第16話 手を握ってくれないか
教会へ戻り、ノルベルトの怪我を見た。
右腕には深々と牙が刺さったようで、ぽっかりと穴が開いていた。血が流れている。肉がえぐれているから、かなり痛かっただろう。
水で洗い流して、薬を塗る。いつもの動作なのに、うまくできなかった。
その間ノルベルトはずっと俺の手つきを見つめていた。
包帯を巻く。白い布に血が滲んだ。手が震えてうまく巻けない。
俺がやるしかないのに。俺のせいなのに。
「ごめんなさい、ノルベルト。私の、わたしの、せいで……」
「大丈夫だ。アベルに怪我はないか」
「私は、大丈夫です、」
俺は地面に転んだだけで、噛まれたりはしていない。せいぜい擦り傷くらいだ。
俺が黙ってひとりで花を摘みに行かなかったら。
俺が早くグレッチャーに気づいていたら。
俺があのとき、パニックにならなかったら。
俺がーーーーー
溢れてくる後悔と自己嫌悪が止まらなかった。
あのとき、俺が叫ばなかったら。泣き叫んだ俺に心配して駆け寄らなければ。
ノルベルトはグレッチャーを倒し、怪我をしなかっただろう。
包帯を巻き終え、ぱちん、と止める。いつもよりよれてしまった気がする。
ああ、だめだ、俺のせいなのに。巻き直したほうがいいだろうか。
赤く滲んだ箇所に手を当てた。思考がまとまらない。
「ごめんなさい、私、が……わ、わたし、が、」
「アベルのせいじゃない。こんな傷、痛くもない」
「うそ、嘘です。血が出てます、お、おれが……おれの、せい、で」
「俺?」
「…………すみません、」
だめだ、何も考えられない。
浅くなる呼吸を整える。手を丸め、集中する。おちつけ、おちつけ。冷静になれ。
何度自分に言い聞かせても、あまり効果はなかった。
「アベル、手を握ってくれないか」
ノルベルトの声がじんわりと頭に染みた。低くて優しい声だった。
意味がよく分からないまま両手で右手を握り込んだ。俺の手より一回り大きい。ごつごつした、剣を扱っている男の手だった。
……温かい。
「…………あ」
気持ちがスッと楽になった。
溺れそうな思考は水位を下げ、息ができるようになる。
伏せていた視線を上げ、ノルベルトの顔を見つめた。
「すみません、おちつき、ました」
「そうか」
「……私、取り乱していましたね、すみません」
「気にするな。戦場にでも行っていない限り、急に襲われたらみな驚く」
「……そう、ですよね」
微笑んだつもりだったが、歪な笑みになってしまっただろう。
しばらく無言で手を握っていた。
パチパチと暖炉の火が燃える音だけが響く。
薄明かりに照らされた空間は温かかった。
パニックは収まり、ようやく自分に何が起きたのか整理できた。
グレッチャーに襲われたのは俺の不注意だ。急に襲われることを想定していなかった。
ノルベルトが俺に気づいてくれなければ、あのまま噛み殺されていたかもしれない。
「ノルベルトは、なぜ外に?」
「気がつくとあなたがいなかったから。外出用の上着もなくて。……外は危険だから、探しに出たんだ」
「……すみません」
「次からは俺を呼んでくれ。夜遅くなってもかまわない」
はい、という返事は暗闇に消えていった。
「あの……どうして……」
「ん?」
「どうして、グレッチャーを、殺さなかったのですか」
ノルベルトはグレッチャーに襲われたとき、わざと剣を投げ捨てた。
剣で斬りかかればすぐ済んだはずなのに。ランプを投げるのも騎士としては不自然に思えた。
「……あのグレッチャーは魔法を使おうとはしなかった。悪意があって襲っているというよりかは、一時的に興奮していただけだろう」
「……え?」
「獣タイプの魔物にはよくある。近くに興奮作用のある植物が生えてたりすると、な。脅かして追い払えればそれでいい。グレッチャーは火を恐れる。立ち去れば殺す必要はない……と、判断した」
じっとノルベルトの瞳を見つめる。嘘ではないだろう。
だが、それだけではないのは分かった。
数日前に俺が教会で言ったこと。
『殺生をしてほしくない』という願いを、ノルベルトは守ってくれたのだろう。
どうして、そんな。
俺なんかの言葉より、自分を大事にしてくださいよ、とか。
今更になって叫んでしまいそうになるけれど。
「……ありがとう、ございます」
ノルベルトの優しさが、じっと心に染みてきた。
翌朝、いつものように起きると、ノルベルトはもうすでに起きていた。
右腕の包帯から、昨夜のことは夢でなかったと分かる。ずきりと胸が痛んだ。
朝食を用意する。スープを温め、パンを切り分ける。
外はぽつぽつと雨が降っているようだった。気温が下がって肌寒い。
温かい紅茶でも入れようか。茶葉の入った缶をかぽんと開けると、ふわりといい香りがした。
「怪我はどうですか」
「痛くない」
「……なら、よかった」
淹れたばかりの紅茶をひとくち含み、ほっと息を吐く。身体の内側からじんわりと温かくなる。
「今日、仕事は何をするんだ」
「午前中は青空教室ですね。そのあとはカローラの家に顔を出して……あとはご老人たちの様子を伺いに行こうかと。雨の日は節々が痛むようですから」
「わかった。気をつけろ」
ノルベルトがサラッと言うので、俺は一瞬止まった。
俺が指示をしない限りはずっと後ろをついてきていたのに。
「ノルベルトは?」
「俺は……クラウスの所へ」
「クラウス?」
「ランプを壊してしまったからな。直してもらう」
「あー、ランプ……。私も行きますよ」
「いや、いい。俺だけで間に合う」
ノルベルトは慌てた様子で紅茶をひとくち含む。
……まあいいか。クラウスのところへはよく行かせているし。
俺のせいでランプが壊れてしまったから、ノルベルトには申し訳ない。クラウスに色々と怒られるのも彼だろう。
「これ、クラウスに渡してください」
「なんだ?」
「修理代とお菓子です。お礼として」
「……わかった」
教会で配っているクッキーを詰め合わせて、ノルベルトに持たせた。これでクラウスの怒りが楽になればいいのだけれど。
時刻はもうすぐ八時になる。
そろそろ鐘を鳴らし、準備をしなければ。
「では、ノルベルトも気をつけていってらしてくださいね」
「ああ、アベルも」
ノルベルトはお礼をしっかりとカバンに詰め、靴を履く。
外はどんよりとした空が村を包んでいた。
大きい傘を手渡すと、ノルベルトは柔らかい笑みで受け取った。
次回、騎士の矜持と、”守る”とは。
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