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「あれ? なんか嫌な予感がするな……」
クロは読んでいた本を閉じてそう言った。
酒場『メロウツリー』は本日休業。
酒場の店主の孫であり、普段からここで給仕として働くアンナは、椅子の脚を拭いていた手を止めて顔を上げた。
「虫の知らせみたいな感じですか? クロさんが言うとなんか怖いですね」
魔術も石版もよくわからないが、あるものは便利だから使う。その程度の認識しかないアンナだが、クロが時折魔術で不思議な事をしているのは知っている。
普段はそれも忘れて『粗暴で陽気な酔っ払いの客の一人』としてしか認識していないが。
「ああ、アイツか。アンナちゃん、そこ危ないかもしれないから、もう少しこっち寄って」
クロはアンナを手招きした。何故危ないのかわからないが、アンナが素直に従いクロの側まで来たところで、乱暴に店のドアが開いた。
「やあ! クロ! 久しぶり!」
声は届くが、店内から声の主の姿は見えない。
ドアを開けて、半身を店内に入れたのは白い馬だったからだ。
すると、白い馬は掃除中の店内の埃を吸って盛大にくしゃみをした。あたり一面に、唾液が霧状になって噴射される。
あたしがさっきいた場所だ。
アンナは馬の唾液でキラキラした床を見ながら、ぼんやりとそう思った。
「取り敢えず馬置いてこいよ、店の裏空いてっから」
「わかった、ありがとう」
声の主に手綱を引かれて、馬が去っていく。
クロはお金を払ってメロウツリーの二階の空き部屋を利用しているし、女二人で営業をする酒場には防犯的な意味で貢献している。
しかし、客である事には変わりない。
勝手に庭を案内するし、本日休業であるにも関わらず先程の人物を招くようだ。
店側の人間として、文句の一つや二つ、クロに言ってもいいものだが、アンナは消極的な性格が故に文句など言えなかった。
それに加えて運動音痴を自覚しているので、住居部分である二階に慌てて避難をするより、ここで静かに気配を消して空気と同化する事をアンナ選んだ。
「クロ! 元気そうでなによりだ」
馬を繋いできたレオが、陽気な声を上げながら店に入ってくる。
「レオ、お前ちゃんとドア閉めろよ」
ドアを言われた通りに閉めたレオの美貌を見て、アンナの気配はより希薄になった。
「また勘で俺を探し当てたのか?」
「そうさ。心の声に従えば、自ずと道は拓けるのだ」
「お前の構造、マジで意味不明だわ」
レオは、クロのように石版等の媒介を無しに魔術が使える訳では無い。
なのにも関わらず、こっちにクロがいる気がする、と当てずっぽうに進み、本当に訪ねてくるのはこれが初めてでは無かった。
「で、今回はなに?」
レオはクロの向かいの席に腰掛けると、語り始めた。
「最近仲良くなったラルム殿がな、領地にある屋敷とそこに残してきた娘を大層心配されてる」
「へえ」
「屋敷の者からの手紙に、不穏な事が書いてあったそうだ」
「へえ」
「だから、僕はクロを連れて様子を見に行くことに決めた」
「いや、行かねぇし」
クロの返事を聞いて、レオはなんで、とでもいうように顔をぽかんとさせた。
「俺が行く意味がわかんねぇ」
「僕は頭を使うのが苦手だからな。物事をきちんと考えられる人間がいた方が、なにかあった時のためにいいだろう」
「お前がバカなのは知ってるけど、俺関係ねぇじゃん」
「関係あるよ。君は僕の友人だ」
レオと会話が上手くいかないのは、今に始まったことでは無い。クロは大きく息を吐いた。
「そもそも、不穏な事ってなんだよ」
「それを調べに行くのだ」
「………………」
つまり、情報は一切ない。クロはここでやっと、レオの暴走だと察した。
「なんにしても俺はいかない。俺は働くのが嫌なんだ。自由を愛してる」
「そうか。……そういえば、クロが喜ぶと思って途中で買ってきたんだ」
一冊の本を取り出しながら、レオは残念そうに言った。しかし、その本の表紙を見た瞬間、クロの目の色が変わる。
「それは!! ロベルト先生の新作か!!!!」
「いいんだ、クロ。君が自由を愛す者だと知っていながら、押しかけてしまった僕が悪いんだ」
別にレオは、本をエサにクロを釣ろうとした訳では無い。しかし、本だけ貰って何もしないと言うのはクロの流儀に反する。
「いいよ、ついてくよ。でも、ついてくだけだからな。俺は全力でその本を読むから、お前が動けよ。俺は何もしないぞ」
「本当か! ありがとうクロ!」
「今すぐ行くぞ。場所はどこだ」
地図を出したレオが説明を始めると、二人の姿はその場から忽然と消えた。
空気と化していたアンナは、やっと緊張から解放される。
「アンナー! 庭にいる馬はなんだーい!?」
朝から出かけていた祖母の声がアンナの耳に届く。
「あ……馬置いてっちゃったんだ」
何処に二人が消えたのアンナにはわからなかったが、戻ってくるまで自分が馬の世話をする事になると気づいて、静かに溜め息をついた。




