第十二話 偽りの父
「ユースティティア、サーナーティオ孤児院に行くぞ」
グナエウスのその言葉を聞いた時、ユースティティアは血の気が失せていくのを感じた。
恐怖が、寒気が腹の奥から湧き出てくるようだった。
「っひ! い、いやです……あ、あそこはいや、し、死んじゃう、殺されちゃう!!」
ユースティティアは叫び、グナエウスに懇願した。
「落ち着け。お前を返しに行くわけじゃない。逆だ……お前の荷物を回収しに行くぞ」
グナエウスはそう言って、ユースティティアに孤児院に行く理由を教えてくれた。
どうやらグナエウスはしばらくの間、ユースティティアをこの家に置いておいてくれるようだった。
ユースティティアは胸を撫で下ろした。
それからユースティティアは自分が、自分専用の服などもっていないことを説明した。
するとグナエウスは怪訝そうな表情を浮かべた。
「じゃあ私物は何一つ、ないのか?」
私物はない。
だが……人から奪った「宝物」なら、確かにあった。確かにあれを孤児院から持ち出せるなら、それに越したことはない。
「無いことは、無いです」
こうしてユースティティアは一度孤児院に帰ることになった。
「院長、そういうわけだから、この子は……ユースティティアは私が、グナエウス・ラットゥス・ウィリディス・マグヌスが引き取り、責任を持って育てる。今日はそのことの通達と、それとこの子の私物を回収しに来た」
「な、何ですか、きゅ、急に!」
院長はそう叫び、ユースティティアを睨んだ。
ユースティティアは涙が溢れそうになるのを、恐怖を必死に抑え、そしてグナエウスに縋りついた。
「説明しなさい! ユースティティア!!」
「説明は私がした。この私に二度も同じことを言わせるつもりか?」
グナエウスが睨むと……院長はグナエウスに対し、怯えたような表情を見せた。
それはユースティティアが初めて見る表情だった。
「そ、そんな、きゅ、急に言われても、困ります! そ、そもそも、あなたにあの子が育てられるのですか?」
「逆に尋ねるが、平民階級のあなたが貴族階級の、魔法使いのあの子を育てられるのかね?」
ユースティティアはあの、孤児院の絶対王者として君臨している院長が怯え、恐怖し、震えている姿を見て、驚愕した。
そして同時に院長を恐怖させることができるグナエウスに対し……
強い恐怖心と安心感を抱いた。
それからユースティティアは盗んだ物を容れた木箱を持ってきた。
「私物はそれだけか?」
「は、はい」
正確には私物ではないが……さすがに盗んだ物とは言えなかった。
「よし、帰るぞ。もう二度と帰ってくることはないはずだから、別れを惜しんでバイバイしておけ」
グナエウスはそう言って、背中を向けて、先に行ってしまった。
ユースティティアは慌ててついていくが……その前に一度、立ち止まった。
そして孤児院と院長の方を向き……
あっかんべーをした。
「この、小娘が!!!!」
「っきゃ!」
怒り狂う院長の姿に、恐怖と同時に愉悦を感じつつ……ユースティティアはグナエウスに縋りついた。
グナエウスはユースティティアの頭を撫でてくれた。
それからグナエウスはユースティティアに、特殊な眼鏡をプレゼントしてくれた。
それはユースティティアの魔眼を抑えるためのものらしい。
(……変な感じ)
普段は見えているものが見えないというのは、ユースティティアにとって不思議だった。
数年ぶりに見る、紅くない景色に戸惑うユースティティアに対し、グナエウスは魔眼の危険性について教えてくれた。
死ぬかもしれない。
と言われたユースティティアは、恐怖を感じ、できる限り眼鏡をかけていようと決意した。
また、グナエウスはユースティティアに対し……その眼鏡が、ユースティティアの父親であるティベリウス・アートルムの形見であることを教えてくれた。
(……どういう関係なんだろう?)
仇敵の遺品を大切に保管しておくという心理が、ユースティティアにはわからなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
(……これは、私の物なんだ)
生まれて初めて、貰った、自分だけの物。
誰かから奪った物ではない。
自分にだけ、与えられた、本当の意味での自分だけの私物。
ユースティティアは言いようのない興奮を覚えた。
翌日、ユースティティアは貴族などの上流階級が利用する商店街に連れて行ってもらえた。
見たことのない商品や、大勢の人に興奮していたユースティティアだが……
少しずつ、その気分は落ち込んでいった。
(……みんな、綺麗な服を着ている)
自分と同じ年齢の子供たちはみんな、可愛らしい服を着ていた。
それに比べると、自分は酷くみすぼらしく見えた。
(っ! ……あ、あいつ、わ、私のことを……)
一人の少女が、確かにユースティティアの方を見て嘲笑うかのように笑った。
そのあとも多くの人がユースティティアを嘲笑ったり、哀れみの視線を向けてくる。
(悔しい……)
ユースティティアは自分の容姿にはそこそこ自信があった。
少なくとも、孤児院では一番可愛らしい容姿をしていたからだ。(無論、それは虐めの理由の一つにもなっていたが)
だからこそ、見た目で下に見られたり、嘲笑われたり、哀れみの視線を向けられるのは我慢できなかった。
「……服を買いたいです」
「服? これから買いに行くが」
「今すぐ、欲しいんです」
ユースティティアは我儘を言って、グナエウスに服を買ってもらった。
服を何着か買って貰えたユースティティアはとても気分が良かった。
お古じゃない、虫に食われて穴が開いていない、染みがついていない……新品。
それも自分専用の、唯一の、生まれて初めての私服だ。
そして何より……
(大人っぽいし……可愛い!)
グナエウスたちに褒めてもらったこともあり、ユースティティアは上機嫌だった。
ふと……先程、ユースティティアを馬鹿にしたような目で見た子供を見つけた。
その子供と、ユースティティアの目が合う。
(こうしてみると、私の方が数倍、いや、数十倍可愛いね)
先程は自分の方がひどく醜く、みすぼらしく見えたが、それは衣服のせいだった。
今はユースティティアの方が、(グナエウスが金持ちということもあり)良い服を着ている。
当然、容姿はユースティティアの方が良い。
先程の仕返しも兼ねて、ユースティティアはその子供に笑みを送ってやった。
子供は悔しそうな表情を浮かべた。
生まれて初めての、強い優越感にユースティティアは酒に酔っぱらったような気分になった。
そしてより多くの快感を得ようと、自分よりもみすぼらしい子供を――と言っても容姿と衣服を含めて自分に勝てる子供などどこにもいなかったが――を探し出し、恍惚とした気分を味わった。
それからユースティティアはいろんな物を買って貰えた。
孤児院ではユースティティアに与えられる物はすべて、壊れかけのお古だった。
常に虐げられる立場だったユースティティアは、たとえお古であっても、使わせてもらえるだけで感謝しなければならなければいけなかった。
だが……グナエウスはユースティティアに、新品の物を選ばせてくれた。
グナエウスたちにとっては当たり前のことかもしれないが、ユースティティアにとっては天にも昇る気分だ。
お気に入りの蛇の絵柄のアイテムを、いくつも買って貰えた。
それだけではなく、グナエウスはユースティティアに誕生日プレゼントまで買ってくれた。
一つだけ好きな物を買ってやる。
そう言われたユースティティアは、とても悩んだ。
しかし、「悩む」という体験はユースティティアにとっては新鮮で楽しいものだった。
今までは「悩む」という機会すらも与えられなかったのだから。
結局、ユースティティアが選んだのは蛇のぬいぐるみだった。
なぜ蛇のぬいぐるみなのか、と言えば……
純粋に蛇が好きだということと。
そして孤児院にいたころは、まともに触ることすらさせてもらえなかった「ぬいぐるみ」に強い憧れを抱いていたこと。
また……自分のぬいぐるみを、いつもユースティティアに自慢し、見せびらかし、虐めていた女の子の持っていたぬいぐるみよりも、その蛇のぬいぐるみが純粋に「大きかった」からである。
「にょろろん」という名前を付けるほど、ユースティティアはそのぬいぐるみを気に入った。
それから数日後。
グナエウスは元老院に行き、そしてユースティティアを引き取って育てることに関する許可を取ってきてくれた。
再びあの地獄のような日々に、孤児院に戻される恐怖から解放されたユースティティアは、ホッと胸を撫で下ろした。
しかし、次なる心配がユースティティアを襲う。
……グナエウスが自分を捨てたら、どうなってしまうのだろうか、と。
今までの生活はユースティティアにとって、天国だった。
ここから追い出されるようなことがあれば、と思うと怖くて仕方がなかった。
故にユースティティアはグナエウスに、なぜ自分を助けてくれるのか、育ててくれるつもりになったのかを尋ねた。
グナエウスの返答は「情が沸いたから」
という単純なものだった。
(そうか……なるほど。この人にとって、私は……)
ペットのようなものなんだ。
今更ながら、ユースティティアはそのことを自覚した。
たまたま捨て猫を拾い、数日間看病しているうちにその猫が可愛く思えてしまい、手放せなくなった。
それと同じだ。
グナエウスはユースティティアを、ペットか何かのように見ている。
少なくともユースティティアはそう感じた。
(つまり、嫌われるようなことがあれば……)
育てられなくなったペット。
大きくなって可愛くなくなったペット。
飽きられてしまったペット。
その末路を想像し、ユースティティアは強い恐怖を抱いた。
ユースティティアは「ペット」以外の理由をグナエウスから聞き出そうと、自分の両親に関することを尋ねたが、しかし望むような答えは返ってこなかった。
そればかりか……
「友情とは、人間関係ってのはかくも脆いものだったのかと、思い知ったね。俺たちの友情は、いつの間にか憎しみで上書きされていた。そして……今でも、思うところがないわけではない」
などと、グナエウスは言った。
グナエウスにとっては何気ない言葉なのかもしれないが、ユースティティアにとってはその言葉は恐怖以外の何物でもなかった。
人間関係すら、脆いのだ。
「ペット」と人間の関係は、それ以上に脆いに違いない。
(この人は、強い人だ。もしこの人に嫌われたら……虐められるようなことになれば、誰も助けてくれない!)
今は優しくしてくれているが、いつ、自分を嫌いになって暴力を振るってくるか分からない。
そしてその時、ユースティティアを助けてくれる人はいない。
ユースティティアがグナエウスのペットになったことは、もはやこの国の公認なのだから。
ユースティティアにとって、大人は、人間は信用できない存在で、「敵」か「今は敵ではない」のどちらかしかいない
当然、グナエウスのことも欠片も信用していなかった。
だからこそ……ユースティティアは思った。
(この人の機嫌を取らないと……取り続けないと、私は死ぬ……)
孤児院での、自分を殺そうとする、あの院長たちの悪意や害意を思い出し、ユースティティアは身震いした。
そして必死に……どうすれば、この男の機嫌を取れるのか考えた。
考えに考えた末にユースティティアは言った。
「おやすみなさい……お父様」
必死に、養父に助けを求めてくるような、可愛らしく、そして可哀想な女の子。
それを演じ続けようと、ユースティティアは決意した。