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旅の友に選んだのはゴブリンでした  作者: 竜神
第1章:家出少女と拾われたゴブリン

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EP1

1:息をするように嘘をつく街


世界はいつだって、薄汚れた灰色のもやに覆われている。少なくとも、私の目にはそう映っていた。


王都アルメリアの夜。煌びやかなシャンデリアが輝く貴族の夜会。グラスが触れ合う軽やかな音と、楽団が奏でる優雅なワルツ。香水の甘い香りに混じって、この会場にはもっと別の、鼻をつくような臭気が充満している。


「リゼ、今日のドレスもよく似合っているよ。我が家の自慢の娘だ」


目の前で微笑む父の口元から、どろりとした黒い煙が吐き出されたのが見えた。それはコールタールのように粘着質で、父の白い歯を汚しながら空気中へと溶けていく。――『嘘』の色だ。父は私が着ているドレスになんて興味がないし、魔法の制御が苦手で、攻撃魔法の一つも使えない私を「自慢」だなんて思ったこともない。父が見ているのは、私の後ろにいる取引先の商人の顔色だけだ。


「おお、素晴らしい。これが噂の『真実の眼』を持つリゼお嬢様ですか。その瞳、まるで宝石のようだ。将来はさぞ優秀な魔導師になられるでしょう」


恰幅の良い商人の言葉からは、さらに濃い紫色の煙が立ち上った。紫は「下心」と「欺瞞」の色。私の瞳が宝石のようだと言ったその口で、彼は心の中で『気味の悪い色の目だ』と舌打ちしているのが分かる。


気持ち悪い。


私はリゼ・アルメリア、16歳。生まれつき、人の言葉に含まれる「嘘」や「悪意」を、色や煙として視覚的に捉えてしまう、呪われた眼を持って生まれた。


立食パーティーの会場の隅、壁の花になりながら、私は自分の二の腕を抱いて震えを堪える。この街の人々は、息をするように嘘をつく。「愛している」「信頼している」「あなたのためを思って」。綺麗な言葉であればあるほど、そこには裏切りの色が混じる。私の眼は、それらすべてを勝手に見透かしてしまう。だから私は誰とも目を合わせられない。誰の言葉も信じられない。


幼い頃は、無邪気にそれを指摘してしまったこともあった。『おじさま、どうして笑っているのに、口から泥が出ているの?』そのたびに大人は凍りつき、父は私を殴った。やがて私は口を閉ざすことを覚えた。何も見えないふりをして、愛想笑いを浮かべ、彼らの吐き出す煙を吸い込んで生きるようになった。


(でももう限界だ)


胃の奥からせり上がってくる吐き気を、冷たい果実水で流し込む。視界が煙で霞む。みんな笑いながら嘘をつき、握手をしながら相手を陥れる算段をしている。父の商談が決まったようだ。二人が握手を交わす。互いの手が、相手を利用しようとする黄土色の泥に染まっているのを見て、私の中で何かがプツリと切れる音がした。


逃げよう。名前も、家も、この呪わしい眼のことも、誰も知らない場所へ。


屋敷の図書室の奥、誰も読まない古い文献で見つけたことがある。大陸の北の果て、地図にも載っていない未開の地に『嘘のない楽園サイレント・エデン』と呼ばれる場所があるらしい。そこには言葉を持たない精霊たちが住み、静寂だけが満ちているという。お伽噺かもしれない。いや、十中八九、ただの伝説だ。けれど、この嘘にまみれた窒息しそうな街で、心を殺して人形のように生き続けるよりは、見果てぬ夢を追って野垂れ死ぬ方が、ずっとマシだと思えた。


私はグラスをウェイターの盆に置いた。「リゼ?どこへ行くんだ」背後で父が私を呼ぶ声がした。「少し、風に当たってまいります」振り返らずに答えた私の言葉にも、きっと薄い灰色の煙が混じっていたことだろう。それは「社交辞令」という名の、私の精一杯の武装だった。私は足早に会場を後にした。もう二度と、この煌びやかな地獄に戻ってくることはないと思いながら。


2:荷造りは音を立てずに


屋敷の自室に戻ると、私は音を立てないようにドアを閉めた。鍵をかける。カチャリ、という小さな金属音が、今の私と世界を隔てる最初の境界線のように響いた。


心臓が早鐘を打っている。家出。駆け落ちでもなく、誘拐でもなく、ただ自分の意思で家を捨てる。人生で初めての「悪いこと」だ。けれど不思議と、手足の指先まで冷たく冴え渡り、思考はかつてないほどクリアだった。


クローゼットを開ける。色とりどりのシルクのドレス、フリルのついた外出着。それらには目もくれない。クローゼットの奥の床板を外し、隠していた包みを取り出す。以前お忍びで城下町へ出ようとして買ったまま、一度も袖を通せなかった男物の服だ。丈夫な麻のシャツ、動きやすい茶色のズボン、そして底の厚い革のブーツ。ドレスを脱ぎ捨て、それらを身につける。コルセットの締め付けから解放されただけで、呼吸が深くなる気がした。最後に、目元を隠せる深いフードのついた、鼠色のローブを羽織る。これで、私の「眼」を隠すことができる。


「必要なものだけ。余計なものはいらない」


呪文のように呟きながら、私は革のリュックに荷物を詰めていく。水袋。保存の効く干し肉と堅パン。ナイフ一本。着替えは下着を数枚だけ。そして、私の唯一の特技である「生活魔法」のための触媒――いくつかの魔石と、手頃な大きさの鍋。父は常に嘆いていた。『リゼには攻撃魔法の才能がない。火球一つ出せない魔導師になんの価値がある』と。確かに私は、敵を焼き尽くすような派手な魔法は使えない。けれど、泥水を真水に変える「浄化ピュリファイ」、わずかな魔力で火種を作る「着火イグナイト」、足音を消す「静寂サイレンス」といった、地味な生活魔法だけは得意だった。これからの旅には、巨大な爆発よりも、一杯の温かいスープを作る魔法の方が役に立つはずだ。


荷造りを終え、私は机の前に立った。そこには、家族写真が飾られている。書き置きはしない。『今まで育ててくれてありがとう』なんて書けば、それは真っ黒な嘘になる。『探さないでください』と書けば、彼らは世間体を気にして、「誘拐された悲劇の娘」を演出しながら必死に探すだろう。それもまた、欺瞞の連鎖を生むだけだ。


私は写真を伏せた。何も残さない。何も伝えない。それが私から彼らへの精一杯の誠意であり、絶縁状だった。


窓を開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。街の灯りが、まるで地上の星のように煌めいている。あの光の一つ一つに、誰かの建前と嘘が渦巻いていると思うと、未練など欠片も湧いてこなかった。


私は杖を握り、「身体強化ブースト」の魔法をおぼつかない手つきで自分にかける。体が少しだけ軽く、バネのようになる感覚。窓枠に足をかけ、私は夜の闇へと身を躍らせた。


フワリ、という浮遊感の後、庭の芝生の上に着地する。衝撃を膝で殺し、すぐに茂みに身を隠す。屋敷の警備兵は正門の方にしかいない。裏手の塀の綻びは、以前からチェック済みだ。塀を乗り越え、石畳の路地へ出る。


かつっ、かつっ、と自分のブーツの音だけが響く。誰もいない。誰の言葉も聞こえない。なんて静かで、心地よい世界だろう。私はフードを目深に被り直し、北の方角――人間社会の果てへと続く街道へと、その一歩を踏み出した。背中のリュックは重いが、心は翼が生えたように軽かった。


3:地図にない場所へ


街を出てから三日が過ぎた。私の足取りは、出発した夜の高揚感とは裏腹に、鉛のように重くなっていた。


足の裏には豆ができ、潰れてはまた出来ての繰り返し。慣れない野宿で背中は痛く、朝起きると体の節々が悲鳴を上げている。お嬢様育ちのひ弱な肉体にとって、旅という現実はあまりにも過酷だった。けれど、不思議なことに「帰りたい」とは一度も思わなかった。


街道を外れ、私はあえて人の通らない獣道を選んで進んでいた。時折、遠くを行き交う行商人の馬車を見かけることがあったが、そのたびに私は木陰に隠れてやり過ごした。誰とも関わりたくない。言葉を交わせば、またあのドロドロとした色を見ることになる。「親切な旅人」を装った追っ手かもしれないし、「善意の商人」を装った人買いかもしれない。疑心暗鬼が生む疲労よりも、孤独な肉体的疲労の方がずっと心地よかった。


休憩をとるため、手ごろな切り株に腰を下ろす。私はリュックから地図を取り出した。父の書斎から盗み出した、古い羊皮紙の大陸地図だ。王都を中心とした南側は、都市や街道が細かく記されている。しかし、私の指がなぞる北へ向かうほど、文字はまばらになり、空白が目立つようになる。


「こっちで、合ってるよね」


独り言を呟いても、返ってくるのは風が枝を揺らす音だけ。森の木々は何も語らない。頭上で鳥がさえずっている。そこには「ここは私の縄張りだ」という主張や、「あの虫は私の獲物だ」という欲望が含まれているかもしれない。だが、そこには「あなたのために歌っているのよ」というような欺瞞はない。自然界にあるのは、生存のための事実だけだ。食うか、食われるか。生きるか、死ぬか。残酷なほどシンプルなそのことわりが、私にはどんな詩人の言葉よりも美しく、誠実に感じられた。


日が傾き始め、夕闇が森を浸食していく。私は小川のほとりを今夜の野営地に決めた。まずは枯れ枝を集める。最初は手も汚れるし虫もいて嫌だったが、三日も経てば、良いまきの選び方もなんとなく分かってきた。


石で囲った炉に枝を組み、杖を向ける。「種火イグニス


指先ほどの小さな火が点り、枯れ葉に移り、やがてパチパチと頼もしい音を立てて燃え上がる。鍋に川の水を汲み、「浄化」をかけてから火にかける。夕食は、カチカチに硬くなった堅パンと、塩辛い干し肉を入れただけの質素なスープ。王都の屋敷で食べていた、とろけるような肉料理や甘い菓子とは比べるべくもない、貧相な食事だ。


ふう、ふう、と湯気を吹き飛ばし、一口すする。温かい液体が、冷え切った内臓に染み渡っていく。


「おいしい」


思わず口から漏れたその言葉に、私はハッとした。誰に聞かせるわけでもない、お世辞でもない、純粋な本音。嘘のない言葉。屋敷での食事は、常に「探り合い」の場だった。父の機嫌を損ねないように、客人を不快にさせないように、味なんて分からなかった。でも今は違う。ただ、自分が生きるために食べる。誰の顔色も伺わず、嘘の煙を吸い込むこともなく。このスープの味は、自由の味がした。


私が求めていた『楽園』は、案外、こういう些細な瞬間の積み重ねの先にあるのかもしれない。


だが、そんな安息も、夜の訪れとともに薄れていく。完全に日が沈み、焚き火の明かりだけが頼りになると、背後の闇が急に質量を持って迫ってくるように感じる。ガサリ、と茂みが揺れる音がするたびに、ビクリと肩が跳ねる。獣か、魔物か。ここはもう、人間の法も秩序も及ばない領域。「嘘」はないが、「安全」もない。私は膝を抱え、ナイフの柄を強く握りしめた。寂しい、とは思わない。思ってはいけない。


私は一人を選んだのだから。夜空を見上げると、木々の隙間から無数の星が見えた。綺麗だけど、あまりにも遠い。私はこの広大な世界で、本当にたった独りぼっちなのだと痛感させられる。言葉の通じない恐怖と、言葉が通じることの嫌悪。その狭間で揺れながら、私は浅い眠りにつくために目を閉じた。明日、運命の出会いが待っているとも知らずに。

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