彼女が飲んでいるお茶には死体が混じっている
あの日、僕が屋上に上がったのは、本当にただのひょんなことからだった。
週末の昼下がり、いつものようにベランダで煙草を吸っていると、上階から妙な金属の軋み音が聞こえた。
古いマンションだ。
放っておけばいい。
そう思ったのに、なぜかその音に強く気を取られた。
僕は吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、何かに導かれるように、普段は鍵のかかっているはずの屋上へのドアノブを回した。
古いドアは、まるで僕が来るのを待っていたかのように、軋みながら開いた。
屋上は誰もいない。
コンクリートの照り返しが目に痛い。異音の元はすぐに分かった。
建物の隅に鎮座する巨大な給水タンクの、点検口の蓋がわずかにずれていたのだ。
僕は好奇心に負け、音を立てないよう静かにその分厚い鉄の蓋を押し開けた。
錆びた蝶番が耳障りな音を立てる。
むわっと水気の多い空気の匂いに包まれながら中を覗き込むと、無機質なコンクリートの壁と、きらきらと光を反射する水面が見えた。
真っ暗というわけでもなくギリギリ、視認できる程度には明るさがある。
だから水面に揺れる異常にもすぐに気が付いた。
明らかにそぐわないものが、ありえないはずのものがある。
それはまるで眠っているかのように静かに、顔を水上に出した状態で漂っていた。
青白い肌、閉じられた瞼、水に濡れて貼り付いた黒い髪。
女の死体。
一目で分かった。
まだ新しい。
腐敗臭はない。
水に浸されているものの、皮膚は膨張しておらず、まるで浴槽に横たわっているかのようにすら見える。
その美しくさえ見える顔は、僕の知る誰でもなかった。
多分、このマンションの住人ではないだろう、全く見覚えのない顔だった。
僕の頭の中は真っ白になった。
反射的に蓋を元に戻し、そのまま屋上から逃げ出そうとした。
でも動揺する心とは裏腹に、体が鉛のように重い。
僕はその場で数分間立ち尽くし、すべての思考を拒否するみたいにただ茫然と立ち尽くす。
まるで泥のように緩慢で停滞した時間。
そして次の瞬間、まるでスイッチが切り替わったかのように、異常なまでに冷静になった。
本来であれば通報すべきだ。
何も迷うことなくマンション管理者と警察などに通報し、ことを明らかにして処理すればいいという、ただそれだけの話だったのは間違いない。
だが、その時僕の心は全く別の方向へ道筋を決め進んでいくようだった。
明らかに何かに導かれたとしか言いようがない、予定調和的な感覚。
誰も知らない。
誰もこの事実を知らない。
この透明で冷たい水の中に、一人の人間の死が溶け込んでいる。
そしてこの水を、僕を含めたこのマンションの住人が生活の全てに使っている。
僕は通報しなかった。
その代わり、自分の部屋に戻り、水道の蛇口を固く締めた。
それから、棚にストックしてあったペットボトルの水を一本取り出し、喉を潤した。
僕はこれから「あの水」を、二度と口にすることはないだろう。
そして今のところ、この世の誰も知らない自分だけの秘密。
この途方もなく巨大な神秘的事象。
そこから導き出される一つの誘惑。
翌朝、僕は小さな密閉容器を手に、再びあの給水タンクへ向かい、あの水をそっと汲み上げた。
それは、ただの水に見えた。
しかし、その中に溶け込んでいる死の冷たさと、一人の人間の痕跡を想像してぶるりと震えが迸る。
それは怖気ではなかった。
純粋な歓喜と約束された未来への確信だった。
出勤した会社で僕は給湯室へ向かった。
そして、誰も見ていないのを確認し、職場の給湯室に設置されている給茶機の貯水タンクの蓋を開けた。
己の唇が意図せず歪んでいるのに気が付く。
ようやくそれが抑えきれない微笑みなのだとわかると、もう勝手に出てくるそれを押し消そうとするのは諦めた。
自分がそんな風になるのもしょうがない。
だって僕を拒絶したあのコも、僕を馬鹿にする上司も、そして無関心な同僚たちも、これから僕が選んだ「特別な一杯」を毎日飲み続けることになるのだ。
これは僕だけの、不可避的に必然な運命の帰着としか言いようがない聖なる儀式に他ならなかった。
それから僕の日常は当然のように以前にも増して透明で、かけがえのないものに変わった。
毎日、出勤するのが楽しみで仕方なくなった。
朝、給湯室の給茶機に「聖水」を注ぎ込む崇高で厳粛な瞬間。
敬虔な心持のままひっそりと蓋を閉じ、無関心な同僚たちの列に並ぶ。
誰も給茶機の水が、冷たい死と共にある給水タンクから来たものだとは夢にも思わない。
僕が思いを寄せていたあのコもまた、その他の同僚と共に今日も淹れたての緑茶をすすっている。
彼女は社内で一番華やかで、僕の心からの情熱を込めた視線をいつも完璧に無視してきた女性だ。
僕が何度か勇気を振り絞って話しかけた時も、彼女はただ「はあ」と返事をするだけで、視線すら合わせなかった。
その美しい唇が、僕が選んだ水を運ぶたびに、僕の心臓は静かに高鳴る。
「あの水」は彼女の優雅さや、部長の威圧的な態度、同僚たちの軽薄な笑い声の中に、確実に僕の存在の痕跡を刻みつけている。
彼女たちは知らず知らずのうちに、僕がお膳立てした世界の一部を共有している。
この共犯関係こそが、僕にとっての究極の支配だった。
そして誰も僕がお茶を飲んでいないことには気が付きもしない。
一人、オフィスの隅の席でペットボトルの水を飲んでいたとしても、彼ら彼女らに僅かな違和感さえ齎すことなどないのだろう。
それでいい。
そうしてこの神秘の魔術的儀式は完成したんだと、僕は確信した。
宗教的法悦めいた心持とでもいうのだろうか、身体の奥底から滲み出るように湧き出す、凄まじいほどの幸福感でどうにかなってしまいそうだった。
たとえ必然的に終わりがくることがわかっていたとしても。
この限られた時間の中で成立し、構築された特別な状況をただ一人享受すればそれいいのだ。
一日、二日、三日。
朝、人目が無いことを確認して給水タンクから水を汲み、出社して給茶機へと注ぐことを繰り返す幸せな時間が続いていく。
マンションの異臭が徐々に噂になり、騒ぎになりつつある中、僕の心はどこまでも静かで優しく、穏やかだった。
一週間目の今日、とうとう給水タンクの異音と水の異臭について管理会社に通報した住民がいるという噂を耳にした。
彼らはフィルター交換や配管洗浄を要求しているらしい。
ならばもうあれが露見するのも間も無くのことだろう。
僕の秘密が「ひょんなこと」から始まったように、それが外部の目によって暴かれるのも、また時間の問題だ。
僕は知っていた。
多分、人生で二度と訪れることはないだろう、この特別で貴重な神秘的時間はもうすぐ終わる。
それは、まるで火遊びの炎が消えゆくのを静かに見つめるような感覚だった。
そして間もなく、その予感は現実となった。
まさに予定調和としか言いようがない展開でしかなかった。
給水タンクの点検に訪れた業者が、水面に横たわる「彼女」を発見したのだ。
翌日の午後には、僕の住む古いマンションの周りは、警察の規制線と野次馬、そしてテレビカメラで溢れかえっていた。
その日のニュースは、夕方のローカルニュースから全国ニュースへとまたたく間に広がり、画面中に「貯水槽に女性の遺体か」「マンション住民に健康被害のおそれ」という衝撃的なテロップが舞い踊った。
翌朝、会社に出勤した僕は、いつになく同僚たちが、興奮した顔つきでスマートフォンや応接室のテレビに群がっているのを見た。
流れているのは、当然、昨夜から続く「あのニュース」だ。
「マジありえねーよ、貯水槽に死体だなんて! あのマンションの住民、全員ショックだろうな。知らずにその水飲んでたんだろ?」
あのコもその、一人の男性社員の言葉に顔を青ざめさせながら、同意していた。
彼女も彼にとっても、まだTVから流れてくるおぞましい奇怪な事件は物理的には近いかもしれない、だけど全く隔絶されて接触不可能なところにある他人事でしかない。
実際には全く無関係どころではない、あのマンション住民よりももしかしたら当事者そのものとしかいいようがないものになっているというのに。
毎日毎日、直接的に摂取して吸収し、同化していたというのに。
その認識の妙がまた、酷く素晴らしく貴重なモノのように思えて高揚しそうになる。
同僚たちはひとしきり騒いだ後、いつもの日常に戻るかのように給茶機に向かっていった。
「ああ、喉乾いたな。ちょっとお茶淹れるか」
「私も。なんか、こういう話聞くと、余計に口の中が気持ち悪くなるわね」
彼女がいつも通り優雅な仕草で湯呑みを給茶機の下に置く。
カチリ、という音とともに、僕が最後に注ぎ込んだ「聖水」が、熱い湯気となって湯呑みに満たされていく。
皆、ほぼ同時に口元に湯飲みを近づけていき、静かにすすった。
その瞬間、彼ら彼女らの眉が、頬が、一様にわずかに歪んだ。
「…あれ? なんか、今日のこのお茶も、妙な後味がしない? 昨日、部長が言ってたざらざらした感じっていうか…」
彼女の言葉に、周囲の同僚たちが次々とお茶を啜り、口々に反応し始めた。
「え、言われてみれば…なんか金属っぽい臭いがするな」
「フィルター交換してないのかしら、この給茶機」
「確かに、なんかいつものお茶の味じゃない…」
彼らは、依然として給茶機や水のせいだと信じている。
まだ真実を知らなくていいという、最も優しく慈愛に溢れた安寧の繭に包まれている。
ああ、なんて愚かしい。
無知というのが最高の救いなのだ。
何もわからず、理解しないままならどれだけ幸せなんだろう。
僕は彼ら彼女らの無自覚さ、鈍重さ、愚かしさこそを心から称賛し、愛しく思う。
そして静かに給湯室を後にした。
もう給茶機に水を注ぐ必要はない。
もはやことは完全に達成されてみたされたのだから。
独りの女の死と穢れは液体を通じて彼らの体内へ、確実に浸透した。
この秘密を知る者として、僕は彼らを永遠に支配下に置いたのだ。
事象のすべては、今この瞬間に完全に僕の下に掌握されて集約されたことに他ならない。
あのコですら。
その優越感を胸に、僕は静かに自分の席へと戻った。
果たしてこれから自分がしたことが露見するのかしないのか、それはわからない。
でもどちらでもいいような気がした。
このまま何も気が付かれず、暴かれずに独り静かに為された聖行をかみしめて感慨にふけるのもいいし。
あるいは何かどこかの理由でマンションの事件と給茶機の味を結び付けた何者かによってすべてが露見した挙句、怒声あるいは悲鳴を上げる彼ら彼女らの阿鼻叫喚の狂乱っぷりを堪能できるのも捨てがたい。
どちらにしろ、僕は全く損しない。
どうなろうと満足いく結果しかまっていないのだから。
僕は相変わらず誰も見向きもしない独りぼっちの席で、ペットボトルの水をグイっと飲みながらそう思った。
すっきりとした無味無臭の味が喉を潤して、たいそう美味しかった。
終




