EP10
28:リゼの過去語り(独白)
その夜、焚き火の炎はいつもより静かに燃えていた。パチパチという音だけが、森の静寂に吸い込まれていく。ガブは夕食をお腹いっぱい食べた後、焚き火のそばで横になり、目を閉じていた。規則正しい寝息が聞こえる。私は、彼が昼間にくれた「石英」を手のひらで転がしながら、炎を見つめていた。
石英は、焚き火の光を受けてオレンジ色に輝いている。その透明な輝きを見ていると、ふいに、胸の奥に澱のように溜まっていた言葉が、溢れ出してきそうになった。
「ねえ、ガブ。起きてる?」
返事はない。ただ、寝息が少しリズムを変えた気がした。もしかしたら、うつらうつらしているのかもしれない。完全に眠っているのか、半分起きているのか。その曖昧な空気が、私の背中を押した。誰かに聞いてほしかったわけではない。ただ、言葉にして吐き出したかったのだ。この「嘘のない」空間で。
「私ね、ずっと籠の中の鳥だったの」
私は独り言のように語り始めた。実家の屋敷のこと。父のこと。母のこと。そして、5歳の時に発現した『真実の眼』という呪いのこと。
「ある日突然、人の心が色で見えるようになったの。最初は綺麗な色だと思ったわ。でも、すぐにそれが間違いだって気づいた」
父が「愛しているよ、リゼ」と言って頭を撫でてくれる時、彼の手からは鉛のような灰色の霧が出ていた。それは『期待』と『計算』の色。私を政略結婚の道具として値踏みする色。母が「自慢の娘よ」と微笑む時、彼女の背後には毒々しい紫色の炎が揺らめいていた。それは『虚栄心』と『自己愛』の色。私が優秀であればあるほど、自分の評価が上がることを喜ぶ色。
「誰も、私自身を見ていなかった。みんなが見ていたのは、『公爵家の令嬢』というラベルと、私の体に流れる希少な魔力だけ」
屋敷の使用人たちもそうだ。表面上は恭しく頭を下げるけれど、その心には『嫉妬』の濁った緑色や、『蔑み』の焦げ茶色が渦巻いていた。『攻撃魔法も使えない出来損ない』『目つきが気味悪い』。口には出さない本音が、視覚情報として突き刺さってくる毎日は、地獄だった。
私は膝を抱え、炎に向かって語り続けた。一番辛かったのは、婚約が決まった時のことだ。相手は隣国の伯爵家の次男。眉目秀麗で、王都中の令嬢が憧れるような貴公子だった。けれど、初めて彼に会った時、私は吐き気をこらえるのに必死だった。
「彼の心は……真っ黒だったの」
底なしの沼のような黒。その奥で、残酷な『加虐心』の赤色が蛇のようにのたうっていた。彼は私の手を握りながら、心の中で私を泣かせ、壊し、絶望させる空想を楽しんでいた。それなのに、父も母も「素晴らしい良縁だ」と喜んでいた。私が「あの人は怖い、嫌だ」と訴えても、「わがままを言うな」「贅沢な悩みだ」と一蹴された。
誰も信じてくれない。真実が見えているのは私だけ。世界中が嘘で塗り固められた舞台セットのようで、私一人が台本を持たずに放り出されたような孤独。
「息ができなかった。綺麗なドレスも、美味しい食事も、全部が私の首を絞める鎖にしか思えなかった」
だから、逃げた。家宝の杖と、最低限の荷物だけを持って。嵐の夜、窓から飛び降りて、泥だらけになって走った。二度と戻らないと誓って。
「ここに来て、初めて呼吸ができた気がするの」
私は横で眠るガブを見た。ゴブリン。世間では「汚らわしい魔物」として忌み嫌われる存在。でも、彼の心の色はいつだって澄んでいる。美味しいものを食べた時の鮮やかなオレンジ色。獲物を狩る時の燃えるような赤色。そして私に向けてくれる、日だまりのような温かい金色。
「あなたといると、私の眼は痛くないの。嘘がないから。裏表がないから」
涙が滲んで視界がぼやける。こんなに長く、自分のことを話したのは初めてだった。ずっと胸の奥で腐っていた膿を、すべて出し切ったような虚脱感。重い話だ。聞かされた方は迷惑だろう。でも、言ってしまった。
「ごめんね、変な話をして。忘れて」
私は袖で涙を拭い、ガブの方を見た。彼が何か言葉をかけてくれるのを、どこかで期待していたのかもしれない。「大変だったな」とか「俺がいるぞ」とか。そんな、ありふれた慰めを。
しかしそこに待っていたのは、私の予想を遥かに超える反応だった。
29:ガブは聞いていない
――グゥゥゥゥ……スピィ……。
盛大な寝息だった。ガブは口を半開きにし、よだれを垂らして、気持ちよさそうに爆睡していた。私の涙ながらの独白の、おそらく最初の3行目あたりから意識が飛んでいたと思われる。
「…………」
私は固まった。涙が乾いていくのが分かる。感動的なシーンのはずだった。悲劇のヒロインが過去をさらけ出し、絆が深まる場面のはずだった。それなのに、この観客ときたら、夢の中で宴会でも開いているような幸せそうな顔をしている。
「うそでしょ」
私は思わずガックリと肩を落とした。あれだけ深刻に、魂を削るような思いで話したのに。「婚約者の心が真っ黒だった」あたりで、彼は間違いなく夢の中の肉にかぶりついていたに違いない。
私は脱力し、同時に込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。
「ふっ、ふふふ……あははは!」
なんだこれ。馬鹿みたい。私が深刻ぶって抱えていた悩みなんて、このゴブリンにとっては睡眠欲に負ける程度の「雑音」でしかなかったのだ。笑い声に反応したのか、ガブがビクッと体を震わせ、むくりと起き上がった。寝ぼけ眼でキョロキョロと周囲を見回す。
「んあ?リゼ?敵か?肉か?」
彼は口元のよだれを手の甲で拭いながら、間抜けな声を出した。
「ううん、何でもないわ。ただ私が一人で喋ってただけ」「しゃべってた?何を?」
彼は本当に何も聞いていなかったらしい。小首を傾げて、不思議そうに私を見ている。
「昔話よ。つまらない、人間の家の話」「ふうん。飯の話じゃなかったのか」
ガブはつまらなそうにあくびをした。「人間の家」「貴族」「婚約」。それらの単語は、彼にとって「空が青い」とか「水が冷たい」といった単純な事実に比べれば、どうでもいいことなのだろう。複雑怪奇な人間社会のヒエラルキーも、ドロドロとした愛憎劇も、森の掟の前では意味を成さない。
「リゼ、難しい顔してる」
ガブが目をこすりながら言った。
「難しい話は、頭が痛くなるぞ。寝たほうがいい」
「そうね。あなたの言う通りかも」
拍子抜けしたけれど、不思議と心は軽かった。もし彼が真剣に聞いていて、「それは辛かったな」と同情されていたら、私はまた惨めな気持ちになっていたかもしれない。あるいは、「そんなひどい親がいるのか」と怒ってくれたら、その怒りに甘えて依存してしまったかもしれない。
でも、彼は聞かなかった。私の過去なんて、今の私には関係ないと言わんばかりに。彼が見ているのは「公爵令嬢だったリゼ」でも「呪われた眼を持つリゼ」でもなく、ただ今ここにいて、一緒に旅をして、飯を食っている「リゼ」だけなのだ。
その事実が、どんな慰めの言葉よりも救いになった。過去という重荷を、彼は「そんなもの知るか」と蹴飛ばしてくれたようなものだ。
「ガブ、あなたって本当に……最高に鈍感で、最高に優しいわね」「ドンカン?ヤサシイ?よくわからんが、褒められてるならいい」
ガブはニカッと笑い、またゴロンと横になった。
「もう一回寝る。夢の続きを見るんだ。でっかいキノコが生えてた」「はいはい、行ってらっしゃい」
彼はすぐにまた寝息を立て始めた。その寝顔を見ていると、私の悩みがいかにちっぽけなものだったかと思えてくる。世界はシンプルだ。食べて、寝て、生きていればそれでいい。私は彼に毛布をかけ直してあげた。聞いてくれなくてありがとう。私の過去を、無視してくれてありがとう。おかげで私は、ただの「リゼ」として、明日もあなたと歩いていける。
30:でも、そばにいる
翌朝、目覚めは清々しかった。昨夜、全てを吐き出し(そしてスルーされ)たおかげか、心の澱がすっかり消え去っていた。
朝食の準備をしていると、ガブが珍しくモジモジしながら近づいてきた。手には、赤くて丸い木の実をいくつか持っている。
「リゼ、これ」「あら、木苺?朝摘みなんて珍しいわね」「うん。あとな、昨日の夜」
ガブが視線を逸らしながら言った。
「俺、寝てた。リゼの話、聞いてなかった」「うん、知ってるわ。すごいイビキだったもの」
私が笑うと、彼はバツが悪そうに耳を伏せた。
「でも、リゼが泣いてた匂いがした」
ドキリとした。泣いていた音ではなく、「匂い」と言った。野生動物のような感覚だ。悲しみのフェロモンでも出ていたのだろうか。
「起きたら、リゼの目が赤かった。だから、これやる」
彼は木苺を私の手に押し付けた。
「甘いもの食えば、元気出る。婆ちゃんが言ってた」
彼は言葉を知らない。複雑な事情も理解できない。でも、私が「悲しんでいた」という事実だけは敏感に感じ取って、彼なりにできる精一杯の慰めを用意してくれたのだ。「話を聞く」ことよりも、もっと直接的で、温かい行動。
私の『真実の眼』には、彼の心の色が見える。そこにあるのは、純粋な「心配」の淡い水色と、「元気づけたい」という情熱のオレンジ色。計算も、見返りを求める下心も一切ない。ただ、相棒に笑ってほしいという一点のみ。
「ありがとう、ガブ」
私は木苺を一粒、口に入れた。酸味が強くて、目が覚めるような味がした。でも、その後に広がる甘みは優しかった。
「美味しい。すごく元気が出たわ」「本当か?じゃあ、もう泣かないか?」
ガブが覗き込んでくる。私は屈んで、彼の目線に合わせた。
「ええ。もう泣かない。過去のことは、昨日の焚き火と一緒に燃えてしまったわ」「カコ?よくわからんが、燃えたならいい。灰になれば土に還る」
ガブはうんうんと頷いた。彼の哲学はいつも正しい。終わったことは土に還り、新しい命の養分になる。
「さあ、行きましょう。今日はどこまで進めるかしら」
私たちは荷物をまとめ、歩き出した。私の隣には、緑色の小鬼がいる。彼は私の生い立ちを知らない。私が元公爵令嬢であることも、呪われた眼のことも、深くは理解していない。でも、私が転びそうになれば手を差し伸べてくれる。寒い夜には火を熾してくれる。悲しい時には、甘い実をくれる。
「理解者」なんていらない。高尚な共感も、同情もいらない。ただ、こうして当たり前のように「そばにいてくれる」存在。それだけで、私は無敵になれる気がした。
森の木漏れ日が、私たちの行く手を照らしている。ガブが何かを見つけて走り出した。
「リゼ!変なトカゲがいるぞ!」「待って、触っちゃだめよ!毒があるかもしれないから!」
私は慌てて彼を追いかけた。その足取りは軽く、心は晴れやかだった。過去の亡霊はもう追ってこない。
私の世界は今、この騒がしくて愛おしい「現在」だけで満たされていた。




