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小説『狭い器』 本土決戦の中で私と桜子は二人だけの世界を構築した。  作者: 居木井丈晴
第一章 北日本人民共和国の朝
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(6)明かりなき街 1945年8月13日

1945年8月13日。

 街に明かりは全くなかった。街を照らしていたスズラン灯は金属回収のため兵器に化けざるを得なくなって、消えてしまった。


 物資不足で店は開店休業。

 次々と店は潰れていった。潰れた店は、資材不足の中でガラス窓まで失い、まるで眼窩がぽっかりと空いたしゃれこうべのようになって朽ちていく。そうした家も空襲による火災を防止する「強制疎開」の名目で次々と消されていった。


 物資不足のため、満足に洗うことのできない薄汚れた服を着た17歳の私は、暗闇の中で反響する自分の足音に、そんなことは無いとわかっていても誰かに追われているみたいで不気味だったし、怖くてたまらなかった。


 やっと家に辿り着き、木戸を開けた時も、後ろに誰かがいるのではないのかと怖くてたまらなかった。


「ただいま」

「おかえりなさい。疲れたでしょう」

「うん、まあ大丈夫よ、お母さん」

三枝子(みえこ)はもう帰ってますから、夕飯にしますよ」

「先に食べてくれていていいのに」

「三枝子もさっき戻ったばかりなのよ」

「そう」玄関の框の上に腰を下ろすと、ふーっと息を吐きながらパンパンに膨れた足から下駄を抜いた。下駄を脱ぐのさえむず痒いような、痛いような辛い筋肉痛で泣きたくなる。

 

物資不足の中で、いざというときのために靴は極力温存していなければならないので、私たちは下駄で我慢していた。しかしその下駄も裏返してみると歯が大分擦り減ってしまっている。

私は溜息を洩らした。


とにかく、私は膨れ上がった足を引きずってどすんと、ちゃぶ台の前に座った。妹の三枝子が正座を崩して座っていて、同じく足がパンパンなのだ、と思った。


「お姉ちゃん、今日は何した?」

 三枝子は尖った目を私に向けた。

「いつも通りの食糧増産。そのあと義勇戦闘隊としての軍事教練をした」

 私はその年の3月に女学校を卒業していた。そして17歳になるのと同時に義勇兵役法に則って国民義勇隊に徴兵された。


国民義勇隊は本土決戦に備えて組織された民兵組織で、戦闘が始まる前は食料増産や陣地構築をやり、戦闘時には国民義勇戦闘隊に看板を変えて、隊員は民兵として戦うことが義務付けられていた。


しかし、17歳から40歳の女性、幼すぎる15歳、腰の曲がった60歳以上の男性で構成された民兵組織はまるで蜃気楼のようだった。力の出る男手は、ほとんど正規軍に徴兵されてしまっていて、もう街には残っていない。


しかも道具や食料などは自腹で、いろいろと自分で持って来なくちゃいけない。穴を掘るためのスコップや鍬などがなかったら、手で掘ることさえあった。


「いいな、お姉ちゃんは。私の学級のところは裏山で、陸軍さんの陣地構築よ・・・軍事教練のほうが何割かマシでいいな」

そう言って、三枝子は豆だらけで、洗い落としきれなかった泥の付いたままの爪先を見せた。私の爪先もいつのまにか豆だらけになっていた。


ズルをしたように言われるのは心外だった。


「軍事教練も楽じゃないわよ」

「知ってるよ。でも肩に食い込む天秤棒を担いで重い土を運ぶぐらいなら、竹槍の刺突訓練の方がまだマシよ」


 私は、自分の苦労が変に貶められたような気がした。


「どっちも大変なことに変わりはないわよ。なんで、そんなに陣地作っているのよ」

「銃後に残っていた最後の男の人たちを全部集めて、次々と部隊を作っているかららしいよ。まあ、どこまで役に立つかは分からないけど」


母がお盆に夕食を持ってやって来たが、この会話を聞いて私たちに雷を落とした。


「こら!そんなことは言うものじゃありません。お隣さんにでも聞こえたらどうするんです? 大体兵隊さんのいる陣地の場所や詳細は軍事機密で家族にも滅多なことでは話してはいけないはずです! 軍人さんに目を付けられたら大変です」


私たちは母の物凄い剣幕におののいた。

「だいたい、漁師の人が軍の航行禁止海域のことを話しただけで捕まったという噂もあるのよ。何が軍機違反で、何が反軍的で、何をしたらスパイなのか、その基準がわからないんだから軽率なことは慎みなさい」

「はい」

 

それから母は溜息をついた。

私はそっと話を変えてみる。


「今日、お風呂は……無理そう?」

「燃料の配給が滞っていて、無理だそうよ。お風呂屋さんも」

「ありがとう」


 汗を流せないとわかると余計にべとべとした感じがして、やりきれない。しきりに私は背中や首筋をまさぐった。爪先にたまった垢が入り込む嫌な感触がした。手を洗って来ようか、と思ったけど疲れていて、もうどうでもよくなってそのまま箸を取った。

「いただきます」


 夕食はすいとん。燃料不足で加熱不十分の中途半端にぬるくて、冷たいものだった。箸を入れると、水の中に突っ込んだようにすぐ箸の先がお茶碗の内側に当たって、カチン、カチンと音を立ててしまった。汁気も味も薄く、実もほとんど入っていない汁を家族三人でありがたく、そして一口一口を大切にゆっくりと吸った。


「お父さんは?」

「機関車車庫で泊まり込み。鉄道も兵器だって言われているから、詳しいことは何にも話してくれないけど、機関車が貨物列車を引っ張っていたときに事故が起きたらしいのよ。それで、その救援や今後の運送に関してのことで、今日は戻れそうにないみたい」

「そう」


 食事を終えた後、私と三枝子は自分の部屋に戻った。

私たちは二人で一つの部屋を使っていたけれど、映画好きの三枝子が「ジェリコの壁よ」と、随分前の(ハリ)(ウッド)の映画を真似て、部屋の真ん中にロープを張り渡して、そこにシーツを掛けて、簡単な仕切りをこしらえていた。


私はいち早く布団を敷くと、疲れのあまり身体も拭かずに横になった。頭が重くて、お腹は空腹でキリキリとしていて、眠りたいのになかなか眠れない。蒸し暑さのあまり私はしきりに寝返りを打った。


「背の高いヤンキー共の腹を突け! 斬るな、払うな!」

「背の高いヤンキー共の腹を突け! 斬るな、払うな!」

「背の高いヤンキー共の腹を突け! 斬るな、払うな!」

「背の高いヤンキー共の腹を突け! 斬るな、払うな!」


今日の軍事訓練で唱和させられた絶叫がいまだに耳の中でガンガンと鳴っていて、まどろんだが深い眠りに落ち込めない、うなされるような苦しい中で妹の声が聞こえた。


「お姉ちゃん。まだ、起きてるの?」

 私は息を大きく吐いた。

「寝付けないだけ。で、何?……眠りたい」

「お母さん、なんであんなにイライラとしているんだろう?」

「ん?……たぶん、隣組の人と関係がうまくいっていないんだと思う」

「そうなのかな……ところでお姉ちゃん?」

「まだ何かあるの?」

「お母さん、最近老けたよね」

「老けたかな?」


私は咄嗟にそうはぐらかした。確かにお母さんの横顔には茶色いシミが浮き上がり始めていた。側頭部の髪の毛も薄くなって最近は老眼鏡も掛けるようになった。だけど私の中でそのことを肯定したくない気持ちがあった。小さな頃から変わりの無い、元気な母親の存在に縋っていたかった。


「ねえ、お姉ちゃん」

「何?」

「お父さんも老けたよね」

「……そうかな」


 同じ理由で私ははぐらかした。しかし薄々感じていた。お父さんの頭には白いものがまじっていて、薄くなった髪の隙間からぼやけた頭皮の色を覗かせるようになっていた。風呂にすらろくに入れない苦しい状況で、私たちに見せてきた父親のがっしりとした背中が変わらないものであってほしかった私には、父親がやつれてしまったことを認めたくなかった。


「明日も早いよ。もう寝かせて」

そう一方的に話を打ち切って、私は寝返りをして妹に背中を向けた。

「そう……」

 妹の切ない声が耳に残って、私はその夜眠りにつけなかった。


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