第17食
私は恐怖を捨てて駆け出し―――キッチン上のナイフスタンドから包丁を抜き取る。
セツコさんを害せたとしたら賊は銃火器を携行している可能性がある。
もしそうだとしたら、私がここで逃げても逃げ切れるかどうか分からない。
それに何より―――このままだとメイの命も危ない!!
危険を完全に排除するためには、もう、私の手を汚すしか選択肢がなかった。
その決断は一瞬で、迷いは全く無かった。
だってメイに何かあったら、どのみち私は生きてはいけないのだから。
包丁を引っ掴んだ勢いそのままに、システムキッチンの外縁を回りこんで冷蔵庫の前に躍り出る。
やっぱり居た!! 誰かが冷蔵庫の前でうずくまっている。
「うわぁああああああ!!」
私は逆手に握った包丁を一気にその背中へ振り下ろす。
そして―――
「ぐすん、ぐすん」
危うく突き立ててしまうところだった。
「はっ、は、ははっ」
カラン
全身の力が抜けて、その場にへたりこむ。
「はぁー、はぁー、はぁー…………ちょ、ちょっと、や、止めてよメイ。こんな時間に、私、てっきり」
息が整わない。
冷蔵庫の前でうずくまっていたのはメイだった。
冷静に考えればすぐに分かる事だった。
そもそも私は今日ずっと起きていたのだから、賊が侵入すれば物音くらい聞きつけていただろう。
そんな音がしなかったのは、初めから賊なんて侵入していなかったから。
もちろん監視カメラも全て正常で、セツコさんもどこかでこの珍騒動を見守っているに違いない。
全ては私の早とちり。今夜は何も起きていなかったのだ。
私は自分の間抜けさに呆れ、そして心の底から安堵する。
「はぁ~~~、全く、驚かせないでよね? 何? お腹減っちゃったの? さっきあれだけ食べたのに? しょうがない子だね~、こんな時間に食べたらブタになっちゃうよ」
安堵ついでについ軽口が飛び出す。
「ち、違うの、違うの、うぅぅぅ」
だが、メイは体育座りすると顔を膝にうずめて泣き始める。
そ、そんなキツく言ったつもりないんだけど。
「ど、どうしたの? 別に怒ってるわけじゃないから泣かなくてもいい……」
その時、私は、異様なモノを見つけてしまう。
メイの周辺に転がる見たこともないような材質の黒い板状の塊。
そして―――丸かじりされた血のように真っ赤なトマトを。
「えっ? メイ、あなたまさかトマト食べたの? だって……たしか……」
よくよく見るとメイの周りには普段絶対口にしないような苦手な食べ物の残骸が大量に転がっていた。
なんだか…………胸騒ぎがする。
「!!!?」
そして床に散乱するあるモノを見つけた私は思わず叫んでしまっていた。
「ちょ、ちょっとまさかこれ食べたのっ!? すぐに吐き出しなさいっ!!!」
歯形がついた食べかけの生肉、それが床に散らばっていたのだ。
「ち、違うの、違うの」
「何が違うの!? こんなの食べたら食中毒起こすよ!! 早く吐き出してっ!!」
メイの肩を掴んでこっちを振り向かせる。
その時のメイの表情を多分、私は一生忘れない。
頬には涙の跡が轍のように残り、眼窩は髑髏のように落ちくぼみ、そして死人のように青白く絶望に染まったその表情を。
「な、なにが」
「うっ、うぉえぇぇぇ」
メイがいきなり目の前で嘔吐する。
だが、その口から出てきたのは、胃液では無かった。
「なに……これ」
私は絶句する。メイの口から出てきたモノ、それは見たことがない材質の
黒色の球体だったからだ。
そしてそれがまるで意思を持っているかのように振動しながら、段々と収縮して板状に変形していく。
それはメイの周囲に散らばっている他の板状の物体と全く同じモノだった。
「な、なんなの、これ」
「ううう、た、助けてヨーコちゃん、わたし、ヘンなの。喉が焼けるように熱くて、それで目が覚めて、それでお水をいっぱい飲んだんだけど、ずっとずっとカラカラのままで苦しいの、それに、お腹もすいてて、でも、食べても食べてもお腹がいっぱいにならなくて、ど、どうしちゃったのわたしの体」
「い、一体なにが」
メイの肩が震えていた。
助けてあげたいけど、何をどうすればいいのか分からなくて、私はただその震える肩を力強く握りしめることしか出来なかった。
そしてその瞬間、
「ま、まさか―――」
メイの体から力を感じた。
ギシンにしか分からない特有の力。
神威の力の発露を。
そしてそれはメイのある部分から強く発せられていた。
「ま、まさか、メイ、あなた―――」
ゆっくりと、その部分に手を伸ばす。
自分の身に何が起きているのか分からず、ただただ戸惑い恐怖している大事な妹の、その唇
「それがあなたの、あなたの、神威なの」
ゆっくりとメイの小さくて、柔らかいピンク色の唇を押し開き、その口中を覗き見る。
「あ、あああ、な、なんてこと」
「……ね、ねぇヨーコちゃん? 今なんて? 神威って、神威って言ったの? わたしが、もしかして神威に目覚めたっていうの? ねぇヨーコちゃん? どういう事なの?」
「メ、メイ、あなたは、あなたは、あなたの神威は―――」
力が渦巻いていた。凝縮された、濃密な力が
そしてそれはあろうことかメイの口中で渦巻いていた。
感覚で分かる。この神威は特別だと。
発現に何の条件も必要ない、常時発動するタイプの神威だということを。
――――メイのこの神威は、口に入ったモノを、無慈悲に消滅させる力。
だからメイは、この子は、もう二度と、何かを口にすることは、出来ない。
そして、それはすなわち―――
「…………イヤ、イヤよ」
「ヨ、ヨーコちゃんなにが」
「そんなのイヤよ、なんでよ、やめてよ」
「ど、どうしたのヨーコちゃん、一体なにが」
「おかしいでしょ、なんでこの子が、メイが、私の大事な妹が、こんな目に、こんな、こんな、なんでよ? 一緒にランニングするって、決めたばっかりなのに、それなのに、なんで、こんな」
「……ヨーコちゃん」
いつの間にか私が震えていた。
そしてメイはそんな私を健気にも抱きしめてくれていた。
自分だって怖いはずなのに、何が大変な事が起きている事を薄々理解しているはずなのに。
それなのに私を気遣って、本当に優しい妹。そんなメイが、メイが
「イヤ……イヤよ…………絶対にイヤぁー――――――!!!」
戸惑うメイをよそに、先に絶望を叫んだのは、私の方だった。




