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朝のホームルームが終わり、授業が始まった教室でセラスは呆けた表情で中庭を眺めていた。
彼女たちが通うこの穂田端学院高校――穂田端高校は幼稚園、小学校からエスカレーター式の私立校で規模が大きい。全ての学校が同じ場所ではなく、ある程度離れた場所にあるのだが、その中でも高校は特に大きく、生徒数も県内ではトップクラスの学校。
今朝來華と話していたように金のかかる学校で、中には有力者を肉親に持つ者であったり企業の重鎮を親に持つ者であったりと様々。陽のようにそうではない生徒を憂いていた來華でさえ、母親が日本舞踊の流派の家元であり、裕福な家庭で育って来ていた。
それだけの規模の学校であるために、思惑や思想などもそれぞれ。あの八雲 陽がいじめを受けているのもそれだけ多くある思想の内の1つである。
「……」
教室の窓側に面した中庭を中心に、学年ごと3つの校舎に分けられており、その中庭には噴水が水のアーチを噴き上げていた。
この学校で良いとこを挙げるとするならば校舎や廊下、中庭が綺麗なことだろうか。と、セラスは鼻を鳴らす。
外観とはその全体の評価と比例する。良い悪いの評価ではなく、綺麗かそうでないか真っ白か、この学校では庭師を外から数人雇っているだけではなく、景観のためにゴミを捨てない出さないことは当然ながら、それでもある程度のゴミは出てくるために清掃員まで雇っており、学生に掃除をさせるということがほとんどない。
この壮麗を尽くした景観は庭師、塵すらも目立たないのは業者のおかげ。つまるところこの穂田端高校では、学校関係者や生徒にゴミの掃除をさせない、気にさせない、環境を整えさせないのである。
これに関してセラスは、確かに楽ではあるという考えを持ってはいるが、それ以上に、ごみを処理できないのは辛い。と、授業をサボり中庭を跋扈している下級生に一瞥を投げた。
そうして憂鬱に顔を歪ませていると背後から裾を引っ張られ、首を傾げる。
「――?」
セラスは振り返ると苦笑いを浮かべた晴海が控えめに前方を指差しており、その指を追って前を向く。
「……ファラエルさん、よろしいですか?」
「ああ、ええ大丈夫です」
教壇に立っていた教員が腕を組み、呆れたようにセラスを見ていた。
しかしセラスはホワイトボードに書かれた文字を読み、小さく手を上げ、教員がしただろう問いを予想し、それを答えていく。
「――で、よろしいでしょうか?」
「……ええ、結構です。授業はちゃんと聞いているようですね」
どこか腑に落ちないという顔をしていた教員だったが、授業を再開した。
セラスは後ろにいる晴海に小さく礼を告げるとまた外に目をやる。
ストレスが溜まる。ここ数日、まともに眠れていないからだろうか、それとも雑音が耳に入ることが多くなったからだろうか。理由を挙げだしたらキリがなく、ため息を1つ。
だが、また服が引っ張られる感触を覚え、呆れて振り返る。すると晴海が普段よりも瞳を潤わせた目で見上げてきており、彼女が心配しているのだと察した。
教員がホワイトボードに書き込むために視線を移した隙を突き、セラスは振り返り晴海の頭と顎を撫でてやる。彼女が気持ちよさげに目を細めたところで、手を離し体の向きを戻すのだが、その際視界の端に來華がハンカチを口に咥えて引っ張り、悔しそうな顔を浮かべているのが見えたために彼女にウインクを投げた後、もう一度振り返り、晴海の頭を抱えるように抱きしめた。
「わふ――」
セラスはホクホク顔で体を離すと何事もなかったように前方に視線を戻し、ホワイトボードの文字をノートに書き始めた。
我ながらこの程度のことで機嫌が良くなるのだから安上がりだと、先ほどまで苛立っていた心がなくなっていることに小さく笑みを浮かべる。
暫く経ち授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
この退屈な時間に少しでも休息があるのならば授業を出る価値はある。セラスはクラス委員の号令を聞きながら束の間の安寧を謳歌しようと頭を下げることなく振り返った。
「もうっ、セラスさんいきなりなにするですか」
「いえ、晴海があまりにも構ってほしそうだったので」
「そういうわけじゃ――」
晴海が赤ら顔で膨れるのが可愛らしく、ついついセラスは吹き出してしまう。自分も來華のことを言えないのではないか。と、多少の罪悪感を持つのだが、それは件の彼女がまるで水辺に身を投げた女性の怨霊のような雰囲気で、机の下からぬるりと顔を出したことで撤回することが出来た。
「悪霊退散」
「痛い……」
教科書で來華の額をはたき、勝ち誇った表情で、席が遠くて残念ですね。と、言い放つ。彼女の顔が悔恨に彩られたことで、セラスは満足したように教科書を仕舞い、次の授業の準備を始める。
「セラスはもっと私に優しくするべきだと思うよ」
「貴方に優しくした結果、私は一週間お尻と胸を揉み続けられたので」
「嗚呼、あのマシュマロのような甘く蕩ける感触は他の追随を許さないほどだった! 私は何故食べなかったのだろう」
「齧っていたらアユの塩焼きのように頭から噛み砕いてやりましたよ」
「セラスさん、お魚さんの頭ごと食べられる人なんですか?」
晴海に、美味しいですよ。と、答え、來華に向き直る。
「嗚呼父よ、何故私を食らうのですか!」
「貴方に私が殺せるとも思いませんし、予言に踊らされ狂気に苛まれるつもりもありませんが、後の世のために何となく頭を失くした方が良いと思いまして」
顔だけは女性受けしますからね。と、去年上級生から何度も告白をされていた來華の顔はある意味で毒だと話す。
「妖精から黒子をもらったからね」
「つける場所間違ってますよ」
來華の黒子のある個所を指で挟んで引っ張り、引き千切ろうと試みる。しかし大地に根を張る木々の如く、それは最早彼女という魂に侵食しているのだと諦め、こんなものを与えた妖精をいつか八つ裂きにしてやろうと心に誓った。
「猪もさすがにピンポイントで黒子を狙ってこないと思うんだけれど」
「私、掬った水はついつい飲んでしまう人間なのですよ」
「セラスは騎士団長だったか……」
何度も頷く來華に、かのフィン・マックールといえどそこまであからさまにその黒子を狙い撃ちするような男ではなかっただろうと、いつかの世界の神話に想いを馳せた。
すると、今まで黙っていた晴海がセラスの親指を咥えた。
「……馬鹿な子ほど可愛いのですよ?」
「やっほしっへるわはいはったほへ」
やっと知っている話題だったので。彼女はそう言ったのだと理解し、少し寂しがらせてしまったのでは。と、晴海を持ち上げ、膝に座らせる。
晴海が上機嫌に喉を鳴らしたために、この子はチョロイくらいが丁度良い。と、どこか我が子をあやすような気持ちで左右に体を揺らす。
「セラス、私には?」
「逃避行されても困りますので、関わらないようにします」
あんまりだと声を上げ、跪いて太ももに顔を埋める來華を鬱陶しく思ったものの、いい加減機嫌を取ろうと彼女に手を差し出した。
「束の間ですが、どうか私の手を取っていただけませんか王子様」
「ちょっと生やしてくる!」
「もう授業始まりますよ」
來華の脳天にチョップをし、セラスは盛大にため息を吐いたのだが、晴海が授業中にも浮かべていた表情で見上げていたために、大丈夫だと伝える。
「何だかお疲れですよね?」
「そうですね、ここ数日眠りが浅くて」
「寝ないと駄目ですよ?」
寝ようと思って眠れないから寝不足なのだが、晴海は純粋に眠ることで体を休めてほしいと言っているのだろう。セラスは素直に礼を言うと欠伸を漏らし、携帯端末を開いた。
すると晴海が手を叩き、咲いたような笑顔でセラスに飛び乗る。
「あのあの! きっとたくさん動けば自然と眠くなるです! だから――」
「嫌です」
「まだ何も言っていないですよ!」
言わなくてもこの小動物のような少女が、自分を何に巻き込もうとしているかは理解している。それが嫌というわけではなく、内容によっては近くにいた方が重大な事件に首を突っ込むことを防ぐことが出来るのだが、セラスはどうにも気が乗らない。それは現在の気分というところが大きいがそれともう1つある。
「1週間失踪ですか?」
穂田端高校の新聞部に所属し、唯一の部員にして部長、そんな肩書を持つ空野 晴海が持ってくる話やお願いというのがほとんど記事のネタになりそうな事件や事故ばかりである。
セラスはそれを去年1年で嫌というほど巻き込まれており、彼女が瞳をクリクリとさせてくることに警戒をしていた。
そして今、晴海が喜びそうな話題といえば、ここ2週間で突然湧いた事件である。
「そうですそうです、流石に1人だと手が足りないのでよかったら手伝ってくれたらなぁって」
「嫌です」
今にも泣き出しそうな晴海が頬をリスのように膨らませて背中を叩いてきたのだが、ここで折れては彼女のためにならない。毎度毎度あの子どものような泣き顔にやられて甘やかしてきた。と、強い意志も持って彼女を遠ざけようと振り返ることはしない。
そうこうしている内に次の授業が始まるチャイムが鳴り、教員が現れたことで渋々といった感じで晴海が叩くのを止めたことで、セラスは安堵した。