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「うっわ。めっちゃ可愛い」
男が呆気にとられていると、懐から何かを取り出した黒いその人物がしゃがみこんでそれを仔犬へ投げた。
「あ、ごめん。怪しいもんじゃないんだ。俺はクロっていうんだけど、今、旅行中でさ」
そう言って、クロはまた懐から何かを取り出した。
旅で通るような場所ではない田舎の村。怪しくないという言葉が怪しい。
しかし、男の心は既に麻痺していた。
家族に冷遇され、拾った仔犬を認めて貰えず、自身のアイデンティティが壊れていく中で、仔犬を可愛いと言って自身にフレンドリーに接しただけのクロに強い好感を持ってしまう程に。
「俺はジェフだ。旅の者なら家に招いてやりたいところなんだが、生憎うちは狭くてな」
「いーのいーの、気にすんなって」
そう言ってクロは笑い、よしよしと犬を撫で始めた。
「納屋であれば、荷物を出せば寝れるかもしれない」
「大変だからいーって。でも、お言葉に甘えてちょっとここ借りていい? たまには歩きたい気分だったんだけどさ、もう疲れたわ」
そう言ってクロは懐から瓶を出した。ローブを腰で切ったような上着の中に、何故そんな物が入っているのか。
「アンタも呑む?」
何も考えずに頷いてしまったジェフは、気がつけば久々に酒を呑んでいた。
元々口数の少ないジェフだが、それも気にならない程クロはよく喋る。
クロの顔の毛穴の数を調べようとする女の話だとか、シャンパンファイトを教えたら国王に実際にスパークリングワインをかけた貴族の友人の話だとか。明らかに作り話であるそれを、クロはまるで事実のように話す。
久々の酒と面白おかしく話すクロ。それに加えて今日は夜は離れて眠る子犬も一緒だ。
ジェフは声をあげて笑うことはなかったが、久々に現実を忘れた夜を楽しんだ。
「おい、クロ」
「…………ふぁ!?」
昨日の出来事は夢かと思ったジェフだったが、起きて家の裏手に足を運べば、粗末な小屋の中で犬に寄り添って眠るクロがいた。
「俺は仕事で山へ行く」
「なに、アンタ猟師?」
「ああ、だが今日は山菜を採りにいく」
「俺も行く」
眠そうに目を擦りながら、クロはそう言った。
「蕗の薹とか、たらの芽の天ぷらがすげぇ懐かしく思う時があるんだよね」
山の中を歩きながらクロはそう言った。
「俺にはフキノトウもタラの芽もわからない」
「そっかー。こっちにはないのか」
「呼び方が違うだけかもしれない。今の時期に採れるものか?」
「わかんね」
着いてきた意味が分からない程、ジェフが山菜を採って詰める様を見ているだけで、クロは何もしなかった。
実際、着いてきた意味もないのかもしれない。ただ、興味があった。それだけのこと。
しかし、意味のないそれをジェフが居心地よく感じているのは事実だった。普段、喋るのは得意でないにも関わらず、ジェフは説明をしながら山菜を採っては袋に詰めていく。
袋の中が一杯になってしまえば、ジェフが山の中にいる必要はない。
太陽の位置からすると、まだ昼を越えたばかりのようだがジェフは家に帰ることにした。
途中、ジェフとはぐれたクロが沢山の魚を袋に詰めて戻ってきた。
こんな時間に帰れば、いつもよりも鋭い言葉をジェフへと飛ばしてくる妻と娘は、魚の土産を見てクロへとにこやかに挨拶をしていた。
それを見て、胸の中で何かが気持ち悪く渦巻くのをジェフは感じた。
いつもは前日の夕飯を朝に少し食べ、昼は食べないジェフだったが、クロの土産で豪勢な昼食を食べた。
「なんか、騒がしいな」
ジェフの妻と娘の愛想笑いに付き合っていたクロは、いきなり立ち上がり外へと出た。
何か嫌な予感を感じて、ジェフも後に続いて外へと出る。
「おれ一点!」
「あ、外した」
「ちくしょう、犬め」
村の子ども達が、犬へと石を投げていた。
ロープで繋がれた犬は、避けようにも避けきれず身体のあちこちから血が出ているのが見える。
ジェフは頭に血が上って行くのを感じ、怒鳴りつけようとした時、犬を繋いでいたロープがちぎれた。
解放された犬は、その牙で一番近くの子どもの脚に噛み付く。
「ぎゃあああああああああ」
甲高い悲鳴が響く。
犬はその皮膚を食いちぎり吐き捨てると、次へと狙いを見定める。
「やめな」
静かにクロは言った。しかし、何か強い力を持ってるかのようにその言葉は響いた。
「オマエの主人が悲しむ」
暫く唸っていた犬は、言葉の意味がわかるかのように牙を収めた。
ジェフがふと見れば、怪我をしていない子ども達はその場からいなくなっていた。
怪我をして呻く子どもにクロが視線を向ければ、次の瞬間、淡い光が子どもを包んで犬に食われた肉が再生していく。
驚いてジェフはクロを見るが、クロが撫でている犬も淡く光り、血で汚れた灰色の毛が綺麗になっていくのがわかった。
魔術。この村で生まれて育ったジェフは見たこともないが、これがそうなのだろうと思った。
クロが犬を助け、子どもを助けた。
その事には感謝をしているが、自分でも整理のつかない渦巻いた感情が身体の中をぐるぐるとするのをジェフは感じた。
「俺は、この犬を連れて一旦山へ逃げる。あのガキの親がそろそろ飛んでくるだろ?」
ジェフの飼ってる犬に噛まれたと、騒いだ子ども達がすぐに大人を連れてくるだろう。それはジェフにもわかった。
「アンタはどうする?」
だが、その言葉はジェフにとって意味がわからなかった。
「一緒に逃げるか?」
そんな。そんな事をしていいのだろうか。そんな選択肢があっていいのだろうか。
ジェフは動揺する。ずっと生きてきた社会から逃げ出す事なんて、死んだ父からも母からも教わらなかった。
目を瞑り、暫し考えたジェフは決断をする。
「俺は、ここに残る」




