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小説『狭い器』 本土決戦の中で私と桜子は二人だけの世界を構築した。  作者: 居木井丈晴
第一章 北日本人民共和国の朝
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(8)友情の「途上」

私と桜子の関係は、女学校一年生の春から始まっている。入学式でともに入学したのではない。


 五月ごろに他校から編入して来た変わり種だった。


 初めて教室に入って来た桜子はひどく俯き加減で、非常に暗くて心を閉ざしたような感じで、私も正直に言うと、最初彼女に魅力を感じられなかった。


――何か話しかけにくい。


 そう思っていたことを考えると、今はこんなに仲良くやっているのが不思議でならない。私と桜子が仲良くなったきっかけは私のちょっとした好奇心と悪戯心のせいだった。


 しばらくした六月の晴れた日に、私は女学校の図書室で桜子を見かけた。


 教室で誰とも話さない彼女は、なぜか図書室にはいつもいた。


 出来るだけ人と付き合いを避けようとしているかのようだった。


 白魚のような華奢な指先を活字の列にそっと添わせている。北向きの窓から淡い光がそっとその手元を照らしていて、顔はその陰影に彩られていた。本の世界に没頭して、こちらの世界にはまるで目もくれないようなミステリアスな雰囲気が私の心をくすぐった。私はそっと桜子の後ろにある棚の本を取るふりをして、そっと後ろに回り込んだ。後ろに回り込んでみると彼女が丁寧にゆっくりとした速度で一ページ一ページをめくっていくのがはっきりと分かった。


 読んでいるのは谷崎潤一郎の短編小説『途上』だった。

――いい趣味をしている。


「なんですか?」

 彼女が気づいた。私に咎めるような視線を突きつけてから、開いていた本をそっと手元に引き寄せ、何を読んでいたのか見えないようにした。まるでその本を読んでいたら咎められるのではないのかとびくびくしたような姿勢に、私は不味いことをしたと思った。


 しかしもう遅すぎる。


 彼女はそのまま椅子を蹴って風のように去ろうとしていた。

 今度のことで嫌な奴と教室の隅から軽蔑の視線をぶつけられるのは嫌だった。相手の気分を害したのは間違いないとしても、悪意は無かったことだけは理解してほしかった。


「ごめんなさい」


 私の思いのほか大きな声に周りがぎょっと顔を上げたのが横目にもわかった。


 私のことなど振り返ることなく、彼女はそのまま引き戸を開けて廊下に消えようとした。

「いい趣味だなと思っただけなんです」


 行きかけていた彼女は少しだけ私の方に顔を戻した。でもまだ警戒は解いていない。あたかも油断ならない敵に出会ったときのように、戸口に立ってこちらに正対している。


 私はたぶんこの時初めて、真正面で彼女の顔を見た。色白の頬に綺麗に筋の通った顔。切れ長の目が意志の強さを感じさせた。この強気な目を好む人もいるし、嫌う人もいるなと思った。


 その双眸には冷たい光が宿っていた。

 桜子がこんな厳しい視線や態度を私にとって取ったのはこれが最初で最後のような気がする。


「いい趣味?……なぜ?」

 曖昧なものは何一つ許さないという妥協の余地のない言葉が私に突きつけられる。でも私は私が撒いた種だと思って、それを真正面から受け止める。


「えーと……なんと言えばいいのかしら。……やっぱり谷崎潤一郎というと、『春琴抄』とか……何というのか耽美的な作品が多い中でこの『途上』は異色な感じがして……。谷崎先生は耽美的な作品だけじゃなくてこんな犯罪小説も書いていらっしゃったのかって。それに話の流れがいいなと思っているんです。たとえば……、主人公と探偵が歩きながら話を交わしている間に、事件の真相へと迫って行く感じとかが特にいいと思います。あと他には……えーと……なんていうんでしたっけ、こういう犯罪手法のことを」


「プロバビリティの犯罪」


 彼女が言った言葉の理知的な響きに私はどこか痺れるものを感じた。

「そう。それです」


 さらに彼女は言い足す。

「犯人が標的の奥さんを殺すときに、奥さんが死ぬように巧妙に奥さんの選べる選択肢を、一つ一つ確実に潰して死の方向へと誘導していく感じが、残忍で狡猾で怖いなと思わせるところとかもいいと思ってらっしゃる?」


 痒い所に手が届く論評だった。私は自分と感情を共有できる人に巡り合えて嬉しくなった。


「ええ。そうです。よく読んでらっしゃるんですね。いつも教室で一人でいるばかりの貴女も、私とおんなじように、この作品に感動していらっしゃるのだなと思ったら、急に親近感がわいて。あ、でも覗き見はいけなかったです……ごめんなさい」


 ここで彼女は私を試すように、ある問いを投げかけてきた。


「この作品の中で、生きるための選択肢を潰されていく奥さんはどんなに苦しかったんだろう。作品の中では奥さんは気の毒にもそれに気づかないまま死んでしまった。いや殺されてしまった。でも自分の取る選択肢が最初から狭められていて、自分が死ぬという以外道がないことを知っていたとしたら、奥さんはどう思ったんだろう?」


 私は面白い問いだと思った。ちょっと考えてみる。


「そう言われてみればそういう可能性もありますよね。被害者の奥さんが手遅れな状態になってから事態を悟るということもあるでしょう。仮にそんな悪意を持って自分を殺そうとしている存在がいるなら、私なら知っただけでもやりきれないと思います」


 彼女は静かな口調で続ける。その意志の強い目とその口調がどこか調和している。


「そう……やりきれないと思う。手遅れだとわかった時に――なぜ私はこう出来なかったのだろうと自分を責める――と奥さんは思うだろうし。もっとも残酷な状態でしょうね」


 私はここまで深く本を読むことができるんだなと思った。そして彼女ともっと話したいと思った。ここで、うまくやれば一冊の本をめぐって熱く議論を戦わせることが出来る友人を一人得ることができるかもしれない。私は期待を膨らませて、賭けに出てみる。


「あの、一緒に読書会とかやりませんか?」

「読書会?」


 突拍子もない私の提案に相手は、首を傾げた。この話の流れでどうしてそれが出てくるのと理解できない顔つきをしているのが私にもわかったが、とにかくぶつけに行ってみる。


「私にも友達はいるんですけど、読書会を一緒にやってくれるような人があんまりいないんです。それに支那での戦争に協力していく中で何か潤いを無くしているような気がしている中で、一文一文が渇いた心を癒してくれるようないい本を紹介してもらえないでしょうか?さっきから見ていると貴女はかなり本を読んでいるからそういういい本にも心当たりがあるのではないのかなと今、思ったんです。ぜひ紹介してくれませんか?」


「唐突ですね」


 彼女は困惑した様子であった。しかし少しすると彼女は私を品定めするように、私の頭からつま先までじっと観察してから、おもむろに口を開いた。


「どんな本をやりたいと思っているんでしょうか?」


「小説がいいと思います。私はあまり難しい本は読めない。せっかく恵まれた家庭に生まれて女学校に通うなら哲学書とか大量に読めるぐらいの教養があればいいとは思っているんです。でも結末がしっかりとある探偵小説のような大衆向けの本ぐらいしか読めなくて。お恥ずかしい話です……」


「素直ですね……。でしたら谷崎潤一郎の『私』なんかはどうでしょうか?」


「谷崎潤一郎の『私』ですね」


「これも犯罪小説の要素を持っているから面白いと思います。あなたの好みにも合うかはわかりませんが。読んだことは?」

「いえ」

「なら、この本で。日程はあなたが決めてください。都合が合ったら行きますので」

 彼女はそこまで言いかけると図書室から出て行こうとした。


「すいません」

「なんでしょうか?」


「貴女のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 彼女は意外そうな表情を浮かべた。というよりにわかに信じがたい表情で私のそばに寄った。


「それもわからないで、こんなに長々と話しかけてきたのですか?」


「あ、いや。その……本当にお恥ずかしい限りです。名前もはっきりと覚えていないで、突撃してしまいまして……」

 それを聞くと彼女は小気味よい笑みを浮かべた。そして私をじっと見つめてから、凛とした声を放った。

「私は高木桜子です。よろしく」

 私は初めて桜子の本当の声を聴いたような気がした。


「高木……桜子さん。名乗り遅れましたけれど、私は岩田友枝と言います。あ、下の名前は友達の友に枝と書いて友枝です。こっちこそよろしくお願いします。ところで、読書会はどこでやりましょうか?この図書室でやりましょうか?」


「私の家の方でもいいです?……二丁目のところですが」


「近いですね。私も同じ二丁目なんですよ。越してこられたんですね。そこにしましょう」


「じゃあ、よろしくお願いします」

 こうして私は桜子と週に一度、彼女の家の二階の桜子の部屋に行って読書会をするようになった。最初は私が押し掛けるような感じだった。


 初めて家に行くと桜子が一人娘だとわかった。子供が五~六人もいる家庭が当たり前の中で妹一人いるだけの家庭に育った私と同じだなと思って、ますます親近感が沸いた。


 桜子は二階の一人部屋を小さいながら持っていた。

「いいですね。一人部屋。私もちょっと一人用の部屋を持ってみたくて。でも家自体が小さいからちょっと難しいけれど」


「岩田さんの方はどうしてらっしゃるんですか?」


「友枝と呼んでください。……妹と2人で6畳の部屋を仕切って使っています。それで妹が……何だっけ……何々の壁とか行って部屋の真ん中にロープを渡して、シーツの壁を拵えたんですよ。なんていうんだっけ。映画の影響らしいですけど……えーと」


 桜子は笑って言った。

「それは『ジェリコの壁』ですよ。友枝さん。それで出てくる映画はフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』という映画ですね。妹さんは聖林の映画が好きなんですか?」


「ええ。まぁ。妹も本当に小さい頃見たものだから全部覚えているわけじゃないんですけど、聖林の映画の中では気に入っているそうで」


「私も気に入っていました。じゃあ、妹さんも辛いでしょうね。最近アメリカのものは徹底的に排除されるようになっているから……車とかはさすがに、まだアメリカから大量に輸入したフォードやシボレーの生き残りが木炭自動車に改造されて、時折走っているのを見かけますけどね」


「ええ。まあそうですね。でも妹もアメリカと仲が悪い以上仕方がないとあきらめていましたけれど」


「友枝さん」

「友枝でいいですよ」

 私にそう言われて桜子は少しぎこちなく私の名前を呼んだ。

「友枝……。妹さんの名前は何ですか?」

「三枝子。漢数字の三に枝に子供の子ですよ」

「いいですね、妹がいるって。何人いるんです?」

「その1人だけです」

「その人と聖林の映画で話せるかもしれませんね。妹さんはどんな本を読んでるんです?」

「吉屋信子とかよく読んでいると思います」

「可愛らしい」

「本棚見てもいいですか?」

「どうぞ」

 私は桜子の本棚を見てみる。ドストエフスキーやチェーホフの分厚い全集が並んでいる。私はその分厚さだけでなんだか圧迫されるようなものを覚える。

「どうしました?」

「いや、凄い分厚い本を持ってらっしゃるんですね。私はこの分厚さを見るだけでもう一杯一杯ですよ」

「これは……父のものなんですよ。大丈夫。私も最初から全部一気に読み切ろうとはしないんです。全集は話をいくつも収めているものだから、一冊の中から気になった短篇だけを読んでみたりするんです。全部一気に読もうとしたらさすがに辛いですよ」


「そういう読み方もあるんですか?」

「楽しく、無理せず読まないと本は。まぁ楽しむばかりじゃ駄目なときもあるけれど」

「楽しむだけじゃ駄目なときって何ですか?」

「現実に何が起きているか正確に把握しないといけない時とか……かな?」

「なるほど」

 私は分厚いドストエフスキー全集の一つを手に取った。ずっしりとした量感にまさに本の王様のような風格めいたものを感じる。

「ドストエフスキーって結構凄いという話を聞くばかりで現物を読んだことがないんですけど、あなたはどう思うんですか?」

「癖はあると思います。でも複雑な人間の心理をよくあそこまで、紙の上に移したなと思うと感嘆するしかない」

「それなら、やっぱり少し読んでみようかな」

「貸してあげますよ。どの全集がいいですか?」


 こんな具合に話は尽きなかった。

 付き合ってみると桜子は最初の印象とは異なり、大分明るくて自分の意見をしっかりと持っている行動的な人だとわかった。一冊の本に対して私と違う観点からの論評を聞くのは、私が思った以上に面白かった。

 戦争中、ずっと奉仕作業ばかりで渇き切った心には桜子との討論がじわじわと温かい水のように、知的欲求を満たし、心の飢餓感を取り除いてくれた。

 

 同時に私が何をどのように考えているのか、思っているのかが、桜子の論評を通してもっと澄んだ目で見られるようになった。そして私は私の心の中に燻っている何かがあることに気づいた。


 それは、自分でも知らぬ間に生まれた、私は青春を喪失しているのではないのかという恐れだった。「戦争と言う一国の危機の中で、みんなも我慢している。だから協力しなければいけないのだ」と言われれば私も「そうするよ」と言うしかないのはわかっている。 


 けれど私は、女学校の先輩がそうしてきたような、おしゃれや憧れの女学生生活も満喫しないまま青春を終えることへの焦りをやはり感じていたのだ。


 もちろんそれを恥じていた。軽薄な雰囲気を羨ましがってはいけない「国難」の(とき)だ。滅私奉公を先生や大人たち、そして敦子からも求められていた。


 しかしそれでも意識してから、この焦りは私の中でどんどん大きくなっていった。

 私は罵倒されるのを覚悟である時、桜子にこの焦りの存在を率直に打ち明けた。

 

 桜子はじわっとした嬉しさをたたえて私を見つめた。そして私もそうだと教えてくれた。


 そのとき私たちは同じ焦りを持ち、同じくその焦りを誰かに知られてはいけないという共通の秘密と目的を持った同志になった。


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