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災害遺構

作者: 北風 嵐

8・6が来ます。原爆ドームはどのようにして残されたのか・・


それは一人の少女の日記の1ページの短い文によってであった。 この少女と年齢を同じくする老女が東北の被災地に旅立った。 原爆ドームの保存の歴史を振り返って、東日本大震災の遺構問題を考えて見た。

1 広島・原爆ドーム


あの船が解体される…残すと言っていたのではなかったのか?

津波で打ち上げられた気仙沼の第18共徳丸のことである。あれほど、津波の猛威を伝えるものはないと、岡崎由美子は思っていた。


岡崎由美子は昭和20年の12月に広島で生まれた。母の松枝は被爆している。由美子はその時、母の胎内にいた。いわゆる『胎内被爆者』である。母松枝は、外見はなんともないが、裸になると背中にケロイドの跡があって痛々しい。たまに原因不明の発熱で1週間ほど寝込むことはあったが、大過なく過ごし、2年前、88歳で亡くなった。

父は戦地に行っており、半年後に帰ってきて被爆していない。由美子は遺伝的な後遺症を恐れたが、母と同様大過なく暮らせて来た。松枝は洋裁が出来、ずっとミシンを踏み家計を助けてきた。父は東洋工業マツダの自動車工として勤め上げ、今は悠々の年金暮らしで、好きな囲碁三昧である。由美子には下がいない。両親はやはり産めなかったようである。


由美子は結婚したが住いは生まれた所である。敷地が広かったのでボロ家であったが同居出来た。夫は父親と同じ会社に勤める自動車工で5年前に退職した。身体が元気な内は働くと、今も近くの自動車部品の町工場で旋盤を回している。

由美子の家からは、原爆ドームがいつも見える。そのドームと共徳丸をダブらせた。


東北の大災害は原発の事故と相まって、由美子には他人事とは思えず、関心を払ってきた。若かったらボランテイアでも何でも行ったのにと思ったが、腰痛持ちの身体では足でまといがオチだろう。せいぜい街頭募金に奮発するしかなかった。

だから、共徳丸が解体されると聞いて残念だったのである。自分の経験を現地の人に話して見たいと思った。その体験とは「原爆ドームの保存」に対するものであった。


1996年12月原爆ドームはユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。世界遺産ブームの中、さまざまな年代・国籍の人が多く訪れるようになった。

原爆資料館と原爆ドームが、世界最大の旅行口コミサイトがまとめた外国人に人気の国内観光地ランキングで2年連続の1位になった。資料館は楽な気持ちで見られるものではない。それでも1位なのである。

12年度の資料館の外国人入館者数は15万人を超えた。資料館を訪れた外国人が「地球上全ての人が見るべきで、入る前と別人になる」などと書き込み、その評価は高い。同県の厳島神社も2年連続4位で広島は有力な観光スポットを二つ持つことになる。

由美子は世界遺産になった時、大変に嬉しかった。そして二人の少女を思い出していた。一人は由美子が通っていた高校の1年先輩の楮山かじやまヒロ子、もう一人は『原爆の子の像』のモデルになった佐々木禎子である。


原爆ドームは1917年広島県物産陳列館として建築された。館内は常時広島県下の物産が展示され、西日本で唯一のパイプオルガンが設置されていたり、ドームの下には秀麗なステンドグラスが嵌め込まれたり、舞踏会やクラシックコンサートが開かれたりと、当時の広島における文化の殿堂的存在であった。

それが1945年8月6日、米国による原子爆弾投下により広島全体が一瞬にして廃墟となった。終戦直後、市民はまさに生きるのに精一杯で、遺構の保存などという発想はなきに等しかった。むしろあの忌まわしい惨禍を思い出されるものとして除去して欲しいという意見が多かったのである。

戦後の広島を平和都市として再生するというビジョンを強力に推し進めていた原爆市長と名前を持つ浜井信三氏も、市民のそういった声を無視することはできず、1951年には一旦原爆ドームの保存に関しては不必要との見解を示したほどである。ただ、解体する費用もなく放置されていたのが実情であった。


1955年(昭和30年)、丹下健三氏の設計による「広島平和記念公園」が完成した。丹下氏の案は公園の中に資料館、慰霊碑の先に原爆ドームを望むものであり、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものであった。シンボル的存在となったのであるが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こった。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になったのである。


***

市当局は財政的負担の面から原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは地元の女子高校生の日記であった。

その女子高校生が楮山ヒロ子なのである。彼女は1歳の時に自宅で被爆し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。残された日記の1959年8月6日のページに、「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を訴えてくれるだろうか」と書いたのである。


この日記を読み感銘を受けた『広島折り鶴の会』が中心となって保存を求める運動が始また。佐々木禎子は2歳の時に被爆し、12歳の時にヒロ子と同様、白血病で亡くなっている。その同級生たちが『原爆の子の像』の建立を求めて始めた運動の会が「折り鶴の会」なのである。

粘り強い運動は、原水禁、被爆者、市民団体などに届き、市議会も動き出すのであった。保存の調査が行われ、1966年(昭和41年)7月、広島市議会は「原爆ドーム保存」を全会一致で決議。被爆21年目にしてやっと結論に達したのである。


歳も同じぐらいのこの二人の少女の名前を由美子は複雑な思いで聞いていた。由美子は原爆ドームが好きでなかった。自分の被爆が思い出されるからである。自分は彼女らと違って『胎内被爆』であるが、被爆には違いない。やはり命に怯えたのである。

そんな思いを中学生の時、母にぶっつけたことがある。

「お母さんはなんともないの?」

「なんともないことはないよ。でも10年も見てると、風景になってしまって、無くなると寂しく思うんじゃなかろうかね」と答えた。

 母は何事にも淡々とした人であった。だから、大過なく元気で過ごせて来たのかも知れない。そんな母もぽつんと「お父さんに申し訳なくてね」と呟いたことがあった。

父の方が、母だけが被爆したことに負い目を持っているようであった。

「どうして?」と由美子は思ったが、結婚して初めて母の心情がわかったのだった。


広島で生まれ、育ったこの年の者はほとんどが被爆しているのであるが、皆はあまりそのことを口にしなかった。由美子は特にそうであった。元々、内気な由美子は益々内気になり、目立つことが嫌いな性格になっていった。そんな自分を解き放ち解放したい思いは年々募るのであった。

そんなことで・・同情よりはむしろ彼女らに反発を感じていたのである。折り鶴の会の保存運動にも反対であった。「静かにしといて」が由美子の偽らざる心情であった。

そんな由美子が変わっていったのは、子供を産んでからである。結婚しても夫にも隠していた。由美子の生まれた年や、場所がわかれば分かる話なのであるが、それでも隠し話さなかった。最初の子を身ごもって初めて告白した。

「アホか、そんなん分かりきってることやろ。被爆した場所の家に俺らは住んでるんやで、そんなん告白にもなっとらん」と夫は笑い、無事生まれたことを喜んでくれたのである。二人目の時も躊躇したが夫に励まされ、長男、長女の2子を得たのである。


この子らが、そしてこの子らの子らが、戦争もなく過ごせて行けるように願ったとき、原爆ドームに対する見方が変わり、由美子は解放されたのである。実に30年かかったのである。

 50歳を超えると、原爆ドームを自分自身と同一視し始めたのである。自分も老いていくと同時にドームも老いていくことに愛おしさを感じ、このまま生き残ってほしいとの感情が芽生えたのである。母の言う風景、家から見る風景だけでなく、由美子の心の風景になったのである。そして、二人の少女に報いたいという思いを強くした。

こんな思いを被災地の人に伝えられたらと、由美子は思ったのである。


2 気仙沼・第18共徳丸


岡崎由美子が東北の被災地で自分の経験を話す機会は思わぬところからやって来た。被災地の遺構の保存を考えているグループが、原爆ドームの保存運動を現地で調べ、参考にするために広島にやってきているという記事を由美子は見ていた。

中国新聞社の記者から由美子に、会って話して欲しいとの連絡が入ったのである。保存に反対であった由美子が、賛成になった経過が参考になるのではと記者は思ったようである。以前、新聞社の特集で由美子はインタビューを受けたことがあった。それを、その記者は覚えていたのである。


保存の会のリーダーは由美子の話を聞いて、是非現地に来て皆に語って欲しいと要請したのである。

「原爆ドームの写真は何度も見て知っていました。しかし初めて広島に来て現地で見るのとでは思いは遥かに違います。私たちが聞いてきた話として話すより被災された人の直の話の方が参考になると思うのです」と、50代の女性のリーダーAさんは、由美子に言ったのである。

Aさんは釜石市の鵜住居うのすまい地区防災センターで娘さんを亡くしている。

遺族連絡会の中は保存には賛否両論があり、自分としては是非残して欲しいと願っていると語った。


由美子は東京駅から東北新幹線に乗り換えた。東京までは高校の修学旅行で来たことがあるが、そこから北は初めてであった。広島から出たといえば後は、万博の時である。関東平野は思ったより広く、関東ローム層の土は広島の土の色とは違って黒いのが珍しかった。車窓に点在する防風林に囲まれた人家も珍しかった。見知らぬ土地で、上手く自分の思いを伝えられるのか、由美子は近づくにつれ緊張が増して来たのである。


会から旅費と宿泊費を出すとAさんは言ったが、由美子は語られる機会が与えられたことに感謝していると固辞した。旅費は辞退し、Aさん宅に泊めて貰うことになった。

釜石に行く前に、何が何でも気仙沼のあの船を見ておきたいと思っていた。一関で降り、大船渡線で気仙沼に入った。災害があるまでは、気仙沼と言えば森進一の歌に出てくることしか知らず、宮城県ではなく、岩手県だとばかり思っていた。あとリアス式海岸で海に面していることぐらいしか知らなかった。


気仙沼漁港を初めとした市内の各漁港は、三陸海岸での沿岸漁業・養殖漁業、世界三大漁場「三陸沖」での沖合漁業、さらに世界の海を対象にした遠洋漁業の基地として機能し、関連する造船から水産加工までの幅広い水産業が立地する港町である。

人口はピーク時には9万人を超えていたが、現在は7万人を割っているとか。


災害の新聞は1年分取り置いた。そして息子にいろいろ訊いていると、息子がパソコンをプレゼントしてくれ、〈ネットで検索〉を教えてくれた。今ではそれぐらいの知識は頭に入っている。気仙沼市の死者・不明者は1400人程である。


船が打ち上げられている鹿折ししおり地区は、津波に襲われたうえに震災当夜には大火災が発生して、一帯が焼けつくされた。あの海が燃えている光景にはテレビといえ、由美子は涙したものである。ネットの画像で見た災害直後の積み上がっていたがれきや、焼け焦げた車の残骸の山も、今ではすっかり片づけられ、震災後に建てられたと見られる一部の仮設の建物を除けば目の前には広大な「空き地」が広がっていた。


第18共徳丸は全長60メートル、総トン数は330トンもある大型巻き網漁船で、港から750メートルも離れた市街地まで運ばれた。ほかに何もない中で一際大きく巨大な姿を真夏の青空を背景に見せていた。

カメラやスマートフォンで写真を撮る人が船の周りに多くいた。観光気分の浮かれた雰囲気はなく、人々は船体の前に設けられた簡易な祭壇に手を合わせていた。由美子も写真を撮りながら、これほど津波の脅威を語るモニュメントにふさわしいものはないと思った。建物ならそこで死んだ人もあり、遺族の感情もあろうが、この船では誰も死んではいない。


当初、市は保存の方向であった。船の持ち主も市の意向に添うつもりであったが、見るのがつらいとの市民の意向を無視できないと撤去を申し出てきた。市は船主の翻意を促そうと市民のアンケートを取ったところ、7割が撤去に賛成であったので解体を了承したという。9月から解体は始まる。


なぜ、この時期にアンケートを取ったのだろう。原爆ドームだって5年経過した時点でもアンケートを取れば撤去になったであろう。市が本気で保存を考えたのなら何故、船主から買い上げなかったのだろうか。その上で住民にその必要性を粘り強く説明すべきではなかったのか。跡地を公園にするという。何も周囲に建ってはいない今、特別邪魔でもない。急ぐ必要があったのだろうか?由美子は〈時期の早いアンケート〉という手法に割り切れないものを感じた。


住民の声を聞くと言う名分で、何か行政の責任を放棄しているのだはないだろうか。今ではなく、もう少し遠い時間の中で思考する責任が行政にはあるのではないか。現地で船を見ながら由美子が思ったことであった。

近くの仮設に住む人に聞いてみた。男性は「うーん、どうだろう。(保存施設を)つくるのは簡単だけど、維持管理にどれだけお金がかかることか。それなら早い復興に回すべきじゃないかな」。それ以上多くを語らなかったが、被災経験を呼び起こさせる大型船をいつまでも残しておきたくないのかもしれない。逆に、仮設商店街で商売を営む女性は「私はぜひ残してほしい」ときっぱり言い切った。「船がなくなったら、誰も鹿折に来なくなってしまうから」。人それぞれの生活があり、現実があるのだ。


3 釜石・防災センター


気仙沼から釜石までは、JR大船渡線で盛まで行き、三陸鉄道南リアス線に乗り換え吉浜まで、路線バスで釜石駅前まで行った。吉浜~釜石間は未だに不通なのである。

駅前にはAさんが由美子を出迎えてくれていた。Aさんは遠野市に住んでいて、娘さんをこの釜石鵜住居地区に嫁がし、娘さんは防災センターに避難して亡くなっている。

車で釜石市街を廻って貰った。釜石では死者・行方不明者合わせて千人程の犠牲者を出している。釜石市は気仙沼と同様漁業も盛んであるが、違うところは新日鐵住金釜石製鐵所があり製造業がもう一つの産業としてあることである。

最盛期の人口は9万人を超えたこともあったが、製鉄所の高炉の休止に伴い人口が減り、その上に今回の災害で、現在は最盛期の半分以下の約4万人程ということである。単に震災による人口減というだけでなく、地方の難しい問題を抱えているのだ。


瓦礫は綺麗に片付けられており、営業を再開している店もあるが、歩道や空き地には雑草が生え、閑散としている。使用されない建物と人通りの少ない閑散とした風景は今回の津波だけが原因とは思われない。津波の被害を受けた建物の撤去跡に新たな建物が再建されるとは限らない。一言で復興というが生易しいものでないと思われた。

規模の復活でない、従前にない新しい発想がいるのではないかと思ったが、「さてどんな発想かは私には無理。賢い人に考えて貰うしかない」由美子は苦笑した。


鵜住居地区は国道45号線沿いに東にあり、JR山田線(釜石~宮古)で釜石から二つ目の駅にあり、ホタテの養殖で有名な大槌湾に面する。山田線は復旧のめどが今もついていない。赤字線でJR当局は廃線にして高速バスにするか態度を明にしていない。山田線が廃線になると、南北三陸鉄道リアス線は分断されることになるので残して欲しいとAさんは語った。

鵜住居町は釜石市で最大の被害かあった地区である。釜石市の犠牲者の半数以上がこの地区であり。この地区の犠牲者の半数近くが防災センターの犠牲者であるのだ。

「鵜住居」という地名の由来を聞いた。鵜住居川があり、以前は河口には干潟があって鳥の生息地で実際鵜も住んでいて、長良川の鵜はここから出たものであるとAさんは説明してくれた。鵜住居駅前に立ったがどこが駅で、どこが駅前かもわからないほどで、夏草の匂いがした。


鵜住居地区防災センターは、鉄筋コンクリート2階建て、海岸線から1.2キロ、標高4.3メートルに立つ。瓦礫が片付けられた跡にポツンと姿を見せていた。ここに2000人以上の住民が避難し、津波にのまれそのほとんどが亡くなった。海に近く、津波の避難場所ではなく、水が引いた後に被災者が身を寄せる避難生活を送るための施設であった。なぜ、そこに多数の人が向かったのか?


ここで度々津波の避難訓練が行われてきた。災害が起きた同年3月3日の避難訓練には早朝にもかかわらず100人が参加。500メートル離れた高台の会場の参加者を上回るまでになっていたのである。

津波が襲ってきたのはその8日後である。住民が津波の避難場所と勘違いしていたことは明らかである。2011年3月11日。釜石市鵜住居町には奇跡と悲劇が隣り合った。海沿いの小中学校は周到な防災教育が実を結び、一人の犠牲者も出さず「釜石の奇跡」と称賛された。

多数の犠牲者を出した本件について、調査委員会は中間報告で、事態を回避することは可能であり、行政の適切な対応で、生命を救う機会は多くあったとし、住民の生命を守るのは行政の責任であることからすると、市の行政責任は重いと指摘した。


「どうして2階建てだったのですか」と、由美子は前から聞きたかった質問をAさんにぶっつけた。Aさんはこのように話した。

「センター建設は、老朽化した市の出張所や公民館を1カ所にまとめて建て替えて、消防出張所を併設する計画で始まったのです。建設の財源は市債の発行に頼らざるを得ず、防災施設建設の名目なら市債の割合を高められ、国の補助金も期待され、防災の役割は後付けだったのです。結局、国の補助は受けられず、予算上の制約もあり、3階建て以上とすることや屋上への避難階段の設置は検討されなかったのです」。

せめて、訓練の後で、津波が来た時はここではないと念を押していてくれていたらとAさんは涙した。「防災センター」と言う名前が多数の人を犠牲にしたと由美子は思った。


夜は遠野市のAさん宅で泊めて貰った。今年還暦を迎えるというご主人と二人住まいで、農業を営んでいる。「遠くからご苦労さんです。疲れられたでしょう。ゆっくりしてください」と夫妻は遠路を労ってくれた。

遠野市は河童や座敷童子などが登場する「遠野民話」で知られる柳田國男の遠野物語で余りにも有名である。人口3万の静かな町である。この遠野市が被災のとき、後方支援自治体として重要な働きをしたのである。

市長は神戸震災の時ボランティア活動に従事していて、近隣自治体の支援の重要さを痛感していた。市長に当選して市の防災計画を立てるときに、同時に隣接自治体が被災したときにどう支援するかをあらかじめ計画に入れさせていたのである。だから、迅速に対応出来、ボランティアを受け入れたり、物資の補給と、後方支援の基地となったのである。これはAさんの主人の話である。


翌日、夫妻とともにセンターに設えてある祭壇に花を持ってお参りに行った。手を合わす夫妻に由美子はその無念を思った。その後市内で開かれた会合に出席した。

「会場は保存賛成の人の方が多いようですが、反対の人も見えています。反対と言っても何が何でも、というわけではないのです。また賛成と言っている人でも反対の人の心情は理解出来るので複雑なのです」と、Aさんは会場を見渡して、由美子に説明してくれた。


由美子は大勢の人前で話した経験はない。大きく深呼吸して、ゆっくりと自分の体験を話出した。グループで来られた時に一度話しているので、整理出来て話せたと思った。広島の例だけでなく、気仙沼で見てきた共徳丸にも触れ、時間をかけて、急がないことを力説した。

「維持費や、費用の問題だけで考えないでください。これが、ここがあるから、後々助かる命があるならと考えて下さい。広島の原爆ドームはその被災で死んで行った少女の後を思う日記の1ページから始まっています。今、見るのが辛くっても、時間とともに人の気持ちは変わるものです。忘れようとしても忘れられないものです。後に悔いを残さないで下さい。長い時間の中で位置づけて考えて欲しいと思います」と語った。自らの体験で語られているので、静かに頷く人が多かった。

その翌日、市長も出席しての市と遺族連絡会との会合があるのでそれに同席させて貰えることになった。


やはり遺族はこの中に避難して亡くなった縁者を思い、無念でやるせないのだろう。それは、また「早く撤去せよ」「保存すべき」の二つ感情になって表される。見たところ撤去の方が多数を占め、市もそれに乗りたいようであった。

Aさんは普段の穏やかな立ち振る舞い、表情と打って変わって論鋒は、鋭く厳しかった。

「見たくない意見が多い?市長が一番見たくないんじゃないのですか!犠牲者?違いますよ。市に殺されたのですよ」

「言い過ぎだ!」との意見が出た。

「500メートルも離れていない学校の生徒たちは全員助かっているんですよ。この建物がなかったら、避難訓練がなかったら、防災センターなんて名前がなかったら、せめて3階建てで屋上に繋がる階段があったらと思わないんですか。天災ではないのですよ、人災です。私は行政の責任だと思います。単なる遺構保存を言ってるのではないのです。そのことを肝に銘ずるために残すのです。私だって楽しくってお参りに来てるわけではないのですよ。見れば毎日辛いですよ。遺族の感情より、死んでいった者の無念や、後への願いを思ってやって下さい。亡くなった者の帰ってくる場所はここにしかないのですよ。市長なんとか答えなさいよ」

すすり泣く者もあり、Aさんの激しい言葉に野次もあり、会場は混乱し、市はとりあえず延期を言って席を立った。


会場を後にしてAさんは車の中で、「駄目です。冷静に話そうと思うのですが、話し出すと止まらないんですよ。言葉が勝手に出て来るんです」と言って、ハンカチを目頭にあてた。


出来れば、保存が検討されている宮古の田老地区の観光ホテルに寄りたかったのだが、70にならんとする由美子には、体力も費用も限界であった。帰りは夫妻に遠野の駅まで送って貰い、釜石線で新花巻駅まで出て新幹線であった。

2泊3日の慌ただしい旅であったが、こんなことでもなければ、来れることもなかっただろうと、夫妻に持たせて貰った土産の包に目をやった。そして目をつぶると、あの共徳丸の姿が浮かび、耳にはAさんの会場での話が聞こえて来た。由美子は「お役に立ったのかしら…」と自問した。




あの東北大震災・原発第事故ほどショックなものはなかった。暫くして振り返り、災害遺構と云う形で書いてみた。

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