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旅の友に選んだのはゴブリンでした  作者: 竜神
第7章:嘘のない楽園

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EP106

312:静寂の響き


楽園の奥深くへと進むにつれ、私たちは一つの奇妙な事実に気づかされた。ここには本当の意味での「音」が存在しないのだ。


もちろん私たちが歩けば草がそよぐ気配はするし、ガブが背負ったミスリルの鍋のふたがカチャリと鳴る金属音も聞こえる。けれどその音は発せられた瞬間に、まるで乾いた砂が水を吸い込むように、この純白の空間へと吸い込まれて消えてしまう。反響エコーが一切ないのだ。広大な空間にいるはずなのに、まるで耳栓をしたまま分厚い真綿の中に閉じ込められているような、そんな圧迫感のある静寂だった。


「ねえガブ。私の声ちゃんと聞こえてる?」


私は自分の声が自分の耳に届くまでの距離さえも疑わしくなり、思わず彼の腕を掴んだ。


「ああ?聞こえてるぞ。けどなんだか変な感じだ。お前の声が、すぐ耳元で喋ってるみたいに近くて……それでいて、霧の向こうから聞こえてくるみたいに遠い」


ガブは顔をしかめ、自分の耳を指でほじくるような仕草をした。


「この場所、静かすぎるんだ。砂漠の砂嵐の方が、まだマシだった。あそこには少なくとも、世界が『生きてる』っていう騒がしさがあったからな」


ガブの言う通りだった。私は杖を地面に突き、周囲の魔力の波長を読み取ろうとした。通常どのような荒野であっても、そこには大気の流れや土壌の呼吸に伴う「精霊たちのざわめき」が存在する。しかし、この楽園を構成する精霊たちは、驚くほど整然としており、一切の雑音を発していなかった。


(静寂を愛し、秩序を編み上げる清廉なる精霊たちよ。そして音なき調べを奏で続ける、不変なる大気の眷属よ。私たちはこの静けさに、少しばかり戸惑っております。あなたたちが守るこの沈黙は、安らぎの証なのでしょうか。それとも何者も立ち入らせないための拒絶なのでしょうか。どうかこの張り詰めた空気の奥にある、あなたたちの真実の響きを、私にだけそっと教えてはいただけないでしょうか……)


私はマナを極限まで薄く広げ、精霊たちの膜を撫でるように語りかけた。力による干渉ではない。精霊たちの静止した時間を肯定しつつ、その内側に潜り込もうとする、極めて丁寧で且つ慎重な対話だ。


すると私の鉄の杖を通じて、微かな震動が伝わってきた。それは音というよりも、心臓の鼓動を極限まで遅くしたような、重低音の「響き」だった。楽園の静寂は無音なのではない。あらゆる音が、完璧な調和ハーモニーによって相殺され、一つの巨大な「静止」として完成されているのだ。それは完璧すぎて崩しようのない音楽のようなもの。


「ガブ、これを聞いて。いえ、感じてみて」


私はガブの手を取り、杖に触れさせた。


「っ。なんだこれ、頭の芯がジンジンする。これ、この場所自体が、ずっと鳴り続けてるのか?」

「ええ。世界が完成されたまま『固定』されている音よ。精霊たちは、もう新しく何かを語る必要がないの。すべてが答えとしてここにあるから」


私たちはその完璧すぎる静寂の中を再び歩き始めた。歩を進めるたびに、私たちの心臓の音だけが、この世界にとっての唯一の「異物」として、うるさいほどに鳴り響いていた。誰もいない、何も変わらない、永遠の静寂。それが楽園の第一の洗礼だった。私はふと、自分の声がいつかこの静寂に同化して、二度と誰にも届かなくなるのではないかという、根源的な恐怖に背中を撫でられた気がした。


313:確かに「嘘」はない


楽園を進む中で、私たちは一つの不思議な現象に直面した。ここにあるものは、すべてがその「本質」を剥き出しにしているのだ。


例えば目の前に広がる美しい湖。地上の湖であれば、深さは外からは分からず、底には泥や未知の怪物が潜んでいるかもしれない。けれどこの楽園の湖は違った。水面を覗き込めば、最深部の砂の一粒一粒、そこで静止している魚の鱗の枚数までが、まるで虫眼鏡で覗いたかのように明晰に見通せた。そこには「不透明さ」という概念が存在しない。


「見てよガブ。あそこの木に実っている果実。どれが一番甘くて、どれに種が入っているのか、見ただけで分かってしまうわ」


私は、透明な輝きを放つ樹木を指差した。


「ああ。隠し事ができない場所なんだなここは。オレの腹の中の空き具合まで、お前には透けて見えてるんじゃないか?」


ガブは皮肉めいて笑ったが、その瞳にはどこか落ち着かない色が浮かんでいた。

この楽園には、確かに「嘘」はない。悪意を持って自分を飾る者もいなければ、裏切りのために微笑む者もいない。かつて私がいた社交界は、嘘の塊だった。父の「期待している」という言葉の裏には、家名の存続という損得勘定があり、学友たちの「素晴らしい魔法ね」という称賛の裏には、劣等生を見下す優越感が隠れていた。私自身もまた、「大丈夫です」という嘘をつき続けて、心を摩耗させていた。


あの日々を思えば、この透明な世界は、どれほどの救いになるだろう。私は杖を握り直し、足元で光を放つ小石を拾い上げた。


(透明なる真理を司る、光輝の精霊たちよ。そして偽りを許さぬ清廉なる大地の眷属よ。あなたたちの世界には、影を作る隙間さえもないのですね。すべてのものが、ありのままの姿を晒し、何も隠さずに存在している。それはどれほど清々しく、孤独なことなのでしょう。この光に貫かれた世界で、私たちの心の隅にある『影』さえも、あなたたちは許してくださるのでしょうか……)


私が詠唱を終えると、手に持った小石が、私の体温を吸って僅かに白く濁った。完全なる透明を乱す、私という人間の温もり。それはこの楽園においては、一種の「汚れ」のようにさえ見えた。


「ガブ。嘘がないっていうのは、こんなに息苦しいことだったのね」

「ああ。オレみたいな魔物にとっては、嘘やハッタリは生きるための武器だったからな。敵を騙して逃げることも、弱みを隠して虚勢を張ることもできない。それは剥き出しのまま晒されてるってことだ。落ち着かない」


ガブは自分の傷だらけの拳を見つめた。ここでは、彼がどれほどの戦いを経てきたのか、その「痛み」さえもが、隠しようのない事実として視覚化されてしまう。楽園は私たちを裁きはしない。ただ、ありのままを照らし出す。けれど私たちは気づき始めていた。人間や魔物が持っている「秘密」や「建前」、そして時に他人を思いやるための「優しい嘘」。それらが剥ぎ取られた世界に残るものは、あまりにも無機質で、救いのない「純粋」でしかないということに。


「確かに『嘘』はない。けれど、そこには『物語』もないのね」


私はそう呟き、透明な水面に映る自分の顔を見つめた。そこには、これまでになく清らかな顔をした私がいた。けれど、その瞳の奥にあるはずの「迷い」や「葛藤」さえもが光に透かされ、消えかかっているように見えて、私はたまらず目を逸らした。


314:孤独な理想郷


どれほど歩いただろうか。空腹も喉の渇きも、この楽園の空気マナを吸っているだけで不思議と癒やされてしまう。肉体的な苦痛が消え去った代わりに、私たちの精神には、かつてないほどの「欠乏感」が忍び寄っていた。


私たちは今、楽園の中央にあると思われる「浮かぶ回廊」を歩いている。左右には、天にも届かんばかりの白亜の塔が立ち並び、そのバルコニーには色鮮やかな旗がたなびいている。地上であれば、そこには何千、何万という人々が暮らし、賑やかな市場の声や子供たちの笑い声が溢れているはずの光景だ。けれど、ここには、私たち以外の「誰か」の気配がまったくない。


「誰もいない。本当に、私たち二人だけなんだわ」


私は、整然と並ぶ豪華な調度品が置かれた広場を見渡した。そこには銀の食器が並び、黄金の噴水が輝いている。けれど、椅子は一度も引かれた形跡がなく、噴水の水を受け止めるべき水盤も、鏡のように滑らかなままだった。


「理想郷、か。誰も苦しまないし、誰も死なない。けどリゼ。それって最初から『誰もいない』から成立してるんじゃないのか?」


ガブの声が、孤独な広場に虚しく響いた。彼の言う通りだった。多様な命が共存すれば、必ず摩擦が起きる。欲求がぶつかれば嘘が生まれ、力がぶつかれば争いが起きる。この場所が「楽園」であり続けるためには、あらゆる不確実な「命」を排除しなければならなかったのだ。


私は広場の中央に立つ、翼を持った聖女の石像の下に跪いた。この石像さえも、誰かを模したものではなく、ただ「美しさの定義」を形にしただけの記号のように見えた。


(理想を形作り、永遠を護持する、崇高なる精霊たちよ。そして、寂寥せきりょうの果てに理想郷を築いた、孤独なる大地の眷属よ。あなたたちは、ここで何を待っているのですか。ここを訪れる者は、私たちのように過去を捨ててきた者だけなのでしょうか。それとも、こここそが、すべての命が最終的に行き着く、魂の『終点』なのですか。どうか、この完璧な無人の世界で、私たちの鼓動が止まってしまわぬよう、せめて微かな『生のしるし』を示してはいただけないでしょうか……)


私は杖を強く握り、懇願するように魔力を放った。しかし返ってきたのは、やはりあの「相殺された静寂」だけだった。精霊たちは、私たちの存在を否定していない。けれど肯定もしない。私たちは展示室に紛れ込んだ埃のように、この理想郷においては場違いな存在でしかなかった。


「ガブ、寂しいわね」

「ああ。ここには『願う』ことすら残されてない」


ガブは、豪奢な石造りのベンチにドサリと腰を下ろした。地上のどんな王侯貴族も手にできないような極上の居心地のはずなのに、彼はひどく窮屈そうに身を固くしていた。


孤独な理想郷。そこは、私たちが夢見ていた「自由」とは、正反対の場所だったのかもしれない。自由とは、選ぶこと。選ぶためには、不完全な選択肢が必要だ。すべてが完璧に整えられたこの場所で、私たちは何を選べばいいのだろうか。私たちは、楽園という名の巨大な静止画の中に、ぽつんと取り残された二つの「間違い」のように、寄り添い合うしかなかった。


私たちは安息ではなく、かつてないほどの魂の彷徨ほうこうへと足を踏み入れようとしていた。

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