第5話
オレの思いに感化されたのか、教室に入って来た教師の顔までなんだか物憂げだった。
嵐山先生。まだ二十代後半だが着崩したシャツにぼさぼさの髪、ジャージにサンダル、無精ひげの剃り残しが目立つ、いかにも風体の上がらない教師だ。
ノリが若いから生徒たちからのウケはいいが、指導担当の教員からは毛嫌いされているであろうタイプの教師だ。あ、今欠伸した。
そんな嵐山が教壇に立って教科書を開いた瞬間、いきなり真顔になる。
時折「しまったなぁ」と独り言のような言葉が漏れ聞こえる。
何がしまったんだ?間違えてペ○ギ○ク○ブでも持ってきちゃったのか?
すると嵐山は窓の外に目を向け、おもむろにこう言った。
「今日はヤケにいい天気だなぁ。よし!! 決めた!! 今日は座学は中止にして校庭で大ソフトボール大会だっ!! お前ら着替えて10分後に校庭に集合しろっ!!」
な、何だってぇっ!!?
オレは自分の耳を疑う。嵐山は確かに破天荒なところはあったが、こんな授業進度を無視した暴挙に出たことなど一度も無かった。それになぜ今日に限って?
一瞬本気で動揺したが、すぐに落ちつきを取り戻す。
いや、こんなアホな提案に乗るヤツがいる訳がないか。
現代史が体育に化けるなどあり得ない事だ。オレはクラスの非難の声を頼りに、再び微睡もうとする。
だが。
「さ、さっすが嵐山先生だぜ。今日はちょうど体動かしたかったしな!!」
「あ、あぁ、オレもだよ。なんかこうたぎるっていうかなんて言うか……」
「わ、私だってそうよ。中学時代はウインドミルで鳴らしたんだから男子にだって負けないわよ!!」
やいのやいのと賛同の声が上がり始める。
ど、どういう事だ。このクラスに配属されてから一カ月、ここまで全員が一体となって盛り上がっているのは初めてだぞ。オレの知らない内に、なにか秘密のイベントでもあってみんな仲良くなっちゃったのか?
少しばかりの疎外感を感じたが……だが何かがおかしい。
全員の顔は笑っているが、なにか、声のトーンが必死すぎるような……?
無理やりテンションを上げている、そんな風にも聞こえるんだよなぁ?
「先生」
クラスの喧騒を遮るように女子生徒の声が響き渡る。
「私たちのクラスは、隣のB組より遅れてるんですからちゃんと授業して下さい」
声の主は時雨だった。
実に優等生っぽい発言だったが、まあ、本当の優等生が言っているのだから問題ないだろう。ヤツが教師に鋭い指摘をしている場面を何度か見た記憶がある。
しかし、それを聞いたクラスの連中はしんと水を打ったように静まりかえってしまう。
「う、慈、てめぇ、分かってんだろうなぁ!?」
耐えかねたのか素行不良で有名な男子が凄みをきかせて問う、というよりそれはほとんど恫喝に聞こえた。
「何が?ただ私は普通に授業をしてほしいだけなんだけど」
小不動明王は全く動じることなくそう言ってのける。
両者の間に火花が飛び散ったように見えた。
いや、違う。構図としてはクラス全員対時雨一人という様相だ。
何が起きている?
オレは寝るのを保留して即席台座に寄りかかりながら、騒動の行く末を見守る。
「ふっ、ふざけてんじゃねぇよっ!! テメェ!! なんで授業やんなきゃいけねぇんだよっ!! どう考えても今日はソフトボールに決まってんだろうがよぉ!!!」
そ、そんなにソフトボールやりたいのかよ?
バット握ったらボールよりも人の頭カチ割りそうなナリしてるくせに。
「藤堂っ!!大声だしてんじゃねぇっ!!!」
その時、藤堂くんに負けず劣らずの大声で叱咤する僕らの嵐山先生。
こ、これが大人のジョークというヤツなのだろうか。だとしたらとても笑えない。
「なあ慈よ。お前のことは成績も優秀だし、真面目で本当にいい生徒だと思う。でもな、世の中理屈だけで回ってるわけじゃない。オレはそれをお前に教えてやりたいんだ。だから、今日だって別に考えなしで言ってるわけじゃない。みんなで授業の代りに汗を流した、っていう思い出がきっと将来何らかのプラスになると信じてるからこそ、言ってるんだ」
「じゃあ、今日の授業の分はどうするんですか?」
「学びかったら後で職員室に来い。個別指導してやる」
嵐山先生とは思えない程の熱血教師発言。顔は似てるけど別人なのかな?
「それにこれはクラスの総意でもある。分かってくれ」
そうだ、そうだと追従するクラスの面々。
オレは只一人頬杖をついている。
対する時雨はうつむいて身じろぎもしない。
勝負あったな、と誰もが思った瞬間、時雨の口元が歪んだのをオレは見た。
あれは……冷笑ってヤツなんじゃないだろうか。
そして。
「分かりました。でも先生。アナタが今おっしゃったクラスの総意というのは、少し語弊があると思います。ちゃんとみんなの意見を聞かなきゃ不公平なんじゃないですか?」
「何だと?」
「ちゃんと、窓側の一番後ろに座る生徒の意見も、聞いてあげて下さい」
クスリと笑う時雨。
いきなり名指しされた、窓側最後尾の生徒はいったいどんな返答をしてくれるものやら。
ん?窓側最後尾って…………それ、オレじゃん。
な、なに火中の真っただ中に放り投げてくれちゃうのさ、お前は?
クラス全体が再び水を打ったように静まりかえる。
蛍光灯の音が聞こえる程の超静寂。
そして嵐山がゆっくりとオレの方へと向く。
おいおい、なんて顔だよ。仮にも教師だろ。
恐怖に彩られ血の気を失った顔がそこにあった。
今まで確かに腫物扱いを受けてはいたが、ここまで直接的に嵐山がオレに対して恐怖するのは初めてなんじゃないだろうか。
逃げ場を失った形の嵐山は、恐る恐る口を開いて尋ねる。
「し、し、むら、くんはど、ど、どうしたいの、かな?」
どうしたいも何も、寝たいんですが。
などと言える訳もなく、オレは少しだけ考えることにする。
嵐山は本当に生徒たちのことを思ってソフトボール大会をやろうなんて言い出したのだろうか?
いや、そんな訳ないな。
今日は確かに晴れている。本当に久しぶりの快晴だ。
だけど昨日まで続いていた長雨でグラウンドはグチャグチャなんだぞ。
さっき登校してくるとき校庭はまだ乾いていなかった。一限目だからきっと状況はほぼ同じだろう。そんな状態でソフトボールだなんて、嫌がらせにも程がある。
つまり嵐山はソフトボールがしたかった訳じゃない。どうしても授業がしたくなかったんだ。
……答えはいつも教科書に書いてあると相場は決まってる。
えーっと、たしか、今日の授業の範囲は、と。
オレは教科書をパラパラとめくり、そして唖然としてしまう。
これ……凡ミスにも程があるだろ。
現代史の教科書には、見覚えのあるベール姿の女性が載っていた。
預言者 死村慈恩、生物学的にオレの母親に当たる人。
そのページには預言者が倒れてから今日までの出来事が、年表形式で掲載されていた。
そしてその年表の中には数年前に暴走したギシンによって引き起こされた、ある大事件のこともバッチリと載っている。
極めつけはページの最後にギシンを一括管理する組織、死村財団からのメッセージ。
【ギシンを人間社会で孤立させてはいけません。
有事の際に神威が発動しなくなってしまいます。
ですが過度の接触は厳禁です。
感情を暴走させたギシンは、最悪の事態を招く危険性があります。
彼らの情緒が不安定だと感じたら、速やかに最寄りの財団支部までご連絡下さい。
MAKE THE FUTURE
ギシンを正しく利用して、創り出そうみんなの未来】
なんというか、これは完全に嵐山、というか学校側のミスだな。
なんで特注の教科書を使わないかね。よりにもよってギシンが通っている学校でさ。
今なら嵐山やクラスの連中がソフトボールをやりたかった理由がよく分かる。
連中は今、オレに余計な刺激を与えたくないのだ。
ヘタをしたら感情を暴走させたギシンが暴れて、殺されてしまうかもしれないのだから。
つまり死の恐怖に怯えていたのだ。
でも、こんなことでオレが取り乱して暴発すると思っているとしたら、そっちの方がショックなんですけどねー。
まあ、でもギシンへ対する態度としては何も間違っちゃいない。正解。
だが時雨、お前は違う。
お前は本当に悪質だと思うぞ。
どうも、知ってて煽ってるようだからな。
もし、オレが傷ついて暴走しちゃったらどう責任とるつもりだったんだよ。
責任の取りようなんて、ないんだぞ。
全くとんでもないヤツだ、と憤るのと同時に、そんなにオレの事を嫌っていたのかとめまいにも似た感覚に陥ってしまう。
さて、じゃあオレはどちらに味方すればいいのだろう。
そんなのは考えるまでもない。
明白だ。
オレはクラスの連中の注目を一身に引き受けながら、スッと手をあげる。
そしてオレの選んだ選択は。
「先生。体調が悪いので保健室に行かせてください」
やっぱりこの衝立にはムリがあった。少し体重をかけるとすぐに曲がっちまう。
意地を張らずに最初からベッドで寝るのが正解だったということだ。
「あ…………え?…………お、おお、そ、そうか。い、いってこい」
気の抜けた嵐山の声を聞き終わる前に、オレは席を立って教室を後にしていた。出がけにちらりと時雨の方を見たが、アイツはうつむいたまま机の角をじっと見つめて、オレと視線を合わせようとはしなかった。