第二話
昨日の夜は、ちょっと楽しかった−羊ちゃんが寝た後に私と千葉さんはずっと日本の教育論と羊ちゃんの今後についてを夜遅くまで語り合ったのだ。
本当に意外だった−千葉さんが、実子でも無い羊ちゃんにあれ程親の愛を注いでいたとは。思えば千葉さんも私も、実の親に勉強を教わったこともなければ進学についての手解きを受けたこともない。そんな二人が実の娘ではない羊ちゃんの近い将来を真剣に語り合ったのだ。
そして。話をしていて思ったのだが−これまでにも自身の過去や羊ちゃんの過去を語ってもらった事はあったが−千葉さんは本当に頭が良い方だ。高校を出てすぐに自衛隊に入ったと言うが、絶対フツーに良い大学に入れる程の思考力と知識があると感じる。
私はあまり三十前後の大人と議論したことがない。精々学校や予備校の先生の授業から垣間見る程度だった。それでも千葉さんの物の見方の幅広さとその裏付けとなる知識量には素直に感嘆してしまった。
防衛省の事務方に勤めてらっしゃる、と聞いていたのだが、羊ちゃんに係る学校や塾の話、中学受験の話など、どうしてそんなに詳しいのか何度も尋ねてしまう程よく知っていた。文部科学省に友人でもいるのですか、と聞いたときは
「あ。今度知り合いの知り合いでもいないか、探してみるよ」
と煙に巻かれてしまった。
どこから聞いてきたのか知らないが−と言うのは千葉さんに所謂「ママ友」の存在が感じられないので−、羊ちゃんの通う、区立谷中台小学校の内部事情を実によく知っていたのだ。
校長先生は今年で定年退職。これまで特に問題を抱えることなく恙無く学校をまとめてきた。副校長は今年が三年目。保護者の信頼が篤く数年後にはどこかの校長になると噂されている。羊ちゃんの担任の松戸先生。今年同じく三年目。これまで中学年である三年、四年生を見てきたので新入生を受け持つのは初めて。父兄の評判は良いが、母親達からは結構キツくあたられているらしい。体育会系の熱くて真っ直ぐな教師だが空回りもかなりある、そうだ。
うん、なんかちょっと分かる気がする−と言うのも、私と話す時と千葉さんと話す時の態度や表情が全然違うから。千葉さんと話すときは私壊れやすい綺麗な花です大事に扱ってね、のような感じだったのに私と話すときはアンタ何言っちゃってんの、的なちょっと見下されている感じだったし。確かに部活の大先輩、って感じだったかも…
羊ちゃんの「インド式九九」や漢字の自習について、千葉さんは
「日本の教育は所謂「護送船団方式」なんだよね昔から。出来ない子に合わせて進度を調節していく。利点は落ちこぼれが少なくなること。欠点はー」
「出来る子が伸びない事、ですよね」
「そう、その通り。だから本当は親がその子の能力に合わせて学校選びをしなければならないよね。うちの羊なんかは公立では本人も学校側も不幸になる。だから小学校受験をさせて然るべき国立か私立の小学校に入れるべきだった」
「でも、千葉さん一人ではそれは…」
「そうなんだよね、片親では非常に難しい、と言うか殆ど不可能。ホント羊には可哀想な事をした。」
「松戸先生… 大丈夫かしら…」
「羊の保育園に連絡して羊のことを全部聞いたらしいよ。だから彼女なりに考えて、その「インド式」やら漢字やらを思いついたんだろう。凄く前向きで生徒思いの良い先生だよな」
その時、またズキンと胸が痛んだ。なんだろう、これは一体…
「それにあの容姿。男親に大人気らしいぜ。学生時代に雑誌やテレビに出たことあるんだってさ。A K B48ならぬ、『Y N K1』だってさ。知らんけど」
心なしか千葉さんの顔が綻んでいる−嫌だ。ダメ。叫びそうになり口を慌てて押さえる。
「飲みに誘って奥さんにバレて大騒ぎになった保護者もいるって。何となく分かるな、その気持ち、なんてね(笑)」
絶対イヤ! そんなの無理!
「いや… だから冗談だって…」
しまった! 思わず口に出してしまった…
「す、すいません、私こそ、そんな… あは、でも千葉さんは正真正銘の独身だから別にいいんじゃないですか? なんちゃって」
心にもないことを言う自分が嫌いだ。相手に、その場に迎合する為に腐った嘘を言ってしまう自分が嫌いだ。
イヤなものはイヤ。千葉さんが松戸先生のことを良く言うのがイヤ。松戸先生と親しげにしたりなったりするのがイヤ。
彼氏歴ゼロ。好きになった男性ゼロ。恋愛小説は「愛の流刑地」しか読んだことのない私。そんな私が−
貴方に恋した様なんです…
「だからね。きっと近々学校から連絡があると思う。羊が何かをやらかしたって。本当に申し訳ないんだけど、平日昼間に問題が発生したらーその時は…」
ハッと我に返る。そうだ、今は羊ちゃんの話だったんだ。
「はい、わかってます。私も大学が始まったらちょっとアレですが。でも何とかします。だから千葉さんは安心してお仕事してくださいね」
そう。あの子は私が導く。私があの子の母だったシェンメイさんの遺志を受け継ぐ。
「百葉ちゃん。君が頼りだ、よろしくたの…む…」
まただ。初めて会った時以来、千葉さんは時々こんな表情を私に見せる。驚いた様な、懐かしいものを見る様な、そして失くしたものを見つけた様な…
それにしても不思議。まだお会いして二週間ちょっと。初めはメガネの度が合っていなかったせいもあるが、千葉さんのことをそれ程意識していなかったのだが。新調してくれたメガネをかけて千葉さんを見た瞬間。なんて素敵な人なんだろう…思わず一目惚れ状態だった。
世に言う、イケメンではない。俳優に似ているとかモデルみたいとか、そんな軽薄な話ではない。何と言うか、口では言い表せない男の魅力が顔全体から漂ってくるのだ。きっと現場で働いていた時に命を顧みずに活躍していたのだろう。そんな男臭さが堪らない。
見た目はクールで実際もクール。無駄口はたたかないし下品な冗談も聞いたことがない。自衛官らしく身の回りは整理整頓、身のこなしも惚れ惚れしてしまう程キビキビしている。常に目を光らせ、羊ちゃんを守っている様子がイヤでも伝わってくる。
実の親子以上の二人の関係に、私が入り込む隙間は無い。何となくそう思っていたのだが、
「そう言えば明日。いよいよだね」
「明日…何でしょう?」
「入学式だよ。東大の。君の入学式。」
嘘と思われるかもしれないが、本当にすっかり忘れていた! え、明日一二日? 明日じゃん、入学式!
この家での家事や羊ちゃんの事、そして千葉さんの事に全力でのめり込んでいた為、明日が入学式という事が忘却の彼方であった…
千葉さんは吹き出しながら、
「百葉ちゃん、結構こういう天然な所あるよな。」
「す、すみません、私すっかり忘れてた…」
「なんか、いいよな、そういう所」
普段は冷たく鋭い千葉さんの眼差しが嘘みたいに優しい。目尻が垂れている。なんで?
「スーツは、あるよな」
「羊ちゃんの入学式の後クリーニング出して昨日引き取ってあります」
「何時からだっけ?」
「日本武道館で、十時からです」
「そっか。羊は学校あるから行けないけど、俺は出席するから。一緒に九時にここ出ようか」
「えだって明日は金曜日だから仕事があるのではどうか無理なさらないでください私一人で大丈夫ですから本当に全然気になさらず…」
「午前中は休み取った。だから大丈夫。それに武道館から省まで近いし。」
嘘みたい。信じられない。私の為にどうしてそこまで…
「それに、拓海の、羊の実父の大学だからね。」
そうだった。羊ちゃんの亡くなったお父さんは東大法学部から外務省の超エリートだったんだ。だからだ…
「それと…一応…俺、百葉ちゃんの…親代わり? 兄代わり? だし…」
嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
家族だ。家族だ。家族なんだ!
急に視界がぼやける。
涙が溢れてしまう。
あれ。でもちょっとだけ不満が。
親? 兄? 違うよ千葉さん。私にとって、貴方は……
翌朝。私の作った朝食を三人で食べながら羊ちゃんに揶揄われる。
「しかし百葉さんのすっとボケぶりにはおどかされます。まさか自分の大学の入学しきをわすれていたとは。かわいさあまってかわいさ100万ばい、ですね。」
「何それ。意味わかんない」
「ともかく。羊は学校がありますから百葉さんにはつきそえません、ごりょうしょうください」
ちょっと辛そうな顔をする羊ちゃん。ありがと。その気持ちだけで充分だよ。
「お父さん。羊の分までしっかりたのみましたよ」
「何をだよ」
「この人は右と左をまちがえますから。ちゃんとぶどうかんにつれて行ってくださいよ」
私と千葉さんは爆笑する。そう、私と羊ちゃんの出会いは私の「間違い」からだったんだ。
「羊ちゃんも授業頑張って。先生に言われたインド式九九と漢字、しっかりね」
「はあ、それが…」
「え、何?」
「インドしき九九なんですが… ぜんぶおぼえてしまいました」
「「何―!」」
「なので、今日のさんすうのじかん、どうすればよいのでしょう」
「そ、それは…先生に聞いてみて…てか、ホントに覚えちゃったの?」
「ええ。もうすっかりと。」
「百葉ちゃん、イヤな予感しかしないのだが…」
千葉さんが半分面白がりながら私に振る。
「ま、まあ後は松戸先生が何とかしてくれるかと…」
「そ、そうだな…」
千葉さんのその予感が当たらない事を願いながら私と千葉さんは予定通り九時に家を出た。
* * * * * *
金曜日。時間割に従った授業が始まって二日目。
千葉羊は私の指示通り、算数の時間になると例の参考書とノートを机に開き、一人嬉々として自習を始める。
彼女の席は教卓から見て一番右奥。すなわち窓際の一番後ろの席だ。
なので周りの子達も彼女に構うことなく私の授業に集中している−筈だった。
私が黒板に板書していると突如、
「先生!」
振り向くと、千葉羊が手を真っ直ぐに上げてこちらを見ている−
「千葉さん。どうしたの?」
「インドしき九九、ぜんぶおぼえました!」
子供達の目が点になる。ついでに私の目も。
まさか一晩で覚え切れる筈などない。絶対に有り得ない。
私は千葉羊の席に歩いて行き、
「本当に、全部覚えたのかな」
「はい。ぜんぶです。」
私は参考書を手に取り、
「じゃあ。11−13は?」
「143」
「12−16は?」
「192」
「13−17h…」
「221」
「14−1きゅ…」
「266」
「…18−1よ」
「252!」
信じられない。
気がつくとクラス中の子が周りに集まっている。
「ようちゃん、なにしているの」
「インドしき九九です」
「なにそれ」
「日本の九九のじょういごかんバージョンなのです」
「のあも九九しってる」
「ぼくも九九できる」
「くくってなあにー」
「ぼくもくもんでやってるー」
「九九っていうのはね、11が1、12が2っていうんだよ」
「ゆなは3のだんまでいえるー」
「さんすうわかんなーい」
これはマズい。
「はーい、みんなー、席に戻ってくださーい」
まさか二日目でこんな大声を張り上げる事になるとは…
「ようちゃん、九九ぜんぶおぼえてるの?」
「ぼくもおぼえてるよっ」
「のあね、9のだんまでぜんぶいえるんだよっ」
「ぼくね、かけざんできるんだよっ」
「ぼくはひきざんできるんだよっ」
「おれはカプリカぜんぶうたえるぞー」
「「「あたしもー」」」
「「「ぼくもーー」」」
「「「♩まがりー」」」
「「「♩くねりー」」」
「「「「「♫はしゃいだーころー」」」」」
「静かに、しなさいっ!」
気がつくと私は千葉羊の机を掌で激しく叩きながら叫んでいた−
これが自分の声かと思う程の大声で、この子達を怒鳴りつけていた。
子供達は凍りつき−特に目の前の千葉羊は大きな目をまん丸に開いて唇を震わせている。
学級崩壊。
去年、一昨年。生徒たちはよく私の言うことを聞き、言う事は何でも聞いてくれた。
そして皆、学校が楽しくて楽しくてしょうがない、と言ってくれていた。
ましてや授業中に全員が席を離れ歌を歌うなど、有り得なかった。
まさかの、学級崩壊
一昨年、五年生で発生した。それは明らかに先生の挙動がおかしかったからだ。私には無縁の言葉、学級崩壊。
それが−それも入学したての新一年生に…
私は震える手をギュッと握り締め、
「みんな。席に、戻りなさい」
何人かの啜り泣く声が教室に響く。
何をやっているのだろう私。
まずは、落ち着こう。ゆっくりと深呼吸だ… 一回。二回。さんー
「先生。私は、ぜんぶ、おぼえました…」
引きかけた血が再び頭に急上昇する。このガキ! いい加減にーーーーーーーー
気がつくと私は、職員室の自分の席で頭を抱えて嗚咽していた−
「んせい… 松戸先生…」
副校長の柏先生の優しい声が背後から聞こえてくる。
「後の授業は白井先生に任せたから。」
授業開始して二日目で… 又もや頭が白くなりかける。
「で。何があったの? ゆっくりでいいから話してみて」
柏先生が笑顔で私に話しかける。
しばらく頭を整理し、私は先ほどの状況を説明する。
話しているうちに、涙が溢れてくる。
喉がヒクついて、うまく喋れなくなる。
それでも柏先生は笑顔で話を聞いてくれる。
「そっかー。大変だったね、松戸先生。」
「柏先生、私、間違っていたんでしょうか」
「いいえ。松戸先生は間違っていません。ただ…」
私は柏先生の目を真っ直ぐに見つめる。
「私なら、その千葉さんと、それから親御さんと、じっくり話し合うかな。」
* * * * * *
「と言う事でさ、今夜空いてないかな。市川でいい店知ってるんだよね〜」
昼食を終え、カフェテラスで一人アイスコーヒーを啜っていると、ERのドクターが声を掛けてきた。
「なんて言うか、その、歓迎会? 二人で、さ」
私は溜息をつきながら、
「今夜は予定が入っていますので。すみません」
「そうなんだ。彼氏とデートとか? あ、これってセクハラ?」
「そうなんです。彼とデートなんです」
そっか。彼氏こっちにいたんだ。そう呟きながらドクターは去っていく。
よく冷えたコーヒーを一口啜る。
そう、私には彼がいる。彼は私を彼女とは思っていないが、私にとって龍也は彼なのだ。たとえ今現在、龍也が女子大生と暮らしていようとも、龍也はいつか私の元に帰ってくる。小さい頃からの数えきれない二人の思い出は何年袂をわかっていようが決してきれることのない絆となって二人を結んでいるのだ。
初めて龍也とキスした時のことを思い出す。あれは龍也が中三の時。私が通う県立高校を受験した時。
「どうだった龍也。一高に合格できそう?」
「知らねえよ。でも何とかなんじゃね」
「ホント? ちゃんと私の後輩になれるの?」
「多分」
「そっか。じゃあ、合格したらー」
「は?」
「キスしてあげる」
「……」
「な、何よ」
「…」
顔を真っ赤にしながら全身で照れている龍也が可愛かった。
そして、合格発表日。
「どうだった!」
「まあ、合格」
「やったじゃん。おめ!」
「ん」
「うん。」
「で…」
「え? なあに?」
「その… アレは?」
「アレ?」
「香世言っただろ、合格してたら…アレだって…」
全身真っ赤にしながら未だかつてみた事ないくらい照れているー
「えーと。何だっけ?」
「ハア? じゃあいーよ。もういーわ」
「なーんて。龍也、おめでと」
硬直している龍也をそっと抱きしめ、唇にそっと触れた。
合格おめでとう龍也。お祝いに私のファーストキスをあげるね。言っておくけどこんな事するの龍也にだけだから。他の子には絶対内緒だぞ。
だから…
午後の仕事が終わり、クタクタになる。時計を見ると五時過ぎだ。まだ新米なので残業を任されることは当分なさそうだ。それに今月いっぱいは引き継ぎその他でシフト勤務に入ることはないらしい。本当かどうか知らないが。
病院を出てバスに乗る。一番奥の席に座り、スマホを開く。龍也からのメッセージは、無い。
今日一日のこと、ドクターにナンパされた事や職場の仲間の名前を覚え切ったことなどを簡単に龍也に送る。きっと返事は無い。それでも構わない。私の事を、私の今日の事を知ってもらえれば。
それでいい。
既読が付くのは今夜遅くだろうか
それでいい。
今夜の夕飯は、何にしよう。
* * * * * *
日本武道館は前回の東京オリンピックの柔道会場として建設されたという。来年の東京オリンピックでも再度柔道会場になるそうだ。
江戸時代は徳川御三卿の田安家の屋敷があったそうだ。法隆寺夢殿をモデルにした八角形の意匠であり、天辺の金色の飾りは「大きな玉葱」として古の歌にもなったらしい。
千葉さんはよくこの辺りを知っており、仕事帰りに散策することもあると言う。早めに着いたので千葉さんの後に従い千鳥ヶ淵沿いの有名な桜スポットにやって来る。内堀の水面に映える桃色の桜が本当に美しい。暫し見惚れていると、ふと視線を感じる。
千葉さんが私と千鳥ヶ淵を交互に眺めながらいつものどこか遠い所を見ている表情をしている。きっとこの地に何か思い出でもあるのだろう。私は何も言わず水面に目を移す。
式の時間が近づいたので私達は武道館への緩い坂道を歩き始める。春の陽気が頬に暖かい。人混みの中、時折ぶつかる肩と肩が私の顔を益々上気させる。そっと隣を見上げると、精悍な横顔がどこか緩く微笑んでいる気がする。
田安門を潜り所々来年に備えて工事中の武道館に到着する。私達は二人して武道館を見上げる。すると親子連れのお母さんが、
「すみません、写真撮っていただけますか」
私はスマホを受け取り、武道館をバックに数枚シャッターを切る。そのお礼に私達を撮ってくれると言うので遠慮なく私のスマホを彼女に手渡す。
初めての二人きりの写真
ニヤけながら眺めていると、やけに千葉さんが欲しそうなオーラを出してくるのでエアドロップで送信してあげる。
その写真を眺めている千葉さんは、千鳥ヶ淵を眺めていた時と同じ表情。
いつの日か聞いてみよう。千鳥ヶ淵と、武道館と、私について。
式は応援団や音楽部のアトラクションの後、大学総長や来賓の式辞をいただき、最後に「ただ一つ」と言う応援歌を全員で斉唱し(勿論私は知らなかった)、無事に恙無く散会となった。
式の後千葉さんがランチをご馳走してくれると言うので、田安門の所で待ち合わせをする。何でも市ヶ谷にある有名な鰻屋に連れて行ってくれると言うので、
「羊ちゃんには、内緒ですね(笑)」
「それなっ 絶対内緒だぜ。アイツ、ウナギには目が無いんだよ」
「私は施設で食べたことはありますが、外で食べるのは初めてなんです」
「そうか。旨いぜ、楽しみにしてな」
と言いながら実に綺麗な姿勢で私の先を歩いていく。私は絶対逸れないように、置いていかれないように小走りで彼の後を追う。靖国通りの桜並木が信じられないくらい綺麗だったけど、千葉さんの背中から目を外すことはなかった−
麹町郵便局の角の一口坂交差点近くの鰻屋の暖簾をくぐる。ちょっと高級そうで萎縮してしまう。どうやら千葉さんは常連の様で、女将さんと楽しそうに話している。
「そうなの、貴女東大生なのね。本日はご入学誠におめでとうございます」
なんて丁寧に挨拶されてしまい、益々縮こまってしまう。
「授業はいつから始まるんだい」
「来週から始まります」
「そうか。確か、一、二年生は駒場だったっけ?」
「そうです。井の頭線の駒場東大前という駅です」
「日暮里からだとーーー山手線で渋谷、井の頭線、がいいのかな」
「はい。そのつもりです」
「明日、定期代渡すから、いくらか調べておいて」
「…ホントに、何から何まで… あの、絶対将来お返ししm―」
「いいから。羊の面倒見てもらうんだから。朝飯と夕飯、作ってもらうんだから。家事してもらうんだから。その対価だよ。」
それでも対価の方が遥かに多いことを指摘しようと口を開いた時、鰻重が運ばれてくる。その匂いを嗅いだ瞬間、意識が飛びそうになる−何コレ、チョー美味しそう!
恐る恐る箸を口に運ぼうとしたその刹那。千葉さんの電話が鳴る。
どうやら谷中台小学校からの連絡らしい−羊ちゃんに何かあったのだろうか。何か大怪我でもしたのだろうか−千葉さんの表情がどんどん険しくなっていくに従い、ウナギへの食欲が霧散していく。
「すまないっ ホントすまない。今度必ず連れていくから!」
私と千葉さんはその電話の後、二分後には店を後にしていた−小学校の副校長から学校への呼び出しの電話だったのだ。私達は一口も食べないまま鰻屋を後にし、日暮里に向かっていた。
千葉さんは午後から出勤しなければならないでしょう、私が対応しますと言ったのだが、
「なに、今日は大した仕事ないから。午後も休み取ってしまったよ。」
なんて気軽に仰るし。
「ともかく、ちょっと面倒になってきましたね、昨日の夜に想定した通り…」
「まあね。でも、何とかなるだろ」
そう。電話の内容は−羊ちゃんのクラスで学級崩壊!が起きたという、しかも発端は羊ちゃんであった、と。
やはり皆と同じ授業を受けなければならなかったのではないか。例えつまらなくともちゃんと授業を皆と同じ進度で受けるべきだった、そう感じてやまない。
私も施設時代、お兄さんお姉さんの教科書や参考書を借りて読んでいたせいか、小中学時代の学校の授業はたまらなくつまらなかった。それでも教科書を開き、ノートを写しキチンと授業に集中していた。
そういった、所謂「我慢」を教えなければならなかったのでは−今後の彼女の為にも。
「ま、その辺は松戸先生や柏副校長に任せようや。俺たちがどんなに「我慢しろ!」って言ったってアイツは変わらんよ。だってー」
千葉さんは山手線の車窓を眺めながら、
「拓海と、シェンメイの娘なんだから」
と呟いた。
東大卒のエリート外交官の拓海さんと、中国の財界の大物の娘の王神美、シェンメイさん。そうなのだ、羊ちゃんは日本と中国のハーフなのだ。
日中の外交上のトラブルから二人は三年前に亡くなった。千葉さんは詳細を話してくれないのだが、相当センシティブな状況だったに違いない。何故なら当時のニュースをスマホで調べてみたのだが、二人の事故?事件を報じたものは何一つ見つけられなかった。
唯一それらしい事故が−永田町の高級マンションでのガス爆発事故で中国籍の女性が犠牲になった−寝室で寝ていた幼児は無事だった−という記事は実名報道しておらず、状況も詳細に記されてはいないのだが−羊ちゃんの年齢や千葉さんの言葉の行間から考えて、その事故?事件に違いない。
同日に外交官が首都高の事故で亡くなったという記事も見つけ、益々確信に至った。この件に千葉さんはどう関わっていたのだろうか。恐らく私に話してくれる事は一生無いであろう。
ただ確かな事は−私と、羊ちゃんの実母であるシェンメイさんが生写しである事。
日暮里のマンションにはその頃のアルバムが何冊かある。そこには本当に私とソックリの女性が微笑んでいる。
一度聞いたことがある、千葉さんは彼女が好きだったのでは、と。
千葉さんは一瞬の躊躇いののち、それを肯定した。
そう、千葉さんの胸の中には、未だにシェンメイさんが色褪せる事なく佇んでいるのだ。
私のことを遠い目で見る時は、きっとシェンメイさんと私を重ね合わせているのだ。
千葉さんが私を同居人として迎え入れてくれた理由−私が、あの人に似ているから−
いつからだろう、この事実を想起すると胸が痛む様になったのは。
初めはヒリっと。そのうちにピリっと。今ではズキンと…
胸が痛み始めた時に、電車は日暮里駅に滑り込んでいた。
* * * * * *
今日は大学の入学式だったので、とスーツ姿の女子大生が私に言う。東大生らしからぬお洒落なメガネとスタイリッシュなスーツだ。
父親も会社から慌てて抜け出してきたのだろうか、かなり立派なスーツ姿である。
会議室には私、柏先生、そして千葉羊。指定した十三時丁度に二人はドアをノックしたのだ。
「千葉さん、それとーお姉さま? お忙しい中お越しいただきありがとうございました」
「柏先生。あねではなくどうきょ人の竹岡百葉さんなのです」
相変わらず空気を読まずにズケズケと真理を言い放つ。
「えっと、そうですか、竹岡さん、ですか。副校長の柏です。」
やや戸惑いながら柏先生が応対する。私はその隣で軽く頭を下げる。
「先程電話でも話しましたが、一年一組におきまして本日の一時間目の授業中、いわゆる「学級崩壊」が発生しました。その原因が−羊さんの「自習」でした。」
「私がー羊さんに…授業中やりなさいと…勧めました」
言いたいことが何も口から出てこない。
私は彼女を放置したかったのではない
彼女の可能性を伸ばしたかっただけなのだ
こんなに優秀過ぎる子が今更足し算引き算、平仮名片仮名なんてあまりに…
でも、その結果……
「事情はわかりました。それでこの先はどの様に?」
羊の父親が穏やかに口を開く。ビックリする程姿勢の良い人だ。背中に鉄棒が入っているのではないか?
「松戸先生。貴女はどうしたいのですか」
柏先生が同じく穏やかに私に問いかける。
「千葉さんは、どうしたい?」
と私は羊に話を振る。実際彼女はどう考えているのだろう。
「羊は…みんなとじゅぎょうをうけたいです。でもインドしきやかんじのべんきょうもしたいです。あとできればちばにあんのべんきょうも…」
父親が吹き出す−ちばにあん? 何だそれ? 千葉に、餡?
「千葉さんはチバニアンに興味があるの?」
柏先生が嬉しそうな顔で聞く。
「はい。おそらく今年中にせかいいさんににんていされるでしょう、ちじきぎゃくてんのしょう明となるちばにあんのことをもっと知りたいです」
「それは素敵なことね。でも千葉さんがそれを授業中に勉強すれば、また今日みたいにみんなが別々の事を始めてしまうよね。そうすればまた松戸先生が困ってしまうの」
千葉羊が突如シュンとなる。
「そうなんです。羊がインドしき九九をべんきょうしていたらみんなが九九のことやうたをうたいはじめてしまいました。松戸先生がどなってしまい、なきさけんでしまいました。」
私は顔が火照るのを感じる−こうして教え子に冷静に聞かされると、何とも情けない話ではないか…
「これではこまるのでー」
な、なんか上から目線じゃないこの子、前から薄々感じてはいたけどー
「羊ががまんしてクソつまらないじゅぎょうをみなとうけるしかありませんかね」
「羊! 口の訊き方!」
「「それは、ダメ!」」
父親の叱咤と私と女子大生の声が三つ被ったー
「羊さんは小一の授業を受けていては学校がつまらなくなります、不登校になる可能性も」
私は本音を隠さずに言う。
「教室でみんなと一緒に居なきゃダメ、友達をいっぱい作らないと」
女子大生のテンションが更にアップする−もっと冷静な大人しい娘と思っていたのだが−
「ですから柏先生、羊さんを三年生の授業に編入させては? それが本人の為です」
ダメ元で提案してみる。まあ絶対ダメだろうが…
「それは教育委員会が黙っていないよ。」
冷静に父親が呟く。
「でも、現実的にこのクラスには外国人が二名います。平仮名片仮名に相当時間を取られそうなんです」
「だとしたら、やはり当初の目論見通りに教室はこのままで授業中に別の勉強をー」
「でもそうしたら又今日の二の舞だぜ。」
「あの。千葉さん? さっきから否定的な発言が目立つのですが。羊ちゃんの事なんですよ、もっと建設的な意見を述べてくださいっ」
「まあまあ百葉さん、おちついてくださいよ。ほかのみなさんもそうあつくならず…」
「「「お前が言うなっ」」」
柏先生が苦しそうにお腹を抱えている。
父親が一つ咳払いをしたあと、
「そもそも、何で羊がインド式九九やってただけでみんなが騒ぎ出したんだよ」
「それは… 羊がインドしき九九をすべておぼえたことを松戸先生にほめてほしかったから…そう言ったのですよ。そうしたらみんながー」
唖然となった−私に? 褒めて欲しかった? ハア?
「あー、それわかるかも。私も小さい頃、先生や上の子に褒めて欲しくて勉強頑張ったかも」
確か、竹岡―百葉さん、が呟く。
「そうか。父さんいつも言ってるよな。「自戒せよ」と。お前がよーく出来ることは俺も、先生もよーく知ってる。だから自分が出来ることを殊更に自分の口から言う事はない。それが「自戒」だ。わかっているよな」
羊がシュンとなる… いやお父さん、それはちょっと言い過ぎ…
「いいじゃないですか! こんな小さな子がインド式九九を一晩で憶えるなんて凄すぎますよ。もっと褒めましょうよ。自慢すればいいじゃないですか。自戒なんて今する必要性が認められませんっ」
百葉女子大生のテンションはマックスとなる… 結構迫力がある…
「いや、だからこそ必要なんだよ。コイツはこのままでは鼻持ちならないイヤなガキになる。出来ない周りの子を見下す様になる。既に萌芽している、大人に対してな」
「確かに目に余る所は否定しません。然し乍ら未だ五歳の子にその様な自制が本当に必要でしょうか。それこそ「出る杭を打つ」行為に他ならないのではありませんか」
「この日本社会で生きて行くにはある程度必要なんだよ。残念ながらそういう社会なんだよ、この国は」
「それならインターナショナルスクールに入れるとか、いっそ海外に移住するとか、とにかくこの子の能力や個性を生かせる環境に…」
「今はこの現状でいかに対処するかが問題だと思うが」
「「先生は、どう思われますか?」」
急に話を振られてしまった…
「話は初めに戻ってしまいますが… ねえ千葉さん、あなたは今後どうしたいの?」
羊はじっと私を眺め、そっと呟く。
「みんなと、じゅぎょう、うけたいです」
「静かに、一人で自習出来る?」
「…どりょく、します」
「そう。静かに一人で自習できないと、みんなと同じ授業を受けてもらいます。」
「うげっ」
「先生も力を貸します。だから、千葉さん。お父さんの言う「自戒」。出来るかな?」
「できます」
「わかりました。では月曜日。インド式九九と漢字のテストをします。引き続き勉強してきてね」
「ハイっ! わーーーい」
学ぶ事に飢えていたのだろう。これ程目が輝いている生徒を見たことがない。
柏先生を見る。いつもの優しい笑顔で微笑んでいる。
百葉女子大生を見る。渋々認めるって顔だ。
父親、千葉さん。どんな理由で父子家庭となったのだろう。そしてこの女子大生とどんな関係なのだろう。
来週の家庭訪問でじっくり聞いてみることにしよう。
* * * * * *
『聞いてくれよ。今日羊のことで小学校に呼び出されて大変だったんだ。二時間も話し合ってさ。いやー育児は大変だわ。これからこんな事がしょっちゅうあるかと思うと背筋が冷えるわー。』
夕方、帰宅途中にまさかの龍也からのメッセージ。私の送ったメッセージへの返信と言うよりは一方的な愚痴だ。
それでもいい。
『(絵文字)あらそれは大変だったね(スタンプ)何があったの?(スタンプ)』
コンビニ弁当とビールを買い家に着いた頃に返信が来る。
『授業が簡単すぎてつまらないから先生が別の課題をくれてそれをやっていたら周りの子供が騒ぎ出して授業崩壊したってさ。やっぱ公立じゃダメだったのかな。それとももっと我慢させなきゃダメなのかな…』
相変わらず絵文字もスタンプも無い実務的なメッセージ。でもそれが龍也らしくて、良い。
『(スタンプ)羊ちゃんそんなに出来ちゃうんだ(絵文字)それは大変(絵文字)だよねー』
洗濯機を回しながら入浴し、洗濯物を浴室乾燥にかけた頃に、
『本当は飛び級とかあるといいんだけどな。日本の教育の限界だよな。仕事作って、ワシントンの大使館にでも転勤しようかな。』
『(絵文字)親の都合に子供を振り回さないの!(絵文字)(スタンプ)』
三本目のビールを飲み終え、そろそろ寝床に着く頃に、
『だよな。まあ現状でなんとか出来ることをして行かなきゃな。それにしても小一でインド式九九って、何なんだよ。我が子ながら、末恐ろし過ぎるぜ(笑)』
『(絵文字)えーなになにー(絵文字)インド式九九(絵文字)何それー(絵文字)』
既読が付くのは明日の朝だろう。
ベッドに入り、目を瞑る。
それにしても龍也は本当に人の親になったんだ、そうしみじみと思う。昔から龍也はぶっきら棒で無愛想だが、特に下の者に対して面倒見が良かった。
あれは私が高三、彼が高一の頃だったか。一家心中で生き残った男の子が施設にやって来た。なんでも自営業の商売がうまくいかなくなり、多額の借金を抱えての事件だった様だ。
寝ていた所を父親が首を絞め、その後両親は大量の薬を飲んだと言う。だが父親は我が子を締め切ることが出来ずに翌朝その子は意識が戻り、冷たくなった両親を夕方まで眺めていたそうだ。
そんな彼は施設に入っても一言も口をきかなかった−いや。きけなかった。
周りが何を話しかけても下を向き返事をする事はなく、食事も殆ど取らずにみるみるうちに痩せ細っていった。
そんな彼に龍也は飽きずに話しかけていく。食事の時もスプーンを口に持っていき何とか飲み込ませようとしていた。
ある日。どうしても口を開けようとしないその子に、龍也が何と口移しで食べさせたのだ!衛生上どうのこうのと言ってる場合じゃない、この子はこのままじゃ死んじまう。
そう言って龍也はその子を抱きしめながら口移しで食事をさせ始めたのだ。
すると−その子は飲み込んだのだ、龍也の口移しの夕ご飯を、朝ご飯を−
三日程経つと、龍也のスプーンから食べる様になり、一週間後には笑顔を見せ始めた。
一月後には周りの子と何ら変わらない生活をする様になった。
目覚ましもかけていないのに、七時ちょうどに目が覚める。
窓の外はいい天気の様だ、着替えてコンビニに朝食を買い行く。
土曜の朝だが駅に向かう人の多いこと。長年青森に居たので未だにこの人の多さには慣れない。
途中の公園の前で立ち止まり、桜の花をぼんやりと眺める。そうか、この違和感の正体はこれだったのだ−青森での桜の開花は四月の下旬なのだ。
そんなどうでもいい事に思わず頬が綻ぶ。コンビニで買った朝食を公園のベンチで桜を眺めながら食べる事にする。
それにしても… そろそろ自炊しなくては。青森ではほぼ毎日自炊していた。週に何回かは弁当を持参していた。
生活のペースが掴めたら、始めよう。そう決める。
スマホが鳴動する。龍也からのメッセージだ。
『インド式九九っていうのは、以下を読めばわかると思う https://indian99…』
おはよう、の一言もなく、いきなり昨夜の続き。龍也らしい。
龍也が送ってくれたHPをタップし読んでみる。なるほど、日本の九九を超えたインドの神秘ってやつなんだ。今度からドクター達の誘いはこの九九が出来るかどうかで対応していこう。
ドクター達のキョトンとした顔を妄想し、一人吹き出す。正面のベンチのお爺さんが何事かとこちらを伺う。
『(スタンプ)羊ちゃんはこれを覚えちゃったんだ(絵文字)信じられない(絵文字)龍也よりも頭いいんじゃない(絵文字)(スタンプ)』
スマホをポケットに入れ、ベンチを立つ。正面のお爺さんに軽く会釈をするとニッコリと笑い返してくれる。
初めての週末。今日は何をしようかな。
* * * * * *
東京大学は他の大学と違い入学者全員が二年間教養学部で前期課程を学ぶ。入学時に六つの科類に分かれている−文科一類。これは私が入った類で普通の大学で言う法学部だ。分科二類は主に経済学部、分科三類は文学部、教育学部。ちなみに理科一類は工学部、理学部、理科二類は農学部、工学部、薬学部。そして理科三類は医学部、といった感じである。
三年から始まる後期課程は前期課程の成績による「進学選択」によって各部科に振り分けられる。従って後期課程で私が志望する法学部に入るには前期課程でそれなりの成績を取らねばならない。
前期課程は目黒区にある駒場キャンパス、後期課程は本郷キャンパスであるので、二年間は電車通学を強いられる事になる−後期課程の本郷キャンパスへは、この谷中からは徒歩で三十分ほど。徒歩通学で何の問題もない。
そんな訳で月曜日から駒場への通学が始まるのだが−実は私は一度も駒場キャンパスに行った事がない。一度も行った事のない所にいきなり月曜日から通うのは余りにも無謀である。電車の乗り継ぎも分からないし、キャンパス周辺の環境も未知である。
そこで私はこの週末を利用し、谷中、即ちJ R日暮里駅から井の頭線駒場東大前駅の往復を試みる事にした−今日の土曜日は午前、明日の日曜日は夕方に。そうすれば月曜日からの通学生活が大まかに理解できる。
「まったくいみのないことかと。百葉さんはときどきいみふ明なことをなさる。今日はまだしもなぜ明日も行くのでしょうか?」
朝食後。羊ちゃんと二人で後片付けをしながら羊ちゃんは頬を膨らませる。
「だって…夕方の帰宅の状況が分かるじゃない。どれぐらい混むかとか、」
「明日は日よう日です。つうきん者がいません。したがっていみのないことかとおもわれます」
「んぐっ で、でも暗いと雰囲気も違って…」
「どうせ百葉さんはまよいますから。なので今日行くだけでじゅうぶんかと。ところで百葉さん、まさかお一人さまでこまばに行くのですか。それはあまりにむぼうなことかと。しかたありませんねえ、とくべつに羊がつき合ってあげましょう。」
「いいよ一人で行くから。」
「えええ、そ、そんな…」
「ついでにキャンパス近くの美味しいラーメン屋に行こうかな♫」
「そ、そんな…」
「だからお昼ご飯はお父さんと二人で食べてねー」
「も、百葉さん… それはあまりにむごいしうち… 一体羊が何をしたというので…」
羊ちゃんが目に涙を浮かべちゃった…
「うそうそ。羊ちゃん、一緒に行ってくれる? 私一人ではちょっと不安なんだ」
涙が嘘みたいにスッと引き、いつものドヤ顔になる。
「しかたないですねえ、何しろ右と左をまちがえる人を一人でこまばに行かせるわけには参りません♫」
「それ、ずっと言うんだ…」
そう言えば羊ちゃんと電車に乗るのは初めてだ。ソファーでスマホを弄っている千葉さんに、
「羊ちゃんはSuicaかPASMO持っていますか?」
ビクッとして千葉さんは私を見る。そう言えば昨日の午後からずっとスマホを弄っている。そんな千葉さんは見た事がない。何か重要な仕事の連絡でもしているのだろうか。
「Suicaを持っているが」
「スマホに入れてますか?」
「いや、入れていない。そうか、そうだな。スマホに入れた方が良いな、チャージもすぐ出来るし」
なにか慌てる様に千葉さんは羊ちゃんのスマホにSuicaのアプリをインストールし始める。
「私がしましょうか?」
と言ってソファーに近づく。千葉さんのスマホが鳴動する。チラリと見るとラインのメッセージが届いている…やたら絵文字が入っている、明らかに女性からのメッセージが…
法的に千葉さんは立派な独身男性である。道義的にも千葉さんに彼女が居ても全く問題は無い。ましてや男盛りの三十歳、鍛えられた肉体に精悍な顔付き。寧ろ彼女が居ない方がおかしいと言っても過言では無い。
無い、のだが。
私には大変なショックだった。
だって今まで一言もそんな事聞いていなかったから。
羊ちゃんは知っているのだろうか。それとなく聞いてみる、
「お父さんて、付き合ってる彼女いるの?」
…思わず、ズバリ聞いてしまった…
「へ? かの女、ですか? そう言えばー」
ゴクリと唾を飲み込む。
「ちょ、百葉さんいたいです、そんなにつよくつかまないでくださいな」
「ご、ごめん。それでっ?」
「そう言えばー、あ。もうしぶ谷につきますよ」
「え… あ、本当だ…」
「ハア。ホントに大じょうぶですか百葉さん。月よう日からちゃんとがっこう行けるか羊はしんぱいですよ。さ、おりましょう」
考え事をしているとよく私は電車を乗り過ごす。酷い時には高尾山まで行ってしまったこともあった。これからは気をつけよう、でないと山手線を何周かしてしまうかも知れない…
J R渋谷駅から井の頭線渋谷駅に向かう。何じゃこの人は! 吉祥寺駅の人混みが懐かしく思えるほどの人の多さに立ちくらみを感じてしまう。こんな所では簡単に羊ちゃんは迷子になってしまうだろう、左手をしっかりと握る。
「だから、いたいですって。しかしすごい人ですねえ、おそるべししぶ谷。これでは百葉さんは毎日まい子ですねー」
「う、うん。そんな自信がある。で、どっち? 井の頭線って? どこ?」
徐々に頭が白くなってくる−ムリ、こんなのが毎日なんて…
「百葉さん、上をみるのです! 人を見てはいけません、上のひょうしきだけを見るのです!」
羊ちゃんの声に従って、人を見ずに案内標識に意識を集中させる—
あった! 井の頭線の案内標識だ!
頭が回転し始める。そうだ。木を見ずに森を見るんだ。そうすれば人は森に迷う事はない。こんな非論理的な事に納得しながら人混みをかき分けようやく私達は井の頭線の渋谷駅に到着する。
事前の調査によると駒場東大前駅は渋谷駅からたったの二駅だ。
「羊は井のかしらせんにのるのははじめてですよ。なになに、ふむふむなるほどなるほど。このでん車にのれば吉じょう寺に行けるのですね。このあいだのやかましい百葉さんのご友人にあいに行くのもらくですね」
「喧しい言うなっ でも、そうだね。えりな達元気かな…」
そんな事を考える間も無く、あっという間に電車は駒場東大前駅に到着する。
渋谷駅に比べると、ずっと小さい駅である。駅前も日暮里駅よりも遥かにこじんまりとしている。だがそれが落ち着いた雰囲気を醸し出している。何より緑が多く高級住宅街がすぐ近くにある。少しだけ三鷹に雰囲気が似ているかも。
キャンパスまでは坂道を登っていくとすぐだった。そこは裏門にあたる所で門は開放されている。そのままキャンパスに羊ちゃんと入って行く。
その後羊ちゃんとゆっくりキャンパス内を歩き回る。とても都心の大学とは思えない静謐さを感じる。周囲に高層建築物が全くないので空が近い。空気も都心にしては緑の匂いに満ちており、日本最高学府に相応しい環境と改めて感じ入る。
何と素晴らしい環境なのだろう。この大学に入れて、本当に良かった。
来た時とは逆に正門から校外に出る。振り返るとバックトゥーザフューチャーに出てきそうな時計台がそそり立っている。何という風情なのだろう!
明後日からよろしくお願いします、軽く頭を下げる。
「どう羊ちゃん。ここが私の大学だよ。」
「みどりが多く、とてもよいところです。ここなら羊も安しんです」
「ど、どんだけ上から…」
「おなかがすきました、さあ、ラーメンやさんに行きましょう」
「そうだね、お腹空いたね。行こ行こ!」
スマホで調べておいた正門から三分ほどのラーメン屋に行くと… 行列が出来ている!何で…今日って土曜日だよね…
二十分ほど並んで入ると湯気でメガネが曇りそうな湿気だ。それでも美味しそうな麺の匂いにお腹がギュウと鳴る。
カウンター越しに渡されたラーメンを見て、羊ちゃんと共に絶句する−野菜が富士山の様に盛ってあるのだ、完食は到底望めまい、ましてや羊ちゃん…
スープはギトギト、大蒜の味がキツく、私は半分食べるのがやっとだった。これなら二人で一人前でよかったと後悔しつつ隣の羊ちゃんを見ると−ウソでしょ、既に半分なくなり、残り半分も美味しそうに啜っているではないか! 何なのこの子…
大汗を垂らしながら、残り半分の半分を啜ったとろで私はギブアップ。もう麺一本も飲み込めまい。その隣で羊ちゃんは楽々完食。信じられない…
「こんなおいしいラーメンははじめてですよ百葉さん。きめました、羊もかならず東大に入ります。そしてこのラーメンをたべに来ます!」
カウンター越しに店のお兄さんが、
「おう、待ってるぜ。別嬪ちゃん」
「ええまっていてくださいね。そのころにはてん長になっていてくださいよ」
「おおお、言ってくれるねお嬢ちゃん(笑)」
羊ちゃんが大学生になる頃って私は何をしているのだろう。あと十二年後の自分を想像できないが妄想はできる−司法試験に合格し、大手の外資系弁護士事務所で数年修行してから小さな法律事務所を立ち上げて、市井の困った人たちを助けてあげたい。
そして。その未来の私の隣には−
「百葉さん。ラーメンをたべのこした上にアホズラでにやけるとは。本当にあさってからお一人さまで大じょうぶですか。羊はとてもしんぱいです」
十二年後もこんな風に私を弄ってくれる事を密かに願いながら、私たちは帰宅の途に着いた。
* * * * * *
昨夜は一睡も出来なかった。体育会系の私が夜悩み事で寝られなかったのは人生初のことかも知れない。寝つきが早い、それが私の取り柄の一つでもあったのに。
時計を見ると朝の六時半。外はようやく明るくなってきている。部屋着を脱ぎ、ジャージに着替え、ジョギング用のシューズを履き家を出る。
私の家は日暮里舎人ライナーの熊野前という駅を降りてすぐだ。都立大学荒川キャンパスのすぐ近くで、住所でいうと荒川区東尾久となる。
二年まえに谷中台小に赴任した時に合わせて実家の杉並からここに越してきた。親はそんなゼロメートル地帯に住むのはやめなさいと反対したが、自転車で学校まで二十分で行ける利便性と付近の物価の安さを盾に強引に越してきたのだ。
家から北に五分も歩くと隅田川が、更に少し行くと荒川が流れており、夜や休日のジョギングコースには事欠かない。
土曜の朝は平日よりも人が多い気がする−川沿いの道はジョギング、ウォーキングの老若男女でいっぱいだ。
私は一人、隅田川と荒川に挟まれた堤防道路をボンヤリと歩む。朝日が昇ってきて気温が少し上がった気がする。
昨夜からの悩みはただ一つ。千葉羊を月曜日からどう扱えば良いか。
昨日の午後の三者面談(実際には五人いたが)ではこれぞという有効な案は見出せず、取り敢えず現状維持、となったのだ。
千葉羊の能力を可能な限り引き出してあげたい。だがそれには彼女自身が父親の言うところの「自戒」をしなければならない−
この年頃の子供が、先生に褒めて貰いたいのは当然であり、こちらも褒めるのが重要な仕事だ。また自分が出来ることを先生や友達に誇示したいのも当たり前である。それが子供なのだ。
だが−千葉羊は今後、自戒しなければならない。私も千葉羊に対し、自戒しなければならない。不必要に褒めあげて周りの子供に刺激を与えてはならない。
果たして、私達−私と千葉羊にそれが出来るのだろうか。
この二年間、私は必要以上に生徒を褒めた。褒めちぎって育てた。結果はそう悪くなかったと思う。なのでこれを私の教育指針にしているのだ。
だがそれを千葉羊に対して私は自重しなければならない−何より彼女自身のために。彼女が慢心し周りがそれを煽り立てる事のない様に。
私にそれが出来るのか−
やらざるを得ない。やらなければならない。
だがそれには保護者達の理解と協力が絶対に不可欠なのだ。来週の家庭訪問の重要性に知れず溜息が出てしまう。
ふと気づくと、足立区の鹿浜橋まで歩いて来ていた。日はすっかり昇り、辺りの土曜日の朝の光景が一睡もしていない目に眩しい。
来た道を振り返り、東京湾に注ぐ両河川の流れに沿って家に戻り始める。
実家のある杉並にはない河川敷の広々とした雰囲気が大好きだ。朝の空気も全然違う。立ち止まり、大きく深呼吸をする。隅田川の優しい香りが脳の隅々まで染み渡る。もう一回深呼吸をする。今度は荒川の荒々しい匂いが脳と魂を刺激する。
深く考えても今は頭が働かない。そう気づき、家近のファミレスで朝食を摂ることにする。濃いブラックコーヒーが飲みたい。
ファミレスでパンケーキセットの朝食を摘みつつ、昨日の出来事を振り返る。やはり一番の問題点は千葉羊が誇らしげにインド式九九を憶えたと叫んだことだ。
それに呼応して他の子供達が自分も如何に出来るか、または出来ないかを主張しだし、最後には騒ぎに乗じて合唱が始まった…
冷静になって考えると、実に子供らしい反応ではないか。寧ろ入学式の頃の大人しさに比べたら、実に生き生きとした有様なのではないだろうか。
考え方次第でこれが「学級崩壊」なのか、「活力旺盛」なのか分かれる所なのだ、とも思えてしまう。
私は体育会系なので、子供は元気な方が喜ばしい。即ち、今回の事案を活力旺盛な子供達の一表現、と捉えてしまうのはどうだろうか。
実際、授業内容なんてほぼ遊びみたいなものだし。教科書や指導書に沿ってきっちりコマを進めて行くよりも、皆の興味を引き出し旺盛に発言行動させて行った方が子供のためなのではないだろうか。
スマホのメモ帳に今のこの気持ちを書き込む。家に帰り一眠りした後に再読して、考え直そう。そう考えるとサッと肩の荷が降りた気がし、気が楽になった。
そうだ。物事は悪い方に考えない。良い方に考えろ。
私の座右の銘をこの数日すっかり忘れていた。
三杯目のコーヒーを飲みながら、ふと千葉羊の家族−父親と姉…ではなく同居人、の事が脳裏に過ぎる。
母親は離婚したのだろうか、死別したのだろうか。本当に羊とあの女子大生は姉妹ではないのか。実は血が繋がっているのにそれを頑なに隠しているのではないか。
よしんば血の繋がりのない唯の同居人だとしよう。それではあの父親と女子大生の関係は何なのだろう。
考えれば考えるほど、謎の多い家庭だ。先ほど感じた眠気が一気に去っていった気がする。
顔貌がそっくりで、東大に入学した知能。やはり血の繋がりを感じさせる。然し乍らそれを頑なに否定する。
うん、きっと何か事情があって実の姉妹であることを公表できないのではないか。
そうだ、姉の方、確か百葉とか言っていたな、は父親の前妻の娘なのだ。前妻と別れ再婚し羊が生まれたのだ。それなら辻褄が合う気がする。うん、きっとそうだ、
きっと前妻とは死別、羊の母親とは離婚。そうに違いない。
…あれ。あの父親って見た感じは三十前後なのだが。とすると、百葉は十二歳の時の子供となるのか…
…うん、やはり徹夜明けの脳味噌は超絶ファンタジーを容易に生み出してしまう。
これ以上考えるともっと壮絶な千葉家を生み出してしまいそうだ、実はあの父親と羊は血が繋がっていない、とか。あの百葉なる女子大生と父娘はつい先日知り合ったばかりであるとか。
そして−あの父親と百葉は男女の仲であるとか…
そう妄想を膨らませたとき。何故か凄く嫌な気分になる。
元々あの女子大生は何となく気に入らなかったのだが、今は憎悪に近い感情を持ってしまう−
はーーーーー。ダメだダメだ。こんなアホなことを妄想するなんて。
さあ帰って、寝よう。そして起きたらまた明後日のことを考えよう。
何とかなるさ。
会計をしようと立ち上がった時。財布を家に置いて来たことに気がつく…
…何…とか、なるさ…