第四話
どれ程飲んだのだろう。珍しく頭がズンズン痛い。時計を見ると早朝の四時半だ。
あれから私達は行徳の佐倉先生行きつけの店−小洒落た雰囲気の小料理屋−の暖簾を潜った。
「先生、若いのに渋くていい店知ってるのね」
「僕、魚が好きなんですよ。ここどの魚も新鮮でマジ旨いっすから。あと僕はあんま飲まないけど、日本酒良いのが置いてるんだって。」
ゴクリ。思わず喉が鳴った。
金目鯛の煮付けを夢中で突いている時。
「で。香世さん、マジ彼と喧嘩したんすか?」
「は? 何でよ?」
「だってー今日一日、ずっとそんな感じだったから」
「なあに、一日中私のこと見てた訳? キモっ」
なんと先生は顔を硬直させ俯いてしまった−
「ちょ、ちょっと。冗談。冗談だって。いや、佐倉先生偉いね、ちゃんと患者やナースの事しっかり見てるんだねー まだ研修始めて間もないのに、り・」
「すいません…でした…」
「だからー。ウソだって。むしろ嬉しいって。ね。」
佐倉は上目遣いで、
「ホント、すか?」
「ホントホント。私なんか気を使ってくれて、ホント嬉しいよ。ありがと」
満面の笑顔となる。あれ。なんか可愛い。
年下の男の笑顔。そう言えばこんな事を思い出す…
施設の食堂で夜皆で勉強していた時。中学生を教えている時に英語の参考書が入り用となり、
「龍也―、ちょっと私に部屋から中学の時に使った参考書取ってきてー」
数学を勉強していた龍也は
「自分で行けよ」
「私今みーちゃんの英語見てて手が離せないの。早く!」
「ったく、ウゼー」
と言いつつ龍也は私の部屋に向かった。
しばらくして、
「ほらよっ」
とテーブルに参考書を放り投げたのだが、若干様子がおかしかった。
勉強会が終わり、部屋に戻ると−しまった、洗濯物を出しっ放しだった−そしてよく見ると、畳んで置いたはずの下着が一枚、無くなっていた−
龍也の部屋をノックするとガサガサ音がした後
「誰? 何?」
と怒ったような声がする。
ドアを開けると龍也は怯えつつも上気した顔でベッドに入っていた。
「龍也。ちょっと話があんだけど」
「な、なんだよ」
「何よ、もう寝てるの?」
「別に、いいだろ。うるせーな」
「まいいけど。それよりアンタ、私の下着取ったよね」
龍也は顔が真っ青になる。
「取った、よね」
龍也のベッドに近づく。龍也は布団を頭から被り、無言となる。
その布団虫に囁くように、
「いつでもいいから。ちゃんと返してよ。おやすみ」
そう言って立ち上がり、ドアを空けて部屋を出る。ドアを閉める瞬間龍也はなんとも気まずそうな、それでも嬉しそうな顔をしていた−
「…なんだ。だからちょっとショック… って、聞いてる先生? おいっ 佐倉龍弥! 聞いてんのか?」
佐倉先生は船を漕ぎながら
「ですよねー」
なんていい加減な相槌を打っている。
机の日本酒のボトルは確か三本目。あちゃー、一升は行ったか…
会計を済ませ、
「さ。先生。行くよ」
「んーーー もっと飲むーーー」
「ハア? 何言ってんの。もう飲めないでしょ?」
「頑張るー」
「頑張ってどーするの、って先生明日はー休みって言ってたっけ?」
「そーそー」
「さ。取り敢えずお店出るよ。」
「わーい。飲も飲も!」
半分引き摺るように店を出て、さてどうしたものかと考えていると先生が私にしなだれかかる。仕方なく肩を貸し体を支えてやると、若い青臭さに昨夜の身体と心の疼きが蘇ってくる。
丸一日シャワーも浴びていないという彼の体からフツーなら鼻を曲げるような匂いがするのだが、今夜ばかりはゴクリと喉を鳴らしてしまう。
彼の下宿先はヨロヨロと歩いて三分ほどだった。洒落たワンルームマンションでまるで新築のような綺麗な造りであった。
鍵を探し出すのに手間取ったが、何とか彼を部屋に担ぎ込んだ。部屋はビックリするほど綺麗に整頓され、育ちの良い彼の人柄が偲ばれる。
服のままベッドに寝かしつけ、部屋を暗くし冷蔵庫を覗くとクラフトビールがあったので、それを一本頂く。
スマホの電源を入れるも、新たなメッセージは無し。小さく溜息をつきビールを一気に飲み干し時計を見ると十時。私は明日も仕事なので、
「佐倉せんせ。私帰るね。鍵開けっぱなしで大丈夫?」
寝顔が幼い。まるで大学生だ。
そっと頭を撫で、部屋を後にしようと立ち上がった時、左手を掴まれる。
「帰っちゃやだー」
いつもならば肘関節をそのまま脇固めで決めるところだが−
腕を引き寄せられ、端正な顔が間近となる。
背中に両手を回されて、そのまま寝ている彼にのし掛かる格好となる。
青い汗臭さに身体が昂まってくる、そして心も…
改めて時計を見ると四時四十五分になっている。
相変わらず彼の肌から青い汗の匂いが漂っている。
起こさないようにそっとベッドを抜け出し、脱ぎ散らかした服を身に着ける。彼の服はジャケットはハンガーに掛け、それ以外の服は洗濯機に放り込んでおく。
部屋の鍵は仕方なく開けたままにして部屋を出る。
ここから私のアパートまでは歩いて十分ほどだろうか。まだ暗い寝静まった朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。そして彼の匂いを肺から外に吐き出す。
歩きながら、鍵は開けたまま部屋を出た旨、そして昨夜はありがとうとメッセージを書き送信する。
信号待ちの時に生温かいものが流れ出し、その感触に苦笑いする。
* * * * * *
勧められた立派な椅子に座り、時計を見ると三時過ぎ。目の前のコーヒーの湯気に唆られ一口啜る。
学校での千葉羊の状況を話す間、父親は真っ直ぐに私を見ている。時折相槌を打ち、真剣に聞いてくれているのがヒシヒシと伝わってくる。
一通りの話を終え、何か質問や意見はあるかと問うと、
「いえ、特にありません。逆に先生は何かありますか?」
と逆に問われる。
「はい。ちょっと立ち入った事をお聞きしたいのですがー宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「羊さんは千葉さんの実子ではないという噂を聞いたのですが」
しまった。単刀直入過ぎたか…
千葉さんは一瞬顔を強張らせたが、すぐに穏やかな笑顔になり、
「はい。羊は三年前に僕が親友から引き取ったのです」
衝撃。噂は本当だったんだ…
「話せば長くなるのですが。」
千葉さんはコーヒーを一口啜ってゆっくりと話し始める。
千葉さんが市ヶ谷の本部に転勤となった頃、二つ年上の外務省の外交官と仲良くなった事。
その外交官は主に中国担当で千葉さんも同様だった事。
千葉さん自身は養護施設で育ち(!)その外交官は裕福な家庭で育った東大出のエリートだった事。そんな生まれ育ちの境遇が全く違う二人が何故か親友となった事。
ある日その彼に彼女を紹介された事。その彼女は中国人留学生で初めは年下だと思っていたら実は五つも年上だった事。
「なんて綺麗な人…それに羊ちゃんにそっくり」
アルバムに収められた羊の実母の写真を見せてもらい思わず口にする−あれ…しかもこの人誰かにもソックリ…
程なくその親友と留学生は結婚し羊を身篭る。そして何故か千葉さんがその出産に立ち会った事。
「ありえない(笑)いくら親友の奥さんの出産とは言え…」
「ですよね、僕もビックリでしたよ。でも当時は世間の事をなんもわかってなくて、そんなもんなのかって思って軽く引き受けちゃったんですよ」
そんな訳で期せずして千葉さんは羊の生誕を目の当たりにされたのだった事。
「二人にその瞬間をビデオで撮れって言われてたんですが…羊の誕生の瞬間に圧倒されてしまって…勿論忘れちゃいまして(笑)」
「逆にそこを冷静に撮っていたらビックリですよ(笑)」
そうか。千葉さんと羊はそんな絆があったのか。
空になったコーヒーを新たに淹れてくれる。実に気が利いた方だ。改めて千葉さんをじっくり眺めてみる−清潔に切り揃えられた短髪。日焼けした顔。よく見ると顔のあちこちに小さな傷跡が散見される。それが実年齢にそぐわない人生経験の深さを物語っている。
一見細身だがよく見ると鍛え抜かれた身体−シャツの上からでもわかる、鋼の筋肉。私の大好きな細マッチョだ。
そして何より。瞳の色の深さ。嘘偽りが無く何事にも誠実さを感じさせる、どこまでも澄んだ瞳。気がつくと簡単に引き込まれてしまいそうだ。
ダメダメ。この人は保護者。そんな視点で見てはいけない。
慌ててコーヒーを啜る。
話は更に続く。
羊はスクスクと育ち千葉さんもずっとその傍にいてその様子を見守っていた事。いや寧ろ仕事に忙殺されていた親友の代わりに父親代わりになっていた事。
「オムツ交換、風呂入れ。フツーにやらされていました… 親友が出張の時には泊まり込みでね」
「泊まり込みって… 羊ちゃんと、お母さんとですか?」
「そう。よく川の字で寝てました」
あり得ないあり得ないあり得ない…例え親友の奥さんとは言え、人妻と一夜を共にするなんて…
千葉さんが怪訝な顔で私を見る−
しまった、顔に出てしまった−そう。何故か私は激しく「嫉妬」してしまう−
独身の千葉さんが、親友の奥さんと同じ部屋で寝る−
何もない筈がない。勝手に想像し、思わず顔が歪んでしまったようだ。
「いや…千葉さん…それはマズいでしょ…その事旦那さん知っていたのですか?」
「うん、そいつから頼まれたからね」
大きく息を吐き出す。なんじゃそれ。もし私の夫が親友にそんなこと頼んだら即離婚だ。絶対あり得ない−
「僕はリビングで寝ようとしたんだけど。彼女が川の字で寝るぞって。やっぱ変かな…」
「変です! あり得ません! 千葉さんがどんなに良い人でもそれは無いでしょ!」
「だよね。今考えると、あれは何だったんだろう…」
唯一考えられるのが。
彼女が千葉さんのことが好きだったから。
その事を思わず口に出してしまう…
千葉さんの顔が大きく歪む。
ああ、またやってしまった…
「す、すみません… 余計な事言っちゃって…」
優しく首を振ってくれる千葉さん。
「はあー。思った事すぐ口に出しちゃうんですよ。教師失格です…」
優しく首を傾げてくれる千葉さん。
「他の家庭訪問先でも、つい反射的に言い返して関係を拗らせたり。初日なんて、学校に苦情が三件もきたんですよ。」
優しく吹き出してくれる千葉さん。
「二日目なんて。反社会勢力のご家庭で、下っ端に怒鳴りつけちゃったし。」
腹を抱えて爆笑してくれる千葉さん。
「私、向いてないかも。教師。ハアー」
「そんな事ないよ。羊は先生の事、大好きだし」
久しぶりに胸がキュンとなる… 教職についてから自分にブレーキをかけてきた。私は恋するとメチャのめり込むタイプだから。
学生時代も二人と付き合い、どちらも私の激情ぶりについてこられなくなり立ち去っていった。教職に付くにあたり、私は当分恋を封印することに決めた。でないと教育に集中できなくなるからだ。
あれから三年。久しぶりに私の胸の奥に封印していた恋心に火が点ってしまったのだろうか。それも、保護者に。
自分を正当化する。千葉さんは独身。法的に全く問題ない。同義的には大問題なのだが。だが私は昔から他人の目はあまり気にしない。特に恋になると全く気にしない。所謂恋は盲目というヤツだ。
恐る恐る千葉さんを見る。変わらぬ優しい目で私を包んでくれる。
この人のことをもっと知りたい。
「すみません、私の愚痴聞いてもらっちゃって。あの、千葉さんのお話の続きを…」
「え。まだ聞くの?」
「ハイ。是非!」
千葉さんは笑いながら頭を掻く。その仕草が愛おしい…
羊が三歳になった時。最悪の不幸がその家族に降りかかる。なんと親友が自動車事故で、そして親友の妻、羊の母親がマンションのガス爆発で命を失ったのだ!
千葉さんは無表情で淡々とその時の話をしてくれる。幸いガス爆発はキッチンで発生したので寝室で寝ていた羊は無傷だった。しかしリビングにいた母親は即死。
ひと夜で羊は天涯孤独の身になったのだった。
「信じられない… でもどうして羊ちゃんを千葉さんが引き取ったんですか? お爺さんお婆さんや親戚もいたでしょうに?」
「親戚は皆二人の結婚に反対していたから。一度も羊と会ったことがなかったんだ。それに。羊自身が僕と暮らすことを希望していたから、ね…」
「そうだったんだ。やはり二人の絆は深かったんですね。それからずっと二人で?」
「そう。先月末、までね」
そう。千葉家のもう一つの大きな謎。
「彼女はー竹岡さんは、どうして急に?」
ドアが開く音がする。当の本人の帰宅。ダイニングに入ってくる彼女。
目と目が合う。
恋の火花が交差する−
* * * * * *
目と目が合う。
この女…
後で千葉さんに聞くところによると、五分後に羊ちゃんが帰ってくるまでずっと睨み合っていたらしい。
「おや。松戸先生ではありませんか。まだ事じょうちょう取中なのですか。おつかれ様でございます。おや。百葉さん、お帰りなさい。今日もまよわず帰ってこられましたねえ。これも羊のおかげであると言わざるをえませんねえ。さて。夕ご飯は何でしょうか、羊はおなかペコペコなのです」
この子のコミュ力のお陰で不毛な対峙は解消され、互いに形式的な挨拶を交わす。ふと千葉さんを見ると額から汗を流して堅い笑顔で硬直していた。
彼を知り己を知れば百戦殆うからず
ふとそんな孫子が頭を過ぎる。
「あの、これから夕食作りますが。よろしかったら先生もご一緒に如何ですか?」
千葉さんと羊ちゃんがポカンと口を開けたようだ。後で聞くところによるとかなーり挑戦的な物言いだったらしい。
「それは、是非。」
先生も小悪魔的な眼差しで返答する。
「ところで。竹岡さんはどうしてこの家に住む事になったのですか」
急ぎ拵えたパスタを食べながら先生が私に振る。
「それはですねえ。百葉さんがお世話になるはずだった家が火さいでやけ出されたのです。そうして住むところがなくなった百葉さんをわが家で引き取ったのです。」
「火災? って、先月末の?」
「ええ。あやうく百葉さんのなけなしの荷物もしょう失するところでした。なかなか百葉さんは悪運がお強い。」
「そうなの… 竹岡さんのご実家は? 遠いのかしら?」
「百葉さんは父と同じでようごしせつ出身なのです。なので三月までに下宿しなければならなかったのです」
羊ちゃんが全て答えてくれる。私はただ頷くだけである。
「そう…なの… それは… って、えええ? 貴女、施設から東大入ったの!」
「そうです。これも施設や学校の先生、仲間のお陰なんです」
先生が驚嘆の表情で私を見つめる。そして−急にその大きな瞳から涙が溢れ出すではないか! はあ?
「あなた… 頑張ったんだね… 凄いよ。立派だよ。あの、ご両親は…?」
あれ。この人…
「はあ。両親は私が五歳の時に交通事故で亡くなりました。」
「ごめんなさい… でも、ご両親、あなたの…この立派な姿…さぞや見たかった…でしょう…」
嗚咽してる…
私、千葉さん、そして羊ちゃんが唖然として先生を見詰める。
大きな涙粒をポロポロ溢しながら、しゃくり上げる先生。
なんか思っていたのと違うかも。この女。いや、この先生。
パスタを食べ終え、食後のコーヒーは千葉さんが淹れてくれる。それをほっこりと飲んでいると、
「でも、百葉さんと千葉さんは元々知り合いあったの?」
「いいえ。私が初めてこの街に来た時に偶然知り合ったんです。その下宿先の場所が分からずに迷っていた時、羊ちゃんが教えてくれて。それがー火災の一週間前ぐらいかな。」
「って事は… ちょっと知り合っただけのお宅に住む事にした、と?」
「羊がおねがいしたのですよ。ぜひわが谷中ヒルトップテラスにおいでくださいと。」
「えええ? そ、そうなんですか千葉さん?」
「まあーそういう事になるのかな。僕的にも羊が保育園から小学校に上がるから、家政婦でも雇おうと考えていたからね。だからお互いウインウインでいいかな、と」
千葉さんが先生に砕けた感じで話すのが気に掛かる。
「成る程。事情は何となくわかりました。では、学校の調査票に同居人として竹岡さんの電話番号も載せていいですね?」
「はい。前も言いましたが、学校で何かありましたら、まず私に連絡ください。出来るだけ対応しますから」
先生は頷き、私の連絡先を手帳に記入する。
そして時計を見て、
「すっかり遅くなってしまいました。夕食までご馳走になっちゃって。土曜日の保護者会にはどちらが出られますか?」
「僕が出ます。」
「私も出ます」
「…わかりました。お待ちしています。それではお邪魔しました−」
と言って先生は立ち上がる。
玄関先で、
「百葉さん、駅まで送っていただけない?」
「それならば羊もご一っしょしましょう」
「羊ちゃんは漢字の勉強あるでしょ。四年生の分に入ったんだよね? 凄いねホントに。一人で頑張れる?」
「よゆうですよ。おまかせください。それでは百葉さん、松戸先生をよろしくおねがいしますよ。まさかまよったりしないでくださいな」
「だ、大丈夫だし。もう流石にこの辺は慣れたし」
部屋の鍵とスマホだけ携えて、私と先生はマンションを出る。
「千葉さんって、お付き合いしている女性いるの?」
歩きながら急に先生が話しかけてくる。
「さあ。いない、と思いますが」
角の肉屋の前で立ち止まり、
「火事があったのはこの先よね、」
「ええそうですね」
「あの火事がなければ千葉さんと住む事はなかったのよね」
「そうです…ね…」
「あなた。千葉さんのこと、好きでしょ?」
突然言われて、硬直する。
「でなきゃ、子連れの三十男の家に一緒に住んだりしないわよね」
口を開くも何も言えない。
「あなたみたいに可愛い女子大生が、ねえ」
は? 可愛い?
「それに。千葉さんも、あなたに満更でもない様子だし」
「は… 何言ってるの? そんな筈ないし…」
「だって。貴女、そっくりじゃない」
「誰に?」
「千葉さんの好きだった女性に。羊ちゃんの実母に」
「だからって…千葉さんが私のことなんて…」
「これでも教師ですから。それくらいわかるのよ」
すげえ…教師って、そんな事解っちゃうの?
「でも千葉さん、あなたに手出してないんでしょ?」
多分メチャ顔赤くなった気がする。
「出してません! そんな人じゃありません!」
「わかるー。絶対チョーいい人だよねー」
「でしょー、マジ良い人なの」
一瞬見合って、二人して吹き出す。
「私、こんな性格だから言っちゃうけど。」
「は? 何?」
「ちょっと、気に入ったかも。千葉さんのこと」
「はあ? 教師が何言ってんのよ!」
「でも独身でしょ? 法的に何か問題ある?」
「でも道義的にどうなのよっ 保護者なんだよ!」
「私、そーゆーの一切気にしないので」
「マジ? キモいんですけど」
「いやいや。処女がコブ付き男に惚れるのも相当キモいんですけど」
大勢不利?
「でも。惚れちゃうよね。うん。いい男だ。今の世には珍しく。」
激しく同意。悔しいけれど、この人の言っている事に何一つ卑しいところがない。どれも同意せざるを得ない。まだ若いのにこの教師は中々の人物なのかも知れない。
「なので一言言っておきたくて。」
「何?」
「正々堂々と。勝負しましょ」
「そ、そんな… 私勝てるわけないじゃん」
「へ… 何を弱気な…」
「だって私、先生みたいに綺麗じゃないし」
「あら。」
「思ってる事ちゃんと言えないし」
「ふむふむ」
「それに… 先生みたいに、大きくないし」
「成る程、成る程。」
と言いながらわざとらしく胸を張る先生。ちょっと吹き出す。
「でも。客観的に見たら、あなたの方が優勢なのよ」
「えーーーどこがーー?」
「まず。同居している事。」
「そ、そうかな…」
「花の、女子大生であること。東大生ってのはちょっとハンデかもね…」
「そ、そうなんだ…」
「それに、まだ十代。これは美味し過ぎる。しかもー処女。神々し過ぎる!」
「そ、そうなの…」
「そして。さっきも言ったけど、千葉さんの忘れられない人にソックリなこと! うん、これはスゲーハンデだわ…」
言っておいて、しょげかえる先生。なんか可愛い。
「わかる? あんたの方が絶対的有利なの。でも。それはそれで、燃えてくるわー」
いきなり拳を前に何度も突き出す先生。空手? なんかスゲーかっけー。
「じゃ、そーゆー事で。明後日の土曜日、学校でお待ちしています。ご機嫌よう」
と言うや否やくるりと反転し、颯爽と駅の改札に歩き出した。
それにしても余りに想定外だった、あの先生がこんな感じの女性だったとは。もっと陰湿で媚を売るタイプだとばかり思っていたのだが。
ひょっとしたら、友人としてうまくやっていけるかも知れない。そんな甘い事を考えながら歩いていたら、見たことのない通りに出る。どこここ?
慌ててスマホを開くも、まさかのバッテリー切れ。
辺りを見回すと地下鉄の駅が。
ちょ、ちょっと、本駒込って何なの? ここは何処? 谷中は何処?
* * * * * *
金曜日の朝。家に帰りシャワーを浴び、朝食を食べる。食べながら龍也にメッセージを送るが既読は付かない。
既読が付いたのは出勤途中の電車の中だった。そして返信が来たのは昼休みの昼食を同僚と食べている時だった。
「あれー、館山さん彼氏と仲直りですかあー」
「だからー。別に喧嘩なんてしてないし」
「いやいやいや。昨日一日は人殺しの目付きでしたよお」
「人殺しって…」
「でもでもー今日は一転、幸せ一杯の顔付きですからねー」
それは…ちょっと違うのだが。そうか、私、今日そんな顔付きしていたんだ。ちょっと複雑な気持ちで龍也のメッセージを開く。
明日の土曜は学校の保護者会か。来週から四勤二休のシフト制になるので、土日休みではなくなる。四月中は無いと言われていたのだが。かなりの人手不足なのだろう。
だから明日か明後日、何処か行かないかと誘っていたのだ。
久しぶりにドライヴがしたかった。
そう言えば龍也とドライヴした事はない。昔龍也に、
「いつかさ。ドライヴ連れて行ってよ」
「ドライヴって… 免許取る金ねーし。高卒で仕事して、そんな金も時間もねーし。」
「そこはアンタ男なんだから頑張りなさいよ」
「頑張れって言ったって… あ。」
「何よ」
「そー言えば。自衛官になればタダで免許取れるわ」
「それ…それでいいの?」
「香世が免許取れっていうからだろ。それしかねーかも」
「…大学、行かないんだ」
「香世だって行かねえで就職だろ?」
「私は…看護学校行くよ」
「そっか。決めたのか」
「うん。じゃあさ、私が看護師になって、龍也が自衛官になったら。ドライヴ行こうよ!」
「いーけど。覚えてたら、なー」
『覚えてるー(絵文字)ドライヴ(絵文字)行くって約束ちゃんと果たすこと(絵文字)』
と打ち終えて食べかけのサンドイッチに手を伸ばすと、着信音だ。同僚の駒形みすずの目が興味津々に私のスマホを見つめる。
「即返じゃないですかあ。ホント仲良しですねー いーなー」
「みすずちゃん、彼氏いないの?」
「いませんよお。紹介してくださいっ」
「いつかねー」
と適当にあしらいつつスマホを開くと−
『今起きたー(絵文字)お腹すいたー(スタンプ)今夜も空いてない(絵文字)』
「あーーー なんか館山さん、エッチな顔になったー ヤラスィー」
はーーー。どうしようかな。そうだ、試しに。
『ドライヴしたいかも今夜』
と絵文字もスタンプも使わず送ってみる。すぐに既読が付き、
『おけ(絵文字)それチョーないす(スタンプ)病院まで迎えに行こうかー(絵文字)』
『それには及ばす。六時頃そちらに行きます』
『りょーかい(絵文字)楽しみにしてまーす(スタンプ)』
昨夜の彼の青い汗の匂いが脳裏に過ぎる。
既読は付いたのだが、龍也からの返信は、来なかった。
「それでー彼氏と仲直りできたんですかー」
「だからー。喧嘩なんてしてないって」
「でーー。彼氏ってどんな感じの人なんですかー」
「んーー、佐倉せんせとは正反対、なタイプかなー」
「何それー。ウケるー」
はあ。久しぶりの年下の男。ちょっと疲れる。
それでも東京の湾岸エリアの夜景が心を弾ませる−まるで月九ドラマの舞台の様。
これで、もし隣が龍也だったのなら−隣の運転席を眺める。龍也とは似ても似つかない、爽やかな青年が首を傾げる。
「何してる人なんですかあ」
「自衛…業」
「へーー。自営業ってー、開業医とか?」
「もーいーじゃん、私の話は。それより佐倉せんせは彼女いないの?」
「んーー、彼女はいないかもー」
「何それ。モテる男の子は言うことが違うねー」
「あーー、バカにしたー」
はあ。つい溜息が出てしまう。
病院から帰宅し着替えてメイクし直し、彼の家へ歩いて行くと、マンションの前に真っ白のメルセデスが停まっていた。運転席で彼がスマホを弄っている。程なく私のスマホが鳴動し、
『まだですかあー(絵文字)早く来ないかなあ(スタンプ)』
なんて送られてくると少し胸がキュンとなる。
助手席のドアを開けて車内に入ると、爽やかな匂いに満ちている−昨夜とは似ても似つかない青春の匂い。
そのままドアを開けて帰ろうかと思ったが、彼の余りに嬉しそうな顔を見てドライヴは付き合おうと決めた。
東京の夜のドライヴはそう言えば初めてだ。晴海の辺りの夜景はよくドラマや映画で見るような本当にキラキラした感じで、知らぬうちに心が踊ってしまう。
港に車を停め、車内から東京湾の夜景を眺める。ウザいJ-Popさえなければ、ムーディーで良い感じなのだが。
彼は一生懸命話しかけてくれるが、私は心あらずでひたすらに龍也の事を想う。金曜の夜。谷中の家で楽しく家族しているのだろうか。何故そこにいるのが私でなく、あの女子大生何だろう。どうして龍也が食べている夕食が私の作ったものではなく、あの女子大生のものなんだろう。何処で人生は狂ってしまったんだろう…
「…って、ウケますよねー。でしょ、香世さん?」
軽く溜息をついて彼に向かい直る。
「ねえ。お腹空いてない?」
「チョー空いてまーす」
「ウチ帰って、なんか作ろっか?」
「…マジすか? 香世さんメシ、食わしてくれるんすか?」
「アンタのオトモダチより上手じゃないかもよ」
「いないって。メシ作ってくれるトモなんていませんって」
「そーなの? 近頃の若い女子は炊事も出来ないんだ」
「ですからー」
「で。何食べたい?」
「香世さんの作るもんならなんだって!」
龍也は決してこんな嬉しい事は言わないだろうな。そう思いながら、
「ところで。アンタんち、何かある?」
「えーと。米はあるかも。あと調味料はボチボチ〜」
「わかった。どっかスーパー寄ってくれる?」
「はーーーーーい」
「それと。私ジャズが好きなんだけど。」
「ジャズ、っすか。ちょいとお待ち〜 これでいいですかあ?」
ルイ・アームストロング。これで良しとしよう、今夜は。
スーパーで買った肉、野菜を使い、チャーハンを作る。胡麻油を買い忘れ、近所のコンビニに買いに行かせる。
出来立てのチャーハンを美味しい美味しいと言って掻きこむのをビールを飲みながら眺める。今夜は龍也は何を食べているのかな。食器を片付け、ソファーに座ってスマホゲームに興じる彼の隣に座る。
昨夜は遅くに来て早くに出たので、彼の部屋をじっくりと眺める。今時の男の子はあまり部屋にポスターとか飾らないのか。実にシンプルな部屋である。
肩に重みを感じる。彼がもたれかかっている。そっと頭の匂いを嗅ぐ。昨日とは違い、爽やかなシャンプーの匂いがする。
軽く頭を振り、そろそろ帰ろうと立ちかけると、
「え…もう帰っちゃうの?」
と、昨夜と同じつぶらな瞳で訴えかけてくる。
「せんせ、明日早いんでしょ?」
「ひょっとして、これから彼氏んトコ?」
急に拗ねた顔付きで言うもんだから、軽く吹き出しながら、
「そーだったら? せんせもこれから彼女何号さんが来るんじゃないの?」
と言って弄ってみる。
「だからー。いないって。そんな関係の女子。」
「嘘ばっかり」
「えーどして?」
「だって。昨日の夜、慣れてたし。」
「そーゆー香世さんだって。オレ、あんなの初めてだったしー」
「あら。そ?」
「マジサイコーでした。ただー」
「なあに?」
「酔っ払ってたからーイマイチよく覚えてなくって(笑)」
「アホか!」
と言って頭を叩く。彼は嬉しそうに、
「いってー」
と言って私にしがみつく。ちょっと。ダメ。今夜はダメ。もう帰るから。
「お願いっ 朝まで一緒いてくださいっ」
急に昨夜ほどではないが、彼から男の匂いが立ち上ってくる。
ゴクリと喉が鳴る。彼が首筋にしゃぶり付いてくる。
彼の後頭部に指を這わす。指に付いた彼の頭脂の匂いを嗅ぎ、身体が悦び始めた。
* * * * * *
「まったく。百葉さんにはこまったものですよ。どこをどう歩いたら本こまごめに歩き着くのですか。信じられませんあなたには。本当に東大生なのでしょうか、まったく」
「えへへ、ごめんごめん。でもさ。松戸先生って中々良い先生だね。」
「は? 中中ではありませんよ。とても良い先生なのです。羊にいろいろ教えてくださいますので。そんけいに値しますね。」
「そ、そこまで… それじゃさ。もし、千葉さんと松戸先生が付き合ったら羊ちゃんどう思う?」
羊ちゃんはポカンと口を開け、
「先生がお父さんと? それはかなり有りえないかと。なぜなら先生はお父さんの本しょうを知らないからです。」
「本性? 何それ」
敷かれた布団の中で羊ちゃんが声を潜める。
「実はお父さんは人をころした事があるんですよ」
ガバッと起き上がる。は? 何ですって? 千葉さんが人を?
「そんな筈ないじゃん。あんな穏やかな人がそんな事…」
羊ちゃんが小さな首を振る。
「そうか、百葉さんはお父さんとおふろに入った事がないのですね」
「ないわ。あるかい!」
「では今夜ぜひ一っしょに入ってごらんなさい。そしてせ中や足をごらんなさい。」
「は? 意味不だけど…」
「おびただしいほどのキズだらけなのです。これはすなわち−」
千葉さんが自衛官なのは知っている。だからと言って… それに自衛官が戦闘行為をしたなんてニュースに出ていた試しがない。てか、日本国憲法において所謂戦闘行為は禁じられているのだ。従って羊ちゃんの推測は大外れとしか言いようがない。
「あまい。アマすぎですよ百葉さん。そんな事がニュースに出るわけありませんから。一っぱん人が知る由もないです。しかし事実は事実なのです。何年か前、お父さんは自えいかんとしてせんとうにさんかし、あれだけのキズを体中におったのですよ。そして! 間ちがいなくてきを何人かあやめています。」
余りに真剣な目付きで話すので、真っ向から否定するのは避けておこう。
「なるほどね。じゃあ後で千葉さんに聞いてみよっと」
「そんなのす直に答えるわけありませんよ。何せ国家きみつなのですから。さ、そろそろねましょう。今日は何のお話をしてくれるのですか?」
軽く吹き出す。羊ちゃんは時々突拍子もない空想事を口にする。だがそれを全否定してはいけない。そんな優れた発想力は今後の彼女のためにも大事にして行きたい。
それにしても。余りにリアルな空想ではないか。ちょっと面白いので寝室を出た後ソファーでスマホを眺めている千葉さんに、羊ちゃんの妄想を話してみた。
「……羊が?」
……え?
「羊が、そんな事言ってたの?」
「そうなんですよ。ホント無邪気で。それに凄い発想力ですよね、身体の傷からそんな話を創り出すなんて」
「…そうだね…」
「それより、ホントなんですか、身体中に怪我の痕がいっぱいあるって…」
「うん。まあちょいちょい、ね」
「何か事故に巻き込まれた、とか?」
「まあ。そんな感じかな」
「そうなんですか、結構大きな傷痕なんですか?」
「ああ、ちょっと見てみる?」
と言って、徐にシャツを脱ぎだした。男の子の裸は施設で見慣れている、だが成人男性の実物の裸体は見た事がなく、即座に硬直してしまう−
裸の男性。裸の千葉さん。傷痕を探すどころでなく、その事実に呆然としてしまう。そして気がつくと自分の部屋の布団に包まっている−
千葉さんの裸の上半身。細いのに信じられない位の筋肉。あの筋肉に抱かれたら、どんな心地なのだろう。呼吸が荒い。自分でもビックリするほど興奮している。
ダメだ、私はあの胸に抱かれる資格が無い。松戸先生や幼馴染の館山さんの様に美しくもなくナイスな身体でもない。ただの貧乏学生だ。
そんな事より。
千葉さんが好きになる女性って、あのシェンメイさんみたいな人って、一体どんな人なんだろう。
穏やかで優しいタイプ? 話の感じからしてそんなタイプではなさそうだ。
ハッキリ物事を言い自分の意見を大切にするタイプ? どちらかと言うとそんな感じかも。それって松戸先生どストライクじゃん…
私は無意識の内にポロって言葉が出ちゃう事はあるが、自分の意見、信念を堂々と述べ立てる様なタイプでは無い。
どちらかと言うと場の雰囲気を鑑み発言を考慮するタイプと自負している。従って松戸先生や羊ちゃんの様に自信有り気に自説を滔々と述べる人達にある種の尊敬の念を抱いている。
そうか。きっと千葉さんはそんな自立した女性が好きなんだ−
そう思い込み、明日の朝食の下拵えの為に布団から出てキッチンに行く。
「さっきはゴメンなー、女子大生の目の前でアレは無いわー、すまんすまん」
風呂から出た千葉さんが頭を掻きながら冷たいお茶を口にする。
「いえいえ、男子の裸は施設で見慣れていますので」
「そっか。これからは気を付けなきゃなー」
「大丈夫。お気にせず。」
千葉さんがグラスをテーブルに置き、
「そう言えば百葉ちゃん、彼氏いないの?」
握っていた包丁を思わず落としてしまう。
「千葉さん、それって今、セクハラ案件ですよ」
「ゲッ しまった… 申し訳ない…」
真剣に申し訳なさそうにしているので、
「なんて冗談ですよー。因みに彼氏はいないし今まで付き合ったこともありませんっ」
かなりの衝撃を受けた様だ…
「ウソだろ? 一人位いただろ?」
「それがー 全然。」
「告ってくるヤツはいただろ?」
「はあ。でも交際には至りませんでした」
「…デート位、した事、あるよ…な?」
思いっきり大きな溜息をつきながら、
「あ・り・ま・せ・ん」
千葉さんはソファーに倒れ込んだみたいだった。へ? 何か私、変なこと言ったのかな…
大体の下拵えが済み私も冷茶のグラスを手にソファーに腰掛ける。
「そんな珍しいですかねえ?」
「そりゃ、ね。だってこんな可愛いのに… よく男子が放っておかなかったなあ」
褒められた? 瞬時に赤面する。
「と言うか、私が好きになった人が出来なかったんですよ」
「そっか。でもそれでもデート位…」
「そりゃ、してみたいですよ、デート。それもドライブデートなんて憧れちゃいますよ」
「ドライヴ… する?」
「えホントですかやっぱ冗談だよってなしですよと言うか千葉さん車持ってませんよねそれなのにドライブ誘うって 大人の男のアピールなんですか確かに今一瞬クラッと来ちゃいましたが」
「実はさ、」
私の大興奮をサラッと躱して淡々と話し出す。
「家族三人になったし、そろそろ車でも持とうかと思って。」
家族三人。感動で身体が確かに揺れた。
「それで知り合いの車のディラーに頼んで、試乗させてもらおうかなって」
高級マンション。イケメン。車。何という攻撃力なのだろう…
「週末どっちか予定ある? 明日電話しとくんで。あ、土曜だと午後からか…どうせなら丸一日どっかドライヴ行くか。」
「因みに土曜の保護者会以外に用事なぞ一ミクロンも有りませんし天気は両日共に上々な感じらしいですが実はドライブに来て行く服を持っておらず自分でもどうしたら良いか」
「空いてる? そっか、ならさ、土曜の保護者会出た後さ、泊まりでどっか行こうか!」
止まり? 何が止まるのだ? アカン。話の豪華さについて行けなくなってきた…
「実はさ、あの事件以来、羊と旅行に行ったことなくって。日帰りで海、とかもなくって。だからさ、もし良かったら…」
何故か赤面して口籠っている千葉さん。羊ちゃんを構ってあげなかった事を後悔しているのかな。
「行きましょう、ドライブ。行きたいです、海。止まりましょう、三人で!」
パッと顔が明るくなり、すっごく嬉しそうに
「ホント? じゃあ、宿探さなくっちゃ♪」
え? 宿? 止まる? 泊まる! マジ? 旅行、お泊まり? 私と? 千葉さんが?
アカン。アカンって。
地獄から天国。夕方までの憂鬱が遠い日のことの様だ。
ゴメンね松戸先生。一歩リードさせていただきます♫
* * * * * *
そうなんだ。そうなのよ。私って恋すると一途。周りが全く目に入らなくなり全力で落とし穴に落っこちる、遺体系の女なのだ。
そう言えば学生時代の二回の恋。どちらも友人の彼氏を力で捻じ伏せ奪い取ったものだった。仲間はそんな私を
「肉食系を通り越して、猛禽系だね」
と言って呆れ返っていたものだった。
そんな事はどうでも良い。今私は確かに恋している。それも今回はちゃんと彼女無しの男に。それも私的には極上の男に。穏やかながらに質実剛健。体育会系の上位互換である軍隊系ながらに知性的。親友夫妻の子供を全力で愛する今時考えられない誠実さ。
だから。ライバルが居るくらいで、丁度良い。相手が女子大生? 相手にとって不足無し。
生徒の保護者? それが何か。この恋が成就するならば、三学期の終業式を終えたその足で駆け落ちするのも吝かでない。
久しぶりの恋の炎に私の全身が燃え滾っている。家庭訪問の気疲れ? そんなの屁でもない。明後日土曜日の保護者会? 何百人でもかかって来い。
土曜日の保護者会… 急にテンションが落ちてくる…
翌日、何時もより三十分早く登校する。教師なので出勤とも言う。
昨日の家庭訪問の報告書を書いていると、柏副校長が
「松戸先生、昨日はお疲れ様。直帰したのね?」
「ええそうなんです。千葉さんのお宅で話が長引いてしまって。ついでに夕食をご馳走になってて」
「嘘でしょ?」
「へ? ホントですよ」
「それはちょっと…」
「?」
「他の先生や親御さんに話した?」
「全然」
「これ、よ」
と言って口チャックの仕草をする。
「やっぱ、マズいっすかねえ」
「マズいっすよ。羊ちゃんにもコレする様にね」
「はあ」
釈然としないが、まあ確かに他の千葉ファンの母親達には面白くない事であろう。私がZOZOスタジアムならぬ千葉宅で三時間も二人っきりでお喋りしていたなぞ知れたら、千葉さんを襲撃する輩が出るかも知れない。
仕方なく登校してきた千葉羊を呼び出し、その旨を伝えると、
「話すはずなどあるわけないではないですか。そんな事したらクラスの仲間にハブかれてしまいますよ。なのでこれは羊と先生のきみつなのです」
「あら千葉さん。ちゃんと四年生の漢字進んでる様ね」
「流石松戸先生。仲仲やるではないですか」
流石なのは貴女。貴女の方が一枚上手ね。
それにしても明日の保護者会。実に憂鬱だ。
去年も、一昨年も大紛糾した。思った事をフツーに話しただけで、母親達が大激怒したのだった。それを父親達が変に私を擁護した為、モノが飛び交う地獄の戦場と化したのであった。二回とも。
占い師ではない私でも明日の保護者会の有り様は予想出来る。千葉羊についてまず母親達が私に噛み付く。数名の父親が私を援護し、今度は彼らが千葉さんを吊し上げる。それに母親達が突っかかり、きっと明日は私史的に最大級の戦闘となるに違いない−反社会勢力の父親もいる事だし。
授業が終わり、保護者会の準備を終え、帰宅する。駅から家までの途中で千葉さんに電話をかける。
「谷中台小の松戸です。昨日はご馳走様でした」
「どういたしまして」
「明日、なのですが。保護者会、きっと荒れると思われます。」
「ですか?」
「です。なので気を悪くなさらないでくださいね。前もって言っておきますけど…」
「心の準備ってヤツかー了解です。先生も明日、頑張ってね」
「頑張りますー頑張るけど…頑張れるかなあ…」
「先生なら大丈夫だよ。僕も出来るだけ援護するから」
「マジですか? それチョー心強いかも」
「うん。松戸先生なら出来る。僕が保証する!」
「わかりましたーじゃあ、明日上手く乗り切れたら今度打ち上げ会しましょ」
「いいねーご馳走するよ。それじゃ明日。よろしくね」
嘗てない程の勇気が私の小さくない胸に満帆に広がって行く。何だコレ、スゲー。惚れた男の応援がこんなにも力強いとは生まれてこの方、知らなかった!
電話を切って気がつくと走り出していた。家を通り過ぎて、川沿いに東京湾方面へ飛び跳ねる様に走っていた。
この喜び。この嬉しさ。出来れば大声で吠えたい。全身でこの感動を表したい。
夕暮れの下町を駆け抜けながら私の心はどこまでも高く登っていった。
恋って凄い。恋って感動。恋って神。こんな事ならこの三年間遠慮せずにもっと追い求めればよかった。そうすれば保護者の事や理不尽な学校行事の事で憂鬱になる事も少なかったろう。
人を好きになるってサイコー。私こんなに男の人を好きになった事なかったかも。悪いけど二人の元彼をこんなに好きだった事は無い。
右手のスカイツリーにウインクして手を振る。私の好きになった人、ちょっと良くね? 今度会わせてあげるから。お楽しみにね。
打ち上げ会。二人っきりの。
千葉さん、どんな下着が好みかなあ。自衛官ってソッチが強そう…いやだ、ちょっと興奮しちゃうかも−そー言えばそーゆー事ってご無沙汰だったなあ、前彼以来だから四年ぶり? あれ、どーやるんだっけ。まいっか。きっと千葉さんが優しく激しく教えてくれるだろう。
そーだ、早いトコしとかないと… うぶい百葉ちゃんに先越されちゃうかも。そーしたら相当不利になるなあ。責任感メチャ強そうだし。
よし。打ち上げ会は私んちの近所のあの店。酔っぱらったフリして家に送ってもらい、そこで押し倒そう。
アレ買っておかなきゃ… 要らねっか。出来たら出来たで責任取ってもらおっと。
顔のニヤケが止まらない。女子大生なんかに負けはしない。絶対に負けられない戦いがここにあるのだ−
一時間後。疲れ切った私は汗まみれで新木場の辺りをウロウロ彷徨っていた。
* * * * * *
規則的な鼾を確認して、そっとベッドを離れる。
若さって、凄い。ちょっと草食っぽいこの子だけれど、いや中々なものだった。時計を確認すると一時。って事は、三時間も…
苦笑いしてしまう。
だって、もうおしまいって言ってるのに、早く龍也からのメッセージを確認したかったのに、全然鎮まらないだから。
三回? 四回? どんだけ溜まってるのよ。昨日の夜もしたというのに。ソファーに座ると尋常じゃ無い量が流れ出てきた。小さく舌打ちし、脱ぎ捨ててあった彼のTシャツで拭いとる。
スマホには着信の通知が来ており、慌てて開くと龍也からのメッセージが入っていた。
『車買うかも。そしたら行くか。覚えてるし』
スマホを胸に抱きしめる−覚えていてくれた、ドライヴしようって約束。
そう言えば龍也は約束を絶対に破らなかった。その代わりに簡単に約束してくれないのだが。
私が高校を卒業して看護学校の寮に行くことが決まった時。
「ねえ龍也、卒業記念に旅行行かない?」
「いやだし」
「何それ。そんな冷たくしていいの。ひょっとしたらもう一生会えないかも知れないのに」
「会えるだろ」
「わかんないよーだって私が行く学校、青森だし。そのままあっちの人と結婚したらもうこっちには一生戻らないだろーな」
「それ…マジ?」
「マジマジ。大金持ちの大地主のイケメンと結婚とかアリでしょ」
「んだよそれ。じゃーそーすれば」
「だからさ。行こうよ、卒業旅行」
「金ねーし。どこ行くの?」
「うん。最後にさ、千葉の海が見たいかも」
その後龍也はどうやって調べたのか、日帰りの南房総の旅行を段取ってくれた。
今でも忘れない。忘れられない。初めての男との旅行。初めての龍也との旅行。行きの内房線では乗った早々鼾かいて寝ちゃうし。そのせいで目的の駅を乗り越しちゃうし。
なんで起こさなかったんだよ、と怒る龍也に
(寝顔に見惚れてたから)
なんて言える筈もなく、ひたすらゴメンゴメンと言ったなあ。
あれ以来男の寝顔は全てあの時の龍也とオーバーラップしてしまう。
今も彼の寝顔に龍也を重ねてしまう。胸がチクリと痛くなる。
互いになけなしの小遣いしかなかったので、決して贅沢は出来なかった。食事は施設で握ってきたおにぎり。今でもその味は忘れない。
ずっと二人で海を見てたなあ。飽きもせずに。龍也はウンザリだったかも−今度聞いてみよう。
夕陽が海に沈んで行くのを見ながら、
「お願いが、あるんだ」
「なんだよ」
「卒業式が終わってさ、施設を出て行く日。駅まで送って行ってよ」
「別に。いいけど」
「そんで、改札口で。キスしてくれない?」
「ハーー? 恥ずかしいし。無理無理。絶対、ムリ」
「何でよ。もう二度と会えないかもなんだよ」
「又会えばいいじゃん」
「そうだけどー、でも。お願い龍也。最後にキスしよ。お願い」
握っていた手を更に握り締め、必死でお願いする。
「…ったよ。何とかするわ。」
「マジ? 絶対だよ」
「ハイハイ」
「じゃあ、ちょっと練習しておかない?」
「は?」
龍也の唇はちょっと塩っぱい南総の海の味がした。
そして、あの日。みんなの祝福を一身に受けた後、龍也と習志野駅に向かう。
改札口の前。ど緊張している龍也にお腹が痛くなる。だけど。ちゃんと約束を守ろうとしてくれている。
ありがと。龍也。
人目を一切気にせずに私は龍也にしがみ付き、一気に唇を奪った。その日も龍也の唇は南総の塩の味がした。
一人電車に乗り、青森へ向かう途中。龍也の唇の感触を思い出しながら突然気づいたー
私。龍也が大好きだったんだ
あの日の気持ちは今でも変わりない−
『えええ(絵文字)車持ってなかったのお(スタンプ)信じらんない、私でさえ青森では乗り回していた(絵文字)というのにい(スタンプ)何て車買うのー(絵文字)』
送信してから電源を切る。大きな溜息をついた後、冷蔵庫にビールを取りに行く。
音を立てない様に開けて、一口グッと飲み込む。口の中にこびり付いていた苦々しさがビールと共に胃に流れ込んでいく。
それにしても。やはり都会の男は悪くない。ついでに言えば、イケメンも悪くない。更に言えば、この甘えんぼ加減が実に良い。
何をしても許してくれるし。私的に昨夜以上にムラムラしていたので、つい過激な言動に走ってしまったのだが。この子は身体を張って私の欲求に応えてくれたものだ。
彼が恐る恐る私に求めてきた事にそれ以上で応えてあげると、
「す、すげえ… 初めてっす、こんなの初めて……」
と言って悶絶していたよ。
随分とノーマルな子だなあ、途中からは私のやり放題。目隠しして身体中を擽ってやったら突然噴出しちゃうし。
慌てて口で吸い取ってあげたら感動して
「初めてです、こんなことしてくれた人、初めてです!」
と涙ぐんでしまうし。目隠しで見えんかったけど。
ゴメンねせんせ。コレは君だからしてあげたんじゃないの。君を龍也だと思っているから出来ることなの。こんな事、今までだって殆どしたことがない。だって青森のオヤジ達はちっとも龍也と重なってなかったから。
だから偶に身を寄せ合った年下の男には思いっきり龍也を重ねてきたんだ。
どうしたら龍也は悦んでくれるのかな
コレはどうだろう、こんな事はどうなのだろう
だからと言って、何も付けずにする事はなかったなあ。何でだろう、昨日の夜も全然気にならなかったし。それが当然の様に振る舞っちゃったし。
寧ろこの子の方が謙虚だったな。ホントに大丈夫っすか、すいませんすいません、って謝ってくれて。なんて言いながら何回出せば気が済むのかちょっと呆れたりもしてみた。
「ボク、一回だけでした。いやホントに。一回ですぐ寝ちゃうんですよ。なのに、香世さんとだと…三回…」
「そんなこと言って。みんなに同じ事言ってんでしょ。せんせの嘘つき」
「マジですよお。香世さんとだけですう、ほら、見てくださいよお」
「えっ、ちょっと嘘でしょ、またあ?」
「すいませんすいません…もうどうしようもないんっす」
「仕方ないなあ。明日仕事でしょ、大丈夫なの?」
「大丈夫っす。問題ないっす」
この甘え方。私の消えかけた灯火が息を吹き返す。
スマホを置いて、規則的な鼾の方を見る。疲れ果てた彼が熟睡している。まだ四月中旬なので、何も着ていないとすぐに冷えてくる。
音を立てない様にしてベッドに滑り込む。彼の男の匂いが私に押し寄せる。彼の右の胸に顔を乗せる。スベスベして気持ちがいい。
鼾が一瞬止まり、又再開する。若い男は体温が高くて寒い時期は心も体も暖まるので、良い。それに変な加齢臭もなく、かと言って私の好きな焦げ臭い様な男の匂いはしてこないので、無い物ねだりは止めておこう、そう思い目を瞑る。
変な擽ったさで目を覚ます。は? 何? 時計を見ると六時半。そうか、そうだ。この子はもうすぐ出勤なのだ。なのにー
「ねえちょっと。くすぐったいんですけど」
「ごめーん、起きちゃった? おはよー」
「うん、おはよ。それで? 何よこの手は?」
「だってー。さっき目が覚めたらさ、今朝は香世さんちゃんといてくれてースッゲー嬉しかったんですけど」
「うん、ありがと。それで? 手を退けなさい」
「ウーーン。そうしたいんだけど、さ」
「何?」
「スッゲー、ヌルヌルなんだけどー」
「嘘つきなさい! いい加減にしなさいっ」
「ホントだって、ほらー」
と言って私の手を掴み、その場に持っていく…あれ…ウソ…どうして…
「ね。ホントでしょ。そんでもってさ、こっちもさ…」
と言って私の手を掴み、その場に持っていく…ウソ…何コレ…やはり若さって、恐ろしい…
「あのー、コレ鎮んないとー、今日仕事に手つかないかもーデス…」
わざとらしく大きな溜息をついてぶっきら棒に、
「信じらんない。ホントあり得ない。ハーーー。」
と言いながら布団に潜り込む。
朝の樹液はほんのりと甘い味がした。
「コレ、スペアキーっす。持ってってくださいね」
と言って、鍵を渡される。え、要らないし、と言う間もなく、
「そんじゃ行ってきまーす。帰りは明日の朝でーす」
と言って爽やかに出て行った。
残された鍵を見つめながら溜息が出る。どうして、男って…
この鍵を複製し、別の女に売りつけるとか考えないんだろうか。若しくは非合法組織に高価買取されてしまうとかも考えないのだろうか。脇が甘すぎる。だらしない。甘え過ぎ。
それでもその鍵を自分のキーホールダーに付けてみる。
もしコレが龍也の部屋の鍵だったなら。
もしここが龍也の部屋だったのなら。
私は着替えて自分の家に帰るつもりだったが、午後までここでのんびりしよう、そう決めて彼のベッドにダイブして枕に顔を埋め、彼の匂いを胸一杯に吸い込むのだった。
一眠りした頃には、龍也の返事も来ているだろう。




