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最悪の朝だった。
俺の寝たあと、藁布団に潜り込んできた仔鹿。
親父たちが死んでから、とにかく冬は寒かった。
慣れた気になってはいたが、暖かく寝てみて自分が無理をしていたことを知った。
心身共に穏やかな熟睡から覚めたとき、仔鹿の澄んだ瞳と目が合った。
――寒くありませんでしたか?――
そんな視線だった気がした。
ならば俺の反応は決まっていた。
「てめぇぇっ! ノミ移しやがったなぁぁっ!」
そう。鹿は野性動物。
野性動物と一晩同じ蒲団で寝て身体中が痒ければそういうことだ。
俺は炭を熾こし、河水を火に掛け、湯を大桶に張る。
「逃げだそうなんて無駄だぁ!」
俺は仔鹿を抱え、桶に浸す!
炭から取った汚れ落としとタワシでワシャワシャと全身をこすっていく。
……逃がすにしろ食べるにしろ、ここまで念入りに洗う必要はなかったと気付いた頃、バッチリ日は暮れていた。
翌日は薪がなくなり拾いに行った。
仔鹿も着いてきた。脚を怪我していても俺と同じ程度に歩くことは出来ていた。
その内、身体を低くして拾った薪を背中に付けろと合図したように見えたので試しに乗せてみた。
――どうですか? お役に立つでしょう?――
まあ、得意気だった次の瞬間に滑って転んで、薪をぶちまけたけどな。
ナチュラルボーンハプニングメイカー、仔鹿のそれは毎日だった。
魚を取りに河に行けば水浴びと勘違いして飛び込んで魚を逃がす。
炭を焼いていれば煙で勝手にむせこんでウルサイ。
水を汲みに行ったら帰るまでに飲み干す。
家の中で跳び跳ねて襖を貫通する。
藁蒲団を直そうと藁を干していたらエサと間違えて食べる。
そんな日々が続き、やっと仔鹿の怪我が治った。
家の中で気持ちよさそうに跳ねまわるので外に連れて行ったが、このバカ仔鹿は何度も戻ってきた。
「オイ、いつまで居座る気だ。野良鹿に居付かれたら迷惑ってくらいわかれよ」
一瞬、泣きそうな顔をした気がした。
表情がわかるようになるくらい長居した鹿は何度か振り返りながら、林に戻っていった。
……そういえば、食えば良かった気がする。
だが食べない理由を捜している自分が居る。奇妙だが。
久方ぶりに広くなった部屋を片付け、仔鹿が穴を開けた襖を修理しているとき。
「すいません、戸を開けて下さいませんか」
聞き覚えのない女の声だ。
開けると、そこには女がひとりで立っていた。
しっとりした髪を後ろで結い、小振りな身体に付いた小さな頭には黒目がちにうるんだ瞳。
不美人ではないが、美人というにはチンチクリン。
鹿のような、垢抜けない雰囲気が漂う女だった。
「子細は明かせませんが、私、あなた様にご恩を受けた者です。
ご恩返しのお世話させていただただけないでしませんかったでしょうか?」
「あ、結構です」
俺はドアを閉め、襖の修理に戻った。
その後も“あのー”とか“すいませーん”とか、
“一週間だけでも”とか“今なら無料ですます”とか“洗剤が付きます”とか、瓦版屋か何かのようなことを云われたが俺は無視して襖を修理し続けた。
ああいう面倒な相手は無視するのが一番だ。
「……恩返し、させてくださぁい……」
……なんか泣きそうな声な気がするが、無視だ。
「お力になりたいんですぅ……いつも、助けていだだい……ばっ……で、あぁーっ!」
完全に泣き出した。
あんな女知らないし、恩返しも何かの勘違いだろう。
関わりたくない……しかし、泣き声に混じって、女の腹の虫まで景気良く鳴きやがった。
面倒くさいなぁ、もう。
「……アワの粥しかないが、食うか?」
仕方なく開けた扉の向こう、良いんですか!? とさっきまで泣いていた女はピッカピカの笑顔で頷き、上がり込んだ。
「ありがとうございます! 旦那様! お粥の分もたっぷりご恩返しに奉仕させていただきましたです!」
変な敬語で跨いだ女は次の瞬間、盛大にぶっ転んだ。
今直したばかりの襖に、頭から突っ込むように。
大穴から頭を引き抜き、その女は、また泣き出しそうになっていた。
「――とりあえず、名前を聞いて良いか?」
「え、名前、ですか? ……小鹿、小鹿って云います!」
「小鹿、素敵な名前だな」
「ハイ! ありがとうございますです!」
しゃがんだ俺は優しく小鹿の肩に手を添え、深く息を吸い込み、言葉を慎重に、最適に選んだ。
「なにしてくれんじゃ小鹿ァアアアーっっ!」
「ごめんなさぁーい!」
俺とコジカのちょっとした生活が、始まった。