クライスは独裁者などになりたかった訳ではなかった
クライスは独裁者などになりたかった訳ではなかった。そもそもを言えば、政治家としての意欲がどれほど高かったのかも分からない。
彼はただ単に金融立国を目指すべきだと主張する政治家の一人で、規制緩和による金融ビジネスの活発化以外には興味がなかった。政治家になりはしたが、政治関係者のコネをつくり、彼が望む政策のいくつかが実現化すれば直ぐに辞める気ですらいた。
そんな彼が変わったのは、彼と対立するモモリス党の政治団体が、彼に対するネガティブ・キャンペーンを展開した事が切っ掛けだった。
彼は多少、女好き過ぎる嫌いがあり、それで過去に何件かの女性関係のトラブルを抱えていたのだが、そこを攻められたのだ。彼はそれに大いに憤ったが、それでも事実だけを言われたならそんな行動には出ていなかったかもしれない。
彼の女性遍歴は大いに誇張して、世間に流布されたのだ。
元々、財力に秀でていた彼は、復讐する為にマスコミのいくつかと業界団体を買収し、対立するモモリス党の“よろしくない行い”を徹底的に洗い出して糾弾した。
クライスが守銭奴で、金の亡者だと思っていたモモリス党の人間達は、彼が莫大な金をかけてまで自分達に復讐をするとまでは考えていなかったのだ。
それは大いなる誤算だった。
結果として、モモリス党は大ダメージを受け、支持率も急降下した。
そして、それはクライス達が所属する政党と真っ当に議論する相手がいなくなるという事でもあった。
――さて。
議論とは本来は“適切な結論”を導く為に行われるものだ。
その意味で、論敵というのは敵であると同時に実は協力者でもある。違った観点、異なった価値観、自分達では気付いていなかった欠点を指摘し、糺してくれる存在。
だからこそ、論敵には敬意を持って臨まなければならない。それは決して、排除すべき下劣な相手ではないのだ。
もしいなくなれば、議論を慎重に精査するという重要な過程・機能が欠損してしまう。
ところが、クライス達はその論敵を…… つまりは有益な協力者を、排除してしまったのだ。
クライスはモモリス党の力を削いだその一件で、党の中で高く評価され、その地位も向上した。
すると、彼が力を入れたがっていた政策の実現性が俄然増した。ところが、そこに反論があった。経済学者などの専門家の数名が、彼の政策はバブル経済の発生を招きかねないと懸念を表明したのだ。
党の中でもそれは物議を醸し、それにより政策の実現は停滞をした。
ここで、大人しく静観するような態度を見せていたなら、或いは、彼は普通の政治家の一人として終わっていたかもしれない。
だが、彼はそこで先の成功体験を忘れられなかったのだった。
手に入れた権力を用いて、自分に反する経済学者らの発言力を削いでいく。自分に反対する党の人間達を抑え込んでいく。
そうして彼は、遂には自分の金融政策を実現させてしまったのだった。
――ここに至っても、まだ彼は自分が独裁者を目指しているとは思っていなかった。その自覚もなかった。
彼はただただ自分が正しいと信じる政策を実現したいと思っていただけだったのだ。
様々な人間達の精査を受けない彼の政策は穴だらけだった。
結果として、経済学者達が懸念した通り、バブル経済を招いてしまった。一見はそれで好景気になったかに思える。クライスの支持は益々高くなり、彼はそれで権力を確固たるものとした。
ただし、もちろん、バブル経済はいずれは弾ける。
……人々が怒りの声を上げていた。
バブル経済が弾けたことで、一気に恐慌状態に陥ってしまったからだ。今までは盤石だと思われていた会社が、いくつも経営難に追い込まれていた。
人々はその責任の全てはクライスにあると主張していた。多くの懸念事項があったにも拘らず、強引に独善的に自分の政策を進めた結果だ、と。
クライスは彼らに怒りを覚えた。
バブル経済の最中はあれだけ自分を賞賛していた連中が、手の平を返している。なんて身勝手なのだ。
もちろん、自分がそれ以上に身勝手だとは気が付いていなかった。
彼はマスコミに敵意を向けた。
その時、彼に以前から反対していたマスコミの一部は一斉に彼を批判していたのだ。
クライスは、民衆の一部が暴徒になりかけていることを利用して、マスコミを粛正することにした。
彼は、緊急事態宣言を発布し、議会を経ることなく、政策を実行できるようにすると、それにより警察を動かして「民衆を煽動した」とし、自分に反対するマスコミを一斉に逮捕して排除してしまったのだった。
――彼の行動は、言うまでもなく独裁行為そのものだった。
今では流石に彼自身もそれを自覚していた。
自分は独裁者になった、と。
しかし、どうしてそうなってしまったのかは理解していなかった。
自分はただただ下劣で卑怯な嘘つき連中に報復をしてやっただけなのに……
一体、どうして、こうなってしまったのだろう?
……以上、ここで述べた話はもちろんフィクションですが、実際に似たような事件は起きています。民主主義は非常に強固な構造を持っていますが、それでもそれを支えているのは、どうやら、政治家自身やそれを支える人間達の自制心であるようなのです。
それが失われた時、どこの国でも似たような状態に陥る危険があります。
ライバル党を正当な論敵とは見做さず、ただただ排除しようとし、自分達に反対するメディアをフェイクニュースをばらまくとして認めようとしない。
例えば、日本の首相はライバル政権時代を「悪夢」と形容し、また、与党の何者かは野党を貶めるような冊子を配りました。
一方、野党にだって問題があります。
野党の議員や支持者達の一部は、首相や大臣等を呼び捨てにしているそうです(僕は実際にそれを耳にした事があります)。
お互いの礼を失した態度が野放しになれば、それが相互作用してエスカレートしていき、敬意を払うべき論敵を、排除すべきただの敵にしてしまうのです。
そして議論はただの口喧嘩になります。口喧嘩になれば、そこで行われるのは建設的な議論などではなく、もはや権力争いです。
本来議論とは適切な結論を導く為に行われるものです。
そしてそれには、この社会をより良くするという目的があったはずです。
どうか、論敵を排除する為に活動を行ってしまっていないか、よくよく注意をしてください。
参考文献「民主主義の死に方 スティーブン・レビツキー ダニエル・ジブラット 新潮社」