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名簿を閉じ、ユリウスはため息をついた。
空を飛ぶ人間――それを目撃した日から三日、何も進展がなかった。
あのあと急いで追いかけたものの、気づいたら忽然と姿が消えていた。白昼夢というには目撃者も多く、街では怪談としてカストリ紙に取り上げられている。
ユリウスは堅実な行動をとった。この都市・イーストプールにおける魔術師の登記をまず確認した。石板の修復師ばかりで、まずリストから除外する。
次に、いくつかの王都に所属する協会や研究所から魔術師名簿を取り寄せ、関所の資料と照合する。しかし、ここ数ヶ月新規の魔術師の流入自体なかった。
「無所属の魔術師、いや、そもそも魔術師ではないのだろうか」
だとしたら、どう調べればよいのか――――ユリウスの焦燥とはうらはらに、時間は進んでいく。
最悪の場合が、ユリウスの頭によぎる。
ずっと前から心に決めていた。妹を異形として見送ることなどできない――そのときは美しい少女のまま、この手で神もとへ送りだそう、と。
――――いや、まだ諦めるには早い。
そう心では思っても、なにも策は思いつかない。リリィが昏睡状態になってから六日目、ユリウスは睡眠もろくにとらず奔走し続け、頭がまわっていないのだ。意識をさます渋い茶も、味の濃いレモンもとっくに身体が慣れてしまった。
「こういう時こそ、あの酒場のエールだろう」
ユリウスは三日前に飲んだエールを思い浮かべる。場末の酒場にも関わらず、石板でも使っているのかキンキンに冷えたエール。微炭酸ののどごしを最大限に高め、すっきりとした後味の爽快感といえば類をみないものだった。
「あれならば、停滞した思考をすっきりとさせてくれそうだ――――いや、待てよ」
エールとともに、ユリウスの中でひとつの記憶が呼び起こされた。酒場で騒ぐひとりの青年の、頭から足先まで真っ黒な姿。
「なんてことだ、答えは最初からあったのか」
――――夜空に浮かぶ黒いシルエットは、黒衣の姿そのものではないか。
不確かな思いつき、だがユリウスの勘が訴えた。あの酒場、メロウツリーへ行くべきだと。
今日も今日とて、メロウツリーのこじんまりとした店内は、仕事を終えた労働者達で賑わっていた。
中でもひときわ騒がしいテーブルがある。
「ふはははは!! アンタらレイズしたな!!」
「まさか……!?」
「騙されるな。いつものハッタリだ」
「レイズレイズレイズレイズ!! この勝負貰った!!」
一人の男がそう叫んだ時だった。
カランカランと来客を知らせる鈴の音と共に、ドアから屈強な男達がゾロゾロと入ってくる。
それは客達にとって、忌避すべき光景だった。
「……おっと、そろそろカミさんに怒られる時間だわ」
一人の男がそう言って、無事店内から脱出した。それ見届けてから他の客達も足早に続く。
「お、俺も!」
「ごっそさん!」
「待て、置いてくな」
黒の背広を着た集団、その姿をこの街で知らないものはいない。都市最大のマフィア、ディニータ・ファミリー。
「おい! アンタら勝負から逃げるのか!」
ただひとりを除いては。
カツ、カツ、と革靴の踵を鳴らしてユリウスが残った客の向かいに座った。
「はじめまして。私はユリウスだ」
「はじめまして、俺はクロ……って、なんだよアンタら」
つい律儀に挨拶を返す黒衣の青年・クロ。そこでようやく、異様な格好の男達に囲まれている事に気づく。
「きみに聞きたいことがある」
「は? なに? 俺アンタから金借りる気はねぇよ」
まるで他からは借りているような物言いである。
「てかさぁ、見ろこの手札! ポーカーで言えばフルハウスだぞ!? 俺の幸運どうやって返すつもりよ!!」
「それは、すまない。いくらになるかな」
「バカ! 金の話じゃねぇ! 勝ったときにしか脳汁はでてこないんだよ!」
クロのペースに合わせていると、時間がかかりそうだ。そう判断したユリウスは、本題を切りこむ。
「夜空の空中飛行はどんな気分だい?」
ユリウスの物言いは穏やかなものだったが、その目は獲物を狙う猛禽類のように鋭かった。
「あれはダメだ。胃がシャッフルされて大惨事になった」
――――当たりだ。
「きみは、すごい魔術師のようだ」
ユリウスが言い終えた瞬間の事だった。
周りを囲んでいたユリウスの部下達が、その場で突然意識を失い床に転がった。
「なんだ!?」
咄嗟の出来事に、ユリウスは驚く。
「あ? 眠らせただけだよ。で、なに? 大人数で脅しにきたの? 空飛ばせろって?」
蔑むようなクロの目に、ユリウスは恐怖を感じた。
部下は倒れて護衛はいない。いざとなれば武力で事を運ぶつもりでいたユリウスは、自分の驕りを今にして悟った。人外な力を持つ者に武力で勝てる筈もないのだと。
それと同時に、この力は本物だとの喜びも湧きあがる。
もし魔術で人を眠らせるとしたら、どれ程の大きさの石版が必要になるだろうか。そもそもそれが可能なのかすらユリウスは想像すらつかないが、それは想像もつかない事をクロが出来る証明でもあった。
「ははははははっ」
長年探した一筋の希望に思わずユリウスは笑い声をあげる。
「え、なんで笑ってんの。こわっ」
「金はいくらでも出す。私に出来ることなら、なんでもする。だから――――」
ユリウスは絞り出すような声で、たったひとつの願いを乞う。
「――――どうかお願いだ。妹を、病気の妹を助けて欲しい」
懇願するように見つめるユリウスを、クロの真っ黒な瞳が見据える。
しばしの沈黙ののち、クロはゆっくりとユリウスから目線をそらした。
「俺まじで無理なのがいくつかあって」
はあ、と大きく溜め息をついたクロは、頭をガシガシと乱暴にかいた。
「まず虫苦手でしょ、あと酸っぱいのも苦手。腐ってんのか大丈夫なのかわからない。あと、お涙頂戴。
俺、根がお人好しだからさ、妹を助けてなんて言われたら断れないじゃん」
自称、お人好し。これ程までに信用できない言葉もない。ただ、うっすらと潤ませたクロの目に説得力があった。
「とりあえず話は聞く。まあ、アンタが思ってる通り、俺はどんな魔術でも使えるよ。スクロールや石版を使わずに」
もはや神に縋るような気持ちでユリウスは傾聴する。
「でもこれだけは先に言っておく。助けられるかはわからない」
そう言ったクロは、三本の指を立てた。
「ひとつ、心の傷は治せない」
「ふたつ、一時的な傷や病気は治せるけど、慢性的なものや老化は治せない」
「みっつ、死んだ人間は蘇らせられない」
ユリウスは、その制約に不安を覚えた――――妹は、当てはまるのか。
「それでも良いなら言ってみなよ」
だが、他に方法はない。時間もない。最後の希望にかけるため、ユリウスは口を開いた。