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「ご馳走様でした、その料理に使う細やかな気遣いを、自身を取り巻く環境と私とミリアにも見せてくれていたのなら満点でした」
「お前さんは普通に夕食が美味かったと褒められないのか?」
「そうですよセラス、それに信吾さんは私と貴方にも気を遣ってくれているでしょう? 確かにその……事務所の整理整頓に関してはあまり言えないかもですが」
「ほら信吾、ミリアは事務所をもっと綺麗にした方が良いと言っていますよ」
顔を逸らす信吾にセラスはため息を吐く。そして休みの日に重要な書類だけを別にしておき、事務所を掃除してはどうかとミリアに提案をした。
「あんな状態の事務所、お客様にも失礼だと思いますよ、信吾もミリアのいうことなら聞くでしょうし、どうでしょう? 休みの日に掃除と買い物を含めて2人でどこかに行っては?」
ミリアと信吾が顔を見合わせて驚いたような顔を浮かべる様に、どうにもじれったいと思いながら、自分は掃除を手伝わないという旨を伝える。
そして自室へ戻り格好を整えると、机の引き出しに厳重に仕舞い込んでいる長方形の箱と携帯端末と財布をハンドバッグに入れ、すぐに部屋を出た後、リビングの扉に手を掛ける。
「セラス、どこかに出かけるのですか?」
「ええ、少し散歩を兼ねた買い物に。甘いものが欲しくなって」
気を付けて行ってらっしゃい。の声に、片手を軽く上げて返事をし、そのまま階段を下っていく。
近場のコンビニエンスストアまでの道のり、セラスはあのようなまだ若いと形容される2人が何故あそこまで気を張っているのか思考する。と、いうよりそれを先ほどの出来事で改めて考えなくてはならない。
7年ほど前、この国に籍を置くことに決めたのもそもそもミリアの提案だった。修道女をしていた彼女には伝があり、昔世話になった牧師を頼りにやってきたのだが、その牧師が亡くなっており途方に暮れていた。
そんな折、セラスの手を引き不動産屋でミリアが困り果てていた時、信吾に出会った。
そこから先は早かった。信吾曰く一目惚れとのことでとにかく困っているミリアを放っておけなかった。だからこそあらゆる手を使って必要な書類やその他何もかもを用意した。とのことであったが、今だからこそわかる。鬼屋敷 信吾という人間はただの一回の一目惚れに自分の人生を差し出した。
楽園――またの名をグレゴリアエデン。信吾はセラスとミリアが安全にこの国で暮らせるように楽園を頼った。例えどのような仕事がこれから先、舞い込もうともそれを選択した。
セラス自身、その選択をした信吾に感謝していないわけではない。彼は頭も良く、機転も利く、鼻も良い。本当に手を出してはいけないことも理解しているだろう。しかし、それは綱渡り――もし、一歩でも彼がそこに足を踏み入れたら、もし自分とミリアのため等と理由を付けてその先に進んでしまったのなら……。
セラスは首を振る。
それはあり得ないとわかっている。何より彼はいち早くセラス=ファラエルに気が付いた。そして気が付いた上で彼は今も変わらずこうしてくれている。
そもそも今回の思考では何故ミリアと信吾が2人きりだと余所余所しいかについて考えようとしていたはずである。しかし結局、辿り着く結論は――。
「……私の所為ですよね」
ミリアは娘のように思ってくれていると行動や言動で理解できる。信吾も妹のように扱ってくれている。2人の関係には中心に自分がいることをセラスは理解していた。それが枷になっているということもわかっている。
しかしセラスは首を振った。そんなことを考えたいわけではない。と。
寝不足だと余計なことを考えてしまう。今日はとっとと甘いものでも買って心を落ち着けようと決める。
足を速め、目的地であるコンビニに辿り着いた。そこでセラスは大量の饅頭や大福、とにかく餡子が入っている商品を片っ端から籠に入れた。そしてふと、コンビニでも梅どら焼きが売りに出されており、その商品を手に持ったまま考え込む。この商品を買うべきか、來華と晴海、陽とのお茶会で今年初めてを残しておくべきか。天使と悪魔の言い争いも虚しく、セラスは籠に梅どら焼きを投げ入れた。
ホクホク顔でコンビニを後にするセラスのなのだが、不意に鼻がむずむずと反応する。嫌悪感に表情を歪めるのだが。
セラスは首を傾げる。現在地は鬼屋敷探偵事務所から5分もかからない場所で、あと数分もすればこの区域の中心地でもある駅前も見えてくる場所。人通りは多くはないが車はそこそこ通っており、駅前まで行けば人通りも増えるだろう。だからこそ不可思議でしかない。何故このような場所でこんな臭いがするのかわからない。
セラスはその鼻を動かした臭いを追って路地に入り込む。その際、ハンドバッグに手を突っ込み、中の箱を開け、その中身を手で握る。
慎重に歩みを進めていくと古い家屋の隅で男が腰を下ろしてうな垂れていた。
その男に近づきながらハンドバッグに突っ込んだ拳にも力が入り、セラスは呼吸を抑え、静かに、ゆっくりと――。
「……同業か?」
「貴方の言う同業が何かはわかりませんが、違うと言っておきましょう」
体中から血を垂れ流し、目は虚ろ。話しかけているにもかかわらず誰に聞かせる気もないのか、その声は遠くに消えるかのように儚い。
「そのわりには冷静だな、俺みたいな血を流した人間を見たのなら悲鳴を上げそうな年齢だと見受けるが?」
「それは個人の感性です、私には当てはまらなかっただけです。救急車を呼びましょうか?」
一応、礼儀として聞いただけだが、彼はノーだと答えるだろう。この手の人間は警察に繋がるあらゆることを嫌う。もっともこの人間が警察組織にコネがあるというのであれば別だが、大抵は騒ぎになることを嫌うために、病院になど行かないだろう。
「いや遠慮しておくよ、この傷もすぐに塞がる」
「そうですか」
セラスは握っていた拳から力を抜き、男の傍に寄る。そして先ほどコンビニで買った幾つかの商品を男の近くに置く。
「……なんのつもりだ?」
「傷を塞ぎたいのならまずは何かを食べるのが良いですよ。私は別に貴方に興味もありませんが、明日のニュースで男がここで死んでいたとなれば私の良心が傷つくので」
そう言ってある程度の甘味を渡したところでセラスは男から離れ、自宅へ足を向ける。
「待て」
「何か?」
呼び止める男の声に、警戒した声色で返す。
「いや……助かった。朝から何も食べていないんだ」
「それは良かったです。ではもう行っても?」
「……聞いて良いか?」
初対面の、しかも会話をするような雰囲気でもなければ、血まみれの怪しさが全体からにじみ出ている男の言葉に耳を傾ける必要はないのだが……そう考えたが彼の隣に腰を下ろす。
このような状況、避けるべきであるのだがそうはしない。ただの直観であるが、彼はきっと《天使》ではない。
そうであるのなら、それは救うべき対象ではない。
「話したいのならどうぞ、私はただ聞いているだけです」
「俺が君に質問したはずだが」
「その問いが抜けていたので。ですがそうですね、多分貴方の問いに対して私なら、ただの気まぐれだと答えるでしょう。貴方は誰かを救いはしないと」
「……? そうか気まぐれか。ならばもう1つ、君は俺が怖くはないのか?」
「ええ、別に。それとも怖がらせるようなことをして回っているのですか?」
十中八九そうだろう。最初にこの男に気が付いた時に嗅いだ臭いは血液だったのだが、ただの血液程度でここまで足を運ばない。だが、ここまでわざわざ足を進めた理由はこの男から殺しの臭いがしたためであった。怪我などで流れる血とは違い、酸化してこびり付いた鼻を突く腐ったような臭い。それがセラスをここまで導いた。
そんな男が一般人を怖がらせないことをしていないわけがない。
「そうだ。と言ったら?」
「そうですか、それなら随分とおざなりですね。私がこうして隣に座った瞬間、その腿の内側に隠してあるナイフで首をとれば良かったと思いますよ」
無警戒に近づいた女の首くらい容易くとれるでしょう? と、挑発的に尋ねる。
だが、そう言ったにも関わらず彼の手は腿の内側のナイフには伸びなかった。それが理由だということでもないが、彼に敵意がないことは証明された。
「……同業者ではない。か」
「ええ違います。貴方が何をしてそんな怪我を負ったのかは知りませんが、私はそんなことにはなりませんので」
男が笑みを浮かべた。
セラスはそんな笑顔の彼に、不意に既視感を覚えたために、ジッと見つめる。
「ん? どうかしたか」
「いえ、お気になさらず。それでこんな女子高生に一体どんな話を聞かせるつもりですか?」
「聞きたいことは聞けたんだがな」
腕中にあるひっかき傷や切り傷を撫でながら男が微笑む。こんな状況でなければそこそこロマンチックな雰囲気ではないかとも思えたが、そもそもの前提条件で、この男が怪我をしてここでくたびれていなければ出会うはずのなかったこともあり、それはイフにも劣る安っぽい御伽話でしかないことに気が付き、頭を切り替える。
「あんた、名前は?」
「……山田 花子です」
「ああ、そのくらいの危機感は持って然るべきだな。なら俺のことは太郎とでも呼ぶといい」
その形で山田 花子はないだろう。と、男――太郎は笑い、せめて洋風の名前を名乗ることをおススメすると言った。
「名無しだったころの名残です。それで太郎さんは……そうですね、仮の話をしましょう。ええイフの話です。私、物語を聞くのが好きなのです」
「それはまた難しい、俺は噺家でもなければ作家でもない。話せる内容といったら――ああいや1つあるな」
「それならそれを聞かせてください。最近眠れなくてつまらない話でも良いので聞きたいのですよ」
「端からつまらないと決めつけるのか……いや、つまらない話ではあるがな」
どこか自嘲気味に言った男に、セラスは続きを促す。
「ある男は昔から貧乏でな、こんなご時世に明日の飯の心配をしなければならないほどだ。両親は昔から頼りなかったし、きっといつか勝手にいなくなるだろうと幼心に思っていたそうだ。だからこそ男は1人で生きる術を探していた。こんな世の中だ、使い捨ての利くガキにやらせたい仕事など幾らでもあったってわけだ」
セラスは直感した。この太郎という男、楽園に関わっている。非合法に子どもを使う仕事があるのはこの辺りでは楽園だけであり、彼もきっと楽園に招かれた1人なのだろう。
「世界を生きるためにはどうしても金が要る。男は昔から浪費家でね、どんな仕事でも、道徳を捨ててでも金が必要だと思っていたんだ。それは今でも変わんないだがな、どうにも男には遅れて良心なんてもんが芽生えちまった」
「良心ですか?」
「そう善意だ、本当ならもっともっと前にそれはあった。それは男の両親が……いなくなった頃だな、その男には妹がいてそいつの生活までも担わなくちゃいけなくなったんだ」
「……その妹さんのために、良心が芽生えたのですか?」
一度顔を伏せたセラスはハンドバッグに再度手を突っ込む。しかし太郎が首を振ったことで、鞄から手を離した。
「いいや、そんな高尚な心は男にはなかったさ。仕事は仕事だ、だから別に妹のために仕事をしようとも思っていなかったし、妹のためにこんな仕事は止めようとかも考えていなかったさ」
「では何故?」
「俺も良くわからない。ただ、この金も、妹との生活もなくなるのが怖くなったんだと。男は徹頭徹尾男のためにしか生きちゃいなかった。散々なことを繰り返していたのに、妹の何もかもを奪ったのに、結局は臆病風に吹かれてしまった」
セラスは思案顔を浮かべ、一度太郎の傷に指を這わせる。
この怪我はその報復か何かですか? と、尋ねる。
「いやいや、これはもしもの話なんだろう? この傷はあれだ、モチベーションが湧かなくてね、普通にミスった」
「それはおっちょこちょいですね、それでその男性はどうなりましたか?」
「……どうにもなってないな、結局辞めちまうのも怖くなり、いつまでもダラダラと。だが、最近妹の様子が気になって10円ハゲが出来たらしい」
太郎が顔をセラスとは反対に向け、後頭部の薄くなってきている個所を指差した後、ウインクしながら振り返った。
どう反応したらわからず、苦笑いを浮かべていると、太郎が煙草を取り出したためにハンドバッグからライターを取り出す。
「ん、サンキュ。嬢ちゃん吸うのかい?」
「いいえ、こういう時に便利ですから」
太郎の口に咥えられた煙草に火を点し、ライターをバッグに戻した。
誰かの煙草に火を点すことが趣味だというわけではないが、周りに煙草を吸う人間が多く、しかもその人たちは何故かどこかでライターを失くすためにこうして持っているのである。
「妹は俺と違って極々一般的な子でな、俺がこんなことをしているのを知ってもいないし、関わってもいない。生活費なんかは俺が稼いでくるんだが、それがどうにも申し訳ないみたいで、最近では俺に気を遣ってばかりだ。家族なんだから気にしなくても良いと思うんだけど、そうじゃないらしい」
「お幾つなのですか? 中学高校であるのならそういう時期だと思いますよ。誰かの厚意を疑ってしまい、素直に受け取れなくなってしまう。そんな年ごろでは?」
「嬢ちゃんと同じくらいだと思うよ。まあ俺は親じゃないから時間が解決してくれるとは思うけれどな」
「私には兄弟がいないので、その辺りはよくわかりません」
ミリアも信吾も兄弟姉妹という感じではなく、だからといって親という括りでもない。兄弟という関係で一番しっくりくるのが來華と晴海だろうか。と、顔をほころばせる。
「やっぱ辞め時かもしれないな、妹との時間を全く取れていなかったから懐いていないっていうのも考えられるし」
「でも怖いのですよね?」
「そうだな」
うな垂れ、ため息を吐く太郎に、セラスはどこか落ち着かないような、心がくすぐられるような感覚に陥った。初対面のはずである、だがどうにもこの太郎という男を放っておけなくなった。
すると太郎がある菓子に手を伸ばした際、血まみれの現状に似つかわしくない、普通の青年が浮かべるような柔らかい表情を浮かべた。
「どうかしましたか?」
「ああいや、俺は梅が好きで毎年色々と漬けてるんだが、あまり妹からは評判が良くなくてな、昔はジジ臭いやらもっとお洒落な物を食べたいやら散々言われてたんだよ」
「梅どら焼き、美味しいですよ」
「もっと早くこういう菓子を知っていれば、嫌がられなかったかもしれないな」
梅どら焼きの封を開け、太郎が大口で頬張る。そして美味い美味いと何度も頷いていた。
セラスは彼に見えないように顔を逸らして微笑むと、立ち上がる。
「もう行くのか?」
「寂しいのですか?」
「いやまさか。だが助かった、ここで飢え死にはなさそうだ」
セラスは彼に背を向けて足を前へと進めるのだが、ふと思いつき、振り返る。
ここまでやる必要もなければここまで深入りする理由もない。だが直感が彼を、太郎と名乗った男を手助けしなければと言っている。
「ああそうです、これはお節介ですが」
ハンドバッグから名刺を1枚取り出し、餡子ではないチョコがコーティングされたプレッツェルタイプの菓子の箱にそれを添えて太郎に投げる。
「どれだけ楽園に身を置いていたのかは知りませんが、そこに連絡すればある程度円滑に身を引くことは出来ますよ。縁が切れるわけではありませんが」
太郎が驚いた顔を浮かべたことで、してやったり。と、セラスは良い気分になりながら彼に片手を上げる。横目に映った太郎は頭を下げていた。
もう会うことはないかもしれない。しかし中々に気持ちの良い青年だったのではないだろうか。と、評し、いずれ先ほど投げた名刺で空野 夏輝から何か言われるかもしれないが、その際は晴海を引き合いに出し、逆に彼を責めてやろうと考えるのだった。