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「ふざけるな!」
男の怒号が響いた。その手には、くしゃりと歪んだ一枚の手紙が握られている。
――――【解析不能】。
赤いインクで押された判をにらむ主人に対し、彼の側近が声をかける。
「ボス、少し休んではいかがでしょうか。お茶の用意をいたします」
「いや、いい。少し休憩する」
そう断り立ちあがった男――ユリウスは、隣室へと続く扉に手をかけた。
扉一枚くぐっただけで、まるで別世界へと迷いこんだかのような少女趣味の部屋が広がっている。
ピンク色の壁紙、レースと刺繍がふんだんに使われたカーテン、白を基調とした細工の凝った家具。金と愛をつくした部屋の中で、ひときわ目につくのは天蓋つきの大きなベッド。
ユリウスはスツールに腰をかけると、ベッドで眠る少女へと声をかけた。
「兄さんが治してやるからな」
愛おしさと、不甲斐なさがないまぜになった気持ちでユリウスは少女を見つめる。
陶器のような滑らかな白い肌、長い金のまつ毛で彩られた瞳。眠っていても美しいとわかるその容姿でありながら、残酷にも首から下は枯れた木の様相をしていた。
異形の身体は生まれつきではない。その少女――リリィの奇病の始まりは十年前まで遡る。
「どうした? 指が痛いのか?」
きっかけは、しきりに小指を気にするリリィを、ユリウスが不思議に思ったことだった。
「ううん。痛くないんだけど、なんかへんなの」
差し出された左手。その小指が、まるで老婆のように萎びていた。
なにかの病気だと思い、ユリウスはすぐさま両親に相談し、リリィを医師に診せた。
結果、原因も治療法もわからなかった。
地方都市の医師では力不足なのだろうと、最先端の医術が集まる王都から医師を招いたが、同じく成果は得られなかった。
金をばら撒くようにして高名な医師を何度も招くが、得られた見解は、指の壊死。
健康体の幼き少女から指を切り落とすことを躊躇っているうちに――小指から突如、葉が生えた。
時間が経つにつれ、小指だけではなく腕まで症状は広がり、いつしか枯れた皮膚は文字通り樹皮と化していた。
あらゆる伝手を伝って、外国の医者を尋ねた――――そうこうしてるうちに、右手にも症状が現れた。
薬師、医学者、植物学者まで尋ねた――――左足にも現れた。
祈祷師、魔術学者、占師まで尋ねた――――右足にも現れた。
その頃に、火事で両親と兄が亡くなった。
不幸中の幸いだったのは、ユリウスが家督を継ぎ、金に困らなかったこと。
身内の不幸を悲しむ暇もなく、唯一残った妹のためにユリウスは奔走した。
だが、いくら金を使っても、コネを伝っても何もわからない。
――――リリィは、痛くないから大丈夫と笑った。
――――リリィは、右腕が使えなくなると左腕があると笑った。
――――リリィは、左腕が使えなくなると両脚があると笑った。
――――リリィは、両脚が使えなくなるとまだ話せると笑った。
――――リリィの身体は、顔を残して全て樹木になってしまった。
そして到頭、三日前から話せなくなった。
最後まで諦めてはいけない――――そう思う一方で、打てる手がない現状が、ユリウスの心をくすぶらせる。
「またあとでくるよ」
執務室に戻ったものの、ユリウスは仕事に戻る気にもなれず、そのまま館の外へと向かった。
陽は暮れかかり、春先といえど少し肌寒い。
「ボス、外套を」
「ああ」
走って追いかけてきた側近に短く返すと、外套を羽織った。そのまま夕暮れの街をあてもなく歩く。
点灯夫が、街灯に設置された石板に魔力をそそぎ、あかりを灯していた。夜の様相を纏った住民たちが、ユリウスの視界に入っては過ぎ去っていく。
大通りを何度か曲がり、飲食店が並ぶ小道へと入った。
店から漏れ聞こえるガヤついた喧騒のなかを進みながら、ユリウスは朝からなにも食べていないことに気づく。普段は寄らないような三流の店が建ち並ぶが、腹にたまればなんでもよいと、ユリウスは視線をめぐらせた。ひとつの看板が目にとまる――――酒場・メロウツリー。
扉を開けばカランカランと客を迎える鈴が鳴った。
小さな店内は仕事を終えた肉体労働者で賑わっていた。気づけば側近の男が隣におり、ずっとついてきたのだと気づく。組織のトップが夜の街でひとり歩きなど出来るわけがないのに、そんな当たり前のことを忘れていた。
空きテーブルをひとつ見つけると、二人はそこに腰かけた。
「何にしましょう」
任せる、とユリウスが短く言えば、給仕の娘を呼び止めた側近が手早く注文と会計をすませる。
しばらくして出てきたのは、塩茹でした豆とチーズ、うすくスライスしたバゲットと冷えたエール。
不味いというほどではないが、さして美味くもない。暖かい料理はひとつもなく、すべて作り置きなのがわかる。バゲットはいつ切ったのかと思うほど表面が乾燥していた。
ただひとつ、冷えたエールだけが不釣り合いだった。のどごしがよく、さっぱりとした爽快感がある。これのおかげで賑わっているのだろうと店内をながめながら、ユリウスはなんとなく目の前の側近に問いかけた。
「お前は、どう思う?」
「どうとおっしゃいますと……ああ、リリィ様のことでしょうか」
「そうだ。なんでもよい、むしろ素人考えのほうが今まで試していなかった手が打てるかもしれない」
「そう、ですね。やはり魔術に可能性があるのではないでしょうか」
「魔術?」
「ええ、最近王都では話題になっている若い女魔術師がいるそうで、スクロールも一年予約待ちとのことなんです。しかしそこは庶民、金さえ積めばなんとかなる――――」
ダンとテーブルを叩き、側近の言葉を遮ったユリウスは、まくしたてるようにいう。
「私が考えつかなかったと思うか? 石板? スクロール? 確かに便利だよ、だからこの街はよい。だがそれだけだ」
国民全員が大なり小なり先天的にそなわる魔力。しかしそれ単体では意味がない。魔術式を刻んだ石板やスクロール、その媒体に魔力をそそぎ、はじめて効果を発揮できる――そういえば聞こえはいいが、実際にできることは人の技術で代替できるものばかり。
トイレの水洗機能、照明や街灯の灯りなど、ユリウスがいうように生活においては便利だが、その程度しかできない。
「何の役にもたたない」
ユリウスは吐き捨てるように呟いた。魔術に対しての発言のようで、自分に対しての評価だったのかもしれない。
無言となった二人だが、店内の客は関係なく騒ぎたてる。
「待った待った待った! それはナシだって!」
「気をつけろ、いつものダマシかもしれない」
「いや、これはマジなヤツだろ?」
「勘弁してくれよ、無職なめんな!」
中央のテーブルでカードゲームをしている酔っ払いたち。恥ずかしげもなく無職だと叫ぶ青年に、ユリウスは苛立ちを感じた。頭から足先まで黒い服、まるでお洒落とは正反対の格好だが、自分の意志でその服を選べることが腹だたしい。今のリリィには自分で服を選ぶ自由さえないのだから。
――――私の妹は幼くして病気に苦しんでいるというのに、なぜ働きもしないものがゲームを肴に酒飲めるんだ。
勝手な八つ当たりだった。自覚もあった。だが、楽しそうな人を見るたび無差別に怒りがわくほど、ユリウスの心は消耗しきっていた。
「あ、やべ。吐きそう。ごめん! 帰るわ!」
「おい、逃げたぞ!」
「この臆病者!」
黒衣の青年がドタドタ音をたて走り去るその背をユリウスは睨みつけて見送った。
酒場からの帰り道、ユリウスはできる限り空を見ないように歩く。夜道を歩くときはいつもそうだ。リリィは大好きな星空を自力で眺めることすらできないのだから、自分だけが見るわけにはいかない――そんな理由で何年も続けている。願掛けというには浅ましく、戒めというほどの思いはない。
あたりはすっかり暗くなり、外套を羽織っていても寒さがしみる。襟元を寄せ、ポケットに手を突っ込んだとき、紙がひらりと一枚落ちた。
拾いあげようと手を伸ばすと、風にふかれて背後にとんでいく。
振り返ったユリウスは手を伸ばし、宙に浮く紙と夜空をみた。
とっさに視線をそらそうとして、つい空を見入ってしまう。
空になにかが飛んでいるのだ。鳥とは違う、不可思議な動きをする黒いシルエット。
――――人だ、人が夜空を飛んでいる。
目がそらせぬまましばらくして、ユリウスは興奮気味に声をあげた。
「みろ! 人が飛んでいるぞ!」
「たしかに、人のような……なんだあれは」
側近の男が訝しげな声をあげてしまうほどに、それは奇妙であった。
くるくると宙に円をかくように大きく回ったり、急に軌道を変えたりするそれは、両手を広げて羽ばたくような奇妙なポーズをしている。人形や凧だとは思えない、人間的な動き。
「ははっ! あんな不条理なことができるのであれば、リリィだって治せるではないか!」
飛んでいる理由はなんだってよかった、その事実さえあれば。目には目を、歯には歯を、不可思議には不可思議を――それは十年目にしてはじめて感じた一縷の望み。
「捕まえにいくぞ!」
ユリウスは、満点の星空と空を飛ぶ男を見上げながら、夜の街を駆け出した。