3.出会い
山吹壮は、住宅街の中に立つ古いアパートだ。
二階建ての建物で、今どき珍しい風呂無しアパート。
時と共に壁の塗装は剥がれ、二階へと通じる階段は錆、如何にもといった風情だが、住めば都とはよく言ったもの。
部屋は六畳一間。お世辞にも広いとは言えないが、一人で住む分には問題ない。
誰にも邪魔されない、自分だけの空間がそこにはある。
まるで、この部屋に居る限りは、治外法権が発生するんじゃないかと錯覚するような優越感を竜一は感じていた。
そんな竜一の聖域とも言える部屋で、朽葉 茜は、我が物顔で振舞う。
茜はまず、窓を開け部屋を喚起。続いて畳の上に敷かれた布団を仕舞い、軽く掃除機を掛けた。
「何もしなくてもいいから!」 と言う竜一の言葉を笑顔で受け流し、台所の掃除を開始。
それから、ビニール袋に入った食材を取り出し、調理開始。
「俺も手伝うよ」と言う竜一に、茜は「いいから座ってて」と返事し、テキパキと食材を切り刻んでいく。
落ち着かない竜一は、畳の上に胡坐をかいて、茜の背中をただ見ていた。
何を作るんだろう? と茜の様子を観察していると、竜一はすぐに理解。
茜は鍋に入った水が沸騰したのを確認し、パスタを投入。
それと同時並行でフライパンの上に乗った、トマトソース、ベーコン、玉ねぎなどを炒める。
「よし」と言う掛け声と共に、鍋に入ったパスタをざるに投入。
ざるの水をよく切ると、中身をフライパンに投入。
ジューという音と共に、フライパンの上に乗る具材が混ぜられていく。
そして十分混ざったことを確認し、茜は皿にパスタを盛り付ける。
付け合わせのサラダと共に、パスタが盛られた皿がちゃぶ台の上に乗せられた。
茜は笑顔で「召し上がれ」と一言。
時計を見ると十二時を回っている。
竜一は朝食は食べない派。理由は金銭の問題と準備するのが面倒だから。
だから、現在、腹の虫が鳴っているのは事実。
後ろめたい気持ちはあるが、背に腹は変えられまい。
竜一は深く感謝し「頂きます」と手を合わせ、パスタを口に運ぶ。
「うまい」
自然と口から言葉が漏れた。
茜はそれを聞いて、満面の笑みを浮かべる。
胸の前で手を合わせて「良かったー」と安堵する目の前の娘は、天使か何かだろうか。
こんな笑顔を見せられたら、男はイチコロだ。
「朽葉さん、あの、本当にありがとう」
と言って竜一は頭を深く下げた。
「いいってことよ! それに、私が好きでやってるんだからね!」
献身的な姿勢を見せる茜に、竜一は殊更に胸が痛んだ。
何で、この娘は俺にこれほどの好意を寄せているのだろう。
何故、俺はそれにときめかないのだろう。
理由は分かっている。
竜一は、朽葉 茜と出会うところから振り返ってみることにした。
四月下旬、竜一は新たな生活に忙しさを覚えながらも、それなりに充実感を味わっていた。
居心地の悪かった施設から解放され、自分の力で金を稼ぐことを覚えた。
仕事先は、機械制御を担う部品を作成するメーカーで、会社名は如月製作所。
機械的に駆動するバルブや、各種センサー類等を手掛ける会社である。
会社の規模は小さく、全従業員十名に満たない。
小さな下町工場ではあるが、大手デバイスメーカーにも部品を納品しているほどで、その技術力は高い。
施設関係者から紹介された仕事先ではあったが、竜一は懸命に働いた。
まだ雑用しかさせてもらえないが、それでも竜一は、それに心血を注ぎこんだ。
労働とは何と素晴らしいものか。働けば報酬が得られる。努力には結果が伴う。
労働には対価が支払われるこのシステムは、竜一には目新しいものだった。
この世には努力しても、思った通りの結果が得られないことがよくある。
人との関係もその一つだ。
竜一なりに、周りに溶け込もうと努力したが、結果は伴わず空回り。
いつしか、竜一は努力を諦め、孤立を深めていった。
だが竜一は、環境を恨んでいなかった。
どうやら自分は、人とのコミュニケーションが苦手なようだ。
孤立しているのは、本人の素質によるところもあるのだろう。
それに、なにより竜一は、孤独が嫌いではなかった。
理由はない。そういう性分なのだから、そうとしか言いようがない。
そんなある日、竜一は仕事を終え帰宅の途についていた。
今日は夕方からの授業はない。
珍しく家でゆっくりできるなと考えていた竜一は、一瞬だけ足を止める。
「なあ、いいだろ~? 遊ぼうよ」
「君、ホント可愛いね」
体格の良い二人組の男達が、一人の少女をナンパしていたのである。
ガードレールに座り込む少女に男達が声を掛けている構図。
聞こえてくる声から少女は困っている様子。
竜一は少女の顔をチラッと覗き見る。その少女は、とても整った顔立ちをしていた。
細身のジーンズに黒いティーシャツ。見ようによっては地味とも言える格好だが、服装は単なる飾りにすぎない。本体が輝いているのならば、余計な飾りは不要。
そう思わせるような少女であった。
竜一は、なるほど、ナンパしている男達の気持ちも分かるなと思いつつも、少し考える。
ここは、助けるべきなのだろうか?
YESかNOかでいうのならばYESだ。
だが、その行動により被る被害を考える。
あの中に自分が割って入った場合、間違いなく男達の怒りの矛先が自分に向くだろう。
相手は体格の良い二人組。
対して自分は、細身の体格。背は低くないが高すぎることもない。
武道の心得もない。
となれば、答えは一つ。泉谷 竜一は、正義の人ではないのだ。
大半の者がそうであるように、竜一もまた、見て見ぬふりを実行することに決めたのである。
罪悪感が全くない訳ではない。代償と自分の罪悪感を天秤に掛け、竜一は傾いた方を選択した。
何度試しても代償の方に天秤は傾く。それほど代償は重い。
勝率は低いと判断し、竜一は男達の背後を素通りした。
それが、朽葉 茜との関係の始まりであった。
少女は何を思ったのか、素通りしようとする竜一の腕を掴み、声高に宣言したのである。
「この人が私の彼氏だから! だから、諦めてね」