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始まりの日、世界の狭間へ

「本当にごめんなさい」

「だいじょぶだいじょぶ、気にしないで~ん」


 気付いたら、近くに水辺から顔を出した、静かな石があった。苔むした表面が水に濡れて、緑がかった黒色に光っている。形は丸みを帯びていて、まるで巨大な卵のようだった。目の前の彼女にそこに座るように勧められ、私はそれに従うことにした。

 石の表面は思っていたよりも温かく、長い時間陽の光を受けていたのだろう。ざらりとした質感が手のひらに伝わってきて、不思議と安心感を与えてくれる。


 水辺に腰を下ろして、ようやく正常な会話ができるようになった。冷たい水が足首を包み、ひんやりとした感触が心を落ち着かせてくれる。睡蓮の花びらが風に揺れて、かすかに甘い香りを運んでくる。

 けれど、相対的にこの人は、最初に見た時より楽しそうだった。ずっと、ニコニコと笑っている。その笑顔は作り物ではなく、心の底から湧き上がってくる純粋な喜びに満ちていた。まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような、そんな無邪気な表情で。


 セイは私の斜め前に立っていて、時々小さくステップを踏んだり、手をひらひらと動かしたりしている。その仕草一つ一つが愛らしくて、見ているだけでこちらまで楽しい気分になってきた。

 彼女の瞳はキラキラと輝いていて、まるで星が宿っているみたいだった。白い瞳の奥で、小さな光がちらちらと踊っているように見える。その輝きは、この場所の柔らかな光を反射しているのか、それともセイ自身が発しているものなのか、判別がつかなかった。


「落ち着いた?」


 セイが首をかしげながら尋ねる。その動作がまるで小動物のようで、思わず頬が緩んでしまう。


「はい、おかげさまで……」


 そう答えながら、私は改めてこの不思議な場所を見回した。睡蓮の花畑は見渡す限り続いていて、白く濁った空との境界が曖昧になっている。まるで、現実と夢の境界線のような場所だった。


「それで……あの、聞きたいことが……たくさんあるんですけど……」

「ん!ぜーんぶ、答えるよ!なんでも聞いて!」


 その屈託のない明るさに、少しだけ心が軽くなる。少女の声は本当に清らかで、聞いているだけで安心できた。まるで、澄んだ水の音のような透明感がある。


「なら……まず、あなたは誰ですか?」

「ボクはセイ!この場所を管理しているよ」


 セイは胸を張って、まるで自慢するように答えた。その仕草がとても可愛らしくて、つい微笑んでしまう。

 見た目はとても若くて、親しみやすそうだった。声も見た目も中性的で、威圧感のようなものは微塵もない。むしろ、人懐っこい子犬のような愛らしさがあった。

 でも管理、ということは、彼女は偉い人なのだろうか。失礼だけど、とてもそんな偉い役職に就いている、という感じには見えなかった。


「えっと、次は……この場所について教えてもらえませんか?」

「ここはねー、空白地帯の手前!」

「空白地帯……の、手前?」


 聞き慣れない言葉に、眉をひそめる。空白地帯って何だろう。文字通りの意味なのか、それとも何か特別な意味があるのか。


「知りたいデショ?知りたいよねえ!」


 セイの瞳がさらに輝いて、まるで何かの秘密を教えるのを楽しみにしている子供のようだった。


「ふふん!ちゃんと丁寧に教えてあげるから、よーく聞いててねー!」


 手をぱたぱたと振りながら、身を乗り出すようにして話し始める。セイの屈託のない笑顔を見ていると、不思議と安心感が湧いてくる。この不思議な場所で、この不思議な少女と話していることが、だんだん自然に感じられるようになってきた。



「まずねえ、この空白地帯っていうのは、いろーんな世界の、ちょうど境目にあるの!」


 セイは水面に指先を浸して、小さな円を描いた。波紋が広がって、睡蓮の花びらを優しく揺らす。


「キミが今まで住んでいた世界も、その『いろんな世界』の一つなんだよ。世界っていうのは、たーっくさんあるの!」


 腕を大きく広げて、まるで無限の広がりを表現するかのような仕草。その動作があまりにも無邪気で、思わず頬が緩んでしまう。

 作り話として、すごくクオリティが高いなあと思いながら。演劇でも見るかのような気持ちで私は聞いていた——



「むむむ。さては信じてないなー?"ハクネちゃん"」

「そ、そんなことないですよ~、あはは……」


 ……あれ?私、名前を教えたっけ?

 一瞬、記憶を辿ってみる。でも、どれだけ思い返しても自己紹介をした覚えがない。この子は最初から私の名前を知っていたということ?それとも、混乱している間に言ったのを忘れているだけ?

 脳内に生まれた違和感は——突飛な話を、つい真面目に聞いてしまう、理由になる。


「でも、そりゃそうだよね!キミが知ってる世界は一つだけでしょ?」


 私が知っているのは、"私の"現実世界だけ。

 でも、死ぬ前に出会った彼らは明らかに違う世界から来ていた。雨の都、海底都市……私の常識では理解できない場所ばかり。


「……みんな、やっぱり別の世界から来てたんですか?」

「そうそう!あの子たちの話、キミの世界にはない場所ばかりだったもんね、やっぱり気付くよね!」


 セイが嬉しそうに手を叩く。その音が水面に響いて、小さな波を作った。

 説明は丁寧で、一つ一つ順を追って教えてくれる。でも、話が進むにつれて、その内容はだんだんと理解の範疇を超えてきていた。


「世界は並行してたくさんある。でも、キミたちは気付けない。キミたちは、世界の外側を知るすべを持っていないからね」


 セイの声が、少しだけ大人びた響きを帯びる。まるで、深い秘密を打ち明けるときのような。


「それぞれ、世界を創った人がいて、ちゃんと管理されてるんだ。もちろん、めんどくさーってなってポイされてる世界もあるけどぉ……」


 と、ここで言葉を切って、


「あっ、ハクネちゃんの世界はちゃんと見てあげてるからね!大丈夫だよ!」


 慌てたようにフォローを入れるセイ。でも、そのフォローすらも理解できない情報の嵐で、私の頭は完全に追いつかない状態だった。

 一呼吸置いて、セイの表情が真剣になる。子供らしい無邪気さの奥に、何か重大な真実を告げる者としての厳粛さが宿った。



「ちゃーんと、管理してあげてる。キミのこと」



 セイの言葉が、静かな水面に落とされた石のように、心の奥底まで沈んでいく。波紋が広がるように、その衝撃が胸の隅々まで行き渡った。

 水面の音が、世界の音が遠のいていった。


「キミの世界は、ボクが動かしてるんだ。——キミが現実だと思っていた世界は、創作物。虚構の世界。すべてはフィクションってことさ」


 セイの声が、まるで子守唄のように優しく響く。でも、その内容は私の存在そのものを否定するものだった。


「キミも、キミが出会った人たちも」


 言葉一つ一つは理解できるのに、それらが組み合わさると途端に意味がわからなくなる。いや、理解したくない。認めたくない。頭の中で拒否反応が起きているのがわかる。


「全部、ボクが創った、お話上のキャラクターさ。もちろん、ボク自身もまた、外側の誰かによって創られたキャラクターだよ」


(お母さんも?あの事故も?父さんの暴力も?殺し屋としての日々も?あの夜の出来事も?

……全部、作り物だって言うの?)


 お母さんの温もり、お父さんの手、血の匂い、あの夜の月明かり——すべてが虚構だというのなら、私の痛みも、悲しみも、愛した気持ちも、全部偽物だったということなのか。

 胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。呼吸が浅くなり、手が震え始める。


「でも、あんまりガッカリしないでほしいなぁ!」


 セイが慌てたように手をひらひらと振る。その仕草は、泣きそうな子供を慰めようとする大人のようだった。


「だってこれって救済だもん。ね?」

「救済って……!」


 思わず声が震えた。救済?セイが今言ったことが?『今までの全てが偽物でした』ということが——救済?


「そうでしょ?キミのつらーいつらぁい人生が、偶発的に発生した地獄だと思うかい?」


 セイの瞳が、深い慈愛に満ちている。その優しさが、かえって言葉の残酷さを際立たせた。



「すべてデザインされていた。すべてそう進むように仕組まれていた」


 水面に映る自分の顔が、まるで他人のもののように見えた。


「そう考えたら仕方ないと思えるよね?ぜんぶ仕方なかったんだ!キミの人生!

キミがどれだけ抗っても結果は変わらなかった。キミの意思では変えられなかった!」


 膝の上で手を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、小さく痛んだ。


「キミはキャラクターであり、キミの思考、行動、すべてを決めるのは、外側にいる管理者なんだからね!」


 記憶の一つ一つが、急に色褪せて見えた。まるで古い写真のように、現実感を失っていく。


「キミもこれからはこっちの立場になるんだよ。ボク含めて"四人目"の管理者として、ボクが選んだんだ!この場所、空白地帯から、いろいろな物語の再構築をしてもらいたくてさ」


 私は何をすればいいの?わからない。頭を抱えたくなる気持ちを必死に堪えて、膝の上で手を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、小さく痛んだ。でも、その痛みすら、本当のものなのかわからない。現実と虚構の境界線が、どんどん曖昧になっていく——



「『でも、その痛みすら、本当のものなのかわからない。現実と虚構の境界線が、どんどん曖昧になっていく』でしょ?」


 セイの声が、まるで私の心の奥を覗き込むように響いた。


「な、なんでそれを!」


 思考を読まれた驚きで、声が震えた。セイの瞳が、まるで私の心の奥まで見透かしているかのように輝いている。


「そりゃわかるよ!だって、そう思うようにキミを創ったのはボク」


 セイの優しい声が、混乱の中にいる私を包み込む。


「ちなみに、キミに宿る思いは、キミのものだよ。キミがそう感じるようにデザインはしているけどね?」


 そう言いながら、セイが悪戯っぽくくすりと笑う。その笑顔は無邪気で愛らしいのに、今の私には残酷に見えた。

 優しい声、無邪気な笑顔すらも、どこかにいる何者かによってデザインされたもので、偽物なのかもしれないと思うと、もう何を信じればいいのかわからなくなる。


「『逃げたい』?」

「っ……」


 また、心を読まれた。顔が熱くなり、恥ずかしさと恐怖が入り混じった感情が込み上げてくる。


 逃げるなんて選択肢ははなから用意されていない。これは決まりごと。

 彼女の言うことを信じるのであれば——私はキャラクターだから。


(ああ、違う……これは、そう思わされてるだけ、私は……!)


「……この気持ちも、全部」

「そう、デザインした。そういうものでしょ?キャラクターって」


 セイの言葉は残酷なほど軽やかだった。まるで当たり前のことを言っているかのように。でも、その当たり前が、私の存在そのものを否定しているように感じられる。

 風が吹いて、睡蓮の花びらがひらりと舞い散る。その儚い美しさが、なぜか胸を締め付けた。



 断れない。断るように、デザインされていない。

 私が、セイのように管理者となる道から、逃げる道は用意されていなかった。


 キャラクターとして生を受け、どこかにそれを操る作者がいる限り。作者の手で創られただけの幻想にすぎない私に、自由なんて——

 それでも——いや、それだからこそ——気は乗らないし、何もできる気がしない。きっと、気が乗らないように、デザインされているんだと思う。抵抗する気持ちすら、シナリオの一部なのかもしれない。だとしても、私はこの道を進むしかない。


 選択肢がないのなら、せめて歩く理由を見つけよう。管理者として、何かの権限を持って過ごせるのであれば——そう考えた時、ふと胸の奥に温かいものが宿った。


(私の力で、また彼に会えるかもしれない)


 あの夜、壊れてしまった、壊してしまった彼のこと。

 もし物語を再構築できるのなら、もし世界を作り変えられるのなら——今度は違う結末を。


 その可能性を思うと、暗闇の中に小さな光が見えたような気がした。希望という名の、か細い灯火。演出された感情だとしても、それだけが、私を前に進ませてくれる唯一の理由だった。


「ちなみに」


 セイが急に声のトーンを変えた。さっきまでの無邪気な口調とは違う、少し大人びた響きがある。


「キミには仲間がいるよ。ボクたち三人で、キミをサポートする」

「仲間……?」

「すぐに会えるよ。二人とも男の子だったり、ボクと違って忙しくしてたりから、関わる機会はあんまりないと思うけどね」


 セイの瞳が、また別の輝きを帯びた。さっきまでの子供らしさに、どこか神秘的な雰囲気が加わっている。まるで、深い秘密を知っているかのような——



「もう、一人じゃないよ。キミには仲間がいる」



 セイの笑顔が戻る。でも今度は、さっきまでの無邪気さだけじゃない、何か深い意味を含んだ微笑みだった。その笑顔には、慈愛と同時に、どこか計算されたものを感じる。


「この扉の向こうに、本物の空白地帯が広がってる」


 セイが指差す方向を見ると、睡蓮の向こうに白い扉が浮かんでいた。扉は何の装飾もない、シンプルなものだった。でも、なぜかその扉を見ていると、胸の奥がざわつく。まるで、向こう側から何かが呼んでいるような。


「それなら、この場所は……?」

「キミを管理者へ勧誘する創作物のために、ボクが用意した世界だよ。キミは前の世界では死んでしまったから、一応、天国的な扱いで創ってみたんだけど。あっ、もしかして、あんまり好みじゃなかった!?おっかしーなー、気に入ってくれるように作ったはずなんだけど」


 セイの表情が少し不安げになって、瞳に心配の色が浮かぶ。


「……すごく、きれいで……いいところでした」


 本当だった。この場所は確かに美しい。睡蓮の花畑、澄んだ水、柔らかな光。まるで夢の中のような、幻想的な美しさがあった。


「ふふん!でしょー!」


 セイの顔がぱあっと明るくなって、まるで太陽が雲の隙間から顔を出したみたいだった。その笑顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。でも、彼女のその感情と表情も、結局はデザインされたものなのだろうか。


(私は、何者なのか。キャラクターが、生きるっていうのは……どういうことなんだろう)


 その問いに答えを見つけるために——できることを、これからも続けていこう。今までそうやって、愚かな希望を抱きながら歩いてきた。

 今度はきっと、一人じゃない。たとえそれが虚構だったとしても、歩み続けよう。


 ゆっくりと立ち上がる。足元の水が静かに揺れて、小さな波紋を作った。睡蓮の花びらが風に舞い、まるで祝福しているかのように宙を踊る。

 白い扉に向かって、一歩ずつ歩き始める。水音が足音と重なって、この場所での最後の音楽を奏でている。セイが手を振ってくれているのが、振り返らなくても感じられた。


 ——目を覚ます時が来た。


 扉に手をかけた瞬間、世界が光に包まれた。

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