第1話 初仕事をやってみた
なんだこれ…
胸が…
急激な痛みに、立っていることが出来ず、俺は思わずその場にへたり込んだ。
なんとなく思い立って、ジョギングでも始めようかと、部屋着兼パジャマのジャージでアパートの部屋を出た途端のことだった。
まだ、一歩も走ってない…
それどころか、アパートの階段を下りてすらない。
息が…
胸が…
薄らいでいく意識の中、最後に見たのは、隣りの部屋のドアがゆっくりと開いていくところだった。
「ねえ、なんか急に寒くない?」
「あん?」
女が、男に話しかけた。
問われた男も、言われて確かに温度が下がっているように感じた。
「暖房切ったのか?」」
「ううん、つけたまま、エアコン壊れたのかな」
「嘘だろ、マジかよ」
せっかく二人で生活を始めたばかりだというのに、何となくケチをつけられたようで、男は少しばかり腹を立てた。
大家に文句を言ってやらなきゃな。
男は一人憤る。
しかし、二人の生活資金は今のところ潤沢であることを思い出し、今度はほくそ笑んだ。
パンっ
パンっ、パン…
「な、何?」
今度はなにが弾けるような音が響く…
突然の音に、女が怯えた声を出す。
ラップ音、と言う単語が男の頭に浮かんだが、馬鹿馬鹿しいと、己れの思考を一笑する。
更にはカタカタと、部屋の小物が揺れる…
「やだ、何?」
異様な気配を感じ、女は男にすがりつく。
女の怯えた様子が男のカンに触る。
「大袈裟だな、落ち着けよ。別に何でもねーよ」
男はそう言って強がって見せた。
しかし、寒さは明らかに増している。
温度が下がるのに比例するように、部屋中に響くラップ音らしき音も激しさを増す。
カタカタカタカタカタカタ…
部屋中の物が同じリズムで小刻みに揺れる…
「ヤダ、ヤダ…、何なのぉ」
「うるさい、騒ぐな」
怯えすがってくる女を邪険にする男。
荒々しい態度に男の苛立ちが窺える。
そこにとどめのように電気が消える。
「嫌ぁぁ」
女は堪りかねて叫び声を上げる。
同時に食器棚から皿が飛び出し、てんでの方向に飛んでいく。
女の悲鳴に重なるように、皿が割れる音が四方から響き渡る。
「うるさい、黙れよお前」
男が大声で怒鳴る。
そこに…
真っ暗な部屋に…
ぼうっと…
微かに浮かび上がる人影…
「いやアァァァ」
「おあぁぁぁぁ」
男女の叫びがこだました。
つ、つ、つ…
疲れた…
帰った途端、思わずへたり込んでしまった俺。
運動不足なくせに、100メートルをいきなり全力疾走したかのような疲労感。
ドクドクドクと鼓動が波打ち、心臓が抗議の悲鳴を上げていた。
ような気がした…
俺の帰りに反応して、部屋の隅にいたハムスターが、トトトトッと俺に向かって走ってくる。
ハムスターの中でも小さめの、白とグレーの模様が可愛いジャンガリアン。
愛らしい…
「いや〜、初めてにしては上出来でしたよ樫村さん。お疲れ様です〜」
可愛い俺のジャンガリアン…、から発せられるおっさん声…
ダメだわ、違和感しかねーわー
慣れねーわー
「やだなぁ、樫村さん。心臓押さえて疲れましたアクション。もう心臓なんて動いてないでしょうに。」
そうだった。
ジャンガリアンハムスターに言われて改めて自覚する。
そうだった…
俺は…
俺は…
死んでたんだった…
机の上に置いてある、辞令だか当選のお知らせだか分からない、あの書類に再度目を通す。
樫村直樹殿
貴殿におかれましては、この度、目出度く幽霊資格を取得されましたことをお知らせ致します。
つきましては、今後名誉ある幽霊の一員として、貴殿のより一層のご活躍をお祈りしております。
最後に何語かよくわからない、ただ立派っぽい印鑑が押してある。
この紙切れを、書類の5分の1もない大きさのハムスターが、口に咥えて持ってきた時のことを、俺は一生忘れないだろう…
まあ、その時すでに人生は終わっていたわけだが…
無の空間。
気がつくと俺はそこにいた。
明るくもない、暗くもない。
寒くもない、暑くもない。
かと言って、適度で快適、というわけでもない。
さりとて不快でもない…
無。
なし。
この感覚を表現する言葉を俺は知らない。
少なくとも今まで体験した、どんな感覚にも当てはまらない。
そんな空間だった。
そこに、このジャンガリアンが書類を咥えてトテトテ走ってきたのだ。
うん、まあ、可愛い。
以外の感想ないよね。
俺に書類を受け取れというような仕草で、咥えた紙を押し付けるハムスター。
取り敢えずそりゃ誰でも受け取るでしょう。
手に取り、自然と内容に目を通した。
は?何?
樫村直樹殿…。
うん、とにかく俺宛なのは間違いないようだけど…
何?
っていうか、ここどこ?
「混乱していらっしゃるようでねぇ、樫村さん」
え、何?
今の声、どっから?
「さて、では説明させていただきましょうか」
なぜか偉そうげに踏ん反り返るハムスターの姿…
「は、ハムスターが喋ったぁぁっっ⁈」
可愛いジャンガリアンなのに…
そこから発せられるおっさん声…
思わずハムチャンから距離を取る俺。
ハムスターから逃げる20代後半、成人男子。
うん、情け無い絵面だわ。
俺の心情はさて置き、ハムスターは少し意外そうな顔をした。ような気がした。
「ほう、ハムスター、ですか?」
そしてその事実を噛みしめるように言葉を続ける。
「ほう、ほう。ハムスターですか。いや〜、珍しいなぁ、樫村さん」
「珍しいって、喋るハムスターが?」
そりゃ珍しいだろうよ。ってか、珍しいどころじゃないだろうよ。
でも自分で言う?
「ああ、誤解されているみたいですね。私、ハムスターじゃありませんよ。」
あん?
ハムスターに変化した魔物?
いやいや、厨二じゃないんだから。
あ、そうか。ハムスターに小型マイクか何かつけてそこから音声を。ああ、それだ、それだ。
「まあ落ち着いて。一から説明しますから」
「はあ」
返事にもならない返事をして、なぜか俺は、体育座りをして、ハムスターから説明を受ける体勢をとった。
客観的に見て、うん、シュールな図だわ。
「まずですね、樫村さん。貴方はすでに死んでいます」
あー、どっかで聞いたことのあるセリフ。まさか自分が、それもハムスターから言われるとは思ってなかったわ。
「聞いてます?」
聞いてます。
正直言ってそんな気はしていた。
いつ、どうやって死んだのか。
あまり記憶は定かではなかったが、俺の人生終わるんだなぁと、そんな風に思った記憶が微かにある。
で、気づいたらこの無の空間。
なるほど、ここがあの世か。
なんかイメージとは違うな。
じゃあどんなイメージだったかと言われると、大してイメージしたこともなかったが。
「本来なら、死んだ方の魂は、貴方方のおっしゃるところの、あの世に旅立ち、新たな生を受けるまで待機することとなります」
「なるほど、生まれ変わりと言うやつだな」
「まあ、そうですね。」
「ん?本来なら、って言った?」
「お気づき頂けて、話が早くて助かります」
「つまり俺は本来のルートから外れた、と」
「そう言う事ですね。外れた、と言うより、選ばれた、と表現していただきたいところですが」
「選ばれた…、ねぇ。つまり、幽霊に?」
例の書類を、ハムスターの上でひらひらさせてみた。
「名誉なことですよ?」
「名誉ったって、俺別に化けて出たい相手もいないんですけど…」
「だから、ですよ。いいですか?大抵の人は恨み辛みがあったとして、恨みごとをはらすことも出来ずにあの世に強制送還ですよ。彼らに変わってその大役を貴方が果たす訳です。」
「そんな見ず知らずのやつの恨みなんて…」
「選ばれた者の宿命ですよ」
「いや、勇者みたいに言われても…。しかも使者っぽいのがハムスターって…」
不本意そうに鼻を鳴らすハムスター。
「だから私、ハムスターじゃありませんよ。そう見えるのは、樫村さんのイメージなんですよ?」
「?」
「だから珍しいって言ったんですよ?」
「どういうこと?」
「まず、今のこの世界感、これが全て樫村さんの死後のイメージです」
あ、そうなんだ。
つまりイメージ無しってことか…
「で、私の姿は、神とかそういう存在からの使い。それを樫村さんがイメージしたものです。」
ジャンガリアンハムスターが、やれやれ的なジェスチャーで続ける。
「いや〜、ハムスターとはねぇ。私もこの仕事長いんですけどね、初めての経験ですよ。だいたい、狐とか、白蛇とかが多いんですけどねぇ。ああ、白いカラスとかもあるな〜」
俺を見上げてハムスターが喋る。
「いやぁ、勉強になるなぁ。樫村さん、貴方どんな宗教信仰してらっしゃったんです?」
なんかすみません…
俺の死生観って一体…
「まあ、そんな訳で、今後とも何卒宜しくお願いします」
そう言って、ハムスターはどこから出したのか一枚の名刺を差し出してきた。
「幽霊補助者 竜禅寺 霧彦」
これが俺と、大層な名前のハムスターのチーム結成の瞬間だった。