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谷中恋ものがたり  作者: 悠鬼由宇
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第一話

 東京都 台東区 谷中

 東京二十三区の中心に位置し、文京区、荒川区との区界に接している。江戸時代に上野寛永寺の子院が数多く建てられ、寺町として大いに栄えた。幕末の上野戦争で多くの寺院が焼失したが、関東大震災や太平洋戦争での被害は少なく、今も嘗ての古い街並みが残されている−


 そんな谷中に私が住み始めたのはつい先週の事。来年東京オリンピックを控えた今年の春から大学生になる私は、この谷中にある高校時代の恩師の知り合いのお宅で下宿する−筈だったのだが。

 そのお宅が先週まさかの火災に巻き込まれ、住む場所を住む前に失い途方に暮れていた私はどんな因縁?ご縁?があったのか、やはり谷中在住の千葉龍也さんと娘の羊ちゃんの父子家庭に転がり込むこととなる。

 小学校に上がる前に両親を交通事故で失った私は以来三鷹市の養護施設で育った。故にこの辺りには全く土地勘はなく、またこの下町情緒も初めて触れるモノである。


 この街に住み始めてホントビックリした事が幾つかある−まずは道路の狭さ。どうして家々がこうも密着しひしめき合っているのだろう。車が通れない道路も数多く存在し、先週の火災の時も消防車が通れずに延焼の原因となったみたい。

 だけど住み始めて一週間経ち、だいぶそれに慣れてきた。寧ろ車の往来が少なく、歩くのが好きな私にはかえって好ましく思えてきている。

 人の密着度。言い換えれば『人情』となるのだろうか。施設で育ってきた私はそれなりにコミュニケーション能力があるつもりでいたが、とんでもない! この街の人々の人懐っこさというかお節介さというか、他人への関わり方が半端ない! 知らない人を平気で家に上げる。知らない大人に子供が付いていく。知らない人から平気で食べ物を貰う、あげる。

 だけど−そのお陰で私は今こうして路頭に迷わず住む場所を得、飢える事もなく更には学生らしい衣服も与えられ、来週からの学生生活に備えられたのである。

 そして−今一番ビックリしているのが。生まれ育った訳でもないのに、まだ一週間しか経っていないのに、既に私はこの街が大好きになっている事。

 街並みはさっき言ったように狭く雑然としているのだが、今では逆にそれが落ち着く。江戸時代からの古い寺社が醸し出す雰囲気がとても良い。所狭しと並んでいる店から漂う色んな匂いが好きだ。そして−

「あら百葉ちゃん。もう慣れたかい?」

「こんにちは。お陰様ですっかり。あ、豆腐二丁と油揚げください」

「はいよっ 油揚げ、オマケしとくからね」

「今日もありがとうございます」

 こんな感じの、この街の人達が、大好きだ!


「おおっ 羊ちゃん! 新入学おめでとさん!」

 千葉家御用達のお肉屋さんの若主人が私の左手を握っている千葉羊ちゃんに話しかける。

「ちがいますよからあげやさん。私は「よー」ではなく、「よう」ですから。名前はちゃんとよんでもらわねばこまります。」

「ハッハッハ、わりーわりー。これで機嫌直してくれよっ」

 と、揚げたての唐揚げ一つを羊ちゃんに差し出す。

「こ、これはいわゆる『ワイロ』というこういなのでは… いただきます♪」

 そう。この羊ちゃん、今日から地元の小学校の新一年生となったんだけど。私も施設で数多くの小学一年生を見てきたけれど、この子はズバ抜けて賢い。地頭の良さに加え、天性の好奇心から信じられない程の知識がこの小さな頭に詰め込まれている。この子の賢しさには驚かされる毎日である。

 それより、何より−

「お姉ちゃんも一個、どうだい?」

「いただきまーす。」

「からあげやさん。なんども言いますけど。この人は羊のお姉さんではありません。竹岡百葉さんなのです。竹の岡にさく百の葉っぱ、とおぼえてください。いいですか」

「お、おお。竹の葉っぱが百こ咲く、ってか?」

「それでは竹葉さんになってしまいます。そんなことではうり上げがおちてしまいますよ」

 肉屋さんは腹を抱えて、

「今日も一本取られたかー、参った、参った。でもよー、ホンっとそっくりだぜ、アンタら」

 と何故だか嬉しそうに羊ちゃんの頭を撫でる。

 そうなのだ。ホンッとに何の因果か因縁か、私と羊ちゃんは所謂「瓜二つ」なのだ−

 初め会った時は感じなかったのだが、先週私は新入学に備え髪を整えメガネを新調して鏡で自分の顔を久しぶりにちゃんと見た時−それまでは施設の先輩から譲り受けたメガネをしていたので度がイマイチ合ってなかった−衝撃を受けた。この子と、私、ソックリ!

 こうして道を歩いていても、まず私達は姉妹にしか見られない。血はつながっていないと言っても誰も信じてくれない。幸い私は童顔で羊ちゃんは大人っぽい雰囲気と言うかおませさんなので、親子に見られたことはない。


 一昨日、高校時代の親友が遊びにきてくれた時。J R日暮里駅に羊ちゃんと二人で彼女達を迎えに行った。待ち合わせ場所に現れた三人は、私たちを見て

「ももー、大丈夫だったの? 心配しt……」

「でも良かったじゃん、すぐに住むとk……」

「やだ、メガネオシャレじゃn……」

 三人の親友は言葉の途中で硬直してしまった。口をポカンと開けながら−

「ちょ、ちょっと何コレ信じられない嘘でしょ有り得ないマジですか」

「そっくり通り越してマジ姉妹だよ本当にマジで瓜二つじゃんウケるー」

「………もも、ホントの事言って。ウチら親友じゃん?」

 左手の羊ちゃんが呆気に取られながら、

「初めまして千葉羊です、せんしゅうから百葉さんをお世わしています。それにしてもみなさん、百葉さんのご友人にしてはごいりょくが少々ひんこんですねえ、大学はどちらにいかれるのでしょうか」

 三人は再度硬直する。

「ごいりょく…?」

「語彙力…!」

「ひんこん…貧困!」

「「「マジ、ウケるーー」」」

 日暮里駅に三人の爆笑が響き渡り、道ゆく人々が皆振り返ったものだった−


 この三人の親友〜えりな、萌、愛美も谷中の辺りは初めてだったようで、この独特な街並みを大いに楽しんだようだった。そして私が今住んでいるマンションを見て愕然としていた。

「もも… ラインで聞いた通りだけど…」

「ビックリ。こんな高級マンションに…」

 私はちょっとムキになり、

「なんでよ。えりなのマンションなんてもっと凄いじゃん。萌と愛美の家だって戸建てで大きいじゃん」

「…いやいや。だってもも、最初は昭和な鄙びた六畳一間って…それが」

 エレベーターで4階に上がり、部屋に入ると、

「うわっ シンプルっ」

「でも綺麗にしてるじゃん」

「ホント。で? 羊ちゃんのお父さん、千葉さんって−?」

 そう。この家の家主、千葉龍也さんの事は彼女達にはザックリとしか話していなかったのだ。私がどこから話そうかと思案していると、羊ちゃんが

「父はぼうえいしょうにきんむしているじゅん国かこうむいんなのです。」

「「「へーー」」」

「ちなみに、父は羊の本当の父ではありません」

「「「え…?」」」

「羊のせいぶつがくてきなりょうしんは、二年まえにしにました。」

「「「…………」」」

「今のこせきじょうの父、千葉たつやは、死んだ父と母のしんゆうだったのです」

「「「…マ…ジ…」」」

「大マジです。父と母の死ご、羊は今の父にひきとられ、今までくらしてきたのです」

「「「…そう…なんだ…」」」

「まあ父と二人の生かつもそれなりにたのしくはありましたが。せんしゅうからこの百葉さんがウチでくらすようになりまして。それはそれはまい日がたのしくてしかたありません。」

 私が羊ちゃんと千葉さんとどう出会ったかは既にラインで伝えてある。三人は目を見開き、羊ちゃんの話にのめり込む。

「これまでは羊は谷中ひまわりほいくえんにいましたが、あさってから谷中台小がっこうに行くのです。」

「「「うわー、おめでと〜」」」

「これはこれは。どうもありがとうございます。ところでみなさんはこの4月からどちらの大学へ? 百葉さんと同じ、東京大学なのでしょうか?」

 いやいやいや、と言いながら三人は一斉に首を振り、

「私は明治大学だよ」

「ほう。それはなかなか」

「えっと、私は青山学院大学、なんだ」

「ほう。それはそれは」

「…ウチは…浪人、するんだ…」

「ほう。ろうにん、ですか。百葉さん、ろうにんとは?」

「えっと、来年大学受験をもう一回する人の事だよ」

「ほう。ということはおねいさんは…」

「そ、そうなんだ、今年は受験に…」

「にゅうがくきんがはらえない、かわいそうなおうちにそだったのですね。それはそれは」

「「「?」」」

「今年一年しっかりはたらいておかねをためるのですね。なんとしゅしょうな人でしょう。羊は心からおうえんしますよ。えーと、お名まえは?」

「愛美、です…」

「うーん、あまり男うけする名まえではありませんね。げんじなをかんがえるべきでしょう」

「は? え? ハアー?」

「どうぞひるまはべんがくにいそしみ、よるはしかとかせいでくださいね、愛美さん」

「う、ウチ、頑張んないとー ぷっ」

「愛美―、お仕事しっかりー ぷぷっ」

「ただし。パパかつはほどほどにしてくださいね。何よりべんきょう一ばんですよ愛美さん」

「む、むりーーー ギャハハーー」

「ヒーー ウケるーー」

「この子、サイコー」

 三人は涙を流しながら大爆笑だ。私も笑いすぎてお腹が痛くなったのだった−


     *     *     *     *     *     *


 新卒で赴任したこの学校も今年で三年目。なんと今年は新一年生の担任をすることになったのだ−

 この学校はひと学年二クラス、一クラス二十人程度。比較的目の届きやすいと感じる。去年までは三年生、四年生を担当してきたので、一年生を受け持つのは初めてだ。

 昔から教職に憧れてきた。特に小学校の先生になりたい、そうずっと思ってきた。願いが叶いこの小学校に赴任し、夢のような日々を過ごして−

 −それは、無い。正直それは無い。この二年間で夢と現実のギャップを嫌と言うほど味わってきた。

 とにかく余分な仕事が多すぎる。私はもっと生徒達と触れ合いたいのだが、意味不な書類仕事に忙殺され、彼等と密なコミュニケーションをとる事が全く出来ない。

 二十人という少人数なのだが、私的に全く満足出来ない二年間であった。

 目の前のクラス名簿を眺める。今年こそは、この生徒達とこそは、私の納得のいくコミュニケーションを取っていきたい。

 去年受け持った生徒達は私を『ネッケツ』と渾名していたらしい。はあ? 熱血? 全然だよ。全然本気出せなかったよ。

 今年こそ、今私の目の前にいるこの子達にこそ。私は自分の全てをぶつけたい。雨が降ろうが槍が降ろうが学校に行きたい、そう思わせたい。


 四〇のつぶらな瞳が私を見つめている。

 ここは、台東区谷中。小豆島じゃないんだ。心の中で一人吹き出す。

 このクラスは越境で来る子も五名ほどいるが、残りは地元の子達だ。この「谷中っ子」なのだ。さあ熱くぶつかろう。私とガッツリ組み合って、毎日泣き笑い合おう。さあ私の子供達、

「先生の名前は、松戸麗です。よろしくね!」

 ………

 ……おかしい。子供達よりも父親達がざわめいている。

「今から名前を呼ぶので大きなお返事をしてくださいね、いいですかー?」

 …何故? 子供でなく、父親が返事をする?


「岩井 蓮さん」

「は い」

「印西 大和さん」

「 は い」

「大井 海斗さん」

「 はい 」

「大多喜 宝物おうじさん」

「 …は い… 」

 出た。キラキラ系。宝物と書いて「おうじ」。チラリと保護者を見る。ふむ。納得。


 今年もかなりなキラ率だ。

「高滝火星」で「まあず」。

 子供を宇宙飛行士に? 宇宙人の間違いでは?

「宮下空走」で「あっしゅ」。

 バナナフィッシュかよ…

「平山希星」で「きらら」

 教師に対するいじめとしか思えねえ…

「笠森七音」で「どれみ」

 もう、なんでもいいよ… 本人が健やかに育つなら…


 それにしても、このクラスの子達は大人しい。新一年生はこういうものなのだろうか。寧ろ後ろの保護者達の方が煩い。思わず注意したくなるのだが、やめておく。

 そう、保護者。教師になり、この「保護者」ほど私を悩み狂わせた存在は、無い。

 台東区の下町である事もさることながら、もう何かというと私に関わろうとしてくるのだ。去年も一昨年も、保護者からの電話が三件以下だった日は無い。

 いじめを受けているのでは、とか急に具合が悪くなった、とかなら仕方ない。

 だけど−


「麗先生っ どう、この写真、見てみてよっ」

 この平成の時代にガチでお見合い写真を渡されるとは…

「麗先生、明日の夜、娘のことでちょっと話があるんだけど、呑みに行かない?」

 教師をなんだと思っている! 聖職者に対して何たる不届きな父親!

「先生ちょっと聞いてください、ウチの旦那が今朝朝帰りしたんだけどさ、」

 知らねえよ。大人悩み相談所じゃねえんだよっ!


 ああ、思い出しても腹が立つ。アンタの子らはあんなに良い子なのに…

 このクラスの親達は、フツーの親でありますように……

 ただ。母子家庭が二人と父子家庭が一人いるのよね、そこはちょっとしっかりとケアしなくては。


 入学写真の撮影後、生徒だけで教室に戻る。保護者がいなくなっても、やはり大人しい。

「みんな。今日から小学生だよ。明日からここでお勉強が始まるよ。ちゃんとお勉強できるかなー?」

「…………」

「元気ないなあ。明日からちゃんと学校来れるかなー?」

「…………」

「え、えーと今からプリントを配ります。後ろの人に渡してね。それとお家に帰ったらお母さん…、や、お父さんに渡してくださいね」

 危ない危ない。父子家庭がいるんだった。

「それでは今日の入学式はこれでおしまい。明日は楽しい学校見学だよー。あ、何かわからない事あるかなー」

 出席簿を持ちみんなの顔を見回す。すると、真っ直ぐな一本の手がスッと上がる−

 千葉よう。ひつじではない。父子家庭の子だ。


「はい、ええと− 千葉羊さん。なんですか」

「はい。スマホはもってきてよいのでしょうか」

 スマホ…小一からスマホ持たせる親がいるのか…なにを考えているのだろう。ちょっと信じられない。

 でも…父子家庭の子だから、連絡と護身のために持たせているのかも。

 うーん、これは厄介だなあ…

「えっと、千葉さん。スマホも携帯電話も学校にもってきてはいけません」

「では、わからないごくがあったばあい、何でしらべればよいのでしょうか?」

 教室は静まり返っている。は? ごく? 語句の事?

「もしわからない事があったら、先生が教えてあげます。」

「おおお、さすが小がっこうの先生。何でも知っていらっしゃるのですね、羊はあんしんしましたよ、ググらないでも先生が何でもおしえてくださるのですから。ちなみに先生、「やねせん」とは何のことかごぞんじでしょうね」

 は? やねせん? ヤネセン? 急に何を言い出すのこの子… え…生徒の何人かが反応してる… どういうこと?

「えっと、千葉さん、ごめんなさい。先生はその言葉を知りません−誰か先生におしえてくれる人いますか?」

 三本の手が上がった! マジ?

「は、はい、それでは−高崎さん」

「やねせんは、やなか、ねづ、せんだぎ、のことです」

 なんだそれ? ローカル問題だったのか… 知らねえよそんな事。私は杉並生まれ育ちなんだよ…

「そうなの? へーー、先生知らなかったよ、ありがとう高崎さん、千葉さん」

 高崎真央は顔が真っ赤になり照れ臭そうにしている。千葉羊は…

「先生。谷中台小がっこうにきんむしていながらやねせんを知らないとは。本当にスマホなくてもだいじょうぶですか?」

 と心配そうな顔になる−一体、何なのこの子。

「ごめんね、先生は谷中に来てまだ2年しかたってないんだよ」

「羊も−私も二年ですが何か」

「…そ、そうなんだ…」

「それでは先生、谷中れいえんにねむるとく川しょうぐんと言えば?」

「徳川…将軍? のお墓が、あるんだ…」

「せんせー、とくがわよしのぶのおはかがあるんだよー」

「でっかいおはかがあるんだよお、なかにははいれないんだよお」

 額から一筋の汗が目に入った。何なのだ、この子たち、いや、千葉羊。あんなに大人しかった子達が突如騒ぎ始め−いや、生き生きとしてきた−

「ご、ごめんねー、先生知らなかったよ、この谷中のことちっとも。これから、先生の知らないこの街のこと、いっぱい教えてくれる人―?」

 全員が大きな声でハーーイ、と返事してくれる。

 その中で浮かない顔が一つ。


 校庭で待っている保護者の元に駆け寄る子供達の中から千葉羊の姿を探す。

 いた。私は彼らに駆け寄る。

「あの、千葉羊さんのお父様ですか?」

 髪を短く刈り上げ日焼けした精悍な顔の男性が振り向く。

「千葉です。先生、今後ともよろしくお願いします」

「松戸です、よろしくお願いします。ところでお父さん、羊さんにスマホを使わせていますか」

「ええ。」

「ええと、小学生低学年の子には、まだちょっと早いんじゃないかと…」

「そんなことはありません。彼女には必要不可欠なものだと思います」

 高校生の姉と思われる子がキッと私を睨みながら言い放つ。

「ええと、一応区の教育委員会の指導方針では、スマホは出来るだけ持たせない方がいいと…」

 私もそう思う。だってこんな小さな子が扱える筈もないし、それにネットに潜む危険性をこの子に誰が教えられるのだろう。

「では先生、もしげこうちゅうにしんさいがはっせいしたときお父さんと百葉さんにいかにれんらくをとればよいのですか」

 ももは、さん?

「羊が知りたいことが出てきたとき、何でしらべればよいのですか。」

 そ、それは… 

「たとえば、「やねせん」とか。」

 んぐっ 思わず下を向いてしまう。

「夕方のあまぐものうごきを知りたいときなにで見ればよいのでしょうか」

 見るんだ…あなた…

「それにスーパーマーケットのやすうりじょうほうを何で−」

「うん、わかった。千葉さん、スマホを上手に使っているんだね」

「ええ。」

「わかりました、お父さん、お姉さん、呉々も悪質なサイトに誘導されないよう、充分管理かつご指導の程、お願いしますね」

「先生。一つまちがいがあります」

 ハア? 間違い?

「百葉さんはおねいさんではありません。せんしゅう知り合ったどうきょにんなのです」

 開いた口が塞がらない−

「え、だって、二人ともそっくり…」

「えっと、先生、私、竹岡百葉と申します。羊ちゃんのいう通り、先週から千葉家でお世話になっているものです。もし日中何かがあれば、私に連絡していただければと思います。よろしくお願いします」

 O M Gの三文字が私の脳裏に浮かび上がる。父子家庭、に同居する女子高生?

 更に私の動揺を深めるのが−千葉羊。あなた、本当に−

「羊さんは語彙力が凄いですね、あと知識も。とても新一年生とは思えないのですが…」

 父親は照れ臭そうに頭を掻きながら

「何だか、すみません、僕も前からちょっとおかしいなとは思っていたんですが。まあこんな子なので、色々面倒かけると思いますが−」

「そうなんです先生。この子、ちょっとどころか相当凄いと思います。千葉さん、この子のI Q調べた事あります?」

「いや。無い。」

「恐らくちゃんと調べると大変な値だと思います。なので先生、呉々もこの子のことよろしくお願いしますね。家では私がちゃんと向き合っていきますので」

「先生、百葉さんはもうすぐ東大に入学するのです。とてもたよりになる人なのです」

 ブシューーー 頭がオーバーヒートしたらしい。話に全くついて行けなくなった。

 私は苦笑いしながら三人に頭を下げ、職員室にフラフラと戻っていく。


     *     *     *     *     *     *


 龍也に会うのは何年ぶりになるだろう。最後に会ったのが確か八年前。龍也からどうしても会いたいと青葉園から連絡が入り、私が休暇を取って上京し、新橋で飲んで以来だ。

 あの時の龍也は何かとてもピリピリしていて私の知っている龍也ではない人みたいだった。飲んでる最中にやたらに「俺が死んだら」「俺がいなくなっても」なんて連呼するもんだから、思いっきり頬を張ってやった気がする。

 連絡先を教えろと言っても、隊の規律違反になると言って結局教えてくれなかった。なので未だに彼に連絡を取りたいときは青葉園経由だ。

 この四月、私は勤め先の三沢大学病院の看護師長に、提携する千葉の浦安大学病院に異動するよう打診され、それを受諾した。元々私は習志野の養護施設「青葉園」で育ったので、千葉に土地勘があるし友人も多い。

 それに−龍也が、居る。

 この年になっても独身なのは龍也のせいではない。絶対ない。彼の面影を追っている訳でも彼を脳裏から払い除ける事ができない訳でもない。

 ただ−どんな男と付き合っても、どうしても龍也と比べてしまうのだ。そして最終的に、この人のこんな所が龍也に比べたらダメだ、と言って別れてしまうのだ。


 青葉園の我孫子さんによると、二年前から龍也は上野の近くに小さな子供と住んでいるらしい。子供? 初め聞いたときはギョッとしたが、我孫子さんによるとその子は何でも亡くなった親友の子供で、身寄りがなく龍也が引き取ったという。何とも龍也らしい。

 前もって連絡すると空かされそうなので、我孫子さんに住所を教わり、突然訪ねてみる事にする。口をあんぐりと開け恐れ慄く龍也の姿を想像し、思わず笑ってしまう−八年ぶり。一体龍也はその子とどんな生活を送っているのだろう。


 昨日、浦安のすぐ隣の市川市行徳に家を借り越して来た。三十二年間生きてきたのでそれなりの荷物があった。ただここは雪国ではないので、三沢にいた頃の防寒具の大部分は処分してきた。青森の冬に比べれば千葉の冬は何でもない。

 それと、医師や患者から一方的に送られてきた時計だの宝石だの衣服類も全て処分してきた。それが意外に相当な額に達していたので驚いた。勿論税務署に申告する気は一切ないが。

 借りた部屋はちょっとお洒落なマンションで、1L D Kで床暖房もついている。さらに浴室乾燥も付いており、それで家賃八万円は中々お得だ。


 昨日今日で片付けはほぼ終わり−意外に大変だった−、明後日の初出勤までする事が何もなくなった。ので、今夜龍也の住居に押しかける事にする。

 青森の地酒を破れないようにラップし、そう言えば龍也はお酒強くなっただろうか。八年前はビール二杯でフラフラになっていたのだが。何でも龍也は今は現場を離れて事務の仕事をしているらしい。それも親友の忘れ形見の世話をするためそうなったと言う。これも、龍也らしい。

 従って、夜八時には間違いなく在宅しているだろう。スマホのアプリで調べると、東西線の行徳駅からJ R日暮里駅まで、大手町で乗り換えて行けば五〇分ほどらしい。なので、夕食を済ませて七時に家を出る事にする。

 近くのコンビニで買った弁当を食べ終え、簡単に化粧をし予定通り七時に家を出る。行徳駅までは徒歩で十分ほど。久しぶりの千葉の空気を堪能しながらゆるゆると歩いて行く。思えば高校を卒業し看護学校に入り、それからはずっと青森に住んでいたので千葉に住むのは青葉園以来十五年ぶりになるのだろうか。

 この行徳の辺りは何度か高校時代に来た事があるが、それ程大きく変わっていないと思う。青葉園のある習志野の辺りは今どうなっているのだろう、落ち着いたら遊びに行ってみよう。我孫子さんと会うのも何年ぶりになるのだろう。


 電車に乗り、スマホのマップで龍也の住んでいる谷中という街をチェックする。何で龍也はこの街に居を構えたのだろう、あとでじっくり聞いてみよう。それよりも−龍也の引き取った子供、確か羊ちゃんとか言ったな、一体どんな子供なんだろう。

 我孫子さんは一度会った事があると言った。何でも龍也が羊ちゃんを青葉園に連れて来て、育児の悩みの相談に乗ったという。我孫子さん曰く、

「それがさあ、意外にたっちゃんに懐いているんだよ。まるでさ、本当の親子みたいにね。」

 龍也の子煩悩ぶりはどんなものなのだろう。それを想像してニヤニヤしているうちに、乗り換えの大手町に到着する。


 日暮里。日暮の里、と江戸時代は言ったらしい。初めて降りた駅は予想以上に綺麗だしちっとも下町っぽくない豪華な感じがする。マップを見ながら駅を出ると−ああ、そこは予想していた通り−ザ・下町、である。そうなんだ。龍也はここの空気を吸って今生活しているんだ。そう思うと初めて訪れたこの街が、何となく懐かしく感じてしまう。

 西口を出て御殿坂という通りを下って行くと両側に昔ながらの店構えが立ち並んでいる。八時過ぎなので半分は閉まっているが、日中はさぞや賑やかな通りなのだろう。最初の十字路を左に曲がり、しばらく真っ直ぐ進む。すると両側に小さなお寺が林立している。左手の奥には谷中霊園という大きな墓所があるようだ。時間が時間だけに、ちょっと気味が悪い。

 マップの経路通りに左に曲がり、車の入れない路地を更に進むと−ちょっとビックリした。何龍也、アンタこんな立派なマンションに住んでいるの! 我孫子さんから貰ったメールを開き、龍也のマンション名を再確認する。谷中ヒルトップテラス。間違いない。

 ちょ、ちょっと龍也… 自衛官がこんな高級マンションなんて住めないでしょ、アンタ何か悪い事でもした? それともその親友が大金持ちだったとか? 兎も角。話を聞いてみないと分からない。


 恐る恐る豪華なエントランスに入る。長らく田舎に篭っていた私は急に恐ろしくなる−何よ龍也、アンタこんなセレブな生活しちゃって… もう私の事なんてすっかり忘れちゃって優雅な生活に溺れてるんでしょ…

 ここに来た事を今更ながら後悔し、今夜はこのまま帰ろうと踵を返した瞬間。

 目の前にスーツ姿の龍也が立っていた。

 あの頃とちっとも変わらない、大きな目を更に大きく見開いて−


     *     *     *     *     *     *


 夕方、千葉さんからラインが入って、帰宅が八時過ぎになりそうだから先に夕食を済ませておいてくれ、との事だったので、私と羊ちゃんは七時過ぎに夕飯を済ませていた。二人でお風呂に入り、あとは寝るだけだ。

 八時過ぎてそろそろ千葉さんが帰宅する頃なので、味噌汁を温め直していると玄関のドアが開く音がする。

「お帰りなさい」

「お帰りなさーい」

 私と羊ちゃんが声をかけると−千葉さんと、見知らぬ女性が部屋に入ってくる−

「百葉ちゃん、羊。こいつ、俺の幼なじみの、館山香世。」

 セミロングを後ろでポニーテールにしている。優しそうな目元。包容力を感じさせる笑顔。ちょっと肉付きはいいけれど凛とした美しい佇まい。誰なのだろう、この人は千葉さんの……

「話してなかったっけ。俺が施設にいた頃、ずっと一緒だったんだ。」

「施設… 習志野の?」

「そう。えっと、こちら、竹岡百葉さん。先週から同居してんだ。この春から東大の学生さんなんだ。」

 その、香世さんという人が驚いた顔で私を見つめる。私は初めまして、と小さく呟く。

「そんで。こいつが羊。小学一年生になったばっかり。」

 香世さんは羊ちゃんと同じ視線になるべくしゃがみ込む。

「はじめまして。千葉羊です。二年前からお父さんとかぞくになりました。いごおみしりおきをー」

 香世さんは羊ちゃんのその物言いに仰天した後、笑いながら

「そう、あなたが羊ちゃん。初めまして。」

 と言って頭をそっと撫でている。

 あれ。珍しく羊ちゃんが無言だ。でも頭撫でられてすごく嬉しそう。


「それにしても龍也、アンタもほんっとお人好しというか、いい奴と言うか… いくら焼け出されて行く場所がないって言っても、こんな可愛い女子大生を家に連れ込むなんて…」

「いえ、それは、羊ちゃんがお願いしくれて…」

「ま、これも何かの縁なんだろ。それよりこの酒、美味いじゃん」

「ふん、ちょっとは酒の味がわかるようになったのね。それより、百葉さん? あなた本当に羊ちゃんと血縁ないの? ちょっとビックリする程似てるわよ」

「ええ、私もビックリなんです。ホントに…」

「この家入ってあなたたち見て、龍也が姉妹を引き取ったんだと思ったわ。」

「香世さんは千葉さんとよくお会いになるんですか?」

「全然。今日も8年ぶりくらいよね」

「そうかな。もうそんなになるんだ」

「そうよ、新橋で飲んだ時。アンタ凄くピリピリしてて。でも今夜のアンタはすっかり丸くなったというか−うん。いい顔してるよ」

 千葉さんは照れ臭そうに顔を赤らめる。そしておかずの鮭の西京焼きを美味しそうにひとつまみする。

 香世さんによると、千葉さんとは習志野の養護施設で十年以上一緒に過ごしたそうだ。私も三鷹の養護施設育ちだというと、

「あなたも、頑張ったのね。凄いじゃない、東大なんて。信じられないわ」

と言ってすごく褒めてくれた。

 すごく良い人、なのは分かる。だけど何かが引っかかる−それが何なのか、ちっとも分からない…何だろうこのモヤモヤ感は。今までこんな気持ちになったことはない。こんなに胸がザワザワしたことはない。これは一体…


「で? 龍也、今彼女いるの?」

 何故か心臓が口から飛び出そうになる−ああそうか。だからなんだ。


 この人、千葉さんのことが好きなんだ−


     *     *     *     *     *     *


 それにしてもビックリした。八年ぶりに会った龍也の容姿はほとんど変わりない。前よりも精悍になった感じだ。もっと言えば、より男らしくなった。だけど龍也の引き取った女の子−羊ちゃん。それに、先週から同居しているこの女子大生、この二人が本当にそっくりなのだ。

 羊ちゃんが大きくなったらこの娘になるだろう、それ位似ているのだ。

 それより何より−この娘、龍也に気が有る−

 明日は龍也も仕事があり羊ちゃんも学校があると言うので、十時過ぎには龍也の家を出た。いや、もし明日何もなくても、私はこれ以上あの場に居ることは出来なかった。

 龍也はどうなのだろう−あの娘に対して、どんな思いで彼女を受け入れたのだろう。

 そう考えていると突然胸が痛くなる。あの娘が龍也と寝食を共にしていると言う事実に気が狂いそうになる。

 どうしたんだろう私−どうしてあの娘の目をしっかりと見れなかったんだろう…


 私と龍也。初めての出会いは今でも忘れない。施設に入って来たばかりの龍也はちょっとしたことですぐにキレて暴れだす問題児だった。ずっと後で知ったことなのだが−龍也は施設に入所する前、実の父親を包丁で刺殺したのだった−

 龍也の父親は恒常的に妻と龍也に対し暴力を振るっていた。当時五歳だった龍也はある日我慢の限界を超えたのか、恐怖の限界を超えてしまったのか、酔っ払って母親に暴行を加える父親の背中に出刃包丁を何度も何度も突き立てたのだ。

 事件後、龍也の母親は彼を引き取る事を拒否した。そして行方を晦ました。そんな経緯で養護施設に入って来たのだ。

 入所後、すぐに暴れだす龍也を見て私は直感的と言うか本能的に「この子は抱きしめてあげなきゃいけない」と思い、何度目かの大暴れ中に私は彼を力一杯抱きしめたのだ。周りの大人たちは大声ですぐに離れなさいと怒鳴った。でも私は絶対この子を離してはいけないと思い、構わず抱きしめ続けた。

 すると龍也は暴れるのを止め、しばらくしてヒックヒックと泣き出した。私は少し力を抜き、優しく抱きしめ直した。龍也は大声で泣きはじめた。

 それ以来、暴れるたびに私が彼を抱きしめた。数ヶ月もすると、龍也はキレたり暴れなくなった。


 思春期に入ると−私は龍也の二歳年上だった−口数が少なく社交性のない龍也を鬱陶しく思い始め、距離を置いた。すると龍也は学校で問題を起こすようになり−主に暴力事件である−当時の私はそれを自分のせいであると思い、再び龍也に優しく接することにした。

 その頃私の胸も膨らみ始め、そこに龍也が貪るように顔を埋めるのが気持ち悪くて本当に辛かった。だが私が彼を抱きしめなければ彼は壊れてしまう−そう思い込み、自分を抑え我慢を続けた。

 龍也の暴力沙汰は案の定ピタリと収まり、その点は心底ホッとしたものだった。だが龍也を抱きしめる行為は思春期の私には本当に耐えがたい辛いモノであった−のだが。

 ある日いつもの様に嫌々龍也を抱き締めていると−私の胸が−私の体が喜んでいるのを感じた。そう、軽いエクスタシーを経験したのだ。慌ててトイレに駆け込み、下着を脱いで触ってみると−ビッショリと濡れていた−

 以来、毎日、それこそ365日、私は龍也を抱きしめ続けた。龍也は最初は嬉々としていたがその内飽きて来て、渋々と言った様子ではあったが。試しに他の男の子を抱きしめてみたが、見事に嫌悪感しか残らなかった。

 それは龍也が思春期に入る迄毎日の私たちの日課となっていた。そう、あの頃の私は、龍也を利用していた−自分の快楽を貪る為に−


 互いに第二次性徴期を過ぎると、表面上は仲の良い姉弟を演じた。だが私の中では常に龍也に男を求めていた−この事は未だに龍也は知らないだろう。

 何度かそれとなく誘ってみた事がある。だがどれも見事に龍也にかわされてしまう。やがて私は高校を卒業し施設を退所する時期がきた。その頃には私は看護師になる、と言う夢に一杯一杯であり、男として龍也を求めることはなくなっていた。

 施設を退所して看護師学校の寮に入った日の夜。唐突に龍也の顔が暗い天井に浮かび上がり、胸が苦しくなった。


 そうか、私は龍也に恋していたんだ−


 体が欲しかったのではなく、心が欲しかったのだ−気づいた時には既に離れ離れであり、この気持ちを忘れるには随分時間が必要だった。

 何度も忘れようと、何人もの男と付き合ってみた。身体だけの関係も幾度も持ってみた。しかしあの頃のエクスタシーを感じたことは今まで一度も誰にも、無い。

 そして当然ながら、あの時ほどの人に恋する気持ちを抱いたことも、無い。


 行徳の駅を降り、途中のコンビニでビールを買う。誰もいない暗い部屋に戻り、シャワーを浴びてから買ってきたビールを一気に飲み干す。

 初めて龍也の連絡先を手に入れた。恐る恐るラインを開き、震える指で入力する。

『今日は急にお邪魔してごめんね。これから当分は忙しくなるけれど落ち着いたらゆっくり二人で飲もうよ。羊ちゃん、百葉さんによろしくね』

 送信してスマホの電源を切ってから二本目のビールを開ける。


 帰ってきたよ龍也、あなたのそばに…


     *     *     *     *     *     *


 ひまわり保育園の園長先生との電話は実に一時間半を要した。

 驚くべき事実に私は呆然としてしまう−


(私も四十年保育士やってますが。あんな頭の良い子は見た事がありません)

 私はこの二年間で三年生、四年生しか見てきていない。だが、下手をすればあの子の方が出来が良いかもしれない。

(朝顔育てるのに一番大事なことは何ですか、って聞いたんです。あの子なんて答えたと思います? 水やり、お日様に当てる事、が普通じゃないですか。あの子は「光合成」って言いのけたんですよ)

 光合成って…

(まあ、私らよりもずっと物知りでしたよ。あの旺盛な好奇心は天性のものなのでしょうね。あの子の質問に答えられなくなったので、教務室のパソコンを自由に使わせていました。)

 就学前の子供がパソコン……

(うちの保育園のホームページ、ご覧になりましたよね。あれ実は…あの子が…)

 あの父親がI T関係者なのか。保護者の記録を見ると−防衛省勤務、と書かれている。

(そんな感じでして。一を聞けば十を知る。あの子は本物の『天才』です。間違いありません。I Q150以上は有ると思います。)

 私はI Q神話を信じていない。

(ですので先生。どうかお願いです。あの子の『好奇心』だけは大事に育んでやってください。知りたいと思う気持ちを失わないように導いてやってください。でないと、あの子は不登校になってしまうでしょう、学校で得るものがないと知った時に…)

 背筋に汗が流れて行く。

 受話器を置いた時、背中は汗でびっしょりだった。


 私はどちらかというと勉強よりも体を動かしている方が好きだった。本を貪るように読んだ記憶もない。ゲームはあまりしなかったし漫画やアニメも人並みに眺める程度だった。

 小学生の頃に近所の空手教室に行き空手にのめり込んだ。そう、私は体を動かす事にのめり込んだのだった。

 正直。この谷中の歴史や地誌に興味はないし知ろうとも思わなかった。体を動かす事には貪欲なのだが、知識を蓄える為の努力は好きではない。

 なので、あの子の気持ちが今一つピンと来ない。何故そんなに知りたい? どうして?

 元々私は自他共に認める、考えるよりもまず行動派である。ので。

 取り敢えず、園長先生の教えに従って行こう。あの子の旺盛な好奇心とやらをそっと見守る事にしていこう。その為に私が出来る事……


「千葉さん、ちょっといらっしゃい」

 入学式から三日後。時間割に従った授業が始まる。案の定、昨日までは生き生きとしていた千葉羊は国語、算数といった授業中、唖然とした顔を見せたかと思うと途中から教室の窓の外をボーッと眺め続けていた。

 顔から生気が失せた彼女がそばに来る。昨日までの喧しいほどのお喋りはすっかりなりを潜めている。

「授業、楽しかった?」

 羊は私から目を逸らし、軽く頭を傾ける。中々正直な子だ。

「先生についてらっしゃい」

 返事をするのも面倒くさそうに軽く頭を縦に振る。

 教室を出て歩きながら

「千葉さん。九九は知ってる?」

「はい。」

 今日初めて彼女の声を聞いた。

「じゃあ−79?」

「63」

「97?」

「63」

 彼女の瞳の奥に微かな光が見えた気がする−

「じゃあ。11、11は?」

「へ? 11、11… って、えーと、121」

「じゃあ、15、15?」

「えーーと。2…25!」

「正解! じゃあ、19、19?」

「うわー、えーと、えーーと。361!」

「大正解」

「先生、これ九九じゃないのでは−」

「そう。これは『平方数』って言うんだよ。同じ数字を二回かけると出来る数字。」

「へいほうすう… 羊は知りませんでしたよ」

「そっか。じゃあインド式九九は?」

「インド…何それ?」

「うん。それはね−」

 私たちは図書室にやってくる。そして算数の参考書コーナーに行き、インド式計算ドリルの本を棚から抜き出す。

「これ。千葉さん、明日から算数の授業中はこれをやりなさい。」

「やりますやりますやります!」

 これ程眩しい光を放つ瞳を私は見た事がない。

「それと。こっちにいらっしゃい」

 続いて隣にある国語の参考書コーナーの前に羊を連れて行く。そして『小学漢字1026』という参考書を抜き出す。

「国語の時間はこれをやる事。この参考書には小学校で学ぶ全ての漢字があります。」

 羊はまるで宝箱を渡された冒険者の様な表情で

「ああ松戸先生…羊はうれしいです…明日からこんなたのしそうなことを学べるとは…ああ、早く明日になってほしいです…」

「明日は体育もありますよ。千葉さんは体動かすのは好き?」

「じまんじゃありませんが、羊はうんどうかいのかけっこはまけ知らずですよ」

「凄いじゃない。さ、教室に帰りましょう」

「先生。しつもんがあります」

「何ですか」

「ほうかご、ここに何時までいられますか?」

「一年生は三時までです。」

「そう…ですか…」

「その代わり。昨日の学校探検で教えた通り、一回に一冊借りれます」

「たった、一さつ…」

「ま、毎日借りなさい。一日一冊、読みなさい」

「ふーむ。まいっか、一さつでも−では、さっそく〜」

 羊は高学年の生徒の訝しげな視線を全く気にせず、図書室をブラブラとまるでウインドウショッピングの如く歩き回る。そして、入学式以来の最大の衝撃を受ける−

「羊のよみたい本がありませんねえ。羊はいつものように台東としょかんでかりますので。では松戸先生さようなら〜」

 二冊の参考書を片手に羊はペコリと頭を下げ図書室を去って行った。残された私と高学年の生徒達は呆然とするしかなかった−この図書室の本がレベルが低い…


 算数と国語の参考書の貸し出し手続きを終え、教室に戻る。黒板を消し、忘れ物チェックをした後職員室に戻る。そして自分の席につき椅子の背もたれに背を伸ばす。

 これで良い。これであの子は楽しく学校に来るはずだ。これであの子の好奇心を消せずにすむはずだ。


 そんな私の浅はかな考えはすぐに脆くも崩されていく…


     *     *     *     *     *     *


「百葉さん。インドしき九九はごぞんじですよね?」

 木曜日の夕方。学校の帰りに図書館に寄り帰宅した羊ちゃんが目をキラキラさせながら問うてくる。インド式九九。存在は知っているが−

「確か、20−20まであるやつだよね」

「そうなんです。20−20まであるのに99。まずそこがわらえます」 

 そこか…

「なので正かくには『インドしき20−20』ですかね。さておき、それでは百葉さん、もんだいです。13−17は?」

「んっぐう… ええと、170足す51、221。」

「おそい… そんなことでは日本はあっという間にインドにおいぬかれてしまいます、いえすでにカレーでは負けています」

「カレーと関係あるかいっ じゃあ逆に。16−18は?」

「 288。」

「12−17は?」

「  20…4?」

「まだまだ修行が足りんぞ羊ちゃん(笑)でもそれさ、どこで教わったの?」

「松戸先生にこれをわたされました。」

 正直驚いた。あの若い先生、まさかここまで考えていてくれたとは。

「そして、明日からさんすうのじゅぎょう中はこのもんだいをノートにかいていくのです。羊は明日がたのしみなのです」

 授業中に? これを?

「それと。国ごのじかんには、これをやるのです」

 羊ちゃんがもう一冊の問題集を誇らしげに出してくる−どうやら小学生が習う1026の漢字のドリルだ。これを国語の授業中に?

 即ち。他の子供達があいうえおの書き順や足し算の授業をしている最中に羊ちゃんだけ別の勉強を? しかも自習?

 何それ…それじゃあわざわざ学校に行く意味ないじゃん。一人で自習なんて、面白い訳ないじゃん。これって、先生のある意味、放置プレーじゃん…

「ねえ羊ちゃん。他のみんなが他のこと勉強してる時、一人でこれを勉強するんだよ。羊ちゃんはそれで良いの? みんなと一緒に勉強したいよね?」

「うーーーーん。そこは実にビミョーですねえ」

「どういうこと?」

「今日ですね、じゅぎょうがはじまったのですよ。国ご、さんすう、生活、国ご。それが…正直羊はとちゅうから外ばかり見ていました」

「それって…授業内容が、か…」

「はい。まさかここまできそてきな内ようとはそうていがいでした… 松戸先生にはもうしわけなかったのですが、外をながめているほうがよほどたのしかったのです…」

「成る程。そっかあー。まあ、そうだよね…」

 松戸先生の窮余の策、という訳か。彼女なりに羊ちゃんのことを考えた結果なのか。だけど釈然としない。何か別に方法はないのだろうか。こんな歪なことをしていたら、きっとどこかで歪みが生ずるに違いない。


 夕食の支度をしていると千葉さんが帰宅する。今日も五時半の帰宅だ。私がここに住み始めてから十日程過ぎたが、ほぼ毎日夕食は家食だ。

 一度だけ遅くなった事があった−あの人が突然ここに来た日。あの日以来、千葉さんの表情がどこか変わった気がする。どう変わったかと言われると口では説明ができない。だが、どこか全体的に−力が抜けた−というか、肩の力が抜けた、様に見える。

 千葉さんと幼なじみの関係だったと言う。会おうと思えば何時でも会える関係になった事が千葉さんをホッとさせているのだろうか。これ以上のことは私には想像出来ない。

 そんな千葉さんに松戸先生の話を振る。

「ふーん。そうなんだ」

「それで。千葉さん、どう思います?」

「まあ… 羊がそれで良いって言うなら、良いんじゃないかな」

「そうですか…」

「ただね、」

 千葉さんは私の作った味噌汁を美味しそうに啜りながら、

「うん、美味い。そうただね、その事を他の保護者連中が何と思うかだね。もし自分の子供ががフツーの子供だったとして。もし、」

「羊はフツーの子どもですが何か?」

「羊黙ってろ煩い。もし他の出来の良い子が授業中好きなことを自習していて良い、って知ったら百葉ちゃんならどう思う?」

「お父さん。百葉さんに五さいの子どもがいるわけないじゃありませんか、何と失れいな男でしょう、百葉さんもうしわk」

「うん羊ちゃん黙ろうか。そうですね、あまり良い気はしませんね」

「だよな。特別扱い。その事に保護者がどう反応するかだな。」

「羊のことならご心ぱいなく。一人でたのしゅく自しゅうしましゅのd」

「羊ちゃん口に入れたまま喋らない。でもどうして日本の教育に所謂『飛び級制度』が無いのでしょう。先生にとっても生徒にとってもウィンウィンだと思うのですが−」

「知能と心の成長が比例関係にないから、なんだってさ」

「どういう事ですか?」

「アメリカでね、十歳位で大学生になった子供がその後ドロップアウトするケースが多々あったそうなんだ。知識や知能は二十歳レベルでも、精神レベルが十歳のままだと−」

「成る程、頭脳と心のギャップによる人格の歪み、ですか」

「うん。日本でも千葉大学が飛び級制度を実施しているよね、ただそれは一年だけの飛び級なんだよね。だからアメリカや他の国の飛び級とは比較出来ないんだ」

「千葉さん…」

「何?」

 味噌汁を飲み干しながら首を傾げる千葉さん。

「ちゃんと、羊ちゃんの事考えているんですね」

「そりゃ、ね。ホントは小学受験もさせるべきだったのかもしれない、俺が仕事忙しくてちょっと無理だったんだけどさ」

「は?何を言っているのですか。ぎむきょういくにじゅけんがあるはz」

「羊ちゃんが行っているのは区立小学校。世の中にはね、私立や国立の小学校があるんだよ。そこは受験が必要なんだよ」

「そうなんですか。でも羊は谷中台小がっこうでいいです。なぜならほいくえんからいっしょの真央ちゃんやリンリンちゃんがいるからです。なんなら修斗くんも。それに松戸先生があたらしいことをおしえてくれますので」

 羊ちゃんが誇らしげに言い放つ。

 私自身地元の公立校で育ってきたので、私立や国立小学校がどんな所なのか知らない。私立国立に行ったからとて東大に行けるものでもない筈だ。要は周りの環境も大事だが本人の好奇心、興味の深さがその子の成長度合い比例する−これは私の体験に基づく信念だ。

 私は施設にいた頃、お姉さん、お兄さんの勉強に興味を持っていた−今思うと、保育士や年長者に褒めて欲しかったのだろう−年長者の読む本を読み、教科書を見せてもらう。百葉ちゃんはもうこんな漢字読めるんだね。百葉ちゃんはもう九九覚えたのね。凄いね。偉いね。

 その内にどんどん勉強が好きになる。知識が増える事が快感になってくる。難しい問題を解く喜びに打ち震えるようになる。

 気がつくと、私は来週から東大生になっている−

 羊ちゃんも、きっと私みたいになるのだろう、ただ一つ問題なのはこの子には年長者がいない事−なので、私が−

「羊ちゃん。後で一緒にインド式九九覚えない?」

「しかたありませんねえ百葉さん。どちらが先におぼえるかしょうぶしてあげますよ。どうですお父さんも。きっとお父さんのしごとにもやくだつかもしれませんよ」

「インド式九九? 何だそれ?」

「それはですねえお父さん……」

 ドヤ顔で語り出す羊ちゃん。ちょっと可笑しそうに微笑みながら話を聞く千葉さん。

 不思議な胸の高まりを感じる。

 羊ちゃんに対する母性

 千葉さんに対する……

 ずっと一緒にこうしていたい、私もこの家族の一員になりたい、この先どんな困難が待ち受けていようと。


 谷中の神様はすぐにその願いを叶えてくれる。


 最初の試練が幕を上げる−


     *     *     *     *     *     *


『今日は急にお邪魔してごめんね。これから当分は忙しくなるけれど落ち着いたらゆっくり二人で飲もうよ。羊ちゃん、百葉さんによろしくね』

 既読スルー。


 今日から浦安大病院への出勤が始まった。オリエンテーション、引継ぎ、職員紹介などで目が回る程忙しかった。そんな中、暇を見つけてはラインを開いてみるが、何時まで経っても龍也からの返事はなし。そう言えば昔からこんな感じではあったのだが−

 夕刻。仕事を終え帰宅途中にコンビニで夕食とビールを買い部屋に戻る。この辺りの雰囲気にもすっかり慣れた気がする。ただ…空気が美味しくない。それは青森の三沢の空気を十年以上吸ってきたからだろう。元々千葉の空気で育った私なのだから、その内気にならなくなるだろう。

 部屋着に着替え、リビングのテーブルで弁当を開き、ビールのプルトップを空ける。三口程一気に飲み、スマホを開く。

『今日から病院始まったよ。今月いっぱいは慣れるために日勤だけみたい。月末辺り、飲みに行かない?』

 メッセージを送信する。弁当に箸をつけ始める。

 今頃龍也はあの娘の作った料理を食べているのだろうか−そう考えると途端味がしなくなる。突然ラインのメッセージ着信音が鳴る。

 こんなに直ぐに返信くれるなんて−知らぬ内に笑顔になってしまう。

 だが。スマホの画面には−今日連絡先を交換したばかりの消化器科のドクターだ。食べ終わったら既読を付けよう、

味がしなくなった弁当を喉に押し込み、それをビールで流し込み終えた頃、もっとビールが飲みたくなり外出着に着替えて近くのスーパーへ向かう頃には、ドクターからのメッセージに既読を付けることなどすっかり忘れていた。


 三缶目のビールが尽きかけた頃。ボーッとテレビを観ているとラインの着信音がする。またどうせ青森のハゲ親父か浦安のキモメガネだろう、と思いつつスマホを覗き込む−

 龍也からだ!

 慌ててスマホを手に取りスワイプしてメッセージを眺める。

『いいよ』

 ………そう言えば、昔からこういう奴だった…

 私にだけでなく誰に対してもこんな感じだった−と思う。高校生の頃貰ったバレンタインのチョコをメッセージも読まずに施設の子供達に放り渡していた。誕生日に貰ったお洒落なキャップは似合わないからとすぐ下の子にあげていた。

 クラス一の美人ちゃんに買い物に付き合ってと言われ、ジャージでのこのこ出て行った。陸上部の子に練習付き合ってと言われ、炎天下の中彼女が熱中症で倒れるまで走っていた。いっこ下のマドンナにノートパソコンの設定を頼まれ、部屋まで行って設定が済むと即座に家を出た。

 素っ気ない。この一言に尽きる。私ら女子がどれだけの想いを込めて何かに誘っても、その想いを一ミリも考慮せずにササっと用事を済ませると消えていなくなる。それも頼まれると絶対断らないし必ずその願いを叶えてしまうのだから堪らない。

 私が高校卒業までに数え切れない女子が龍也に悶え苦しんでいるのを見てきた。何人かの同級生に紹介しろと迫られたこともあった。

 私は龍也と幼い頃からずっと一緒だったから気付かなかったが、実は龍也は『熱血クール・イケメン』として有名だった。らしい。熱血クールって何じゃそれ、なのだが、普段はクールで無口なのだが一度火が付くと何人も消すことの出来ない熱い炎を身に纏い不可能を可能にする、まるでアニメの主人公のようだった。らしい。

 イケメン、かどうかは微妙だ。施設にはもっと綺麗な男子が何人もいた。私の同級生によると、

「顔の造り、とかじゃないんだよねー。雰囲気? オーラ? なんかそこらの男子とは全然違う表情してんじゃん。そこにキュンっとくるんだー」

 何じゃそれ。さっぱりわからなかった。当時は。


 私も社会に出て、それこそ何万人の男を見てきた。そして今なら分かる。龍也の顔は、顔つきは、所謂「死戦を潜り抜けてきたモノ」のみが持つ表情なのだ。平和ボケしたそこらの若手とは輝きが違うのだ。

 龍也は幼い頃実父から虐待を受けていた。そして母親を守るために(実際には違ったが)刃物を突き立てた。正に死を体験していたのだ。

 龍也は私に何も話さなかったが−八年前に飲んだ時。あれは死を覚悟した顔付きだった。きっとこのあと命に係る任務に着くのだ、そう私は感じていた。そして三日前のその表情はかつてのモノよりも更に深い何かが刻まれていた。言い換えれば、更に魅力的な顔立ちになっていた。

 きっとこの顔立ちや雰囲気にあの女子大生はすっかり参ってしまったのだろう。私たちと同じように施設で育ったと言っていたが、男っ気のない地味な感じの彼女は龍也のオーラにガッツリ絡みとられてしまったのだろう。

 そんな彼女と龍也は今同じ部屋にいる。羊ちゃんという小学生を寝かせつけた後、二人きりの時間を過ごしている。

 一昨日より昨日、昨日より今日。この胸の痛みは辛くなっていている。

 月末までこの苦しみは日毎増していくのだろうか。

 この苦しみに私は耐えられるのだろうか。

『いいよ』

 この素っ気ない一文を胸に、一人耐えて行こう。


 今夜も眠れそうに、ない。


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