。彼はすでにミスリルの鍋のふたを構え、いつでも走り出せる姿勢を取っている。


「ヘッ、お前がそう言うなら、オレはどこへでも付いていく。ただし、次に見つけた獲物はオレが先に食わせてもらうからな!」


その下品で力強い言葉が、私に勇気を与えてくれた。私は杖を高く掲げた。


「私はリゼ。完璧な楽園を捨て、最悪で最高な『明日』を選ぶわ!」


決断は下された。足元の真珠色の土がひび割れ、そこから私たちの帰るべき道への「扉」が、再びその姿を現し始めた。


323:楽園を背にして


白銀の扉が、再び私たちの前に現れた。扉の向こう側からは、楽園の清浄な空気とは真逆の、えた土の匂いや、風に乗って流れてくる草木のざわめき、そして名前も知らない生き物たちの騒がしい叫びが聞こえてくる。それは私たちがかつて「地獄」と呼んだ、不完全な世界の息吹だった。


「行くわよ、ガブ。振り返らないで」

「分かってる。あばよ、退屈な天国さん。オレにはやっぱり不味い芋と小言のうるさい相棒がお似合いだ」


ガブは鼻を鳴らし、迷うことなく扉の境界線を踏み越えた。

私もまた一歩を踏み出す。その瞬間、背後から溢れていたあの強烈な光が、ゆっくりと遠ざかっていくのを感じた。身体が重くなる。肺に流れ込む空気は冷たく、少しだけ肺が痛む。足の裏には、石の硬さや泥のぬめり、そして微かな痛みが戻ってきた。ああ、生きている。不快な刺激が、これほどまでに愛おしいと感じる日が来るとは思いもしなかった。


私は扉が閉まる直前、楽園の精霊たちへ最後のお別れを告げた。


(安らぎをくれた、慈悲深き精霊たちよ。あなたたちの守る沈黙に、私は救われ、そして自分を取り戻すことができました。心からの感謝を。けれど私はもう、光の中に留まることはありません。私は影のある場所へ、汚れのある場所へ戻ります。さようなら。あなたたちの永遠の調和が、これからも孤独な魂の灯台であり続けますよう……)


バタン、と重厚な音が響き、扉は跡形もなく消え去った。気づけば、私たちは深い霧に包まれた、いつかの森の入り口に立っていた。空はどんよりとした曇り空。風は湿り気を帯びて冷たく、私の旅装束を容赦なく濡らしていく。


「ハッ。最高に不愉快な天気だな」


ガブが顔を拭いながら、満足そうに笑った。


「ええ。最低の気分よ。お腹も空いてきたし、足も痛いわ」


私は杖を地面に突き、泥を跳ね上げながら一歩を踏み出した。

ここは帰り道ではない。楽園を経て、私たちは全く新しい旅を始めたのだ。伝説の楽園を見つけるという目的は果たされた。けれど私たちの「本当の物語」は、ここから加速していく。地図の空白を埋める旅。伝説を、単なる過去の遺物として終わらせるための旅。私は隣を歩く、相変わらず不機嫌そうな顔をしたゴブリンを見上げた。


「ねえガブ。これからどこへ行こうか?」

「決まってるだろ。まずはまともな肉が食える場所だ。それからオレたちの名前を、もう一度世界に知らしめてやる。伝説の終わりを見た、最高にバカな二人組としてな!」


私たちは楽園を背にして歩き出した。前方に広がるのは、嘘も裏切りも、そして無限の可能性も孕んだ、騒がしい世界。私はもう、何も怖くなかった。私の隣には、世界で一番信頼できる、けれど世界で一番「不完全」な旅の友がいるのだから。

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