EP108
318:何かが足りない
私は、周囲に漂う精霊たちの気配をそっと探った。この楽園を構成するマナは、あまりにも純粋で、あまりにも静かだ。
(万物に調和をもたらし、永遠の静寂を守護する、高潔なる精霊たちよ。そして命の欠落を埋め、完璧な形を維持し続ける、秩序の眷属よ。私たちは今、あなたたちの慈悲に包まれ、かつてない安らぎの中にいます。飢えはなく、傷もなく、明日への不安さえもここには存在しません。けれど、教えてください。私たちの魂が、どうしてこのように『空腹』を感じているのかを。この完璧な世界において、私たちが失くしてしまったものは何なのでしょうか……)
これまでの旅で培ってきた、精霊への最大限の敬意と丁寧さを込めた詠唱。私の魔力は、凪いだ水面のような楽園のマナに溶け込んでいった。しかし返ってきたのは、慈愛に満ちた、けれど中身のない「沈黙」だった。精霊たちは答えない。なぜなら、ここでは「問い」そのものが不要だからだ。すべての答えが最初から用意されている場所。それがこの楽園なのだ。
「何かが、足りないのよ」
私は立ち上がり、一面に広がる誰もいない花畑を見渡した。美しすぎる色彩、心地よすぎる微風、そして完璧に整えられた静寂。かつての私なら、これこそが人生の理想だと思ったかもしれない。蔑まれ、居場所を失った私にとって、この「誰も傷つかない世界」は夢にまで見たユートピアだったはずだ。けれど今、私の心は、かつて砂漠で喉が焼けるような渇きを覚えた時と同じ、激しい「欠乏」に苛まれていた。それは、物理的な飢えではない。もっと根源的な、自分の存在意義を揺るがすような飢餓感だった。
319:ガブのあくび
三日間私たちは同じ場所で、同じような時間を過ごした。朝、眩しい光と共に目覚め、実っている果実を食べ、小川で魚と戯れ、そして夜は柔らかな草の上で眠る。そこには一切の危険がない。ガブが夜通し見張りに立つ必要もなく、私が結界魔法を維持するために精神を削る必要もない。
「ふぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
隣で、ガブがこの世の終わりを象徴するような、長く、深いあくびをした。緑色の身体をだらりと投げ出し、かつての鋭い眼光はどこか遠くを彷徨っている。ゴブリンとしての野性は、この三日間で見る影もなく萎んでいた。かつての彼は、物音一つで跳ね起き、ミスリルのふたを構えて私を守ろうとした。その姿は、確かに醜く恐ろしい魔物だったけれど、同時に、誰よりも信頼できる「戦友」の輝きを放っていた。
「ガブ。またあくびをして。退屈なの?」
「退屈、か。そうかもしれない。あくびをするのにも、体力がいるんだ、リゼ」
ガブは指先で自分の牙を弄りながら、力なく笑った。
「あの頃は毎日が戦いだった。腹が減れば狩りをし、強い奴が来れば逃げ回る。死にたくないって、それだけで頭がいっぱいだった。なのに今は『死ぬ』ことが想像もできない。お前のその杖でぶっ叩かれても、この場所がオレを治すんだろ?」
確かにそうだった。私は、自分の足元で踊るように揺れている光の精霊たちへ、意識を向けた。
(移ろいゆく大気を司り、生命の拍動を奏でる、軽やかなる精霊たちよ。そして瞬きの中に変化を刻み、世界の呼吸を繋ぐ、時間の眷属よ。どうか、私の友が忘れてしまった『刺激』を、ひとときだけ呼び戻してはいただけないでしょうか。不変の安らぎではなく、肌を刺すような風や、心臓を跳ねさせるような雷鳴の断片を、私たちの元へ運んでください。停滞した魂に、一雫の揺らぎを……)
精霊への配慮を欠かさぬよう、丁寧な旋律を紡ぐ。すると一瞬だけ、突風が吹いた。私の銀髪が乱れ、ガブの頬を砂の一粒が叩く。けれど、その風もすぐに楽園の「調和」に飲み込まれ、元の穏やかな微風へと戻ってしまった。ここでは「不快」なものは存在を許されない。精霊たちは、私たちの願いを叶えることよりも、この世界の完璧さを維持することを優先しているようだった。
「なぁリゼ。お前の魔法も、ここではなんだか『綺麗』すぎて、鼻に付く」
ガブは皮肉めいて言ったが、その声には以前のような毒はなかった。ただ純粋な失望だけが混ざっていた。
「牙を磨いても噛み付く相手がいない。ふたを磨いても飛んでくる矢がない。オレは、ここで何してたらいいんだ?ただの、緑色の置物になったらいいのか」
ガブのあくびが、波紋のように私の心に広がる。それは、私の内側でも起きている変化だった。高度な魔法式を組み立てる喜びも、精霊と心を通わせる苦労も、この楽園では「最初から達成されている」ことになってしまう。私の探求心も、ガブの生存本能も、ここでは何の価値も持たない余剰品でしかなかった。
320:「退屈」
私たちは、いつしか言葉を交わすことさえ少なくなっていった。喋るべき話題がないのだ。明日の計画も、敵への愚痴も、旅先で食べた不味い飯の思い出話も。すべてが「今、ここにある完璧」の前では、無意味なノイズとして処理されてしまう。沈黙が広場を支配する。かつての沈黙は、死への恐怖に満ちた重苦しいものだった。けれど今の沈黙は、それ以上に残酷な、魂の死を予感させるものだった。
「ねえ、ガブ」
「あ?」
「退屈だわ」
ついに私はその言葉を口にした。禁忌の言葉を吐き出したかのように、私の心臓がドクリと跳ねる。この楽園に対して、感謝こそすれ、不満を抱くなど言語道断のはずだ。ここは、あらゆる苦しみから解放された「救いの地」なのだから。けれど、その一言を発した瞬間、私の視界を覆っていた眩い光の膜が、わずかに剥がれ落ちたような気がした。
「やっと言ったな、お嬢様」
ガブは、横になったままニヤリと笑った。その笑みには、久しぶりに「魔物らしい」狡猾な光が宿っていた。
「退屈。そうだな、その通りだ。死ぬほど退屈で、頭がどうにかなりそうだ。腹が一杯で、怪我もなくて、誰も嘘をつかない。そんな場所がこれほど居心地が悪いなんて、アカデミーの偉い先生たちも教えてくれなかっただろ?」
「ええ本当に。教えられなかったわ」
私は手にしていた鉄の杖を強く握りしめた。ここでは嘘がない。裏切りもない。けれどそれは「他者と関わることで生まれる揺らぎ」が一切排除されているということだった。嘘をつくのは、守りたいものがあるからだ。裏切るのは、どうしても叶えたい望みがあるからだ。不完全で、泥臭くて、時に醜い。けれど、それこそが「生きている」ということの証明だったのだと、私はこの楽園に来て初めて気づかされた。
私は、この世界の理を司る、根源の精霊たちへ問いかけた。
(真実の姿を映し出し、虚飾なき楽土を統べる、大いなる精霊たちよ。そして、嘘を払い除け、純粋なる魂を導く、光の守護眷属よ。あなたたちが築いたこの理想郷は、確かに一点の曇りもない完璧な世界です。けれど完璧であることは、これほどまでに残酷なことなのですか。変化なき永遠は、私たちのような移ろいゆく命にとって、もはや救いではなく、美しき檻なのでしょうか。どうか、私たちの魂が叫ぶこの『違和感』を、不敬として切り捨てるのではなく、一人の旅人の声として聞き届けてはいただけないでしょうか……)
詠唱の末尾、私の魔力に少しだけ「迷い」を混ぜた。精霊たちへの礼儀を守りつつも、今の私たちの正直な苦悩を伝えるために。すると周囲の空気が一瞬だけ重く沈み、眩しすぎる光がわずかに翳りを見せた。精霊たちが、困惑している。彼らにとって、この世界は究極の善だ。そこに住む者が「退屈」を感じるなど、想定外の事態なのだろう。
「ガブ……私わかった気がするの。ここには、確かに嘘はないけれど。『明日への期待』もないのよ。すべてが今、この瞬間に完成されてしまっているから」
「ああ。期待もなければ絶望もない。リゼ。オレ、決めた。このままここで綺麗な人形になるくらいなら、外で泥を食って死んだ方がマシだ」
ガブがゆっくりと上体を起こした。彼の目にはあの夜と同じ、未来を見据える強い意志が戻っていた。私たちは、夢にまで見た楽園という名の「終わり」に辿り着いた。けれどそこで知ったのは、自分たちが求めていたのは「安らぎ」ではなく、たとえ辛くても、自分の足で一歩ずつ進んでいく「旅そのもの」だったという事実。
嘘のない楽園。
穏やかな幸福感ではなく、完璧な世界に対する、ささやかな、けれど確固たる「反逆」から始まろうとしていた。私たちは、この美しすぎる景色を背にする準備を整え始めた。




