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谷中恋ものがたり  作者: 悠鬼由宇
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第三話

 結局この週末は家でダラダラ過ごしてしまい、何の解決策もないまま月曜を迎えてしまう。月曜朝の全校集会の後、教室に戻り、授業を開始する。

 千葉羊は後ろの席で漢字の練習を始めたようだ。今のところ周囲の子達に特に影響はなく、一時間目は何事もなく終了する。

 その後も授業中は特に発言もなく、恙無く一日の授業は終わった。

 ただ、クラスは静まりかえり、大人しいこと甚だしい。

 それでも休み時間は千葉羊を中心に大いに盛り上がっているみたいだ。

 やはり、千葉羊はこのクラスのムードメーカーなのか。彼女が大人しいとクラスは静かに、彼女が弾けるとクラスも盛り上がる−

 今日一日。千葉羊が漢字の自習に集中していた為、最後まで授業中はシーンとしていたものだった。

 私がやりたい授業はこうではない。もっとみんなでワイワイやりながら進めていきたいのだが。しかし千葉羊を解放してしまうと金曜日の如くカオス状態となってしまう−

 これぞ、『針鼠のジレンマ』なのだろうか。

 下校時刻となり、千葉羊の机に近づく。そしてそっと耳元で、

「漢字練習、進んだ?」

 千葉羊は同じ様に密やかに、

「ええ。しつもんは多多ありますが、そこそこすすんでいるかと。」

「質問? 何かな?」

「どうしてかん字の書きじゅんはひ合理てきなものが多いのでしょうか。」

「…へ?」

「たとえば。この「口」という字。なぜこんなふうに〜たて、よこたて、よこ、なのでしょうか。こうかいた方がぜったい早いのに」

 と言って千葉羊はササっと口の字を左上から一筆書きで反時計回りで書いてみせる。

「千葉さん、お習字って知ってる?」

「それはぼくじゅうなるえき体たんそをふでで紙にしみこませる行いのことでしょうか」

「…そ、それね… ところでお習字、やったことある?」

「ありません」

「そっか。ところでモノを書く時。鉛筆が出来る前は筆で書いていたことは知ってるよね?」

「明じ時だいより前の話ですね」

「そう。今筆がないから鉛筆でやるけど。こんな風に書いたんだよ」

 そう言って私は鉛筆を筆の様に持ち、漢字をいくつか習字の様に書いてみせる。

「おおお、これは… 時だいげきで見るやつではないですか!」

「千葉さんもやってみて。それで、「口」って千葉さんが言った書き順で書いてみて」

「ふむ。ふむふむ… なるほど。ふで書きですと、書きづらいですね」

「そうなの。漢字の書き順って、元々筆で書きやすい様に出来てるの。だから鉛筆やボールペンの様に筆圧が高い筆記用具だと、書きづらいかもね」

「フーーーーム… 今日は大へん有いぎなことを教わりました。書きじゅんはじつは合理てきなモノだと。なるほどなるほど。松戸先生、かんしゃいたします」

「ど…どういたしまして」

 不覚にも褒められて照れてしまった…

「それより。どう? お父さんが言っていた「自戒」。今日は出来たかな?」

「ええ。かん字をおぼえるのにひっしでしたので。それにお父さん、百葉さんとのやくそくですから」

「そうね。明日もこの調子で頑張ってね」

「わかりました。先生もがんばってくださいね」

「…え、ええ…」

 この子の上から目線に慣れつつある自分は教師として如何なモノだろう…


 今日から家庭訪問が始まる。授業の片付けを済ませ、急いで昼食を掻き込み、最初の訪問先である岩井蓮の自宅をチェックする。

 今日は一日で五人回る予定である。一家庭あたり三十分程度。一時から始めて四時には終わるだろう。

 岩井蓮の自宅は学校から歩いて三分。昔ながらの旧家で如何にも「谷中」らしい雰囲気だ。

 チャイムを鳴らし訪を告げる。しばらくして硬い表情の母親がどうぞと家にあげてくれる。はあ、出だしから大変かもしれないな、と思いながら失礼しますと頭を下げて玄関をくぐる。

 案の定、母親の話は辛辣であった−

「先生、蓮の話によりますと、一人の生徒さんを随分と贔屓をしている様ですねえ。子供の話ではなんですので、先生からしっかりお話いただけますか、その子のことを」

 ちょっと衝撃的な言葉に一瞬固まってしまう。贔屓? 私が? 誰を?

「岩井さん。それは具体的に私が誰を贔屓していると仰っているのでしょうか?」

 ムッとしたので、ちょっとキツ目の口調で返答すると、

「え… いや… その…」

「私が、誰を 贔屓していると?」

「息子の、話では、ええと…」

 オロオロし出す母親。最初の勢いは全くない。

「千葉さん、です」

「千葉羊さんに対し、私がどう贔屓していると?」

「ええと…息子が言うには… 授業中に全然別のことをしていると…」

「ええその通りですよ。彼女にはインド式九九と小学校で習う漢字の練習をさせています。それが何か?」

「そ、それっていいのですか?」

「良いも悪いも、それが私のやり方ですが。それがお宅の蓮くんに悪い影響でもありますか?」

「い、いえ、別に」

「なら結構です。他になにか?」

 それっきり母親は何も話さなくなったので、私は淡々と岩井蓮の学校での様子を事務的に語る。それを終えると岩井宅を辞去する。


 同じ事が久住結菜の家でも生ずる。母親はあからさまに依怙贔屓と連呼し、私を批難するのだが、

「結菜さんが千葉羊さん並みの知能指数ならば結菜さんにも同様の処置をしたと思います。」

 と言うと口をパクパクさせて以降無言となる。

 結局、潮見悠真、関美優、梨沢結愛の各家庭でも似た様な状況となり、応じて対処したせいで、学校に戻った時はクタクタだった。

 皆が声を揃えて言う−千葉羊への特別扱いは如何なものか、と。

 柏副校長が私のところにやって来て、

「松戸先生、苦情の電話が三件程。大変ね、あなたも。」

「そうですか…」

「適当にあしらっておいたから。明日も頑張んなさいね」

「ありがとうございます…」

 柏先生は優しい笑顔をくれた後、他の先生の所へ行く。

 明日も、頑張ろう。

 今日の訪問の記録を書き終わると、既に外は真っ暗だった。


     *     *     *     *     *     *


 結局この週末は家でダラダラ過ごしてしまい、家の片付けは一向に進まなかった。ただ自炊のための買い出しには行ったので、冷蔵庫は食材で溢れかえっている。

 龍也とはあれ以来、ずっとラインで繋がっている−羊ちゃんのことで頭が一杯らしい。

 こちらからは、新居の様子と街の雰囲気を伝える。

『行徳って行った事ないわ。でもいい感じの街みたいだな』

 ダメ元で、

『そうだよ(絵文字)とっても住みやすい(スタンプ)トコだよお。来週、遊びに来ない(スタンプ)夕飯作ってあげるよ(スタンプ)』

 ハハハ…我ながら積極的な… ちょっと強引すぎたかな。でも暫くすると、

『木曜日は家庭訪問があるからダメだけど、それ以外なら大丈夫。いつにする?』

 胸が熱くなるのを感じる。

『いつでも(絵文字)なんなら毎日でも(絵文字)』

 ちょっと調子に乗り過ぎたかな、昼からビールを一口飲み込む。

『じゃあ、水曜日の夜。仕事終えたら行徳行くわ』

 私の片付けスイッチがオンになる。リビングの隅に積んであるダンボールを開梱し始める。そう言えば収納家具を私は一切買っていない。青森を出るときにそれまで使っていた家具を全て処分してきたのだ。

 慌ててスマホを弄り、近所の家具屋をチェックする。すると電車で二駅の原木中山の近くに大きな家具屋を発見する。

 急いで着替えて家を出る。あまりに急いだ為、駅でスマホを忘れたことに気が付き家に戻る。

スマホをバッグに放り込み、再度家を出て駅に向かう。何だろうこの胸のときめきは。久しく感じた事のないこの胸の昂まりは。

 これまで付き合った彼に対してこんな昂りを感じたことはない。それはきっとこちらが好きになって付き合ったのではないからだろう。どれも向こうから告白され、まいっかと付き合ったのだ。なので別れを告げられても、まいっかと簡単に納得し別れてきた。

 もし−龍也が『二度と連絡してくるな』と言ってきたら私はどうなるだろう。

 想像しただけで吐きそうになり、慌てて新調する家具のことを考える。


 これまで家具に拘りなぞなく、この大きな家具屋で正直私は狼狽している。

 必要なモノ、まずはベッド。寝具売り場へ行くも、圧倒的な量のベッドに立ち眩みを覚える。

 立ち尽くす私をみかねてか、若い女性のスタッフが近付いてくる。

「ベッドをお探しですか」

「はい」

「シングルでよろしいですか」

「ハイ…いや、できれば、セミダブルを…」

「承知しました、どうぞこちらへ」

 彼女曰く、フレームよりもマットが重要との事。試しに横になってみると、確かに今使っている布団とは全く違う。これならよく寝れそうだ。

 彼女の言うがままにフレームとマットを揃える。火曜日の夜に届けてくれるとの事。水曜日に間に合ったな、なんて思ってみたりする。

 次に収納家具だ。主に書籍類を収める本棚が必要だ。


 本と言えば、龍也ほどの読書家を私は知らない。彼は小学生の頃から学校の図書室で毎日本を借りてきては夕食後にそれを読んでいた。

 私もそこそこに読書は好きだったからよく龍也と同じ本を読んだものだった。だが中学生くらいになると本の趣味は私とかけ離れていき、男子が好きそうな歴史物や戦争物を彼はよく読んでいた。

 特に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は大好きだったらしく、全八巻もあるのに何度も何度も読み返していた事を思い出す。

 私も勧められて一度読み通したことがあったが、後日NHKで放送されたドラマの方がよっぽど面白かった。

 龍也にどの登場人物が好きかと言われ、フツーに秋山好古と答えたのだが、

「俺は明石元二郎が好きだ」

 と言っていたのを思い出す。本でもドラマでも何をやった人なのかよく覚えていない。でも龍也が好きになるくらいなのできっと男らしい誠実な人物だったのだろう。

 そう言えば龍也の家には本棚が無かった。あれ程の読書家だったのだが、今は忙しくて読書どころではないのだろうか。水曜日に聞いてみよう。


 適当な本棚を買い、キッチン家具売り場に移動する。食卓には椅子が二つでいいだろう、新春セールの椅子二脚付きの格安テーブルを決め、最後にリビング家具売り場に向かう。

 ソファーには拘りたい、何となくそう思い、これまでになく慎重に品定めをする。

 確か龍也のリビングのソファーは革張りだった。ので、革張りの物を探す。

 幾つか座って試したのだがどれも革が硬すぎるか柔らかすぎるかで、しっくりくる物はなかなか見つからなかった。

 店員がこちらも是非お試しください、と言いながら勧めるソファーはイタリア製の高級な物だった。値段を見て思わず息を呑んだほどだ。

 だが恐る恐る腰掛けてみると−信じられない程、座り心地がいい!

 思わず声を上げてしまう程だった。しっとりとした硬過ぎず柔らか過ぎない革。背中が吸い付く様な絶妙な角度の背。目の覚める様な真紅。

 夢見心地のまま、即決してしまう。その代わり火曜日必着で。


 その後何点かキッチン用品を買い揃え、それは持ち帰ることにして家具屋を出るとすっかり辺りは暗くなっていた。

 電車に乗ってスマホを開くと龍也からのメッセージが数件入っていた。

 水曜日に手土産に酒でも持って来ようかと言うので、一切不要と返信した後、

『聞いて聞いて(絵文字)今日いっぱい家具買っちゃったー(スタンプ)』

 行徳の駅を降り、簡単に買い物を済ませ家に着く。

『何買ったの?』

『それは(絵文字)水曜日の(スタンプ)お・た・の・し・み(スタンプ)』

 購入したキッチン用品を早速使い、簡単に夕食を作る。

『(スタンプ)』

 思わず微笑む。あの龍也がスタンプを送ってきた!

 水曜日が、待ちきれない。


     *     *     *     *     *     *


 土曜日の羊ちゃんとのお試し通学のお陰で、駒場への通学が始まったが迷子になる事はない。始まった授業も魅力的なものばかりで、順調な学生生活のスタートを切れたと言っても過言ではない。

 ないのだが−

 私の心は曇り空なのだ。

 それは−

 どうやら、千葉さんが先週からラインで誰かとのトークを楽しんでいるから、なのだ。

 日曜日は空模様も悪く三人とも家で過ごしたのだが、朝から晩まで四六時中スマホと睨めっこ状態で、何かメッセージを受け取るたびに表情がコロコロと変わるのだ。ときには顰めっ面で、ときには嬉しそうで。ニヤけ顔の千葉さんなんて、日頃の立ち振る舞いからは全く想像できないし。

 誰かに相談したいと思い、思い切って高校時代の親友であるえりなに連絡すると、水曜日の昼過ぎにランチしないかと誘われる。水曜日は授業が午前中だけなので快諾し、萌と愛美の都合はどうだろうかと問うと、一浪中の愛美は大丈夫だが萌はバイトを入れてしまい無理との事。

 えりながササっと渋谷のお洒落なレストランに予約を入れてくれ、その場所をマップアプリにラベル付けする。


 その水曜日の朝。三人で朝食を食べている時、

「今日、遅くなるから夕飯は要らないから。二人で外食でもしなさい」

 と千葉さんが言うと、

「お父さん、めずらしいですね。ひょっとしてデートですか?」

 思わず持っていたフォークを落としてしまう。

「デートじゃない。先週うちに来た香世と夕飯食べてくる」

 心臓が、確かに一瞬停止する。

「なーんだ。あのお姉さん気どりのたて山かよさんですか。キモ」

「は? 何だよキモって。失礼な」

「まあぞん分に楽しんで来てくださいな。羊と百葉さんはよう食をまんきつしますので。それと、明日の家ていほうもんは三時からですので。おわすれなくお父さん。」

「明日、三時な。わかってる大丈夫。」

「あ、あの私明日は…」

「授業だろ? いいよ俺一人で大丈夫だから」

 そうなのだ。木曜日は四時限まであるので帰りは六時を超えてしまうのだ。


 十二時に授業が終わり、井の頭線で渋谷へ向かう。渋谷駅からマップの案内に従い、東急文化村方面に進み、えりなの取ってくれた店に辿り着く。

 既にえりなと愛美は来ており、ランチのセットをどうするかで揉めていた。

 注文を終え、冷たい水を一気に飲み干す。

「で。どーした、もも。何があったさ」

 バッチリ化粧をきめた愛美が興味深そうに私に問う。予備校にそんなメイクして行くんだ…

「うん、ちょっと、ね…」

 中々ハッキリと切り出せない私。そう言えばこの子たちとの恋バナに私が加わった事は無かった気がする。

「ねえねえねえ、ひょっとして−、好きな人出来たとかあ?」

 これまた厚かましい程のメイクのえりなが食い付いてくる。スッピンとはえらい違いだ。いつかショックを受ける男性が今から気の毒になる。

「そんな感じ、かも」

「「きゃーーーーーーー」」

 店内のお客さんが全員振り向いた。

「で。で。で、で?」

「なになになに、速攻東大生?」

「それが−」

「って。ついにももにも春が来たのかあー」

「初めてじゃん、ももの恋バナ! で、どんな人どんな人どんな人?」

「やっぱ東大生じゃん? 何、サークルの先輩?」

「いやいや、クラスメートじゃない?」

「いやいやいや、ももだけに、イケメン准教授の線も〜」

「あーん、紹介して紹介して紹介して、その人のトモダチ」

 私の話が一ミリも進んでいない気がする。なのに二人は大興奮している。

「東大生じゃ、ないし」

「「…え…」」

 目が点になる二人。

「じゃ、誰よ」

「まさか高校時代の−」

「違うよ」

 私はキッパリと首を振る。

「誰っ?」

「誰なのっ?」

 私は一つ大きく深呼吸をする。そしてー

「羊ちゃんのお父さん− 千葉さん。」

 二人の時間が停止する。


 それから料理が運ばれてくるまでの二人は、言葉にならない言葉を、いや呻き声をあげ続けていた。そして料理を物も言わずに掻き込んでから、

「それで… もう付き合ってるの?」

「全然。」

「お父さん…その千葉さんって、彼女いるんじゃ…?」

「いない、と思ってる」

「千葉さんは、アンタのことどー思ってんの?」

「…わかんない。でも、」

「「でも?」」

「千葉さんが昔好きだった人に、私ソックリ、なの」

「「………」」

「だから、私のことも好き−」

「「な訳ねーーよ!」」

 二人の驚異的なシンクロ率の前に項垂れてしまう。

「だよね、そんな筈ないよね。こんな地味な私のこと、千葉さんが好きな筈、ないよね…」

「そ、それは…」

「ちゃんと聞いてみないと…」

 視界が歪み、大粒の涙が頬を伝う。

 嗚咽が止まらない。

 そんな私を親友達はそっと見守ってくれている。


 食後のコーヒーが運ばれてくる頃には私の心もだいぶ落ち着いてきた。

「それで。ももはこれからどーしたいの?」

「ちゃんと告って、付き合いたいの?」

「でもそーすると羊ちゃんどーなんだよ」

「うーん、いきなり小一の母… 重っ」

「そーかなー、あんな娘欲しいかも♩」

「それより。千葉さんってどんな人なの?」

「確か、自衛官って言ってたよね、カッコいいの?」

「細マッチョ? ガチマッチョ?」

 私は恐る恐る、入学式の時に撮った写真を二人に見せる。

「…アリ。アリアリアリ! いい、いい、いい!」

「えーーー、フツーにオッサンじゃん…」

「なんかチョー守ってくれそー」

「それはある。でも、オッサンじゃん」

「しっかし。似合ってないわー」

「そーそーそー。兄と妹? 叔父と姪? まあ親娘ではないかあ」

「夫婦ではないわ。彼氏彼女。ないないない」

 再び視界がぼやけてくる。

「ちょ、ちょっと… ゴメンももー」

「いつからそんな泣き虫に… ももの目にも涙― 試験に出るかも(笑)」

「まな、言い過ぎ。」

「てへっ ごめんゴメン」

「で。ももはどーしたい?」

 えりなが優しく問うてくる。

「出来れば、お付き合いしたい」

 今度は二人とも騒ぎ出さずに深く頷いてくれる。

「そっか。ウチらマジ応援すっから。」

 愛美が力強く言ってくれる。不覚にも涙が頬を伝う。

「これからは何でも相談するんよ、いい? ももにとって初めてなんだから。いつもみたいに思い込みで動いちゃダメだよ。絶対ウチらに相談するんよ。わかった?」

 それはこちらから是非ともお願いしたい。何せ、何をどうすれば良いかさっぱりわからない状態だし。それを口にすると−

「そうね。まずは千葉さんの気持ちだね」

「そーそー。千葉さんがももの事、どー思ってるかだね」

「よし。今度千葉さんに会わせて。いい?」

 えマジで?

「チョーマジ。いいから会わせることっ いい?」

 渋々頷く。


     *     *     *     *     *     *


 火曜日。授業は恙無く終了する。千葉羊は今日も漢字にドップリ嵌っていた様だった。放課後に調子はどうか尋ねていくと、

「やはり書きじゅんがやっかいですね。それとつくり、へんなども同時におぼえていくのは大へんです。今日、ようやく二年生までのかん字をおぼえました。明日からは三年生のかん字です。」

 逆に、この子は二日間で一年生の漢字80字、二年生の漢字160字を憶えてしまったのか…今更ながらにこの子のズバ抜けた才能に驚嘆してしまう。


 今日の家庭訪問は大多喜宝物おうじ高滝火星まあず笠森七星どれみ下郡希星きらら、そして平山希空のあのキラキラクインテットである。実はもう一人、宮下空走あっしゅを入れて一年一組キラキラセクステットなのだが、一日五組の訪問なので今日はクインテットなのだ。

 それにこの五人は越境組なのだ。なので今日は学校に戻るのは相当遅くなるであろう。昨夜考えた今日の訪問経路−全員台東区内なのだ−。上野駅から高滝火星宅に始まり、御徒町駅から下郡希星、笠森七星。元浅草まで徒歩で大多喜宝物、最後にバスで東浅草の平山希空。

 完璧である。

 完璧である、筈だった。

 スタートから躓いた。上野駅近くの高滝火星の家を中々見つけられなかったのだ。保護者の提出した自宅簡略図は大雑把すぎてよくわからんかったし、住居表示をスマホのマップ機能を使ってもある筈の道が無かったり、無いはずの建物が私を邪魔したりー

 結局近所の人の助けを借りて、何とか高滝家に辿り着いたのが予定より三十分越えていた。見事な金髪の母親が気怠そうに話を聞き流してくれたので話自体は十分で済んだ。

 急いで下郡家に向かう。マップの案内によると、昔は竹町と呼ばれた地域に来ると道幅は広がりよく区画整備された街並みである。

 下郡家で赤頭の母親にガッツリ捕まってしまう。胸元と腕からタトゥーがはみ出ているこの母親が意外に教育熱心で、塾に入れるべきか、千葉さんの様に九九を教えるべきか、漢字はどこまで教えればいいか、などと三十分も話し込んでしまう。

 人は見かけに依らないものである。今更ながらに実感させられる。成る程、あの母親にとって娘はまさに、希の星なのか。だからって、「きらら」ってないだろう…

 次の笠森家は徒歩で五分ほど。割と大きなビルの最上階が住居らしい。エレベーターで上がると、父親と母親がペコペコ頭を下げて出迎えてくれる。

 何でもこのビルのオーナーであり、近所に幾つもビルを所有している地主様だそうだ。こちらも教育熱心な家庭で、しきりに千葉羊の事を聞いてくる−どうしたらあの子の様に九九を憶えられるか、どうしたら漢字を書ける様になるのか、等々。

 流石に持って生まれた能力の違いです、とは言えなくて、ご両親が無理なさらずに楽しく遊び心を持って教えてあげてください、とアドバイスすると何度も何度もそうしますとお辞儀をされる。

 次の元浅草までバスで行くと言うと、半ば拉致された感じで車に乗せられ−L字の高級車に乗せられて楽々大多喜家に到着する。

 大多喜家も父親と母親が出迎えてくれる−特に父親の歓待ぶりは危険な匂いを感じる程だった。口から涎が垂れているのに自分では気づかないのだろうか…

 さておき、大多喜家はそれ程教育に関する情熱は高くなさそうだが、子供への愛情は狂気を感じさせるほどのもので、リビングには大きく引き伸ばされた宝物の写真が何十枚も飾ってあり、3Dプリンターで作られた宝物のフィギュアはあまりに似ていてドン引きしてしまう。

「ウチのおうじが〜」

 を

「ウチの宝物が〜」

 とどうしても脳内で変換出来ず、大多喜家を出る頃には自分の脳細胞の劣化感に苛まれて仕方なかった。

 涎を垂らした父親がどうしても次のお宅まで送って行くと言うのをどうしてもお断りし、それでもしがみ付いてくるのを深くお辞儀をし胸元をチラつかせることにより父親を硬直させることに成功し、その隙に大多喜家を飛び出した。


 そして。今日の最終訪問先である東浅草の平山希空宅に到達したのは約束の一時間後であった。かつてない程に疲弊しており、簡略図に書いてあるままの家のインターフォンを何も考えずに押す。

「へい。どなたさんでしょうか」

 ドスの効いた声に一気に意識が戻ってくる。

「はい。谷中台小学校の松戸と申します」

「どうぞお入りください」

 と言う声と同時によく見ると分厚い鉄の扉がゆっくりと開いていく。

 更にこの家をよく見ると−全体的に丈夫に出来ている大きな家である。それにしてもこの玄関に吊るされた提灯に書かれた「台東一家」とは何の事なのだろう。

 あれ… これって、まさか…

「ようこそお越しくださいました。父親の平山です。どうぞお上がりください」

「「「いらっしゃいませ」」」

 これって、あれじゃん… え、何、ホントにいたんだ、こんな人達… 怖えー

「せんせー、のあのおうちにようこそっ まってたよー」

 希空のあちゃーん… お願い、ずっと側にいてーー

 靴を脱ぐと若者がすぐに揃えてくれる。ふと見上げると、仁王立ちした甲冑が私を見下ろしている。床は見た事がない程ピカピカに磨かれて、危うくコケるところだった…

 リビングには超豪華な応接セットがあり、恐る恐るソファーに座ると足が跳ね上がってしまう程クッションが柔らかかった。

「先生。一つお聞きしたい事があるんですが」

 父親が穏やかに口を開く。髪を短く刈り上げた、紳士然とした風格のある方だ。母親は席を外しており代わりに如何にも頭の悪そうな若者が二人、父親の後ろに両手を後ろに結び控えている。なんか怖え…

「愚娘の話によりますと−先生は千葉某さんに少々肩入れが過ぎるとのこと。それは本当のことですか?」

 穏やかな口調ではあるが、目が笑っていない。

 なんか怖え…

「何人かの保護者の方からも聞かれたのですが。その様な事実はございません」

 怖えけど、私は曲げない。

「何でもその千葉某さんには授業中、別の勉強をさせていると。それh―」

「それが何か? この年で九九を既に憶え、小二までの漢字を書ける生徒に、あいうえおかきくけこを一緒に覚えろと?」

「………」

「谷中の歴史を我々教師よりも深く知り、今日の天気をスマホでチェックする生徒に一桁の足し算を学べと?」

「そ、それは…」

「こんな護送船団式教育にこの子の能力を埋めてしまえと、そう仰りたいのですか?」

「「テメエ、親父に何言ってやがるんだ、このクソアマが!」」

 後ろに控えた若者が私に突っかかって来た。

「あんた達は黙ってなさい! 関係ないでしょ!」

 柔らか過ぎるソファーから勢いよく立ち上がり、二人を睨みつける。若者二人は口を大きく開けたまま、動かなくなる。

「平山さん。そういう事情ですので、どうかご斟酌してくだされば幸いなのですが」

 父親は引き攣った軽い笑みを浮かべながら、

「わかりましたよ先生。今度の保護者会でその千葉さんにお会いできるのを楽しみにしていますんで。今日はわざわざお越しくださいましてありがとうございました」

 ちょっと凄みの効いた挨拶に対し私は深々とお辞儀をし、小走りで玄関に向かい、下足番が揃えた靴をかかとを踏んだまま逃げる様に平山家を飛び出した。

 角を二つ曲がったところで立ち止まり、大きく息を吐いた−怖かったー何あれ、信じらんない。下手したら私監禁されてたかも…

 なんか腰が抜けてこれ以上歩けないかも。ちょうど目の前にタクシーが停車しているのでそれに飛び乗り行き先を告げる。


 学校に戻ると六時を回っていた。柏先生が心配そうな表情で、

「松戸先生、お疲れ様。今日は大丈夫だった?」

「…何とか、生きて帰ってこられました…」

「それはちょっと大袈裟な。」

「ふー。それで、今日の苦情の電話は?」

「一軒だけ。ご主人に色目を使ったとかなんだとか。ホントあなたは大変ね、あと二日、頑張れる?」

「ハイ、やれるだけ、やってみまする…」

 それだけ言うと、机に突っ伏してしまう。

「そうだ…柏先生、一件ご報告が」

「何ですか?」

「平山希空の父親、恐らく反社会勢力かと。」

「…麗ちゃん、あなた… 大丈夫だったの?」

「はい。怖かったデス…」

「じゃなくって、逆ギレして手を出したりしてないでしょうね!」

「そっちかよ…」

今 日の報告書は明日の朝書こう…


     *     *     *     *     *     *


 待ちに待った、水曜日だ。部屋は昨日今日ですっかり見違えった。家具も無事に昨晩届き、ベッドもテーブルも本棚もソファーも丁寧に組み立ててくれた。

 段ボールから本類を本棚に移し、小物を飾るとちょっといい感じのリビングとなる。真紅のソファーが艶かしい。うん、龍也好みのいい感じだ。

 ベッドにシーツを敷き、枕を二つ並べてみた。うん、いい感じだ。

 今日も昼休みに、今度は整形外科のドクターに夕食に誘われたので、

「今夜は彼が部屋に泊まっていくので。」

 と言うとあからさまにドン引きしてくれた。

 できれば院内に拡散願いたい。

 今日程終業時間が待ち遠しい日はない。正直、何をやっても手付かずな状態だった。それに龍也の事を思い浮かべるたびに濡れてしまったので、仕事帰りに新浦安のショッピングモールに寄って下着を新調したものだ。


 そう言えば、龍也はどんな下着が好みなのだろう。

 あれは私が高校三年生だった頃か。部屋で着替えていると、ノックもせずに龍也がドアを開けた事があった−

「ちょ、何見てんのよ変態! キモ!」

「わ、わりい…」

「って、早くドア閉めて!」

「お、おう」

 後ろ手にドアを閉めながらも、龍也は私の下着姿を凝視したままだ。

「恥ずかしいから、見ないで」

「そ、そんならサッサと服着ろよ」

「何よ照れちゃって。龍也可愛い(笑)」

「はあ? 照れてねえし。可愛くねえし」

「ねえ、」

「な、何だよ」

「触って、みる?」

 龍也がゴクリと唾を飲み込む音が部屋に響く。

「触りたいんでしょ?」

「べ、別に…」

 私は布団の上に寝転がり、

「おいで。こっちに」

 龍也は目が虚になり、フラフラと私に近付いてくる。ちょっと怖くなり、

「なーんちゃって。うっそー。さ、服着るんだから出てって」

 と言うと、突然我に返ってハッとした顔になり、それから瞬時に顔を上気させ、腰をくの字に曲げたまま部屋から飛び出して行ったものだった。

 あの時の話を今夜したら、何と彼は言い訳するのだろう。想像するだけで吹き出してしまう。

そして、あの時の続きをしてみる? と言ったら彼はどんな反応をするのだろう。


 部屋に戻ると、朝のうちに下拵えをしておいた食材を冷蔵庫から出し、調理を始める。先日のラインで食べたいものはないか聞くと、炭水化物は少な目でと返信してきた。きっと現場から離れ、ダイエット中なのだろう。そう思い、カロリー少な目で栄養のバランスの取れた食事を用意することにしたのだ。

 六時過ぎに龍也から飯田橋から東西線に乗ったと連絡が来る。もうそんな時間か、慌ててシャワーを浴び簡単に化粧していると、

『行徳の駅を出た』

 というメッセージがスマホに浮かび上がる。

 急に顔が火照り出す。心拍音が部屋に木霊している気がする。

 慌てて食事の支度を再開する。

 食卓に器を全て乗せた頃に部屋のチャイムが鳴る。

 ドアの鍵を開ける手が震える。

 仏頂面の龍也がお邪魔しまーすと言って部屋に入ってくる。

 ドアの鍵を掛ける手が震える。


「そー言えば香世のメシ食うのって、初めてじゃね?」

「あれー、そーだっけ?」

「そーだよ。いやビックリ。メチャ旨い!」

 コイツは気の利いたお世辞を言う奴ではない。ので素直に喜ぶ。

「ただ、味付けがちょっと濃いかも。」

「え… 恋…?」

「うん。やっぱ東北が長かったからかねえー」

 そっちの「濃い」か。どうしちゃったの、私。

「まあでも、酒は進むわな。やば、ちょっと飲み過ぎたかも」

 二人でビール、日本酒を五合ほど空けている。


 真っ赤な顔で龍也がソファーに沈み込む。私は食事の片付けにかかる。しばらくすると、小さなイビキが聞こえてくる。

 片付けを終え、部屋の灯りを少し落とす。

 そっと龍也の横に腰掛ける。龍也のイビキが一瞬止まるも、しばらくするとまた規則正しい小さな寝息が聞こえてくる。

 身体を密着させ、龍也の肩に頭を乗っける。今度は寝息は止まらない。

 しばらく龍也の匂いに溺れる。若い頃の青臭さはすっかり影を潜め、野性的な男の匂いに頭がクラクラしてくる。

 龍也の横顔を眺める。こんな近くでこんなにじっくり見たのは中学生以来かもしれない。顔の所々に薄い傷がある。首筋にも幾つか傷跡を見つける。やはり現場で修羅場を経験したに違いない。

 そっと立ち上がり、灯りを消し、部屋の隅の小さなランプを灯す。薄暗い部屋に龍也の匂いが充満しているのがわかる。


 スマホのミュージックアプリをタップし、ダウンロードしてある「癒しの自然音楽」を選ぶと本棚に置いたスピーカーから川のせせらぎ音が流れてくる。

 エプロンを外し、セーターを脱ぎ、再び龍也の横に腰掛ける。

 さっきよりももっと密着してみる。寝息は止まらない。

 小さなランプに映える龍也の顔は幻想的に真紅のソファーに浮かび上がっている。私は小さく喉を鳴らし、ゆっくりと龍也の頭を抱きしめる。

 龍也の顔が私の胸に埋もれる。私は龍也の髪に顔を埋める。

 深く匂いを吸い込んだ時。

 逝ってしまった。

 この感覚。あの頃以来である、そしてあの頃以来、ずっと恋い焦がれていた感覚。

 中学生から高校生にかけて、幾度となく抱きしめたこの顔、この頭。その度に迫り上がるエクスタシー。

 どうやらあの頃よりも、私の感覚は深く鋭くなっているようだ。知らぬうちに声をあげてしまった−

 龍也がゆっくりと顔を上げ私を見上げる。私のあげた声を不思議そうに問うている目だ。

 そっと龍也の額に唇を当てる。龍也の体がビクッと震える。

 龍也の顔を谷間に押し込む。龍也の熱い吐息が胸に伝わり、又もや逝ってしまう。

 先端が苦しい程尖っているのを感じる。もしこれが龍也の口に入ったならば…

 想像しただけで、みたたび逝ってしまう。

 既に私は呼吸困難な状態だ。自分でもおかしいくらいに息が荒い。

 これ以上の我慢は出来ない。

 龍也の唇に私の唇が重なるその瞬間、

『ジリリリリ ジリリリリ』

 昔の黒電話の呼び出し音が部屋に響き渡る。

 龍也の唇が遠く去っていく−


     *     *     *     *     *     *


「もしもし百葉ですしゅみません急にお電話してぃ」

 動揺している為、所々噛んでしまう

「うん、どうしたの?」

「はい羊ちゃんがさっき急に高熱お出してさっき謀ったら三十八土近くあるんでしゅとりまタオルで脳を冷やしていましゅが病院に連れて行くか否かで迷ってるんでしゅ」

 何言ってるか自分でもわからない。千葉さんに通じるかどうか…

「わかった。すぐに帰る」

 良かった、千葉さんが帰って来てくれる!


 二人でいつもの洋食屋さんでいつものナポリタンを食べ、家に戻って私は明日の授業の予習、羊ちゃんは三年生の漢字に取り組んでいた。時計を見ると九時を過ぎたので羊ちゃんにもうお終いにして寝ようと言うと、

「百葉しゃん… 頭が頭つうで痛いのでしゅ…」

 慌てておでこに手を当てるとビックリする程熱くなっていた。体温計を探し出し、熱を測ると三十八度近くあり、取り敢えず羊ちゃんを布団に寝かせ、タオルを濡らしておでこに乗せ、千葉さんに連絡をしたのだ。

 羊ちゃんの顔は真っ赤でハアハアと息遣いが荒い。氷を入れた洗面器にタオルを浸し、おでこに乗せる。これを何度か繰り返していると千葉さんがドアを勢いよく空けて寝室に入って来る。

「どうした羊、大丈夫か羊。百葉ちゃん、他に症状は?」

 流石千葉さん。それ程慌てずに状況認識に努めている−

「はい、熱の他には、咳も鼻水も、嘔吐も下痢もありません」

「そうか。なら今夜は様子を見よう。百葉ちゃん、ありがとな」

 落ち着いた笑顔を見せてくれ、私も一気に動揺が治った−筈なのだが。


 匂う。臭う。明白に、大人の女性の香りが千葉さんから漂ってくる。


 その後千葉さんに何を言ったか覚えていない、気がつくと自分の部屋の布団の中で嗚咽していた。

 そして朝まで一睡も出来なかった−


 朝七時にかけた目覚ましが虚しく鳴る。

 もう朝が来てしまった。

 羊ちゃんの具合がずっと心配だったのだが−二人の寝室を覗く勇気が無かった。

 着替えて部屋を出ると、千葉さんが既に起きている−

「おはようございます、あの、羊ちゃんの具合は?」

 スマホから顔を上げ、千葉さんが笑顔で

「おはよう。さっき熱を測ったら平熱に下がってたよ」

「そうですか、良かったーーーーー」

 心底ホッとする。あの高熱は何だったんだろうか。

「多分、知恵熱じゃないかな(笑)あいつ何かに熱中するとたまになるんだよ」

「知恵熱、ですか… すみません、もっと早く寝かしつければ良かったです、私も授業の予習をしていたのでつい…」

「いや。ホント百葉ちゃんにいてもらって、心強いよ。ありがとうね」

 この優しい言葉に思わず枯れ果てたはずの涙が一筋頬を伝うのを感じる。

「……どうしたの?」

「あは、なんか安心したらつい。顔洗ってきますねー」

 嘘。最近私は嘘つきだ。

 初めて男の人を好きになって、私は嘘つきになったのだ。


 今日は授業が二時限目からなので、二人を見送った後掃除と洗濯をする。

 昨日千葉さんが着ていたワイシャツを洗濯カゴから取り出す。そっと鼻を近づける。昨夜の匂いがする。この匂い、間違いない、あの人の匂いだ。

 先週この家を訪ねてきた、あの女性の付けていた香水の匂いだ。

 私は膝の力が抜けてしまい、脱衣所で蹲み込んでしまう。

 更にシャツの匂いを嗅いでみる。新しい革の匂いがする。推測するに、あの人の家にいたに違いない。セミロングの髪の毛がシャツに付着しているのも発見する。決定的である。

 そして。健康的な男女が夜部屋で二人きり。何をするでしょうか。答えは中学生でも分かる。その事実に脱衣所に倒れ込んでしまう。

 いやだ、他の女性の匂いなんて嗅ぎたくない。千葉さんの匂いだけがいい。跳ね起きて洗濯カゴを探る。千葉さんの肌着を取り出す。

 その肌着に顔を埋め、そっと息を吸い込む−千葉さんの匂いしか、しない。肌着にあの人の匂いが付いていないということは−可能性として夜密室で男女がすることを昨夜はしなかったのでは?

 そんな淡い期待が私を元気にさせる。

 ワイシャツと肌着を洗濯機に放り込み、洗剤のキューブを三つ入れ、スタートボタンを押す。


 リビングに掃除機を掛けながら、今日は家庭訪問の日だと思い出す。そして又憂鬱な気分がぶり返してくる。

 嫌だな。例え教師であろうと、若い女性がこの部屋で千葉さんと二人きりになるなんて。

 嫌だな。私が掃除したこのフローリングをあの女が闊歩するなんて。

 そう言えばあの教師の話をした時に、千葉さんは鼻を伸ばしていたな。あんなタイプの女が好みなのかな。確かにスタイル抜群、殆ど化粧していないのに大きな目がくりっとしていて可愛らしい顔。そして媚びるようなあの態度。

脱衣所の鏡に映る私。スタイル残念、釣り上がった細長い目。思った事をすぐ口にする生意気な性格。そして、最近は嘘つき。

 私とあの教師を比べれば、百人が百人、彼女を選ぶだろう。

 まああんな女とは言え、教師は教師。まさか千葉さんに擦り寄るようなことはあるまい。

 ただ、千葉さんって若干押しに弱い気がする。頼まれごとに弱いのは知っている。もしあの女に私と付き合ってください、さもなければここから飛び降ります、なんて言われたら渋々受け入れちゃいそうな気がする。

 まああんな女とは言え、教師は教師。まさか自分の生徒のベランダから飛び降りるような真似はしまい。

 それに入学したてのこの時期は教師も忙しいであろう、そんなに長居はすまい。たかが二、三十分であろう。私も四時限が終われば速攻帰るつもりだ、六時までにはここに帰っているだろう。

 まさかそんな短い間に何が起こる訳もあるまい、そう考えると今度こそ心がスッと軽くなる。やっといつもの自分に戻れた気がする。


 それにしても。恋って大変かも。

 そんなことにようやく気づく私って、やっぱ変かも。


     *     *     *     *     *     *


 水曜日。家庭訪問第三シーズン。この日は汪凛凛、金範根、布佐Aditiの外国籍又は帰化家族の三家と山田修斗、高崎真央だ。

 調査票によると汪家は両親共中国人、金家は在日、そして布佐家は父親がインド人、母親が日本人らしい。

 実際にお邪魔すると、両親共日本語はペラペラで非常に教育熱心であった。そして千葉羊に対しても非常に良い印象を持っているようだ。

 優秀な子は先に進むのが当たり前。どうして上の学年に行かせないのか逆に問い詰められてしまう。

「日本はこんなに優秀なのに、天才が少ないです。その理由がやっとわかります。羊ちゃんはとてもかわいそうです」

 思わず手を取って同意してしまう。

「インド式九九ね。日本でもやってるのね。とても良いことよ。松戸先生、あなた良い先生よ。ぜひ全校生徒に教えてあげると良い」

 思わずハグしそうになり、母親に睨まれてしまう。

「うちの子も羊ちゃんみたいに頑張らないと。将来は海外の大学に行かせるつもり。羊ちゃんも日本の教育じゃダメになるんじゃないかな。今から英語習わせないとね。あとコンピューターも。」

 頷きすぎて、首が痛くなった。


 山田修斗と高崎真央は千葉羊と同じ保育園出身だ。従って千葉羊のことは私よりもよく知っておりよく理解していた。

「ほんっとあの子は天才なの。ああいう子が世界を変えちゃうんだと思うのよねえ。それにほんっとに健気だし」

健気? それはどういう意味なんですか?

「あら先生知ってらっしゃると思ってつい… え? 私の口から聞いたって言わないでくださいよ、先生?」

守秘義務をしっかり守るつもりです。ご心配なく。

「羊ちゃんの実のご両親、事故で亡くなってるんですよ」

 …守秘…義務… 守りま…

「だから今のお父さんは実の父親じゃないんですよ」

 …守り、ます…

「なんでもね、千葉さんはその亡くなった実の父親の親友だったとかで、天涯孤独の羊ちゃんを引き取ったらしいんですよ。ご自身は立派な独身様なのに−」

 嘘、でしょ…?

「ホントですよお。三歳の時に引き取ってこの谷中に越してきたんですって。今のご時世でそんなこと出来る男の人っています? いませんよねえ」

 いないと…思われ…

「明日でしたっけ? 千葉さんと話してごらんなさい。実の親娘以上に親娘していますよ。互いに信頼し合って。互いに深く愛し合って。ウチも見習いたいもんですよ、全く。ウチの人ってば、こないだなんか、ーーーーーーーー」


 衝撃の事実。

 私の妄想は、事実だったんだ!


 どうやって学校に戻ったのか覚えていない、気がつくと柏先生が

「松戸先生? ねえ、麗ちゃん、大丈夫なの?」

 と心配そうにやって来る。

「柏先生… 私、知りませんでした…」

 先生が首を傾げる。

「千葉羊と父親が血が繋がっていないこと…」

 先生がゆっくりと頷く。

「え? 先生知ってたんですか!」

「噂で聞いていたわ。ただ本人に確かめた訳ではないから。」

「そう、なんですか」

 ちょっとショックだ。私は全く知らなかったのに…

「あなたももうちょっと母親達と上手くやれればねえ。そうすれば、こっちの知りたくない事まであの人達は何でも教えてくれるのよ」

 うーむ。母親達と、仲良く。それは、ちょっとキツいなあ…

「母親全員と仲良くしようと思わないこと。気の合いそうな人、自分を尊敬してくれている人とだけ付き合えば良いの。その内慣れてくれば、大概の母親と上手くやっていけるわよ」

「そーですか。出来るかなあ、私に…」

「もう三年目なんだし。少しづつやっていくと良いわ。」

「じゃ、そーします。はーーー、面倒くさ…」

「ふふ。明日で最後ね。頑張って、先生」

 教職について以来、どれ程私は柏先生に癒されてきただろう。


 そして木曜日。最終ターンである。印西大和、大井海斗、千倉晴翔、宮下空走あっしゅ。大トリに千葉羊である。

 今週の千葉羊は授業中気配を消しているかの如く静かである。昨日今日と小三の漢字に苦戦しているようだ。授業中何度かさりげなく様子を見にいくとまるで狂人の様にノートに漢字を書きまくっていた。背筋が冷たくなった−狂人と天才。言われるように、本当に紙一重なんだ…

 何かに秀でる者は凡人が決して真似できないことをする。

 私は心の中でチアリーダーとなり千葉羊にエールを送った。


 家庭訪問を三日行い、これまでの所の専らの問題はただ一点−千葉羊の特別扱いについて−である。肯定派と否定派、ザックリ言って半々といったところか。

 今日の最終日も印西、大井は否定的、千倉、宮下は肯定的と真っ二つに分かれた。

 大まかに言って、肯定派は教育熱心か不関心な家庭が、否定派は熱心でもなく不関心でもない家庭である。

 意外だったのは、学校に意見クレームが多い層程肯定的なことだ。経験の浅い私にはこれが理解出来ず、後で柏先生の意見を求めようと思いつつ、本年度家庭訪問大トリを迎える。


 谷中らしからぬ低層高級マンションを見上げながら、千葉羊の父親を思い出す。確か三十歳前後の筈、こんな高級マンションに住うとは親が援助したに違いない、そう勝手に想像しながらインターフォンを鳴らす。

 エレベーターで四階に昇り、表札の出ていない401号室の呼び鈴を鳴らす。ドアが開き千葉羊の父親が現れる。

 去年、一昨年の家庭訪問でも父子家庭のお宅にお邪魔した事はある。その時には中に入らず玄関先でことを済ませて来た。それがお互いに良しだと思ったからだ。

 だが千葉羊に関しては玄関先での立ち話では到底済まない。遠慮なく部屋に上がらせてもらう。

 それにしても千葉さんは姿勢の良い方だ。空手をやっている私が感心する程なのだ。事前に目を通して来た家庭調査票には「自衛官」と書かれていたので、格闘技に精通しているのだろう。もし今私が後ろから前蹴りを仕掛けたらどうなるか、と思った瞬間、

「先生、こちらへ」

 と言って振り向いたのには焦った…何この人私の殺気を気取ったと言うの?

 それにしても家の中はシンプル、の一言に尽きる。余計な飾りは一切なく、生活臭が殆どしない。唯一ベランダに干してある洗濯物が居住感を醸し出している程度だ。

 やはり自衛官は整理整頓が徹底しているのだろう、勝手にそう思った私は自分の部屋の状態を思い出し赤面する。


     *     *     *     *     *     *


 溜息しか出ない一日だった。時計を見ると五時半を回っている。

 昨夜、あの女子大生からの電話の後、龍也は物も言わず飛び出て行った。羊ちゃんは大丈夫なの、というメッセージにも大丈夫だった、の一言だけが今朝送られてきたきりである。

 もっとゆっくりしていって欲しかった、次はいつ来れるか、と言うメッセージには既読が付いたまま返信はない。

 昨夜、久しぶりに龍也の温もり、匂いに接し私の心と身体は昂まったままなのだ。やり場の無いこの衝動に溜息しか出ない。

「どうしたんですか溜息なんて出しちゃって。さては彼氏と喧嘩でもしたとか?」

 振り返るとナース間で人気ナンバーワンのイケメン研修医が目の下に隈をつけたまま爽やかに話しかけてくる。

「どうして彼がいること佐倉先生が知ってるの?」

「今朝ぐらいからドクター間では有名になってますよ。」

 どうやら昨日の整形外科のドクターはいい仕事をしてくれたようだ。

「そっか。そうなの。彼とちょっとね… なんて、ウソウソ。お疲れ様―佐倉先生。」

 と言って立ち去ろうとした時。

「館山さん、僕お腹空きましたーもう二十二時間まともな飯食ってないんですー」

 佐倉先生は今年系列の医大を卒業し、研修医として四月から働いている。持ち前の人当たりの良さのお陰で患者からもナースからも評判が良い。加えて清潔感あふれるこのルックス。

 既に何人ものナースが唾を付けようと虎視淡々と狙っているようだ。

 そんな子に泣きそうな顔で見つめられても…


 でも何だか高校生時代の龍也を思い出す。施設の食事では足りずに少ないお小遣いを握り締め近くのラーメン屋に行こうとしている龍也に、

「龍也、いくら持ってるの?」

「丁度六百円。」

「もー仕方ないなあ。ハイ。これで大盛り頼めるでしょ」

「おおおー サンキュー香世、愛してるぜー」

 と言って私にしがみ付き、頬にキスをした。

 彼は全く覚えてないだろうが、私は一生忘れない。

 愛してる

 私が龍也から貰った、たった一言の愛の言葉。

 たった百五十円で貰った、愛の言霊と頬の温もり。


 一瞬の白昼夢を見ている私を不思議そうに眺めながら、

「あのー、ご馳走しますんで、夕飯一緒に如何ですか?」

「年下に奢られたくないし。私の奢りなら付き合うよ」

 佐倉先生はキョトンとし、

「はあ、まあ、何でもいーっす。どっか連れてってくださーい」

「私、こっち来てまだ二週間なの。佐倉先生、どこか連れてってよ」

「うーん、僕、家の近所の行きつけの店しか知らないんですよお」

「ふーん。家ってどこなの?」

「行徳っす」

「あら。私もだよ」

「マジすか! 香世さん行徳だったんすね〜」

 今日だけはこの子の馴れ馴れしさが胸に染みる。この甘えた感じが妙にしっくり来る。

 流行りの髪型。爽やかな笑顔。きっと育ちの良い温かい家庭で何の不自由もなく過ごして来たのだろう。邪心なく甘えてくる感じが、弟の様な気がして悪くない。

「よーし、今夜は好きなだけ食べてよーし。私も飲むぞー」

「わーい。わーい。」

 チラッとスマホを見るも、ラインの着信は未だに、無い。小さな溜息をつきスマホの電源を切った。


     *     *     *     *     *     *


 四時限目の授業が終わる。スマホの時計を見ると丁度四時四十分。今日一日、3コマの授業は全て上の空であった。

 家庭訪問は三時から。なのでもうあの目の大きな可愛い先生は家にはいないであろう。家庭訪問は私には縁の無い話である−施設に先生が来るだけであったから。

 千葉さんと先生はどんな話をしたのだろうか。羊ちゃんの事についてどんな方向性を話し合ったのだろうか。家庭と学校間でどんな合意事項が出来たのだろうか。一刻も早く帰り、千葉さんに確かめたい。

 私はダッシュで駒場東大前駅に向かい、渋谷方面に出発寸前の電車に飛び乗る。

 いや。違う。

 そんなんじゃない。


 いやだな。いやだな。千葉さんが三十分近くもあの女の人と二人きりで部屋に居るなんて。その光景を想像するだけで吐き気がこみ上げてくる。

 私が掃除したフローリングを歩かないで。私が洗ったコーヒーカップを使わないで。絶対、私の椅子に座らないで!

 スマホの時計を見る。今日ほど電車が鈍く感じた事はない。帰宅したら先ずフローリングを水拭きしよう。洗面所とキッチンをしっかり除菌しよう。万が一トイレを使っていたら−トイレカバーとスリッパを洗濯しよう。

 ああそうだ、それと部屋中にファブリーズが必要だ。あの女の匂いを分子レベルで抹消しなければならない。

 やっと渋谷駅に到着する。本当に今日の電車はどうかしている、いつもよりも走行速度が半分以下なのではないか。

人混みを押し除けて山手線のホームに走る。途中何人かの人とぶつかる。どうして私の邪魔をするのだろう。これもあの女の差し向けた刺客なのだろうか。

 ようやくホームに辿り着く。息を切らし案内板を見上げると−人身事故の為、ダイヤが乱れているとの表示−どうして…今日に限って…

 電車は信じられない事に、三分も遅れてホームに到着する…有り得ない。三分も遅延するなんて。有り得ない。何なの今日は一体…


 原宿。代々木。遅い。山手線も今日は速度制限をしているようだ。

 新宿。新大久保。遅過ぎる。イライラが募る。

 高田馬場。目白。池袋。車内の乗客がほぼ入れ替わる。

 大塚。巣鴨。ふと考える−ひょっとして外回りでなく内回り−即ち、品川東京経由の方が早かったのではないだろうか。

 駒込。田端。遅い。遅過ぎる。周りの人がギョッとして私を見る。

 西日暮里。もう我慢出来ない。ドアのガラスを掌で叩く。両隣の人が私と距離を空ける。

 日暮里。

 ドアが開くと同時に走り出す。自慢ではないが足は速い方だ。

 北口改札を駆け抜け、御殿坂を駆け下りる。

 朝倉彫塑館の前でスマホを見る。五時三十五分。よし。これで夕食前にたっぷり除菌消臭作業の時間が取れる。

 そう言えば羊ちゃんは今日一日大丈夫だっただろうか。そろそろ図書館から帰宅している頃である。ラインしようと思うも、家はもうすぐそこだ。私は足を早める。


「ただいまー」

 ドアを開けると案の定女の匂いが漂ってくる。どれ程長く滞在したのか、私の鼻腔を容赦無く刺激する。

 ふと、ある筈の物がなく、ない筈の物があるのに気付く−


 羊ちゃんの靴は玄関に無かった。

 明白に女性物の靴が、そこに有った…


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