悪夢の過去
セラスはこれが夢なのだと理解する。
目の前には幼い少女、それが己自身であると気が付くのに時間はいらなかった。だからこその夢、いつかの悪夢であり、セラス=ファラエルの原点にして出発地点。
セラスは地に伏せる屍を冷めた目、否、まるでそれが使命であるかのように、神が、天からの遣いが人を救うのに理由など持ち合わせていないかのように、呼吸の際に意識しないような表情で、雨水に流れる鮮血の行先に想いを馳せながら立ち尽くしていた。
彼女は産声を上げた時、天使だった。
オレンジの木々が並ぶ山村で生まれた彼女なのだが、二十一世紀を迎えて尚携帯端末はおろか、技術よりも信仰で発展したと信じられているその村では年々人の数が減っているという現状があった。村民は子の産まれない村をどう盛り上げていくのかと長年頭を悩ませており、そんな折に誕生した彼女を祝福しないわけがなかった。
そういった経緯の下、セラスと名付けられた彼女は愛情をその小さな体に受け、天使だと祭り上げられ、すくすくと育っていった。
そう育てられた彼女だからこそ、人々を救うのだと、まるで世界から脅迫されてでもいるかのように村のために尽くし、幼いながらも彼女の《使命》は受け入れられていった。
しかし、それも彼女が十にも満たない齢の頃、突然終わりを告げる。
その年、村には豪雨などの天災が多く発生し、その影響なのか定かではないが、毎年豊作であったオレンジが一切収穫できないという状況に陥った。
村を彩るオレンジ色も痩せこけた木々に変わり、毎年香っていた爽やかな瑞々しい匂いもその年は失せ、人々の表情から生気がなくなっていた。
彼女はそんな村一番の災厄にも天使として、天使と名を受けた役割として変わらずの慈愛を振り撒いていた。
人々は彼女のそれに応える様に、小さいながらも細々と生活を続けていた。
だが、一向に元に戻らないオレンジの木に人々が諦めの色を示すようになった時、その声は風のように、流行病のように村に舞い込んだ。
「この村に天使なんていない。彼女は疫病神だ」
誰の言葉かはもはや意味を成さない。それは祝福を受けていた村にとって悪意の塊であるが、活力を与えるのに十分な呪いであった。
村民は手のひらを返すように彼女を追い詰めた。
彼女の父親をオレンジの木々であった痩せた命に括り、見せしめに火で炙った。
彼女の友人、知人、彼女を天使だと声を上げた人を終わった命に括り付け、刃で切り刻んだ。
いつの日か、処刑台と化したオレンジの木からは村の香りはしなくなり、鼻を突く酸化して黒ずんだ血の臭いと死肉を貪る冥界からの遣いから発せられる獣の臭いしかしなくなっていた。
彼女はそれでも村のために叫んでいた。
きっと救われる。ここを乗り越えることが出来ればもっと豊かな村に――。
声を枯らしながらも、石を投げつけられても、彼女はその声を、その使命を止めることはしなかった。
彼女にあったのは救いたいというたった一つの感情だけ。
それだけであった。
しかし、それでも村民は彼女の言葉に耳を傾けることはしなかった。
彼女が悪い。彼女が産まれたからこの村は壊滅する。この村に彼女はいらない。
そうして悪意が村に蔓延るようになった時、ついに村民たちは決断をした。
天使を殺せ! あの子はこの村に厄をもたらした! 村人すべてで悪魔と戦うべきだ! この村に繁栄を! この村に救いを!
殺意と悪意が彼女の善意を上回った時、それはまるで雪崩のように村を覆い、腐り爛れたオレンジが転がる。
もうこの村に未来などなかった。しかし、それでも彼女は否定し続けた。たび重なる悪意を向けられ、笑顔しか浮かべなくなった母親を胸に抱きながらも彼女は叫び続ける。
「もう無理よ、疲れたわ」
聖母のような笑顔で彼女の母親は彼女の悲痛な願いを否定した。もう楽になっても良いのよ、もうこの村に幸せなんてない。
たった1人の肉親に彼女が彼女である存在の証明を消されてしまった。
彼女は幼い顔つきで母親に笑みを返し、その手を握る。
わかっている、わかっているけれど、私は誰かを救うことしか知らない。だから――。
そう言って彼女は幾つもの悪意が無数に刻まれた腕で母親の手を引いた。
救うために。たった1人で苦しみに喘ぎ、最早感情など持ち合わせてはいないその母親だった女性を連れて歩みを進めた。
彼女が天使として堕ちた第一歩――人の物差しではなく、救うための使命を以って彼女は天使へとなり果てた。
それこそが彼女の終わりで、セラス=ファラエルの始まりだった。
これはセラスの夢、そして彼女の歴史。
だからこその悪夢、セラスはこの夢を、この後の惨劇を、烙印として魂に刻み込んでいる。
目が覚めても離れることのない救われた屍を、その顔を、セラスは瞼に焼き付けて目覚めるのだった。