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(3)スパイの葬送曲

「主任同志。ここに連れて来られた理由はご存知ですよね?」


女である私からしても魅力的な甘い声。


私は「あっ」とも思ったが、こういう可能性も考慮しておくべきだったとすぐに後悔した。


数か月前にわざわざ補充されてきたこと、やたらと課長や大臣の関係などの秘書課に関することを根掘り葉掘り聞いたことを不審に思うべきだった。


「知らない」


 色とりどりの徽章のついた軍服を着た村野梅子――その名前も偽名なのかもしれない――が私の目の前にいた。村野はそれまで被っていた羊の皮を脱ぎ捨て、吠えた。


「しらばっくれるな! この裏切り者めがっ! 大臣から渡された重要機密書類を中規模機械製作省に輸送する途中で、極秘に撮影し、そのフィルムを南日本の工作員に売り渡していたのはお前だっ!! 調べはついてるんだよっ!!」


 丸みのある愛らしい頬の上に並んだ両眼が、狼のそれのように凄んでいた。


「知らない」


「調べはついている」


そこまで言ってから“村野”は演奏を始める時のオーケストラの指揮者のように、片手を上げた。後ろに控えていた警官たちが私の両脇を取ると、荒っぽいやり方で私を立たせた。手錠や腰縄が手や腹に食い込み痛がる私を無視して、そのまま私を両脇から羽交い絞めにする。そこで初めて村野は立ち上がると、ツカツカと寄って来て胸につけていた私の階層バッジをむしり取った。


国民に着用が義務付けられているバッジの剥奪は、


「お前はもう同志ではない――そして人間でもない。犬畜生以下の反動分子である」という宣告に等しい。


 村野は指導者の肖像が描かれた階層バッジに対する敬意を込めて、それを私への荒っぽいやり方とは対照的な丁重さで専用のケースにそっと仕舞った。


それから、同志ではない(人間ではない)とされた私に向かい合うと、再びさっと手を振って“曲”の始まりを告げる。後ろで私を立たせていた警官の一人が前に回ると、拳で私の腹を突き上げた。


「うーッ」


 激痛のあまり声も出なかった。第二撃が肋骨にぶつけられ私は咳き込んだ。そのままがくんと倒れそうになるが、もう一人に羽交い絞めにされているので倒れることが出来ない。

 衝撃がそのまま身体に吸収される。


「このスパイめ!」

「この反動め!」


 速射砲のように打ち出される激しい罵声の“コーラス”と、私の身体の骨が折れたり、内出血を起こしたりするときの鈍い悲鳴の“和音”そして私のうめき声や悲鳴の“クレシェンド”で構成されたきわめて悪趣味な“曲”が狭い取調室の中で“演奏”された。


 村野はその“演奏”には参加せず、傷の目立つ木のテーブルに頬杖をついて、薄ら笑いを浮かべてそれを観覧していた。痛みと衝撃で何度も霞んだり、真っ白になる視界の中でもその薄ら笑いははっきり見えた。私の脳裏に、村野が“シベリア組”について言った「温情にあふれた思想改造」という言葉が蘇った。


 この酷い拷問もきっと彼女や当局には「人道的な」とか「温情溢れる」という形容詞で飾られてしまうのだろう。


 15分で“演奏”は一時中断された。私は無理やり椅子に座らされた。激しく喘ぐ私のことなど眼中にないと言わんばかりに、村野は腕時計をちらりと見た。


「可哀想に」


 この“曲”を味わっている言葉だった。

 呼吸を整えつつ、私は頼んだ。


「お願い、横にさせて」

「売国奴。贅沢を言うな」

 村野は歪んだ笑みを浮かべたまま私をじっと見つめた。自分は今最も正しいことをやっているのだという無邪気な喜びが露骨に浮かんでいた。


「可哀想に」


 私はその言葉が私に向けられていないのを知った。

「何のこと?」


村野は小首をかしげた。


「森崎信子、上村久子のことです。わかりませんでしたか?」

森崎が今日の昼言っていたことが私の脳裏によみがえった。私はがばっと身を起こした。


「あの二人がどうしたというの?」

こみ上げる嫌な予感に私は歯を食いしばった。


「電力経済省で当直についていた森崎信子は党機関に対する誹謗中傷及び扇動罪の容疑で身柄を拘束した。上村久子も同罪で自宅にて身柄を拘束した。今は余罪も含めて調べ中だ。お前のスパイ行為に関わっている容疑でね」


「ち、違う」


 しゃべると殴られた身体が悲鳴を上げた。痛みのあまり私は胸をかきむしる。激しく咳き込んでいる私を冷たく見下ろしながら村野はまだ楽しげな表情を浮かべて腕時計を見た。


「逮捕したのは19時半。取り調べ開始は19時46分から。今は21時32分。可哀想に。もう1時間46分も我が同志の”人道的な”取り調べを受けていることになるかなぁ」


「――“人道的”?……お前ッ!」

 

 怒りのあまり私が飛び掛かろうとした直後、後ろの警官が私の頭を掴むと、そのまま卓上に叩きつけた。痛みと衝撃が私の鼻を抜け目や脳髄に伝わった。


「あっ――」


 次の瞬間、私は髪の毛を掴まれて強引に顔を上げさせられた。鼻血を出してしまった私を冷たく見つめながら、村野は小馬鹿にするように少し顔を寄せてくる。


「我々がどれほど酷いことをやろうと、我々が“人道的”と言えば人道的な取り調べになるんだよ」


 私はそれから2、3度髪の毛を掴まれ頭を机に叩きつけられた。そのたびに激しい痛みで意識は朦朧とした。頭をぶつけるときの衝撃の激しさに机は小刻みに震え、机の上にあった鉛筆が小刻みに、かたっかたっと軽く跳ねた。


 3回目で私は前歯を折られた。口の中からねっとりと粘った唾混じりの血とともに折れた前歯が机の上に落ちた。村野その血まみれの歯を右手であっさりと跳ね飛ばした。歯は壁に当たって乾いた音とともに床に落ちた。


「彼女たちは違う」


 私は口から血を吐きながら言った。

「――違う?何が」


「スパイなんかしていない」


「――彼女たちがスパイであるかないかを知るのはスパイをやっていた人間のみだ。やはりお前はスパイだな」

 

私は少し悩んでから口を開いた。


「そう。……私は、南日本のスパイだ」


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