第十話 死の恐怖
ユースティティアが思い出せる、最初の記憶は痛みだった。
お漏らしをしたのか。
それとも食べ物を零したのか。
もしくはただの腹いせだったのか。
理由は分からないが孤児院の院長に頬を強く叩かれた。
その時の、幼い記憶だけが鮮明に残っていた。
暴力を振るわれない日はなかった。
時には孤児院の院長から。
時には孤児院の他の職員、養母たちから。
そして年上や同い年、場合によっては年下の子供たちによって集って暴力を振るわれる日々だった。
お前は悪い奴の子供だ。
だから生まれたことが罪だ。
殴られるのはその報いだ。
ユースティティアはそう教えられて育った。
無論、ユースティティアもただ殴られていたわけではない。
反撃を試みたこともあった。
自分ばかり責められるのはおかしいと、反論したこともあった。
泣きわめいたこともあった。
だが、そんなことは無駄だった。
殴られる理由は増えるだけだった。
そんな状況が変わったのは、四歳の頃だった。
孤児院の院長がユースティティアの頭を強引に抑え、そして頭に熱湯を掛けようとしたのだ。
熱湯はユースティティアの首に掛かった。
ユースティティアは絶叫を上げ、泣き叫んだ。
その時、体から何かが溢れるのを感じた。
気付くと、何もかもが吹き飛んでいた。
そして……視界が真紅に染まっていることに気付いた。
小さな赤く光る粒のようなものが空気中に浮かんでいた。
「あ、紅い……瞳」
孤児院の院長はユースティティアを恐怖に染まった顔で見た。
後々分かったことだが……
この時、ユースティティアは魔法力に目覚めたのだ。
そして叡智の瞳を通して、魔力を可視化できるようになった。
それからユースティティアへの虐待はより酷くなった。
魔法力に目覚めた、と言っても魔法というものがそもそも何なのか分からないユースティティアには魔法など碌に使えなかった。
そしてティベリウス・アートルムを知る者にとっては憎しみの対象である、紅い瞳をユースティティアが宿したことは、孤児院の職員たちにとってはユースティティアに対して罰を与える理由の一つになった。
また孤児院の子供たちもより、ユースティティアを虐めるようになった。
他と違う、ということは虐めの理由になる。
それが……非魔法使いの子供たちにとっては妬みや羨望の的になる、魔法力の有無となれば尚更だった。
ユースティティアへの理不尽な体罰や虐めは、いつしか当たり前になっていった。
お漏らしをしたという理由で、ユースティティアに課せられた掃除はいつしか常態化し、そしてその掃除をする時間や場所の広さは日に日に増していった。
そして掃除のやり残し、または時間を超過したことが理由でユースティティアに行われた体罰もまた、いつしか掃除の有無は関係なく、毎日のように行われることになった。
当番制であるはずの、朝の辛い水汲みは、毎日のユースティティアの仕事になった。
時にはユースティティアの体力や、力、背の高さでは実現不可能な仕事をやらされることがあった。
無理だと言えば、体罰。
やったとしても、最後までできなければ体罰。
そして万が一にもできてしまったとしても、何らかの粗探しをされて、体罰を受ける羽目になった。
そして目つきが生意気だという理由で、体罰を受けた。
体罰の種類は多岐に及んだ。
顔を殴られたり、張られたりすることはしょっちゅうだった。
お尻や背中を平手、または鞭で叩かれることもあった。
食事を抜きにされたり、散々脅された後に暗い部屋に長時間閉じ込められることもあった。
酷い時には数日中、ずっと立ったまま「反省」させられたり、真冬に冷水を掛けられて放り出されることもあった。
体罰を受けていない時は子供たちに虐められた。
殴る蹴るは当たり前として……
泥や石を食べさせられたりした。
虫――ミミズや毛虫――を食べさせられることもあった。
時にはボールをユースティティアに当てる遊びも行われた。
ユースティティアはいつも、子供たちの遊び道具にされた。
いつしか、ユースティティアは自然と「謝罪」するようになった。
生まれてきて、ごめんなさい。
生きてて、ごめんなさい。
紅い目で、ごめんなさい。
いつからは分からない。
おそらく、どこかの段階で「謝罪」するように言われたのだろう。
それが癖になった。
殴られるたびに、「謝罪」を口にするたびに、ユースティティアは自分の心が黒く濁ってくるのを感じた。
どうして、自分ばかりこんな目に合わなければいけないのか。
それは自分が弱いからだ。
弱いから虐められ、搾取され、酷い目に遭う。
(……人は二種類いる。人から奪う者と、人に奪われる者だ)
幼いながらもユースティティアはそれを学んだ。
そして……
奪う側にならなければ、奪われる側にされてしまう。
ユースティティアはそう思った。
そんなユースティティアが初めて物を盗んだのは、五歳の誕生日だった。
その日、ユースティティアは五歳の誕生日であるにも関わらず、丸一日食事を抜きにさせられた。
どのみち、誕生日を祝ってもらえたことなど今まで一度もなかったのだが……
他の職員や子供たちがルペルカーリア祭を祝い、普段より豪勢な食事を食べている中で、一人だけ空腹の中、一人だけ空腹の中、立たされるのはとても屈辱的で、惨めな気分になった。
その夜はとても辛かった。
空腹で頭がどうか、なりそうだった。
だから深夜、ユースティティアはこっそり起きだし、台所に忍び込み、食べ物を盗んだ。
盗んだ食べ物は、今までユースティティアが食べたことのある、どんな食べ物よりもおいしかった。
それからユースティティアは度々、食べ物を盗むようになった。
この時、ユースティティアの中で、盗みという行為は生きるための手段として正当化され、そして空腹を満たすという快楽に結び付いた。
食事以外。
生命の維持に直結する理由以外でユースティティアが物を盗むようなったのは、六歳の誕生日が近づいてきた日のことだった。
いつもユースティティアを虐め、ユースティティアから食べ物を奪ったりしていたガキ大将から、小さな木箱を奪った。
それは彼が孤児院でお手伝いをして、ようやく木材を買ってもらい、そして工具を借りて、初めて作った木箱、宝物箱だった。
彼はそこに自分の宝物、見つけた綺麗な小石や玩具の部品などを入れていた。
彼はユースティティアを虐めるときに、それを自慢した。
お前はこんな良い物を持ってないだろう?
いつもぼろっちい、雑巾になる前の服しか着せて貰えてないしな、と笑いものにした。
そして雑巾を絞った後の汚水の入ったバケツの中にユースティティアの顔を突っ込んだり、その水を飲ませたり、頭から被せたりし、そして最後に雑巾で顔を拭かせた、
ユースティティアはその時、酷く腹が立った。
その日の夜、彼の宝物、全てを木箱ごと盗んだ。
そしてそれを自分のベッドの下に隠した。
いつもは偉そうにしているガキ大将が、涙目で自分の宝物を探している様子は、とても滑稽だった。
これほど愉快なものはなかった。
それはとても……甘美な快感だった。
ベッドの下という分かりやすい場所に隠しているのにも関わらず、それは見つからなかった。
ユースティティアは知る由もないが……
ユースティティアが無意識のうちに、隠蔽の魔法を使用していたのだ。
それほどまでに強く、ユースティティアはそれを隠したいと、手に入れたいと思っていた。
ユースティティアの犯行は完璧だったが、疑われた。
悪いことをする奴はあいつしかいない、という極めて単純な理由からだ。
原因が分からないことがあれば、何でもユースティティアのせいにするというのが孤児院のルールとなっていた。
ユースティティアは隠した場所を言うように体罰を受けたし、そして虐めも酷くなった。
それでもユースティティアは言わなかった。
言ったところで許してもらえないことをユースティティアは知っていた。
そしてまた、より虐めや体罰が酷くなることも分かっていた。
いつしか「盗み」はユースティティアにとっては、唯一の反撃手段になった。
一度盗んで、隠してしまえばそれを相手は見つけることはできない。
普段は強気な顔で自分を虐めている者たちの狼狽する顔を見るのは快感だった。
反撃手段だった盗みは、いつしかユースティティアの唯一の趣味になった。
欲しいな、と思ったものは必ず盗み、宝箱に入れた。
私物を持つことが許されていないユースティティアには、盗みだけが物を得るための手段だった。
そして……見つかったら酷い目に遭うかもしれないというスリルと、それに引き換えに得られる快楽はユースティティアにとってはとても刺激的で、魅力的な遊びだった。
孤児院の大人たちは証拠こそ見つけられなかったが、ユースティティアに対して「人から物を盗んではいけない」と言って、体罰を加えた。
しかしそれはユースティティアの窃盗癖をより正当化させる効果をもたらした。
ユースティティアにとっては、孤児院の大人たちは全員が敵であり、悪人だった。
彼ら彼女らはユースティティアが何もしていなくても、ユースティティアに対して暴力を振るったからだ。
自分の敵が、悪人が困っている。
それはつまりユースティティアにとっては、都合の良いことであり、そして正義だった。
その時にはすでに、ユースティティアには「人から物を盗むことは悪いことだ」という意識は消え失せていた。
七歳の誕生日を迎える一週間ほど前。
生意気な顔をしているという理由で、ユースティティアは院長に殴られた。
そして理不尽に怒鳴られ、蹴られた。
「お前の父親が! 私の夫を殺したんだ!!」
(また、私の父親か)
ユースティティアは無性に腹が立った。
私の父親のやったことは、私に関係ない。
お前の夫が死んだことなんて、私に関係ない。
むしろお前のような奴が、私の父親によって不幸になったと考えると、清々するくらいだ。
と言ってやろうとしたが、その時は堪えた。
そして……孤児院の院長が持つ、亡き夫の形見の結婚指輪を盗むという方法で復讐を果たした。
盗んだ証拠は残さなかったが……
やはりユースティティアは疑われた。
いや、正確にはただ、指輪を無くした鬱憤をユースティティアで晴らしたかっただけなのだろう。
その日のユースティティアへの体罰は、特に酷かった。
まずギザギザの板の上に正座をさせられ、ひたすら自己否定と「謝罪」をさせられた。
二日間、食事を抜かれ……
そして一睡もさせて貰えなかった。
何度も何度も鞭で叩かれ、そして最後には頭から冷水を掛けられ、冬の夜に放り出された。
どうにか死ぬ前にユースティティアは許してもらい、孤児院の中に入れて貰えた。
そしてその夜。
空腹を満たそうと、台所に忍び込もうとしていた時。
ユースティティアは孤児院の院長と、そして職員たちの話し声を聞いた。
「あのガキ、どうする?」
「そろそろ殺してしまって良いんじゃないか?」
「でも殺してしまうと、政府からお金が下りないし……」
「あの小娘を預かっているから、多額の補助金がこの孤児院に来るのよ?」
「あの子供を殺すと、私たちの給料が減ることになるし……」
「だが、手が付けられなくなるかもしれないぞ? やはり魔法使いの子供、俺たちにはない魔法力を持っている」
「本当にムカつく! 何であんなガキが魔法なんて力を……」
「もしかしたらどこかの貴族が引き取りたいと言いだすかもしれない」
「あのガキが貴族に引き取られて、幸せになるなんて……考えただけで腹が立つ!」
「やはり殺すべきだな」
「少なくとも、私はもう我慢できないわよ! 形見の指輪を盗むなんて……ああ、今すぐにでも殺してやりたい!」
「さすがに直接殺すと、問題になりますよ。院長……間接的に事故を装って殺さないと」
「どうせ殺すなら、今よりももっと、苦しめて殺さないと……」
「少なくとも、殺された私たちの家族の分は苦しんでもらわないと。その報いを受けさせないとね」
殺される!!!
殺される前に、逃げなければ!!!
ユースティティアは、毛布の代わりに与えられていた、薄いタオルを肌着の上に纏い、孤児院から逃げ出した。
冷たい石畳の上を裸足で走り、充てもなく彷徨った。
とにかく、孤児院から遠くへ。
何も食べず、寒さでまともに眠ることもできず。
逃げ続け……
そして倒れた。
その日はユースティティアの誕生日。
ルペルカーリア祭の日だった。
よりによって、こんな日に死ぬのか。
ユースティティアは自嘲気味に笑った。
もう一歩も動けなかった。
だんだんと寒さの感覚もなくなり、何も感じなくなる。
意識が暗闇に吸い込まれている中で……
「大丈夫か? 意識はあるか?」
誰かが、ユースティティアの頬を軽く叩いた。