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菓子も大分減ってしまい、セラスは足早に事務所へと帰ろうとするのだが、ふと不快感を覚えた。血液よりどす黒く、殺しよりも忌むべき記憶の欠片。
それが香ってきただけで、額に浮かぶ青筋が鮮明になった。
ハンドバッグの箱からナイフを取り出し、それを構えて背後にいるだろう人物、吐き気よりも殺意、目に入り次第切り刻みたい欲求を、呼吸を荒げることで抑えつつ、足音をわざとらしく鳴らすその狂人に構える。
「――」
セラスはナイフを逆手に持ち、当たってしまったのなら仕方ない、殺してしまったとしても罪悪感など湧かない。という風に勢いよく振り返り、彼の首があるだろう箇所にナイフを走らせた。
しかしナイフは空を斬り、人の気すらないこの空間に舌打ちを1つする。
だが――。
「銀色は空を斬った! 切った切り裂いた! ぐちゅぐちゅと肉はご利用ありがとうございましたと顎から喉にかけて敬礼!」
背後から忍び寄り、セラスに覆いかぶさるように男が背中に抱き着いた。
男がくちゃくちゃと口の中から異音を放ち、トリップしたように何度も白目を剥き、ケタケタと笑い声を上げる。
「この――っ!」
男を引き剥がそうと体をねじるのだが、男は張り付いたまま離れない。
だが、そうやって暴れているとついに男はセラスの肩に歯を当て、噛みついた後、その肉を抉り取る。
「あー! あ~あぁぁ! 今日の晩御飯はロース? 牛? それとも豚かな? やぁやぁピグレット、今日のお昼はジンギスカン! 君は一体いつから僕の腸を啜るようになったのかい!」
「その頭が痛くなるキンキンと不快な声を引っ込めてください、殺しますよ」
「殺される? 殺していいの? 今日はご馳走だ! 2から10番までの君たちはジャックとクイーンとキングとエースからのいただきますとご馳走様を彼らの歯に詰められて聞くことになっちゃう! 歯磨きシュッシュ! 歯磨きシュッシュ! 下水管に流されておはようございます!」
最早会話などする気はないのか、男――ジェイス・イビン=レビィが焦点のあっていない目をあちこちに投げ、潰したまま滴るオレンジを手に持ったまま何事かを叫び続ける。
嫌悪感……否、そんなものこの男には不要である。嫌がられることすら快楽へ変え、喜ばれることも快感、無視をしても存在を自覚していると前向きにとらえ喜ぶ。変態ではない、頭がイカれている。
いや、その評価は違うと首を振る。
故にセラスはジェイスにナイフを振り続ける。
「こんなにもこんなにも赤く腫れぼったい眼球は膿を伴って地上へと進出したいのに! のれん分けからの第一支店! ここは私の店! 緊急招集! 敵襲敵襲! 暴風域は目玉を切り取って北進中!」
歯を鳴らし、怒りがセラスの心すべてを埋め尽くした頃、ジェイスが舌を出しながらカクカクと小刻みに体を揺らし、手に持ったオレンジを地面に叩きつけた。
「違うよ違う、だって僕はまだ種を植えていない。犯して犯されて私は産まれた! その耳にナイフを添えて、幼子に銃を握らせて犯すように!」
「いい加減に――」
ナイフを大振りで放った刹那、突然ジェイスが距離を詰めて近づいてきて、耳元に口を添えられた。
「まだオレンジに悪夢を見るかアノニム」
セラスは押し黙り、一瞬間置いてジェイスを突き飛ばす。
そして首を振る。自分は匿名でもなければ名無しでもない。と。
「いいや、あの日にお前は終わったんだ、お前が終わらせ、そして始まった。天使に堕ち果て、お前はお前になった」
「……ええ、私は始まりました。それが今の全てです。それ以上なにがあります?」
「その先には何もない、何もだ。あの日を境にセラス=ファラエルの世界は終わり、セラスを知る者は誰もいなくなった。そう、セラスが全て――」
「黙れ上塗り屋。その首割いて全身を貴方の血液で上書きしましょうか?」
肩を竦ませたジェイスが地面に叩きつけたオレンジを掬い上げ、それに舌を這わせる。心底愉快そうに破顔し、セラスを見下す。
「まあいい。お前は歪んでいるよ、終わっていなければならなかったのに、そのまま続けられる神経が俺にはわからん」
性格云々をこの男にだけは言われたくはない。そう顔を歪め、彼に背を向ける。ジェイスとは会話どころか、目も合わせたくなく、視界に入ってほしくもない。彼がいるという空気も吸いたくはない。今日殺すことが出来ず本当に残念だと鼻を鳴らした。
「ああそうだ、さっきの男だがあまり深入りしない方が良い」
「――? 何故」
「最近あの手のことを棚に上げた奴が出てきたから」
「あの手?」
首を傾げ、言葉の意味を追求しようとジェイスに意識を向けるのだが、彼は白目を剥き、潰れたオレンジを汚らしく吸い上げた。
「とぅい~んくるとぅい~くるりとるなんちゃら~、そんなに吸うつもりはなかったんです! 出血多量で赤ワイン! ゴクゴク夏は脱水症状! 海の中からドボンともう一杯!」
もう話を出来る状態ではなく、ジェイスはセラスをその瞳に入れることなく、ゆらゆらと陽炎のように駅前の方に消えて行った。
セラスは深くため息を吐くと來華や晴海、ミリアには見せられないような、だらしなくうな垂れると小さく、疲れた。と、声にしたのだった。
今度こそ探偵事務所へ戻るために足を進めるのだが、ついジェイスの言葉が気になった。
彼……太郎と名乗った男に何が起きるというのか。
引き返そうとも考えたが、そこまでの義理はなく、そもそも名刺を渡した時点で関わり過ぎたのだと。それにジェイスの言葉は話半分、もしくは聞き入れない方がマシだと知っているために、何も起きないだろう。と、首を振る。
セラスは残っている菓子類をこれ以上減らすものか。と、早足で帰路に着くのだった。