EP105
309:眩しい光
白銀の扉が完全に開かれた瞬間、世界は「音」を失い、代わりに「光」という名の激流に飲み込まれた。それは、太陽を直接見つめた時の眩しさとは本質的に異なっていた。影を許さない、全方位からの絶対的な照射。視覚だけでなく、肌の表面、血管の一本一本、さらには魂の深淵までが白熱灯に晒されたかのように、すべてが白一色に染まっていく。
「っ!ガブ、離さないで!」
「分かってる!誰が離すか、こんな真っ白けな中で!」
繋いだガブの手の感触だけが、私が「私」であることを証明する唯一の錨だった。彼のゴツゴツとした手の甲に力を込めると、網膜の裏側に焼き付いたこれまでの旅の情景――泥だらけの街道、不気味な森、灼熱の砂漠――が、光の奔流の中で一つずつ解け、消えていくのを感じた。
この光は、外界の不純物を払い落としているのだ。アカデミーで学んだ魔法理論に基づけば、これは「高密度マナによる存在の再定義」にあたる。不完全な命が、完璧な調和の中に入るための、一種の洗礼。私は、眩暈を覚えながらも、この場に漂う極めて純粋な精霊たちの気配を感じ取ろうとした。
(輝きを司る、根源の精霊たちよ。そして境界を越えた者を受け入れる、光の先触れの眷属よ。私たちは今、あなたたちの領域へと踏み入りました。この眩しさは、私たちの過去を拒むものでしょうか。それとも、新しい道を示す灯火なのでしょうか。どうか私たちの瞳が真実を見極められるよう、その激しき光を穏やかな幕へと変えてはいただけないでしょうか……)
私は心の内で、最大限の敬意を込めて詠唱を紡いだ。杖を通じて放出された魔力は、私自身の内側にある濁りを含んだマナではなく、この空間に満ちる光と「共鳴」することを目指したものだった。
すると暴力的なまでに強かった輝きが、少しずつ、まるで朝霧が晴れるように柔らかなグラデーションを帯び始めた。白一色だった世界に、色彩の断片が戻ってくる。足元に広がるのは、雲よりも白い大理石のような床ではない。それは淡い真珠色をした柔らかな土壌だった。そして頭上に広がっていたのは、夜でも昼でもない、ただ無限の広がりを感じさせる「天」の色彩。
「光が落ち着いてきたわね」
「ああ。けどリゼ。なんだか身体が変な感じだ。重力がないっていうか、自分の身体が自分じゃないみたいだ」
ガブが顔をしかめながら、自分の腕を見つめた。彼の緑色の皮膚は、この光の下では神々しいほどの輝きを放っている。傷だらけだったはずのミスリルのふたも、まるで新品のような輝きを取り戻していた。
私たちは光の渦を抜けた。そこは伝説に語られた「楽園」の入り口。けれど、私の胸にあるのは、達成感というよりも、得体の知れない「違和感」だった。あまりにも清浄であまりにも静かすぎる。精霊たちの囁きさえも、ここでは数学的な正解のように整いすぎていて、生命の「揺らぎ」が一切感じられなかった。
310:楽園の正体
光のヴェールが完全に剥がれ落ちた時、私たちの眼前に現れたのは、言葉を絶するほど美しい「静止画」のような世界だった。
緩やかな起伏を描く丘陵には、エメラルドを砕いたような深い緑の草が茂り、その間を、透き通ったクリスタルのような小川が音もなく流れている。遠くには、浮遊する巨大な岩の島々が見え、そこから流れ落ちる滝は、空中で細かな光の粒となって霧散していた。木々には一年中熟しているであろう、見たこともないほど瑞々しい果実が実り、花々は一番美しい開花の瞬間を維持したまま、微動だにせず咲き誇っている。
「これが、『楽園』の正体なのね」
私は一歩踏み出した。足元の草は、踏まれても弾力を持ってすぐに元の形に戻る。泥一粒、枯れ葉一枚落ちていない。ここでは「腐敗」も「風化」も、概念として存在しないようだった。
「おい、見てみろリゼ。あそこの魚……動いてないぞ」
ガブが小川を指差した。確かに水の中で銀色の魚が数匹、鰭を広げたまま静止していた。死んでいるのではない。呼吸すら必要としないほど、完璧な均衡の中に「留まっている」のだ。
「ここは、すべての時間が止まっているわけではないわ。でも、『変化』という必要がなくなった場所なんだわ」
私は杖を地面に触れさせ、この地の深層心理を探った。
(不変を司る静止の精霊たちよ。そしてこの世界の調和を永遠に繋ぎ止める、秩序の眷属よ。教えてください。ここには飢えもなく、争いもなく、死もない。それは確かに、生命にとっての究極の救いなのでしょう。けれど、この美しさの奥にある、あなたの『声』はどこにあるのですか……?)
問いかけても、精霊たちからの返答はなかった。厳密には、返答は「完璧な静寂」そのものだった。砂漠の精霊たちは「喉が渇いた」と叫び、遺跡の精霊たちは「侵略者を許さない」と怒りを見せた。けれど、ここの精霊たちは何も求めない。満たされすぎていて、対話の余地さえ残されていないのだ。
「ガブ。ここは私たちがいた世界とは全く別の法則で動いているわ。嘘がない……。確かにそうね。隠す必要のある醜い真実も、奪い合うための欠乏も、ここには何一つ存在しないもの」
ガブは木に実っている果実を一つ、疑わしげに手に取った。
「食えるのか、これ。石鹸みたいに綺麗すぎて、逆に怖いな」
彼は一口かじると、不思議そうな顔をした。
「味は最高だ。今まで食ったどんな高級な芋より美い。けどなんだろうな。腹が満たされる感覚がしない。食っても食っても、オレの身体を通り抜けていくみたいだ」
それがこの楽園の正体だった。すべてが与えられ、すべてが完成されている。けれどそこには「生きるための抗い」が欠落していた。私たちは、目的地に辿り着いた。探し求めていた、伝説の終わりの場所に。ただ私の心に広がっていたのは、安堵ではなく、砂漠にいた時よりも深い「孤独」の予感だった。
311:誰もいない花畑
私たちは果てしなく続く花畑の中を歩き続けた。空は永遠の黄昏時のような、あるいは柔らかな朝焼けのような、曖昧で優しい色に彩られている。
花々は、紫、青、金、白……。地上では見たこともない色彩のパレードだ。一輪一輪が工芸品のように精密で、露の一滴さえも宝石のように固定されている。しかしどれだけ歩いても、そこに「羽音」は聞こえなかった。蝶も、蜂も、鳥もいない。花を揺らす風さえも、決まったリズムで吹く人工的な微風のようだった。
「誰も、いないわね。本当に」
私の声は、遮るものがないはずの花畑で、吸い込まれるように消えていった。反響すらも、この完璧な静寂の中では「乱れ」として排除されているかのようだった。
「楽園ってのは、もっとこう、美男美女が歌って踊って、酒池肉林な場所だと思ってたんだ。これじゃ、広すぎる墓場に迷い込んだみたいだ」
ガブは退屈そうに鍋のふたを足元で転がした。
私は立ち止まり、一面に広がる花々を見つめた。美しい。それは認めざるを得ない。私がかつて育った領地の庭園も、アカデミーの管理された薬草園も、ここの美しさの足元にも及ばない。けれどここには「私を待っているもの」が何一つなかった。
(名もなき花々の記憶を宿す、静謐なる精霊たちよ。あなたたちは、ここで何を待っているのですか。誰に愛でられることもなく、誰に摘まれることもなく、ただ永遠に咲き続けることに、疲れを感じることはないのですか……?)
私は杖を握り、花畑の精霊たちに語りかけた。すると足元の花が一瞬だけ、ほんの微かに震えた。それは返答というよりは、長い眠りの中で寝返りを打ったような、無自覚な反応に過ぎなかった。
楽園の住人は、精霊たちですら「個」を失い、この風景の一部として同化してしまっている。ここには嘘はない。けれど真実を語る「声」もない。幸福は保証されている。けれどそれを喜ぶ「心」の動きは、この静止した世界ではノイズになってしまう。
「ガブ。あなた、もしここにずっと一人でいろって言われたら、どうする?」
「勘弁してくれ。三日で頭がおかしくなる。ここでは喧嘩もできない、泥棒もいない、お前の小言すら響かないんだろ?そんなの、檻の中にいるのと変わらない」
ガブの言葉に、私はハッとさせられた。檻。私たちは檻を出て、この場所を目指してきた。不自由のない完璧な「楽園」を。けれど不自由がないということは、自分の力で「自由」を勝ち取る喜びもないということだ。
花畑を抜けた先には、さらに眩い光の塔が見える。あそこがこの世界の中心なのだろう。私たちは再び歩き出す。足音の響かない、誰もいない花畑を。旅の終着点は、私たちが夢見ていたものとは、少しずつ違う色を帯び始めていた。
私たちは、本当の意味での「幸せ」とは何かという、世界で一番難しい問いに直面しようとしていた。




