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浸透の音色

作者: 園田 樹乃

 残暑厳しい夏のある日。

 初めて訪れた街のショッピングモールは、のどかな昼下がりの空気に包まれていた。三階までの吹き抜けの真ん中にそびえ立つ からくり時計も、ついさきほど一仕事を終え、静かに時を刻んでいる。

 その足元でひっそりと、一台のピアノが弾く人を待っていた。



 『文房具店へ行きたい』と言い出した夫と二人、フロアマップを表示させたスマホを片手に建物内を彷徨ううちに、吹き抜けを巡る二階の回廊へと辿りついた。

 目の前のからくり時計は、どうやらここのシンボルらしい。フロアマップに載せられたイラストのおかげで、すっと周りの風景が地図と重なり合う。


 なるほど。現在地が、ここで。

 目的地の文房具店は……ここからじゃ、エスカレーターの死角だよね?

 手すりから軽く覗くようにして、回廊の向こうを眺めた私を

由梨(ゆうり)

 まっくんの声が呼ぶ。


 真剣な顔で一階を見下ろす彼の視線を辿って。

 蓋の開いたアップライトピアノに気付く。

 

 あれは、たぶん。

 ストリートピアノ、だ。

 あちらこちらで設置されていると耳にするようになったのは、確か……息子が高校生の頃だったかなぁ、と思いながら、なんとなく。

 夫の次の言葉が、予想できてしまった。

「ちょっと、弾いてきていいかな?」 

 ほら。やっぱり。

 あまりに予想通りな言葉に、内心にため息を落として。

「それは……色々、拙くない?」

「大丈夫、だと思う」

 大丈夫、かなぁ。本当に?



 私の不安を軽くいなした まっくんの、エスカレーターへ向かう足取りは、ゆっくりとしているけど。

 心の中はきっと、弾んでいるに違いない。



 数年前から、彼は右足を軽く引きずるようになった。診察を受けた結果としては、加齢が理由で股関節が……らしい。

 大学を卒業して以来、四十年以上に渡ってロックバンド 織音籠(オリオンケージ)のギタリスト、MASAとして生きてきた彼は、ステージ上では辛うじて、何事もないように振る舞っているけど。ほんの数歩の移動を繰り返すようなステージ上でも、長い時間立っているのは辛いらしく、ライブの途中でスツールに腰掛けたりしている。

 織音籠のメンバーがみんな、学生時代の同級生だから、誰もが年齢的にどこかしらトラブルを抱えてはいるわけで。『ちょうどいい、休憩タイムだな』って言っていたのは、高校生の頃に膝の大怪我をしたヴォーカルだったっけ。


 駅前から歩いてきた今も、やっぱり彼の足音は微妙なシンコペーションを刻む。そのリズムをも楽しむように、下りのエスカレーターに乗った夫の右手が手すりの上で踊る。


 私と出会った子供時代には電子オルガンを弾いていた まっくんの、その仕草は久しぶりに触れる鍵盤への期待が溢れたかのように見えた。



 ピアノの横。カフェの入り口に置かれているようなチョークボードに、ストリートピアノであることと、近所の閉園した幼稚園で使われていたピアノであることが書かれていた。

 この近所の幼稚園、か。

 赤ちゃんの温もりと重みが、両の掌に蘇る。


 今日、初めてこの手に抱いた初孫。

 閉園になったのはもしかすると、数年後にあの子が通うはずだった幼稚園かもしれない。

 このピアノを囲んで、歌って踊って……と、想像して。息子の春斗と、そのお嫁さんの陽望(はるみ)さんが、私たち夫婦と同様に共働きであることを思い出す。

 この場合、通うのは保育園だし。そもそも、まだ寝返りも出来ない赤ちゃんが"通うはずだった"なんて、想像にしても先走りすぎている。


 初孫、慎登(まこと)のお食い初めに招かれて過ごした時間が幸せすぎたから、だろうか。

 なんだか私……年甲斐もなく浮かれているなぁ。



 私がチョークボードを眺めて考え事をしているうちに、夫はピアノ椅子の座面を一番下まで下げて。

 ペダルを踏んでみたりしながら、ポジションを調整していた。

「由梨」

 納得がいったらしい まっくんに呼ばれて、ピアノに近づく。彼は譜面台に仮置きしていたスマホを私に差し出すと、

「弾いているところ、録音してもらえるか?」

 珍しいことを言い出した。


「アプリは?」

「お前が使えるやつ、どれでもいいけど」

 どれでも、って。あのね。

「ロックがかかったままじゃない」

「ああ、本当だ」

 ほら、って改めて手渡されたホーム画面をざっと眺めて。たぶん、音楽関連のアプリだろうなってのはいくつか入っているみたいだけど。

 よくわからないまま下手に触って、仕事のデータを消したら大変だし。


 ここは単純に。

「カメラの動画機能でもいいの?」 

「……だったら、手元も撮っておいて」

「うん、わかった」

 カメラを起動している間に まっくんは膝の上で両手を握ったり開いたりしながら、鍵盤を見つめている。


 ピアノの高音側に立った私は両足を開き気味に、軽く踏ん張るようにして、準備のできたスマホを両手で支えると鍵盤へと向けた。

「撮れるか?」

「うん」

 録画ボタンに手を添えて。スタートのタイミングをはかろうと、夫を見る。


 ピアノの向こうに見える、時計台に彫られたレリーフの辺りを見つめて静かに息を吐いた まっくんの両手がゆっくりと持ち上がり、鍵盤にそっと置かれる。

 私は息を殺すように、録画ボタンを押さえた。



 曲の始まりは、ゆったりとしたテンポで。

 遠くで響く鐘の音のように聞こえる左手の和音のせいか、穏やかな辺りの空気と相待って、遅い午睡を思わせる。

 癒し系としてブレイクした織音籠の曲にも、ここまで緩やかに始まる曲はない。

 これはたぶん。今の まっくんが感じているモノを奏でる即興曲。


 和音が解けるようにして、分散和音に変わる。

 それを受けた右手のメロディが、高身を目指すように駆け上がって……つまづいた。

 チラリと覗いた まっくんの顔が、悔しそうにしかめられている。

 普段はギターだもんね。弾いているのは。

 指がイメージに追いつかなかった、ってところだろう。


 それでも、さすがはミュージシャン。

 つまづいたところから、スタッカートに切り替えて。弾むように音が遊びだす。聞いているこちらの身体もウキウキと弾みそうになるけど、画像が揺れてしまうから。

 指先だけで、軽くスマホのサイドを叩くように拍子を取るだけで我慢する。


 ト音記号で表す五線譜から上にはみ出したあたりで弾んでいたスタッカートのメロディが、少しずつテンポを落としながら"真ん中のド"まで降りてきた。その辺りで少し散歩する様に音が巡る。

 左手の伴奏が、ふっと途切れる。


 二拍ほどの休符をはさんで。右手だけで奏でられたのは……さっき慎登と遊んだガラガラの音?

 まっくん、子供の頃から聴音が得意だったもんなぁ。救急車のサイレン音も、聞き取ったことがあるとか言っていたし。

 そして、ガラガラの音からそのまま流れていった先は、懐かしい子守唄だった。



 『ハルの子守唄』

 春斗が生まれた時に、まっくんが作ってくれた。私が一番歌いやすい音域の、私が歌うための曲。

 歌詞のないスキャットだけの曲が、私を招く。

 録音の邪魔にならないように、小さく口ずさむ。


 慎登に。

 私たちの孫に歌ってあげることができたんだ。この手に抱いて、この歌を。



 陽望さんの母親と私との間には、若い頃の不仲から生じたわだかまりがあって。春斗たちの結婚を双方の親は、"諸手を挙げて"祝ってはやれなかった。

 春斗の転勤を機に事実婚をした二人のことを、気にはかけていても、やはり向こうの母親との親戚付き合いは億劫で。

 『産後の手伝いに陽望さんの母親が来てくれることになっている』と春斗から聞くと、病院へのお見舞いすら来てやれなかった。

 ただ……まっくんに背中を押されるようにして録音した子守唄をメールに添付して。誕生を知らせてきた春斗を通じて、陽望さんへと届けてもらった。


 それが精一杯、だと思っていた。

 慎登や陽望さんに対して私ができる、唯一のお祝いだと。

 でも陽望さんは、

[お食い初めを一緒に祝っていただけないでしょうか?]

 と、誘ってくれて。

 そのおかげで今日、私たち夫婦は慎登を抱かせてもらえた。


 良い子なんだよね。陽望さん。

 彼女のお父さんが私にとって、高校時代に尊敬していた先輩だったことも影響しているかもしれないけど。 

 春斗や慎登と幸せな家庭を築いて欲しいと、心から願っている。



 エンドレスに続けることもできる子守唄が、あっさりとコーダに入った。

 とたんに、まっくんの左手が鍵盤から下ろされて、ダラリと膝の上に置かれる。

 何? どうしたの?

 録画を憚って訊けないまま、テンポを落として曲が終わる。

 ふーっと息を吐いた彼が、左腕をマッサージしながら立ち上がった。


「ピアノは、やっぱり疲れる」

 返したスマホを受け取った まっくんが、悔しそうな声をだす。

「疲れる?」

 油断したら、寝食を忘れて音楽に浸かりきるくせに。何を言っているやら。

「ピアノは鍵盤が重いから、日ごろから鍛えてないと」

「ふーん」

 フィジカルな疲れか。それは、仕方ないかもしれない。

「RYOでも、『歳をとって、ピアノはキツくなってきた』って言ってたしな」

「そっか。だったら、こんな風にストリートピアノを弾いたりしないのかな?」

 織音籠のキーボード、RYOはもともとピアノを習っていたらしいけど。それでも、きついのか。


 いや、キツイと知りつつ弾こうとする まっくんが、おかしい。

 でも、仕方ないよね。まっくん、音楽馬鹿だし。



 時計台の反対側、空いていたベンチに座って、まっくんが録画を確認している間。

 私も、さっき着信のバイブ音がしていたスマホをカバンから取り出す。

 ああ、春斗からメッセージだ。

 アプリを起こすと今日のお礼と共に、画像が一つ。


 慎登を抱っこしている私の写真なんて、いつの間に……。

 面映いような想いを噛み締めていると、

「由梨」

 隣に座る夫に呼ばれた。


「どうした? 嬉しそうだな」

 緩んだ口元を、左の手で慌てて隠す。軽く咳払いをして、気持ちを落ち着けて。

「そうかな?」

「慎登が産まれたって、聞いた時みたいな顔をしてるぞ」

 そんなピンポイントで指摘しないでってば。

 でも。そこまでバレたなら、仕方ないか。

 渋々を装って、さっきの写真を見せる。


 吊り気味の目が、穏やかに細められて。

「陽望さんだな。撮ったのは」

「春斗じゃなくって?」 

「ああ、お前が子守唄を歌っている時に、な」

 私が気づかなかっただけで、スマホを向けていたらしい。

「陽望さん、ハルの子守唄が気に入っているらしいな」

「そんな話、いつしたの?」

「先月、だったかな? アプリのメッセージでな」

 春斗からそんなメッセージが届いてたなんて、聞いてない‼︎


 『まったく、もう』と、文句を言った私にまっくんは、

「気に入っているから、折に触れて慎登に"お祖母ちゃん"の姿を見せてやりたいってさ」

 春斗たちの家で、少し私が席を外していた間の会話を教えてくれたけど。

 私の歌なら、メールに添付したファイルがある。それを聞かせつつ、写真も……だなんて。

 この三年、陽望さんと会うことのなかった自分の、大人げない態度が悔やまれる。



「次は、お正月かな?」

「うん?」

 ファンだという二人組に声をかけられた まっくんが、頼まれたサインをしている間。私は少し離れたエスカレーター脇の柱にもたれていた。

 サインを終えて握手をして。急ぐでもない歩調でこっちに来た まっくんに話しかけると

「いきなりすぎて、わけ、わかんないぞ?」 

 『何が、正月?』と、首をかしげてる。

「春斗たちと、会うのが」

「ああ、そうだな」 

「こっちへまた、私たちが来てもいいし」

「陽望さんのご両親も慎登と会いたいだろうから、向こうで待つか?」

 そうよねぇ。私とは気が合わない陽望さんの母親にとっても、慎登は初孫。

 独り占めするわけには、いかないよね。



 次の機会。については、また話し合うことにして。

「で。文房具店、よね?」

 最初の目的地を目指さなきゃね。

「あー。もう、いいかな……」

「はぁ?」

「さっきのピアノで、ほぼOKかな、って」

「なに、それ」

 わけ、分かんない‼︎


「そもそも、何を買おうとしてたわけ?」

 それでも、とりあえず。エスカレーターで二階に上がる。めざす文房具店は、靴屋の裏側になるらしい。

「五線紙。か、音楽ノート。とにかく、曲の書ける物が欲しくってさ」

 旅先だというのに、なにかまた曲が浮かんだらしい。

 まあねぇ。

 結婚式当日の夜中に起き出して、『いいフレーズが浮かんだ』とか言って、ホテルにまで持ってきていた音楽ノートにペンを走らせていた人だからなぁ。

 仕方ない、か。


 その"仕方ない"まっくんは

「さっき、由梨に撮ってもらって、なんとなくのイメージはメモがとれたから、書き留めなくても大丈夫」

 なんて、言っているけど。

「今夜のホテルか、明日の移動中に要るようになるんじゃないの?」

 いや、絶対になる。

 だって、まっくん音楽馬鹿だし。



 『だったら、由梨のお言葉に甘えて……』と、歩き出した私たちの後ろ。

 吹き抜けの階下から、ピアノの音が流れてきた。

 次の人が、弾き始めたらしい。

 少し覚束ない感じのメロディに

「この曲、音楽教室のアンサンブル発表会で演った(やった)な」

 まっくんが、足を止めて振り返る。

「そう……だったっけ?」

「覚えてないか?」

 確かに、まっくんがギターを始める少し前くらいまで、私も同じ音楽教室のクラスに通ってはいたけど。

「何十年前の話よ。小学生の頃に習った曲なんて、覚えてないってば」

 聞こえてくるピアノに合わせて鼻歌なんか歌ってる まっくんとは違いますー。


 『それもそうか』と、納得したらしいまっくんが、鼻歌をやめて回廊の手すりへと戻る。

 隣に並んで二人、ピアノを弾いている小学生くらいの男の子を眺める。

「俺たちが子供の頃は、人前で演奏する機会なんて発表会くらいだったのにさ。時代って、変わるものだよな」

「そうよね。春斗は、友達と遊びに行く場所がカラオケだったりしたよね」 

 私たちが学生の頃、カラオケは飲み屋に集まるオジさんたちのモノだったことを考えると、ため息がでてくる。

「それ以外にも、ネット配信とかな」

 ああ、小学生の"夢の職業"ね。


「自分の生み出した音楽が、有形・無形を問わず広がっていく経験ができるんだ。誰にでも、手軽に」

 さっきのストリートピアノ。

 織音籠のMASAが弾いていると、どれだけの人が気付いていたのか、知らないけど。弾き終えて椅子から立ち上がった彼の背後には、いつのまにか足を止めて聴き入っていた人達が、かなりの数になっていた。


「あの経験をしたら。音楽の虜になるヤツが、必ず居る」

「まっくんも?」

「うん。俺は弾いているだけで、幸せではあるけどさ。自分の音が世の中に染み渡っていく喜びは、別格」

 そうか。私には一生わからないだろうなぁ。その喜びは。


 でも。

「慎登は、そんな時代に育っていくのよね」

 春斗は、まっくんの聴音能力を受け継いだみたいだけど。音楽とは縁のない仕事に就いた。

 慎登は、どうだろう?

「そうだなぁ。だったら俺は……慎登に『織音籠、カッコいい』って、言わせる曲を書き続けないとな」

「そこ? まっくんが頑張るところなの?」

「そりゃぁ、そうだろ? アイツが生まれて、最初に聴いた音楽を作ったからにはさ」

 慎登が、織音籠の音楽を分かるようになる頃って……何年先よ。



 『やっぱり、そのためには五線紙が要るな』と、回廊部分から離れて、文房具店へと足を向ける。

 さっき録画した即興曲を叩き台にして……というのは、最初からの計画だったみたいだけど。

 それだけでは飽き足りないんだろうなぁ。

 それでこそ、まっくんなんだけど。



****

 その後、時を経て。

 まっくんが"中尾正志"の名義で個人的に引き受けた作曲の仕事が世間に公開されたのは、織音籠が活動を終了した数年後のこと。

 慎登は、小学校の高学年になっていた。


 生命の起源を探る科学番組のテーマソングとして、発表されたその曲は、あのストリートピアノの即興曲をモチーフにしていて。


 初めて耳にした時。

 慎登はその年頃の少年にしては珍しく、涙ぐんでいたらしい。

 後日、陽望さんからこっそり教えてもらった まっくんは、

「生まれて最初に聴いた曲に通じるモノがあったんだろ」

 と、嬉しそうな顔をしていた。



 音楽は、

 本人の気づかないうちに

 魂の奥深くに染みこんでいる。


 END.

音楽を愛し、音楽の神様に愛された方々に、一日も早く笑顔が戻りますように。


新型肺炎の流行が終息することを、心より祈ります。

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